「功徳」とは (再投稿・編集 加筆済み) | みたこと、聴いたこと、思ったこと等の 独り言。時々ですます調。 ブロックはご自由にどうぞ。

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創価学会は、元々は末法の御本仏日蓮大聖人の在家の信者の団体でした。
平成3年に日蓮正宗から教義逸脱等により破門され、今では 仏教的・平和主義的・人道主義的等の雰囲気を持つ 政治的な営利団体へと変貌しました。
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久しぶりに Facebook を見ていたら、「寒氏」 のような 創価学会のドン・キホーテ的な人が、フリートークのコミュニティで 法華講員さんに噛みついているらしい。

 噛みつかれた法華講員さんは、自身の個人ページで、以下のように感想を述べられている。

〈 この人は 学会を教義面から批判されると、二言目には バカの一つ覚えみたいに「功徳の体験を示せ」と言ってごまかします。教義面で反論できないからでしょう。〉

創価学会員が 「功徳だ」 「 大勝利だ」 と大騒ぎしていることは 誰でもが経験するような 日常的な出来事に過ぎない。御本仏日蓮大聖人が「現証」と仰せの出来事は 公家の日記に書き残されているような天変地異や 政変、疫病の流行などの事実であって、個人的な、糾える縄の如き日常茶飯事ではない。

多くの学会員さんが、「功徳」の意味を 間違って覚えてしまっていて、ある意味 ヒドイことになっている。

うちの娘が 一番 疑問に思っていて、一緒に調べて 最初に愕然とした 創価学会のヘンテコ指導 その① が この「功徳」についてだった。

《 私が 一切の会合を ボイコットしてからも ヤングミセスとして会合に参加していた娘が見聞きしたこと 》

・道で拾ったお金を 交番に届けず 「功徳」だと言っていた。 (交番に届けてください)

・農道でスピードを出し過ぎ 田んぼに転落。シートベルトをしていなかった 子供が 車外に投げ出された。 車は廃車になったが 子供は一命を取り留めた。これは 「功徳」だ、という ヤングミセスの会合での 体験発表を聞いて驚いた。(安全運転でお願いします)

・投票依頼に行った友人宅で 食事をご馳走になったというのが 「功徳の体験談」 として 選挙の時 もてはやされたりしていた、 (戸別訪問やめてください) 等々。

そのため、こういう「体験談」を聞けば聞くほどに  学会員さん皆が なんだか 浅ましく欲張りな感じがしてきて いやだったとのこと。




仏教哲学大辞典(池田名誉会長監修)によると、

「功徳」とは 梵語の求那 (guna) の訳で、
功能・福徳の意である。

・法華経薬草喩品第五に
「如来 真実の功徳を説く」とある。

・天台大師の仁王経疏には
「功徳とは 巧みに施すを功と名づけ、
己れに帰すを徳という」とあり、

・勝鬘経宝窟には
「悪尽くるを功といい 
善満つるを徳と称す。
また徳とは得なり、
功を修して得るところなるがゆえに
功徳と名づく」とある。

・法華経法師功徳品第十九には
「是の法華経を受持し、若しは読み、
若しは誦し、若しは解説し、
若しは書写せん・・・・
是の功徳を以て、六根を荘厳して、
皆清浄ならしめん」と説かれている。

末法の御本仏日蓮大聖人は 、
御義口伝下 法師功徳品四箇の大事 
 第一 法師功徳の事に於て

『法師とは五種法師なり、
功徳とは 六根清浄の果報なり。
所謂 今 日蓮等の類 
南無妙法蓮華経と唱え奉る者は 
六根清浄なり。
されば 妙法蓮華の法の師と成りて 
大きなる徳(さいわい)有るなり。
功(く)も幸(さいわい)と云ふ事なり。
又は悪を滅するを功と云ひ、
善を生ずるを徳と云ふなり。
功徳( おおきなるさいわい )とは
即身成仏なり。又 六根清浄なり。
法華経の説文の如く修行するを
六根清浄と意得( こころう )べきなり云々。』

