エゴの勘違い | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

エゴの性質の1つに、「抵抗感を力だと勘違いする事」が在ります。

これにより抵抗感を感じる度、「自分は力を発揮している」とか、「自分は今頑張っている」と思い込みます。

エゴ的に解釈した努力や苦労(まず、抵抗感を味わうばかりで徒労に終わります)がこれに当て嵌まります。

真実は逆です。

力を発揮しているのではなく、力を奪われています。

頑張っているのではなく、単に逆の方向へ走っているだけです。

エゴは追い風が吹いていても、敢えて後ろを向いて向かい風にしてしまいます。

抵抗感に立ち向かった先に待ち受けるのは、疲労困憊しながらもまだ進み続けようとするくたびれた自分か、あるいは力尽きて倒れた自分です。

この抵抗に対して敏感で在れば、追い風が来たらそれに乗っかって進めるだけ一気に進めばいいし、向かい風が来たら一休みし、過ぎ去ったらまた歩き出す…といった自然に逆らわない生き方が可能になるでしょう。

自然とは「自身の在り方」に対する調和で在り、宇宙に対する調和で在ります。

「苦労は買ってでもしろ」という言葉が在りますが、これは「ただ抵抗感を味わえ」とか、「追い風を向かい風にしろ」と言う意味では無いと思います。

ここで言う苦労とは、「抵抗を味方にする知恵を身に付ける苦労」で在り、『やり方』としてではなく『在り方』としての苦労です。

『在り方』は心に沿います。

ゆえに苦労であっても抵抗は受けず、享受するのは喜びです。

確かに喜びなら買う価値は在ります。

この抵抗感を言葉で表現するのは難しいのですが、他の言葉に置き換えるなら『執着』が近いかと思います。

物に対してで在れ、自身の考え方に対してで在れ、執着という抵抗感が、今まで自分に何をもたらしてくれたのでしょうか?

「執着もこれで最後!」と意気込んで切望していた何かを手に入れても、次もまた別の何かに執着する事でしょう。

執着が生むのは次の執着で在り、抵抗が生むのは次の抵抗です。

エゴが抵抗感に対し抵抗するなら、その反対の態度を取る事がエゴとの決別に一役買います。

抵抗感に従うわけです。

逆らう事で抵抗感は抵抗として存在出来るわけですから、従ってしまえばそれは無力です。

「今はそのタイミングではない」と言う事を教えてくれるものだと解釈すれば、抵抗感はむしろ味方として機能します。

エゴは何でもかんでも敵にしてしまいますが、味方として見ようと意識すればあらゆるものは全て味方として見る事が出来ます。

これは、「エゴも味方として見れる事」を意味します。