くれない病【誤作動】 | みたこと、聴いたこと、思ったこと等の 独り言。時々ですます調。 ブロックはご自由にどうぞ。

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創価学会は、元々は末法の御本仏日蓮大聖人の在家の信者の団体でした。
平成3年に日蓮正宗から教義逸脱等により破門され、今では 仏教的・平和主義的・人道主義的等の雰囲気を持つ 政治的な営利団体へと変貌しました。
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ごく稀に 「誰々が○○してくれない」 というような 不満を述べる人を見かける。なぜか 経験的にこういう人は  創価学会員に多いようにも感じている。

○○○のに ○○○くれない

・聞いてほしい【のに】
             わかって【くれない】
・ほかの人には返事をする【のに】
             自分には返事をして【くれない】 
・一生懸命やっている 【のに】
                             認めて【くれない】
・プレゼントをあげた【のに】
                            喜んで【くれない】
・お金を払った【のに】
            尽くして【くれない】
・病気だと説明した【のに】
                優しくして【くれない】
・言って聞かせた【のに】
                実践して【くれない】
・家庭訪問した【のに】
        会合に出て【くれない】

etc.etc.

また、過去の出来事に囚われる
星カッタ病、暮れなカッタ病も見かける。
「毒親育ち」 「親ガチャハズレ」 という言葉をよく使っている人もあるようだ。

親や伴侶に して欲しかったことが してもらえなかった というようなことや、 親や伴侶から受けた理不尽な心身への虐待などを、 繰り返し何度も 思い出して 投稿したり、人に話したり、時には我が子にずっと言い続けたりする。悔しがったり 繰り言を言っていても このような【感情】で 過去を変えることはできない。被害者意識のような【感情】は 自分を傷つけるだけだ。

自分自身が今できることを努力する以外 幸せへの道はない。

【くれない】【くれなかった】の前にある
【のに】の中に  不思議があると思う。

なぜ他者に 聞いてほしいとか、返事をしてほしいと望むのだろうか?
(親も 我が子も 伴侶も 自分以外は すべて他者)

認めてほしいとか、喜んでほしいとか願うのだろうか?

贈り物や 出費に見返りを求めるのだろうか?

どうして底なし沼のように 他者に依存しようとしたり、行動や理解を 要求するのか?

なぜ人と自分を比べて 羨んだりするのか?

まるで地団駄を踏んで駄々をこねる幼子のようだ。自分だけではなく 家族や周囲の人々をも巻き込んで すさんでしまう。

他者の心や行動は 自分自身の心や行動とは じっさいは 無関係であり、互いに若干の影響はあっても 自分の想いで 他者をコントロールできるものではない。むしろコントロールしようとしてはいけないと思う。コントロールできるのは 自分自身だけである。

求めて得られないものを、なぜ執拗に求める のだろうか? 仏法に説かれる 四苦八苦の中の 求不得苦なのかもしれない。


私はこういうことは 心の【情報処理の誤作動】ではないか、と 思っている。
【逆境】という【情報】が 正常に処理 しきれず 、心の中に【感情】という【情報】が沸き起こり どうどう巡りしている状態ではないだろうか。

( 実はトラック運転手や 鳶職・土建業の人たちにはこういう人は ほとんど居なかった。おそらくは 日々職業的に 目の前の情報を瞬時に処理して 感情にとらわれない等の能力が 練磨されていくからではないかと思っている。)

【逆境】を過去の出来事として処理しきれず 沸き起こってくる【感情】が、 自分自身の【努力】できないことへの【理由】悪く言えば【言い訳】として心を占領している可能性を感じる。加えて、必要のない情報 【毀誉褒貶】【劣等感】【復讐心】などが さらに混乱を招いているのではないだろうか。

また 若ければ若いほど 人生経験が少なく それだけに【情報】は【それしか無い】状態であるから よけいに 【逆境】を正しく処理できないのかもしれない。

くれない病の状態の人は、自分自身をコントロールすることを放棄して、他者をコントロールしようとしているようにも見える。
もし仮に 毒親が反省したり 加害者が謝罪したとして、 自分自身の人格に何の成長があろうか。他者の反省と自分自身の人格は 何の関係もない。

自分自身が今できることを努力する以外 幸せへの道はない。



また、しばしば 「どうしたらいいの」という心の悲鳴を聴く。

濁悪の時代にあって 個人の性格や能力、性別や出自に関わりなく 誰でもが 必ず 正しいものの見方ができるようになり 心身が安寧になって 現世は安穏になり 後生は善き境遇になれるのが 末法の御本仏日蓮大聖人の教えである。具体的に「どうすればいい」 「何を信じればいい」「誰を敬えばいい」と教えてくださっている。

自分自身が今できることを努力する以外 幸せへの道はない。


(私が末法の御本仏日蓮大聖人の御書を書き写して 五座三座の勤行・唱題行を欠かさないのは 歴史的事実を含む正しい情報で心をいっぱいにして、行いを正し こざっぱりと生きたいから。)

また、医学では このようなくれない病的な苦悩は 幼児期の逆境 、虐待や 親との離別が原因とも されている。苦しい経験にともなって発生した【感情】という【情報】が正しく処理されないまま 心を蝕んでいる。

 善くない【情報】や【処理方法】は整理整頓して 正しい情報 処理方法を身に付けたいものだ。

ともかく、あらゆる人間の苦しみを すみやかに解決できる大良薬こそ 末法の御本仏日蓮大聖人が御図顕あそばされた本門戒壇の大御本尊様である。
(創価学会などでは無資格のニセ医者のような本部幹部等が インチキ宗教を どんどん処方しているが、これらのニセ薬は猛毒である。また、オカルトやスピリチュアル、占いやまじない 神札やお守り、 風水などの迷信も、猛毒であり 心身の病を招く。とかく邪教というものは 人々の迷いにつけ込んで インチキ商品を売りつけたり 歌や踊りで紛らわせたり、機関誌や壺を売ってこいだの、選挙運動してこいだの、腰骨を起てろだの、 一日一善だの、 瞑想しろだの 、一億玉砕だのと洗脳するのである。)

篤く三宝を敬い 信じ、 未来のために日々を丁寧に、身を以て南無妙法蓮華経と唱え奉り行じて 正直に 本当の医師の処方箋どおりに 仏法を学べば 、我が身を蝕んでいた 苦しみや 欲望 願望 煩悩は 無理をして消さなくても、知らぬ間に 他者への慈悲に変わっているのだと 私は思う。






オマケ