存在感 | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

個人的に「存在感が感じられない事」の言うのは、どちらかと言えば目立つ事よりは良い事ではなかろうかと思います。

存在感とは「存在を感知する側」と「存在を感知される側」に分離して初めて成り立つ概念なので、目立てば目立つ程分離の度合いが強いと言えます。

存在感をアピールする事を良しとする考え方もありますが、アピールするまでもなく僕達は間違いなく存在しているわけで、くたびれるまで頑張ってアピールに精を出す必要はありません。

人は時として、太陽の存在にすら気付かない程自分の世界(思考)に埋没します。

そんな中で、一人の人間が頑張ってアピールしたところで、果たして何人の人が気にかけてくれるでしょうか。

自分が他人をそれ程気に掛けないのと同様に、自分が思う程他人は自分を見ていません。

これは経験上の話ですが、「頑張っている」という意識がない時に限って周囲から評価される事が非常に多いです。

逆に「俺はこんなにも頑張っている!」という意識だと、何をやっても評価されません。

様々な土地、人、職場を経験しましたが、必ず何処でもこういうパターンになります。

土地も人も職場もバラバラなので、評価される要素や条件もバラバラのはずですが、「どういう訳かそうなる」のです。

おそらく、自身(エゴ)の存在を忘れて周囲と一体化している時こそが、最大限に存在感をアピール出来る最も効果的な方法なのでしょう。

自身(エゴ)を全面に押し出している時はむしろ、存在感を自ら消しているようにも思えます。

「私(エゴ)が頑張る」のではなくて、「頑張るという事が私を通して起こる」時、それは周囲の人や物、空間全てが自分を頑張らせているのです。

こうなると「私(エゴ)が頑張る」という意識はむしろ邪魔であると言えます。

頑張る事、存在感をアピールする事の本質を言葉で表現するなら、「周囲と同調する」とか「場の空気に合わせる」とか、そう言った感じになるでしょう。

大前提として、僕達はアピールするまでもなくしっかりと存在しています。

なので、存在感をアピールする必要は全くありません。

「存在感をアピールしたい」と言う事は裏を返せば「自分は存在感が薄い事を自覚しています」と言っている事と同じです。

普段から自身で自身の存在感をしっかり感じているなら、「存在感をアピールしたい」という思考自体が湧いて来ません。

ただ周囲と同調し、純粋にやるべき事をただこなす時、嫌でも目立つし、存在感はアピールされてしまいます。