キラキラネーム | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

「一見して何と読むんだ?」と首を傾げたくなるような、そして「この子が物心付いた時、その名前で呼ばれたらどう思うんだろう?」と心配したくなるような、およそ「ホントに日本人の名前か?」と疑いたくなるような、とにかく変わった名前が付けられる事があるそうです。

俗に言う「キラキラネーム」と呼ばれるものですが、これについて色々物議を醸し出していると、ネットのニュースで知りました。

折角ですので、これをスピリチュアルの教材として利用してみようと思います。

この事を知った時点で、自身の世界に【キラキラネーム】の言う題名のゲームが配信されました。

あくまでゲームに過ぎず、遊ぶかどうかは選択する自由があります。

しかし、選択する自由を得るのは『自分(エゴ)』から身を引いている状態に在る人のみです。

『自分』と一体化している場合、参加も不参加も強制的に決められてしまいます。

仮に参加する事になってしまった場合、この【キラキラネーム】はどんなゲームになるでしょうか?

ゲームに参加した時点で、「キラキラネームを付けた親を批判するキャラクターになる」か、「キラキラネームを付けて批判されるキャラクターになる」かの、どちらかの立場になります。

攻撃する側に回って「キラキラネーム」を付けるのを止めさせれば勝ち、あるいは防御する側に回って「キラキラネーム」を押し通せば勝ち…と言った内容のゲームになります。

ゲームですから、参加した時点で必ず勝ち負けに分かれます。

攻撃する側が負けても、防御する側が負けても、強制的に振り分けられた方が負けになった場合、『自分』は酷く悔しい思いをする事でしょう。

『自分』は「ゲームに勝つ事が目的で勝ってこそが幸せなのに、負けたら無駄な努力で不幸だ」と言うはずです。

しかし、『自分(エゴ)』から身を引いている状態に在る人が、自らの選択で【キラキラネーム】というゲームに参加した場合はどうなるか?

ゲームで遊ぶ事自体が目的、ゲームで遊べる事自体が幸せであって、勝とうが負けようが結果に対して執着はありません。

「勝つか負けるかなら、勝った方がいいけど、負けても全然いいや」という心境になるでしょう。

『自分』と分離しているか一体化しているかは、想像以上の差があります。

「『自分』は勝たねばならない!」とか、「勝たねば幸せはない!」と言った縛りに、楽しみや幸せはあるでしょうか?

「勝っても負けてもよし。ゲームを楽しんでやるぞ」と言った意識に悩みや不幸はあるでしょうか?

どんな超人、偉人、聖人であろうと、ゲームに参加すれば必ず負ける時が来ます。

負けたくないなら最初からゲームに参加しなければいいのですが、それは『自分』と一体化している限り出来ません。

なぜならば、『自分』はゲームの中でしか存在できないからです。

ゲームするかどうかを選択出来る立場に立つ事、それすなわち『自分』との分離を意味します。

分離とは手放す事です。

馴れ親しんだ『自分』というキャラクターを手放した時、選択の自由を得ます。

誰が自由を得るのか?

自由を得る者は何処にも居ません。

ただ自由が在るのです。