電話が鳴ったのは、仕事中だった。母からだった。声を聞いた瞬間、ただごとではないとわかった。体調が悪くて救急車で病院に行くから、父のことをよろしく――。それだけ言って、電話は切れた。

 

過労で倒れた母が、一人で父を支えていた。その限界が、突然やってきたのだ。実家に着くと、玄関のドアが開いていた。家中を探しても、父の姿はない。一時間ほど周辺を探し回り、ようやく公園のベンチに座る父を見つけた。小さな子どもたちが遊ぶ様子を、微笑みながら眺めていた。散歩に来たごく普通のおじいちゃんそのものだった。

 

父が認知症になってから、二人きりになるのは、このときが初めてだった。母が父にどんな介護をしていたのか、私は何も知らなかった。親子関係の希薄さが、重くのしかかってきた。

 

最初に取り組まなければならなかったのは、尿失禁だった。私が寝ている間に父が外へ出てしまうのを防ぐため、廊下に布団を敷いた。父が外に出るには、私を踏み越えていくしかない状況を作った。私の寝床は、玄関につながる廊下になった。

 

水分と排泄の時間を記録し、試行錯誤を重ねた。一週間続け、尿失禁をほぼ抑えることに成功したときは、本当にうれしかった。次の課題は、出勤する時間を作ることだった。父の眠りが深い時間帯を見極め、夜中に事務所へ向かい、短時間だけ働いて戻る。それが、私のささやかな楽しみになった。

 

短期の預かりに空きが出て、久しぶりに自宅へ帰れた夜、三週間分の疲れがようやくほどけた。しかしその一週間、私は父に会いに行かなかった。この一週間くらい、自分の生活を満喫してもいいはずだ――そう言い訳をしながら、施設からの電話に、ずっとおびえていた。

 

そして、私が一生忘れることのできない夜が来た。

 

そもそも父をコントロールしようとしていたことが、間違いだったのだと今はわかる。食事も、睡眠も、トイレも、すべて私が決めたスケジュールに収めようとした。結果として、父の言動は不穏になり、口論が絶えなくなった。悪循環に陥っていることは、自分でもわかっていた。しかし、どうすればいいのかわからなかった。

 

その夜、些細なことから口論になった。言い争いがピークに達したとき、父は手にしたものを私に投げつけてきた。それが顔に直撃し、激痛が走った。私は逆上した。頭の中が真っ白になった。寝ている父の上に馬乗りになり、胸ぐらをつかみ、拳を振り上げた。

 

殴ろうとした瞬間、ふっと我に返った。

 

私は怖くなった。父がではない。自分が、こんなことをしてしまったことが。当時の私は、介護の専門職だった。しかしその瞬間の私は、ただの、追い詰められた家族だった。

 

私は、たまたま父を虐待しなかっただけだ。追い詰められた人間の心が、どこへ向かうかを、私は自分の体で知ってしまった。この夜のことを、私は今でも後悔している。おそらく、一生悔やむと思う。

 

 

 

【ReCareLife/Shinya Oguro】

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家族旅行が、転機になった。

 

健康だけが取り柄だと思っていた父に、異変が見えたのだ。歩ける距離が、目に見えて短くなっていた。広い場所を、父はうまく歩けなかった。私はそのとき初めて、父の老いをはっきりと感じた。

 

それでも、私はまだどこかで目をそらしていた。父の変化を見ながらも、具体的に何かをしようとは思わなかった。仕事は忙しく、自分の生活もある。心配しているという感覚はあったが、それは行動には結びつかなかった。あのときの父の表情も、何を言ったかも覚えていない。ただ、歩幅が小さくなっていたことだけが、記憶に残っている。川遊びの日と同じだった。父の姿は見えている。でも、言葉がない。

 

やがて、介護保険サービスを利用することになった。きっかけは、母の疲弊だった。散歩に付き合うことが、母の負担になり始めていた。外に出てほしい母と、出たくない父。その小さなすれ違いが、毎日繰り返されていた。

