ないがしろという言葉について考えてみました。 | みたこと、聴いたこと、思ったこと等の 独り言。時々ですます調。 ブロックはご自由にどうぞ。

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創価学会は、元々は末法の御本仏日蓮大聖人の在家の信者の団体でした。
平成3年に日蓮正宗から教義逸脱等により破門され、今では 仏教的・平和主義的・人道主義的等の雰囲気を持つ 政治的な営利団体へと変貌しました。
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少し前のことでしたか、誰にでも食ってかかるクレーマーで知られた中年男性が イオンで高齢女性を刺して捕まりました。ほんとうにこわいですね。これとは別に、クレーマーが 「俺をないがしろにした」 と、怒っていたという記事を読んで、 おや?と思いました。

実は、ないがしろという言葉を 私は 長いこと 古語だと思っていたのでした。無きが代 (なきがしろ) の変化したものだと思っていたのです。

私ごとですが、子供の頃は 透明人間のように ふわ~っと生きていたので ここに居ても 居ないかのように 、すなわち 【我  無きが代】に 生きていたのです。 (ま、この歳になってみれば そのようなことは どうでも良いことなんですけど。あはは。)

さて 末法の御本仏日蓮大聖人は ないがしろという言葉を どのように使っておられるかといいますと、主師親御書等において 尊ぶべきことを 尊ばない、大切なことをおろそかにすることを 蔑ろ(ないがしろ)と仰せになられています。


日蓮大聖人は 真言見聞の冒頭で、涅槃経を引かれて 『謗法とは 謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。』と御教示されています。


創価学会では とかく 尊ぶべき三宝を ないがしろにして、昭和時代から 徐々に 巧妙に、元信徒の3人の会長をあがめさせ、まずは、日蓮正宗の御僧侶をことごとく軽んじてきました。それから学会活動を 仏道修行だと詐って、学会員を騙して働かせてきました。
ですから、現役学会員もそうですが、元学会員もまた 三宝一体であるところの 御僧侶の尊さを なかなか わからないのだと 私は思います。

御僧侶はどなたも、私を敬いなさいなどとは仰いません。むしろ 大変に親しみやすい方々です。親しみやすいからといって、勘違いをして 侮ったり 文句を言ったり、無理な頼み事をしてはならないと 私は思うのです。

敬いなさいとは言われなくとも、三宝一体であるところの御僧侶を 心から敬うからこそ、私のような親に縁の薄い者でも いつの間にか境涯が変わってきて 何だか分からないけれども、願ったわけでもないのに 時には、人から大事にされて 驚くようなことがあるのだと思います。


創価学会員さんが 好んで丸暗記されている、

 『大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。』

という祈禱抄の一節がありますが、創価学会では この一節ばかりを 抜き取って、いかにも 学会活動をすれば 願いが叶う というような解釈をつけております。


ところが よくこの御文の前後や、この御抄全体を拝読させていただきますと、お釈迦様の御入滅の時 誰がどんな約束をしたのかが 大事なところになっております。

また、法華経の行者とは どういう方のことかも、はっきりと述べておられるのです。

私は この、 

『行者は 必ず 不実なりとも  智慧は をろかなりとも  身は 不浄なりとも  戒徳は 備へずとも
南無妙法蓮華経と申さば 必ず守護し給ふべし。
袋きたなしとて 金を捨つる事なかれ。
伊蘭をにくまば 栴檀あるべからず。
谷の池を 不浄なりと嫌はば 蓮を取るべからず。行者を 嫌ひ給はば 誓ひを 破り給ひなん。
正像 既に過ぎぬれば、持戒は 市の中の 虎の如し、智者は 麟角よりも 希ならん。
月を待つまでは 灯を憑むべし。
宝珠のなき処には 金銀も宝なり。
白烏の恩をば 黒烏に報ずべし。
聖僧の恩をば 凡僧に報ずべし。
とくとく 利生をさづけ給へと 強盛に申すならば、いかでか 祈りのかなはざるべき。』

身体が弱く妻子と離別してまで出家しながら 佐渡へと流されてきた最蓮房を励まされ、正直な問いかけにお答えになった御抄ですが、
この仰せを拝して、私はどのようなお方であっても 御本仏日蓮大聖人の真実の御弟子であるところの 日蓮正宗総本山大石寺の御僧侶をうやまっていこうと固く決心したのです。


また、天台宗や真言宗の偉いお坊さんが まあ 色々大層な【祈り】をやったんですが 全然はかばかしくなかったことが 非常に具体的に書かれていて、うちの孫も面白がって 何度も読んでくれとせがんだ 承久の乱のことが述べられているのです。それから、承久の乱のあと これらの祈祷師らが ちゃっかり鎌倉へと落ち延びて しれっと権力に取り入って人々をすかしているようすも記されておられます。
また『それはさてをきぬ。』と 最蓮房に 園城寺の焼き討ちのことを 今度くわしく聞きましょうと述べられていることなどは 何か、御本仏日蓮大聖人のおそば近くで お手紙を拝見しているように感じます。









創価学会では、自分たちの 都合の良いように 御書の一節を抜き取って さもさも 創価学会が 仏意仏勅の団体かのように 喧伝していますけれども、これこそが 御本仏日蓮大聖人を【ないがしろ】にする極悪非道だと 私は思っているのです。