と御教示されている。

眼から鱗のおちるような 尊い御文だと思う。



↑この御義口伝巻下の御文が自分自身のマインドコントロール解除の鍵となったので、
沢山コピーして 訪問してくる創価学会活動家の方々に差し上げてみた。

ところが、何故か 急に目が見えなくったり、ふらついて立っていられなくなったり、身体が震え始めたりして 誰ひとりきちんと読むことが出来なかった。

私の兄は 少林寺拳法の師範でもあり、ごりごりの 禅宗信者だったが この御文を拝しただけで、「日蓮様」 と心を改め 三宝を敬うに至った。

創価学会では この御文も 
勝手に切り刻んだうえに 悪用して、繰り返し繰り返し 「私もこんなに功徳を受けた。
皆さんも功徳を受けきって頂きたい。」
(山のような勲章やスイス銀行の財産のこと)
だの、 「悪と戦うのが正義である。」
(日蓮正宗を敵視して潰せということ)
だのと指導している。
肝心な 六根清浄に至っては 完全に封印されてしまっている。

まるで 地位や名誉、財産などを得ることが功徳であるかのように指導している。

草創期から 創価学会では 「病気が治る」 「貧乏から抜け出せる」 等の現世利益を強調して 独自の 価値観 宗教観を打ち出し 猛然と会員を増やしてきた。
その根底には 仏教からは 逸脱した 『牧口価値論』がある。(価値論は 牧口常三郎氏が日蓮正宗に入信する以前に 独自に書いたものだが 世の哲学者に全く評価されなかった。 この 価値論を “荘厳己義” するために 御本仏日蓮大聖人の教えを利用するかのごとく 牧口常三郎氏は 実験証明座談会と銘打ち、価値論を盛んに講説していた。)
勿論 実際に平成3年頃までは 熱心な創価学会員は 真剣に 本門戒壇の大御本尊を信じ奉り 目覚ましい現世利益の結果をみてきたことも事実だった。
現在も日蓮正宗の信徒は 自讃を慎むべきであるので 表だって言わないが 自らの心が変化することにともなって、今世の日常生活全般も整い 全てが良くなっている。当然のことであって騒ぐことではない。また、自分自身の胸中に絶対の確信があっても 主観的なことは 信仰との因果関係が証明出来ないわけだから 騒ぎ立てるべきではない。利根と通力に依るべきではないとは御本仏の仰せである。
 また、この御文に説かれている 罪障という 衆生一人ひとり それぞれの「悪業」は、 創価学会教学の解釈においては なんと、 創価学会という組織の「架空の怨敵」に 意味がすりかえられてしまっている。とんでもない荒技を使っているのだ。

これらを鵜呑みにして 哀れにも 馬鹿のひとつ覚えのように 誰が見ても普通の出来事を「功徳の体験」などと ネットで騒ぎ、日蓮正宗の僧俗・弟子檀那を愚かしくも 「日顕宗」などと呼び『悪』だと決めつけて敵視して攻撃し続ける。

このような 新語造語の ネーミングセンス。レッテル貼りの プロパガンダは 創価学会執行部の 得意技なのだが 熱狂的な創価学会信者は 「先生」という言葉さえ聞けば 盲目的に鵜呑みにしてしまうのだ。鵜呑み、受け売り、うろ覚え、決めつけ、 は 創価学会員の特徴とも言える。御本仏日蓮大聖人は 御消息や諸御抄のなかで  尊崇する相手や 信じる法を間違ってはならないと仰せではないか。

学会員にとっては 創価学会内部の伝聞が『正義』であり、暴力をふるってでも、 違法行為を行ってでも、 捏造したものを拡散してでも、 とにかく 日蓮正宗の僧俗・弟子檀那を攻撃すればするほど、或いは 選挙運動や会合参加、形容詞の多い新聞や 民音チケット拡販の数字をあげ、新来者や入会者を増やすなどすれば そういう創価学会流の『功徳』があると思っている。創価学会内部の伝聞とは 会合などで 地域の幹部が口頭で吹聴している情報である。