 

一枚の申請書に、父の名前を書く。介護の仕事をしてきた私は、手続きには人より詳しいはずだった。それなのに、自分の父のための書類を前に、手が少し重くなった。「知っていること」と「自分のこととして向き合うこと」は、まったく別だと、そのとき初めて気づいた。

 

計画を立てる専門職が自宅を訪ね、父から丁寧に話を聞き取っていった。そうして作られた計画書には、父自身の言葉が記されていた。

好きなことができなくなり、どうしてこんな体になってしまったのかと情けなくなる。せめて体調が良いときは、散歩でもして気分転換を図りたい――。

 

父がそんなことを思っていたとは、知らなかった。私は書類を通じて、初めて父の内側の言葉に触れた気がした。直接、父の口から聞いたのではない。紙の上で読んだのだ。

 

計画に立てられた目標は、外出して体力の低下を防ぐ、というものだった。理屈としては正しい。しかしそれは、父の心を動かす言葉ではなかった。今ならもっと違う言葉をかけたと思う。「孫に会いに、私の家まで来るために頑張ろう」と。そのほうが、楽しみが生まれる。「こうならないために」ではなく、「こうなるために」。目標の向きが、人の心への刺さり方を変える。それに気づいたのは、ずっと後のことだった。

 

この頃から、私の中に「もしかしたら認知症かもしれない」という疑念が芽生え始めていた。

 

だが、確証はなかった。そして、「まさか」という気持ちが、その疑念を押しつぶしていた。認めたくなかったのだ。父のかかりつけ医からも、そうではないと言われていた。専門家がそう言うのなら、と思うしかなかった。医師の言葉が、私の都合のいい言い訳になっていた部分もあったかもしれない。

 

仕事では、認知症の利用者と日々向き合っている。知識はある。それでも、自分の父に対しては、専門家としての目が働かなかった。家族であることが、その目を曇らせていた。

 

介護は、始まった。だがそれは同時に、後悔の積み重なりが始まった時期でもあった。

 

 

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思春期から社会人になるまでの十数年間、父との記憶は驚くほど残っていない。怒られた記憶もなければ、褒められた記憶もない。父の声が、記憶の中に存在しないのだ。同じ屋根の下に暮らしながら、私たちはまるで別々の時間を生きていた。

 

小学校を卒業してから、私の生活の軸は家の外へと移っていった。部活に明け暮れ、やがてアルバイトと遊びが中心になる。家にいる時間が減るほど、気持ちは楽になった。家が息苦しかったからだ。居場所が、外にしかなかった。

 

父と私の間に溝が生まれた原因を、一つに絞ることはできない。ただ、その溝を深くした出来事はある。

 

父はギャンブルへの執着が強く、借金を重ねた。その借金が、家庭に影を落とした。母は苦労した。物心ついた頃から、私は母の口から父の悪口を聞かされて育った。父を悪く言う母の言葉が、私の中で父への印象をつくっていった。

 

そしてある日、父と母の口論が頂点に達した。借金のことで言い合いになり、父が母に手を上げた。さらに手を上げようとする父を見て、私の中で何かが切れた。気がつけば、私は力いっぱい父を殴っていた。激怒した父は台所へ走り、刃物を手に取った。その切っ先が、私に向けられた。

 

その後のことは、よく覚えていない。記憶が、そこで途切れている。人は、耐えられないものを記憶から消すことがあるという。ただ、その出来事以降、私が父を避けるようになったことだけは確かだ。

 

父を嫌いだと思っていたのか、と問われれば、正直よくわからない。憎しみに近い感情も、恐怖もあった。一方で、川遊びや映画館の記憶も、確かに存在していた。それらは交わることなく、私の中でそれぞれ別の引き出しに収まっていた。

 

社会人になってからも、父と私をつないでいたのは、挨拶とプロ野球の話だけだった。試合の勝ち負けを確認し合う。その短いやり取りに、私たちは慣れてしまっていた。それ以上を求めることも、踏み込むことも、お互いにしなかった。今思えば、それは慣れではなく、諦めだったのかもしれない。

