その答えは、「今起きている何かの為に」です。
「何の為に生きているのか?」と考える事が起きたならば、「何の為に生きているのか?…と考える為に生きている」のであります。
通常の感覚であれば、人が生きる意味を考える場合、「自分が人生において成し遂げたい事」を考えるかと思います。
長いスパンで未来に向けて考える訳ですが、答えは常に今にしかもたらされません。
今起きている意図や行動が、そのまま答えとなるのです。
今起きている事を見ずに、人生の意味について考えても無意味です。
人生の意味は今起きている事の中に在って、今起きていない事の中には在りません。
しかし、「今起きている何かの為に」と言う答えも、人を取り合えず納得させる為の方便に過ぎません。
「今起きている事に意味も理由も無い。だから生きる意味を問う事自体が的外れ」…と言うのが稲田の見解です。
これは「“意味とか理由とか言う概念ありき”の在るとか無い」ではなくて、「意味とか理由とか言う概念自体が無い」と言う事です。
「人間以外の生物に意味や理由と言った概念が在るのか?」を考えて頂くと、何となくお分かり頂けるかと思います。
“概念ありき”で答えを出すならば、前述の通り「今起きている事それ自体が意味であり理由」となるので、「何故生きるのか?」…は概念が在る前提にしろ無いにしろ、考える意味を失う事になります。
人は咲いた花を見て、「花は咲く為に生きる」と考えるかも知れません。
次に「何故咲くのか」と考えて、「自らの子孫を遺す為」と理由を見出し、「花は自らの子孫を遺す為に生きる」と結論付けるかも知れません。
それはあくまで人の視点から見た花の人生観であり、花は咲く時ただ咲いて、散る時にただ散るだけ…と見ても間違いではないでしょう。
花が咲いた時に限って見れば「花は咲く為に生きている」と言えますし、散った時に限って見れば「花は散る為に生きている」と言えます。
「人生で成すべき事の為に生きる」のではなくて、「その時その時に起きた事の為に生きた結果、成すべき事が起き続ける」のでしょう。
ならば、今起きていない未来について意味を問う意味など全く在りません。
今起きている意図こそ答えであり、それが成すべき事であるなら、その事実を見ればそれ以上問うに及びません。
青空が見えているならば、「青空が見えている」で完結です。
「私は青空が見えているのだろうか?」と問う必要は何処にも在りません。
こうなれば、人生の意味を問う意味は今にも未来にも存在ません。
これで、「人生の意味を見つけ出す」と言う呪縛から解放される事でしょう。
だから、自身の存在理由について悩む事はもうありません。