脳が不快なことをやめる(さよなら創価学会) | みたこと、聴いたこと、思ったこと等の 独り言。時々ですます調。 ブロックはご自由にどうぞ。

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創価学会は、元々は末法の御本仏日蓮大聖人の在家の信者の団体でした。
平成3年に日蓮正宗から教義逸脱等により破門され、今では 仏教的・平和主義的・人道主義的等の雰囲気を持つ 政治的な営利団体へと変貌しました。
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不快感、嫌悪感や 不安感  恐怖感 などは 生物としての 危険回避のために具わった 本能であり、第六感などとも言われたりする。

石井医師の説の興味深いところは、心の安穏こそが人間の幸福だと明言されていることのように思う。

人間は 臨戦態勢の身心の状態が続くと 必ず病気になるという。それゆえ 視覚、聴覚、皮膚感覚、味覚、嗅覚などの五感と、お腹の状態等を 心地よく保つことは 心の安穏に欠かせないことだという。

仏法に説かれる六根清浄にも合致する。


ところが 創価学会では、やれ 選挙だ 法戦だ、人生の勝利者になれ  社会で第一人者になれだのと人々を追いたてる。結果を出せだの、4桁の財務だのと浅ましい。

現世安穏 後生善処を目指す 仏法とは真逆である。これでは病気になって 当然だと感じる。

「創価学会は 何かがおかしい」 と思い始めて、色々調べる中で 大白蓮華の巻頭言に引用されている 御書についても それぞれの御抄を 全文ノートに書き写して調べてみた。(御抄はいつ、何処でお認めになり、どなたに お与えになったのか。頂いた方はどのような人で その時何が起きていたのか。御本仏日蓮大聖人の 御真意。御引用になられた逸話や 経文の詳細  等々)

すると、なんと畏れ多いことに 創価学会の言っていることは 、 御本仏日蓮大聖人の仰せと全く違うこと( むしろ真逆であること )がわかって愕然とした。

創価学会では 大聖人様が 駄目ですと言われていること、考えたり、言ったり、行ったりしては 人間が不幸になると指摘された方向へと、人々を追いたて、そのために かえって 御本仏のお言葉を盗用して 惑わせているのだ。全く罪深い。

そこで、何人かの 熱心な学会員さんのブログを読んでみると、共通する書式が浮かんできた。

100文字程度の 御書の一文を引用し、通釈を書いたあと 500文字程度の持論を述べる。
更に 1000文字以上の長い長い「先生のご指導」が添えらる。これは ほぼ絶対である

この時利用されるのが ソクラテスはとか、ゲーテはとかいう著名人の逸話を挿むテクニックで、それ自体間違ってはいないが、本来の仏法とは別の話しにすり替えられている。

或いは誰にでもあるような日常生活の出来事を「功徳の体験」だとか、「宿業が出た」などと大げさに語っている。

結論として 学会活動を頑張って『福運』を積み『人間革命』して『宿命転換』しようとか、自分が変わることで人生の『勝利者』とならなくてはならない、それが「先生にお応えする」ことなのだ、等と あれっ?と言うほど 全然 仏法とは関係無い内容になってしまっているのだ。

このようにもっていかないと、罰でもあたると思っているのだろうか。

或いは、寒氏のような創価学会式教学的な 我田引水系コピー&ペースト・パッチワーク長文投稿者もいるが、何万字書いても 創価学会が御本仏とは無縁だと思い知るばかりである。いきおい日蓮正宗を誹謗中傷するしかなくなって堕地獄の冒涜者と化している。一体、隣の人の悪口を言えば 自分の 人としての値打ちが 上がるだろうか。全く別個の存在であるものを。

概して、このように積極的に「創価の正義」 的なものを書く人は 元々真面目で誠実な人が多いのではないかと思う。苦境にある「同志」 を励ましたいとか、人々に創価正義を知らしめたい などの 「使命感」 から書いておられるようだ。あるいは組織の中でヒーローになりたいのか。
持って生まれた美徳も優秀な能力も いつしか日蓮正宗を呪詛するあまり冥伏してしまっているのは本当に悲しい。

