稲田は、幸運の中に在って「私はこの為に生まれて来た!」と言う人を見たり聞いたりした事はあります。
しかし、不幸の中に在りながら「私はこの為に生まれて来た!」と言う人を今まで見た事も聞いた事もありません。
それは何故なのでしょうか?
人が生きる理由や存在する理由を幸福のみに見出しているとするならば、不幸を感じている時は生きる理由も存在する理由も失う事になります。
日本は自殺大国と呼ばれているそうですが、その全ては自らを不幸だと感じている中でのものでしょう。
前にもチラッと触れましたが、人に生きる理由も意味も存在しません。
敢えて言うならば、今起きている事の為に生きているのです。
貴方が今不幸を感じているならば、不幸を感じる為に生きています。
貴方が今幸福を感じているならば、幸福を感じる為に生きています。
不幸になる為に生まれてきたわけではありませんが、同時に幸福になる為に生まれてきたわけでもありません。
もちろん、悟る為に生まれてきた訳でもありませんが、今悟りの境地に至ったのならその時は「悟る為に生きてきた」と言えます。
悟りの境地を垣間見た直後、エゴまみれになったならば、その時は「エゴイストになる為に生まれてきた」のであって、「悟る為に生きてきた」のではありません。
常に今の上書きがされ続け、理由や意味を見出だすならば、その上書きされた今だけにしかありませんが、結局はまた別の何かで上書きされます。
上書きされた後は、上書きされる前に見出していた理由や意味もそっくり上書きされます。
記憶と言う概念によって、既に上書きされて無くなっている過去の理由や意味を今に持ち込む事によって、今生きる理由や意味を失うのです。
記事タイトルの答えを導き出すには、まず「幸福な時でも不幸な時でも、等しく今(時間の概念を持ち込まず)問うべし」…です。
そして、「その問い自体が無意味である事を知るべし」…です。
無意味(意味が有る・無いの無いではなく、意味と言う概念自体が存在しない)なものから、意味の有る答えが生まれ様の無い事を知る事が、そのまま答えとなります。
算数で言えば、1÷0の答えが「答えが無い」…と言うのと同様です。