一切関係ない | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

誰がどんな態度を見せようが、どの本にどんな事が書かれていようが、それらを見聞きした時にエゴがどんな反応を示そうが、どれも貴方とは一切関係ありません。

しかし、エゴの反応と同一化している事に気付かない時、それらは貴方にとって関係在るものとなります。

「あの人の態度は好ましいが、この人の態度は気に入らない」とか「あの本に書かれている言葉正しいが、あの本は間違いだ」とはエゴが言っているだけであって、好ましい人や正しい本が存在しているわけではありません。

エゴが好もうが好むまいがその人はその人としてただ在り、エゴが認めようが認めまいがその言葉は言葉としてただ在ります。

そして、ただ在る人やただ在る言葉にあれこれジャッジするエゴも、エゴとしてただ在ります。

どれもがただ在るものに過ぎないのですが、それぞれのエゴがそれらに価値や基準や判断を設けて、「絶対に自分が正しい」とやっているわけですから、衝突が起きるのは当たり前です。

地球に人類の数だけそのようなエゴが在る中、一応はバランスを保っている事が奇跡に思えてなりません。

中でも内心はどうで在れ、和を重んじようとする日本という国が存在する事は、歴史的に見ても稀有な事ではないでしょうか。

その国の在る僕ら日本人は、日本人で在ると言うだけで相当恵まれていると言わざるを得ません。

そんな日本が今在るのは、戦争に負けたからだと思います。

戦争に負けて、戦う事を止めたから日本は豊かになったのです。

もし戦争に勝って、戦う事を止めずに武力で以て事を為そうという意識のままで在ったなら、今の日本は今ほど平和ではなかった事でしょう。

それと同じ様に、豊かで在りたいのなら、戦う事を止める事です。

エゴは戦わずには居られません。

戦う相手が見出だせなくなると、最後にはエゴ自身とさえ戦おうとします。

勝ち様のない戦いです。

本来エゴは悪者でも無ければ厄介者でもなく、極めて優れた道具であります。

しかし、同時に極めて危険な道具にもなり得ます。

使う側の意識の在り方が、エゴを優れた道具にも凶器にもします。

エゴとの一体化は、道具に使われる事を意味します。

道具はこちらが使う物です。

こちらが使われてはなりません。