 

そんな父に、変化が訪れた。私に子どもが生まれ、父に孫ができたのだ。

 

その日を境に、父は変わった。何もなくなってしまったように見えた父の毎日に、光が差し込んだ。父との会話が、少しだけ増えた。ただしそれは、私たち自身の話ではなかった。孫のことだった。「元気か」「風邪はひいていないか」。父の口を開かせるのは、いつも孫の話だった。

 

孫と一緒にいるとき、父は別人のようだった。あの父が、こんなふうに人に向き合えるのか。そんな驚きと、なぜ私に対してはこうではなかったのかという、言葉にならない感情が、混ざり合った。

 

父と私の溝は、孫の存在によっても埋まらなかった。孫という共通の話題が生まれただけで、父と私が向き合ったわけではなかった。当時の私は、それで十分だと思っていた。挨拶と、プロ野球と、孫の近況。それだけのやり取りで、関係は維持されていると思い込んでいた。

 

維持されていたのではない。ただ放置されていただけだと、今の私にはわかる。

 

そしてこの溝が、これから始まる介護のすべての場面に、影を落とすことになる。

 

 

【ReCareLife/Shinya Oguro】

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夏の光が、川面に跳ねていた。

 

水際に立つ小さな男の子が、両手を広げてバランスを取りながら、石から石へと渡っていく。そのすぐ横に、一人の男が立っていた。声をかけるでもなく、手を貸すでもなく、ただそこにいる。子どもが転びそうになるたびに、大きな手がそっと背後に伸びた。触れるか触れないかの距離で、その動きを見守っていた。

 

それが、私の父の姿だった。

 

どんな言葉を交わしたのかは、今となってはまったく覚えていない。父が何を考えていたのかも、わからない。ただ、あの日の川の冷たさと、石の感触と、横に父がいたという事実だけが、静かに残っている。

 

思えば、父との思い出のほとんどが、そういうものだった。場所は覚えている。父がそこにいたことも覚えている。けれど、会話の中身が出てこない。父の声が、記憶の中から抜け落ちてしまっている。

 

父との一番古い記憶は、川遊びだ。駅の改札を出ると、必ず立ち寄る店があった。注文するものは毎回同じ。何度通ったかは覚えていないのに、父がそこで何を頼み、どんな話をしたのかは、やはり思い出せない。公園にもよく連れて行ってもらった。自転車に乗れるようになると、二人で走らせた。帰りに立ち寄った蕎麦屋で、父の注文を交換してもらって初めて口にした味は、今でも体が覚えている。それでも、そのとき交わした言葉だけが、抜け落ちている。

 

映画にも、プールにも連れて行ってもらった。同級生を引き連れて引率してくれたこともあった。そんなことをする父親は周りにいなかったから、少しだけ誇らしかった。並べてみれば、父との思い出は決して少なくない。場所も、行った事実も、ちゃんと残っている。ただ、そのどれにも「会話」がないのだ。

 

父の唯一の趣味は、川での釣りだった。シーズンになると毎週のように出かけ、帰宅すると、その日の釣果を誇らしげに見せてくれた。釣りのことになると、父は言葉が増えた。普段とは少し違う、嬉々とした顔。その笑顔だけは、今もはっきりと思い出せる。会話の多くが消えているのに、表情としての記憶だけが残っている。不思議なことだと思う。

 

だが、父にはもう一つの顔があった。

 

ギャンブルと借金。そして、争いの絶えない家庭だ。父はのめり込むように熱中し、借金を重ね、それが家庭の空気を重くした。一人で留守番をしていたある日、玄関のチャイムが何度も鳴らされた。覗くと、いかにもな雰囲気の男が立っていた。足がすくみ、四つん這いで家の奥に身を隠した。あの恐怖は、子どもだった私の体に、そのまま刻み込まれた。

 