価値創造とか、人間革命とか、宿命転換などという言葉は 御書にも 爾前迹門にさえも無い 新しい言葉なのである。

どだい、選挙運動など頑張って成仏できるわけがない。

「うるし千ばいに蟹のあしひとつ」どころではない。堂々と目的地を変えて知らん顔である。

無理をして 自分を変えようなど してはいけない。ありのまま、その身そのまま  正直に本門戒壇の大御本尊を信じ 奉り、毎日 五座三座の勤行・唱題行に励み 三宝を敬い 自他の幸福を願えば 自然に成仏できるのである。
 ましてや、誰人とも 争ってはならない。
折伏とは相手の幸福のために慈悲心をもって間違いを知らしめることであって、無茶苦茶な我見で言い負かす事ではない。

ありもしない デタラメなインチキで、およそ宗教とは言い難い 学会活動を強制されれば、二世三世の方々が、御書や御本仏に対して 誤解して 食わず嫌いの嫌悪感を懐くのは 無理もないことだと思う。本当に罪深い。

巧妙にすり替えられたもの(一例)
菩提寺→会館
総本山大石寺→学会本部
成仏→人間革命
仏法→哲学
僧侶→幹部
本門戒壇の大御本尊→宇宙生命
仏道修行→学会活動
御供養→財務
etc.

熱烈な創価学会員さんは どんなに、御書をしっかり読んでみてくださいと言っても「何を言ってるんだ、読んでますよ」という。
 (とにかく明るい○○みたいな…)
実際 同席して 一緒に拝読しようとしたが、体調不良になったり、精神が不安定になって 怒り出したりして 末法の御本仏日蓮大聖人の御書を ゆっくり拝読することは 誰ひとり出来なかった。

彼らが実際手にして 読んでいるのは 大白蓮華という雑誌や 聖教新聞という新聞や、「広布と人生を語る」だの「小説人間革命」だの「潮」だの「パンプキン」だのという出版物や、soka.net などである。

人材グループだといって 勉強させられるのは、仏法とは関係無い 三國志や水滸伝や 小説人間革命などである。よっぽど仏法を学ばせたくないのだろう。

これらの出版物に 頻繁に登場する文字を観察すると、
『勝』『大』『友』『光』『栄』『誉』『王』『戦』『闘』などが目立つ。

誉れの〇〇、栄光の〇〇、〇〇の王者、〇〇の大闘争、〇〇の大行進 ・・・・・。

名聞名利を煽り、全体主義へと陥らせる。

これらを見続けることは 非常に良くない。曖昧で漠然とした言葉で 追い詰められ、一気に 病気になってしまう。

本来の仏法は 人々を あるがままに解き放ち 何の束縛も受けない 自由自在の安穏を得るための教えである。
人生に 勝ち負けなんてないし、だれひとり変わらなくても良いのである。



※  私がまだ 創価学会の信者だった頃に、Facebookでお友達リンクしていた故人 聖教新聞の記者だった友岡さんは、リンクしている人が 創価学会の書籍について書いていると 2000年以降の創価学会の出版物を購入してはいけない、全部電通が作ったものだと それは厳しく叱責をされていた。
又、御書をそのまま 書き出しているのを見とがめると 我慢偏執 著しく自分が正しい、日蓮大聖人が間違っているとまで言って 投稿を削除するまで、許さないこともあって、少し困惑したものだった。 

自分を好遇してくれた 池田名誉会長に 忠誠心を持っていて 日蓮大聖人を御本仏として尊崇出来なかったからだと思う。

友岡さんは 元々ボランティア活動に熱心で ハンセン病問題や 在日外国人の人権問題、 貧困問題   多くの差別問題等で苦しむ人々に 強い関心を持ち、弱い立場の人を救いたいと必死になっていた。
本部執行部の 「弱い人間は相手にするな」とにかく「文章力でひとりでも多くの活動者 を作れ」という指示に 反発していた。色々内状を暴露してしまったのは 創価学会本体が 友岡さんの考えるところの 理想の人権団体にならなかったからである。
濁世において 思う結果も 理解も 協力も 得られず 苛立ち、様々に苦しまれ、精神科医からは 休養を勧められて投薬治療を受けられていた。

最後にメッセンジャー通話したときには、呂律が回らないほど弱っていて、いまも思い出すといたましく切なくなる。

とまれ、創価学会の中枢部にいた人が言うのだから、読まないに超したことはないと 私は思う。