エゴは何を見ているのか | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

本日は少し下品な例え話から始めさせて頂きます。

僕がお金持ちだとしまして、Aさんを物凄い美人だとします。

そして僕は『Aさんの体』目当て、Aさんは『僕のお金』目当てで結婚なり交際するなりするとします。

この場合、僕とAさんはお互いに一体何と関係を結んでいるんでしょうか。

僕の視点から見れば『Aさんの体』と言うAさんの所有物と、Aさんの視点から見れば『僕のお金』と言う僕の所有物と関係を持とうとしているわけです。

『人対人』ではなく『人対物』の関係です。

つまり、お互いがお互いを人としてではなく物として見ています。

こうなれば携帯電話や財布と同じです。

使えるうちは大事にしますが、壊れて使えなくなったり、別の物が欲しくなった時、これらは捨てられてしまいます。

『Aさんの体』目当てである僕は、Aさんの体に魅力を感じなくなった時、あるいはAさん以上に美しい相手に巡り合った時、Aさんとは別れるでしょう。

『僕のお金』目当てであるAさんは、僕が破産して無一文になった時、あるいは僕以上にお金を持つ相手に巡り合った時、僕とは別れるでしょう。

お金があろうが無かろうが僕は僕に変わり無く、体がどう変化しようがAさんはAさんに変わり無いはずなのに…です。

極端&ベタ過ぎる例えでありましたが、エゴは少なからずこれと同じ事をします。

そして、全く同じ事を相手にもされます。

その時こう思うわけです。

「どういう風になったって俺(私)は俺(私)なのに。ちゃんと俺(私)を見て欲しい」

漫画やドラマにありそうな台詞ですが、この「どういう風になろうが変わらない俺(私)」って誰なんでしょうか?

肩書きがどうであれ、外見がどうであれ、お金の多少がどうであれ、変わらない自分が在るという事を誰が知っているんでしょうか。

もちろん、エゴではありません。

エゴが目に見えるものとしか関係を結ぼうとしないから、エゴではない“何か”が「いい加減にしろ!」と叫んだのです。

いい加減にして欲しい相手は、自身を目に見えるものでしか判断しなかった他人ではありません。

自身のエゴに対してです。

人はその“何か”を見て欲しいし、その“何か”と“何か”の関係を持ちたいのです。

その“何か”は自分にも他人からも見えません。

しかし、その“何か”は確かに自分の内でも外でもない何処かに在るのを感じるでしょう。

スピリチュアル用語で『ソウルメイト』と呼ばれるものがあります。

お互いに自身のエゴを通して見る「相手の何か」ではなく、「相手そのもの」を観る『ソウルメイト』に出会った時、それはまさに運命の出会いと呼ぶべきものでしょう。

その為には最低限、自身が「相手そのもの」を観ようとする意識が必要です。

これはエゴには出来ません。

エゴが無い時の貴方がまさに“それ”となります。