楽しかった記憶と、怖かった記憶。そのどちらも確かにあったのに、私はそれらを別々の引き出しにしまい込み、父という一人の人間として、ひとつにまとめて理解しようとはしなかった。する必要を感じていなかった、というほうが正確かもしれない。

 

父がどこに勤めているかは知っていた。しかし、いつからか、どんな仕事なのか、話す機会は一度もなかった。互いの内側には、踏み込まないままだった。

 

川遊びの日、父は私の横に立っていた。その背中を、私は幼い頃から見ていた。あの背中が何を抱えていたのかを、私が知るのは、ずっと後のことになる。

 

これは、そんな父と息子の物語だ。

溝のある家庭で育ち、長い沈黙を重ね、やがて介護という現実の中で、ようやく向き合い始めた、ある家族の記録である。

 

 

【ReCareLife/Shinya Oguro】

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介護問題が語られるとき、話題の中心はいつも「介護する側」だ。疲弊する家族、人手不足の現場、制度の限界。それは確かに深刻な問題だが、忘れられていることがある。介護される側にも、考えなければならないことがあるということだ。

 

「俺はボケない」「子供たちに迷惑はかけない」「動けなくなったら施設に入れてくれ」——こうした言葉を元気なうちに口にする親は多い。気持ちはわかる。しかし、その根拠のない自信が、結果として家族を苦しめることになる。「施設に入れてくれ」という言葉ひとつとっても、公的な特別養護老人ホームへの入所には原則として一定の要介護度が必要であり、希望すれば入れるというものではない。準備を拒み続けた末に突然介護状態になれば、子は仕事を中断し、手続きに奔走し、精神的にも追い詰められる。「迷惑をかけたくない」という言葉が、もっとも重い迷惑になってしまう構造がここにある。

 

実は、この言葉の裏には親自身のプライドが潜んでいることが多い。介護職という他者を受け入れることへの抵抗が、結果的に子にすべての負担を押しつける。「迷惑をかけたくない」の正体が、自分を守るための拒絶であるとすれば、子が疲弊するのは必然だ。

 

介護を受けることは、楽をすることではない。できることを人任せにし、スタッフに制度の範囲を超えた要求を繰り返す。訪問介護で対応できるのは本人の日常生活に直接必要な支援に限られており、家族の食事作りや庭の手入れなどは制度上認められていない。にもかかわらず「お客様」のような意識で要求を重ねることは、自立を阻害するだけでなく、現場を疲弊させる。介護保険は自立した日常生活を取り戻すための支援であり、永続的に頼り続けるものではない。近年の制度改正でも、状態の維持・改善に貢献するケアがより重視されるようになっている。本人が自らの能力を最大限に活かそうとする意志こそが、誇りある生活の土台だ。

 

介護はされる側と支える側が互いの思いを共有して初めて結果が出るものだ。本人が目標を持ち、できることを増やしていく姿は周囲に希望を与え、自然と「支えたい」という気持ちを引き出す。本人の「治りたい」「自立したい」という意志は、家族の精神的負担を軽くするだけでなく、給付費の抑制という形で家計と社会の両方を守ることにもつながっている。

 

子の助言を無視して転倒したとき、家族の中に「自業自得」という感情が芽生えることがある。冷たいようだが、それが現実だ。一方で、厚生労働省が推進する「人生会議(ACP)」が示すように、元気なうちから「どう生きたいか」を家族と話し合っておくことで、いざというときの混乱と後悔は大きく減らせる。親子で折り合いをつけた結果として介護が始まった場合、子は前向きにその役割を引き受けられる。今の身体状態を受け入れ、サービスに妥協しながら誇りをもって生きる姿勢——それが家族との関係を守る。

 

介護が必要になることは、誰にとっても避けられない現実だ。大切なのは、その日が来る前に準備を始めることであり、来てしまった後は受け入れ、できることを積み重ねていくことだ。「人から必要とされるために頑張る」——その気持ちが、介護される側の覚悟の核心にある。

 

 

ReCareLife/Shinya Oguro

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