覚者は非覚者を寝呆けていると言い、非覚者も覚者を寝呆けていると言う | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

初めに結論から言いますが、覚者も非覚者も居ません。

寝呆けている自分が居るわけではなく、目覚めている他人が居るわけでもありません。

目覚めているとするなら自分だけですが、寝呆けているとするなら自分だけでもあります。

世界には誰も居らず、自分しか在りません。

自分が目覚めたという夢を見るか、自分が寝呆けているという夢を見るか、それだけの違いしかありません。

自分が目覚めたという夢を見たいなら、熱心に覚者の言葉を反芻してその様に振る舞うでしょうし、自分が寝呆けているという夢を見たいなら、エゴと一体化して目に見えるものを追い続ける事でしょう。

どちらも夢であり、寝呆けていると言えばどちらも寝呆けています。

覚者と非覚者の違いは、寝呆けている事を自覚しているか自覚していないかだけです。

しかし、この自覚は大きな差(あくまで夢の中での話ですが)を生むでしょう。

夢に操られる、つまりはエゴと一体化している時は、エゴの言葉・基準・判断が絶対です。

そこに自由も豊かさも無く、在るのは制限と欠乏です。

夢を夢と自覚する、つまりはエゴはエゴだと自覚して分離している時は、エゴの言葉・基準・判断は道端に転がる小石の如く、意義も無ければ価値も在りません。

夢を夢と気付いた時は、夢の中で何を手に入れるか、何をするか自体には関心が無くなり、ただ夢を楽しむ事自体に価値を見出だすようになるでしょう。

楽しんだ結果、次から次へと人や物や肩書きが夢の中の新しい登場人物や設定として加わり、より楽しい夢が拡がって行くかも知れません。

怖かろうが、惨めだろうが、これは夢だと気付いたなら、「どうせなら思い切り楽しもう」という気になるはずです。

それが制限であっても欠乏であっても、そのネガティブな感覚自体を楽しめるでしょう。