家族旅行が、転機になった。

 

健康だけが取り柄だと思っていた父に、異変が見えたのだ。歩ける距離が、目に見えて短くなっていた。広い場所を、父はうまく歩けなかった。私はそのとき初めて、父の老いをはっきりと感じた。

 

それでも、私はまだどこかで目をそらしていた。父の変化を見ながらも、具体的に何かをしようとは思わなかった。仕事は忙しく、自分の生活もある。心配しているという感覚はあったが、それは行動には結びつかなかった。あのときの父の表情も、何を言ったかも覚えていない。ただ、歩幅が小さくなっていたことだけが、記憶に残っている。川遊びの日と同じだった。父の姿は見えている。でも、言葉がない。

 

やがて、介護保険サービスを利用することになった。きっかけは、母の疲弊だった。散歩に付き合うことが、母の負担になり始めていた。外に出てほしい母と、出たくない父。その小さなすれ違いが、毎日繰り返されていた。

 

一枚の申請書に、父の名前を書く。介護の仕事をしてきた私は、手続きには人より詳しいはずだった。それなのに、自分の父のための書類を前に、手が少し重くなった。「知っていること」と「自分のこととして向き合うこと」は、まったく別だと、そのとき初めて気づいた。

 

計画を立てる専門職が自宅を訪ね、父から丁寧に話を聞き取っていった。そうして作られた計画書には、父自身の言葉が記されていた。

好きなことができなくなり、どうしてこんな体になってしまったのかと情けなくなる。せめて体調が良いときは、散歩でもして気分転換を図りたい――。

 

父がそんなことを思っていたとは、知らなかった。私は書類を通じて、初めて父の内側の言葉に触れた気がした。直接、父の口から聞いたのではない。紙の上で読んだのだ。

 

計画に立てられた目標は、外出して体力の低下を防ぐ、というものだった。理屈としては正しい。しかしそれは、父の心を動かす言葉ではなかった。今ならもっと違う言葉をかけたと思う。「孫に会いに、私の家まで来るために頑張ろう」と。そのほうが、楽しみが生まれる。「こうならないために」ではなく、「こうなるために」。目標の向きが、人の心への刺さり方を変える。それに気づいたのは、ずっと後のことだった。

 

この頃から、私の中に「もしかしたら認知症かもしれない」という疑念が芽生え始めていた。

 

だが、確証はなかった。そして、「まさか」という気持ちが、その疑念を押しつぶしていた。認めたくなかったのだ。父のかかりつけ医からも、そうではないと言われていた。専門家がそう言うのなら、と思うしかなかった。医師の言葉が、私の都合のいい言い訳になっていた部分もあったかもしれない。

 

仕事では、認知症の利用者と日々向き合っている。知識はある。それでも、自分の父に対しては、専門家としての目が働かなかった。家族であることが、その目を曇らせていた。

 

介護は、始まった。だがそれは同時に、後悔の積み重なりが始まった時期でもあった。

 

 

【ReCareLife/Shinya Oguro】

 合同会社未来介護プロジェクト

 MKPJ