真剣に、心から悟りを望む人にとっては死刑宣告に等しい言葉です。
ですが、この言葉ほど希望を感じる表現はそうそう在りません。
この言葉の真意は何処に在るのか?
鍵は「貴方」が何を指しているのか?…と言う事です。
二通り考えられ、結論は全く一緒ですが、視点によって受ける“何か”は天地の差が在ります。
貴方=エゴとして解釈する場合、この言葉が指す真意は「エゴ在るかぎり悟れない」と言う事です。
エゴが無い状態を悟りと呼ぶ以上、悟りたいと願うエゴが在ってはならない…と言う事です。
「光在る限り闇は生まれない」のと一緒です。
光が無い状態を闇と呼ぶので在って、闇を欲するなら光を消さねばなりません。
貴方=真我(神でも大いなる存在でも、ともかく悟りそのものと同一視されるもの)として解釈する場合、この言葉が指す真意は「既に悟りで在る以上、悟り様が無い」と言う事です。
人間は既に人間で在り、人間になりたいと願うまでもなく人間なのだから、改めて人間になる事は出来ません。
どっちに転ぼうが、「結局は悟れない」と言ってる事に変わりはないので、エゴとしては絶望的と言えます。
光は闇になれないのと同様に、エゴは悟れません。
「私(エゴ)は悟った」と言えない理由は此処に在ります。
「闇が光った」と言えないのと同じです。
「貴方は今生で悟れない」という言葉は、エゴにはさぞかし厳しく、ショックな言葉でしょうが、真意は思いやりに溢れています。
「そのエゴを手放しなさい」と促しているのと同時に、「貴方はもう悟っています」と認めているのです。
今生とは、エゴ視点で言う「生まれてから死ぬまで」を指すのではありません。
「エゴとしての人生」を指すのです。
エゴを手放しても、貴方の身体と心は変わらず生き続け、エゴは懲りずにやって来ます。
しかし、エゴに捉われていた人生はもう何処にも在りません。
生きながらにして死に、生きながらにして生まれ変わります。
その為には、エゴには人生の主役から降りて頂く他在りません。