ヒットラーが言わなくても ゲシュタポが吹聴したように 執行部が言っていないことまで 湧いて出て 思想的に どんどん過激になっていくのだ。根拠のない 伝聞が 大手を振ってあたかも真実であるかのように拡散するのである。伝言ゲームでも、 伝える側は 自分の言いたいように言い、聞く側は 自分の聞きたいように受け止めるために おかしな内容が伝わってしまうのと 同じようなものかもしれない。

完全な妄想・完全な迷信である。非常に不幸なことである。

本当に ルバング島の小野田少尉か、
ラマンチャのドンキホーテのようで痛々しい。

そのような歪な眼鏡で 自他の生活を見ているので、誰でもが経験するような日常的な出来事も 創価学会員にとっては いちいちが『功徳』だったり、『宿命』だったりする。
それぞれが 仰々しい『体験』として受け止められる。認知の歪み以外のなにものでもない。

多くの『活動家』は、必死でコピー本尊に向かって 出世や成功、地位・名誉・財産 現世利益や 成果を願ったりする。
あるいは『撲滅』『大勝利』などを集まって長時間祈ったりする。

もはや 狂気の大呪術集団である。

そういうものに囚われ、互いにくらべあい、いかに自分には 「創価学会流の功徳」 があったかを語りに語り、家族や地域の会員に同じことをやれと強要する。「世界のため人のため 善いこと」 だと信じ込んでいるので始末が悪い。なんなら、やらない人をつるし上げさえするのだ。
あるいは 誰かを 本心から呪うなどしながら 浅ましく血眼になって『今日明日のこと』に明け暮れ、おぞましく自画自賛しては 人々をゾッとさせているのにも気付かない。

家族がアルコールやギャンブルの依存症になろうが、心身を病もうが 事件事故の当事者になろうが眼中に無い。
それどころか、本来の仏道修行とは 似ても似つかぬ 学会活動を 頑張っている自分に 感謝しろとさえ思っている。コピー本尊を拝んで  短縮勤行を済ませ、選挙運動することの 何が仏道修行だというのか。よく考えて欲しい。

功徳どころか、地獄そのものの体ではないか。

このような間違ったものの見方を 改めないかぎり、自他の 心の安穏は得られない。

ちなみに、創価学会では日蓮正宗から破門された事情を伏せて 「魂の独立」 などと 美化している。聖教新聞は 「論理のすり替え新聞」 である。
又、末法の御本仏日蓮大聖人の尊い御書を勝手に都合よく抜粋して 全く違う解釈をつけたインチキ教学を【日蓮仏法】などと呼んで平気でいる。ほんとうは信仰心の全くない 外部に発注した【電○仏法】【○クセンチュア仏法】ではないか。 畏れ多いことに、御本仏を意図的に呼び捨てにして 一般的な偉人のイメージを与えているのである。2世3世に まともな 教学もなく 信仰心もないのは ここに理由があるのだと思う。

執行部のやることは 卑怯にもほどがある。

公明党が 自民党と 同じ穴のムジナになってからは 多くの 創価学会員は 現代が末法であることも 仏法が成仏を説いた教えであることも忘れてしまった。

御神輿を担いで はしゃいだり バレンタインや クリスマスを祝い、ハロウィンの変装をして人混みに出掛けたりしている。本部の打ち出しに盲目的に迎合して無理にでも 幸せそうに振る舞っている。

そればかりか、熱心な創価学会員は 日蓮正宗を何の根拠もなく「仏敵」 呼ばわりしている。 
しかし、創価学会のやっていることは 仏教ですらないのだから どうしても 「敵」 という字を使いたいのであれば 「天敵」 ぐらいが適当ではないだろうか。

ともあれ、いずれの日にかこれらのことに気付き 正法に帰依して 本来の自分を取り戻し、本当の幸せをおひとりおひとりが掴んでいただきたいと 心から願っている。





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