続きです。
「お父様は口数少ない?口ベタでもあったかもだけど、
その他に言うことがストレート過ぎた面もあったのかな…」
そんなふうに言われて、これは私だからとてもわかる事でした。
本当にその通りで、コミニュケーションの取り方はとても下手くそ、
そして私もこんなだから、仲良く常に心通わせる関係性ではなかった。
でも家族の写真を見せて来てくれてると。
「さくらさんの上にもどなたかご兄弟さん居られますか?」(兄が一人います)
自分にはこんな家族がいる。
そこが誇らしげ、自慢げな様子。
さくらさんから学生の頃から?父の日とかお誕生日とか?に何か洋服をもらったと見せて来ていると。
「何があげたことありました?」
私、モーレツに考えてみたけど実はまるで覚えてなくて💦「あげた記憶が無いんですが…」と答えると、
「高価なものとか特別なものではなく、普段着られるようなものなのかな…」
そう言われて気付きました。
私は(結婚後も)何度かスウェットだけはあげてました。
実用的なものとして本当に役立つもの…そう思いあげてたのに、なぜかすっかりそんな事は忘れてしまってました😣😣
それを頑固一徹で堅物な父が、それはそれは嬉しそうに見せてくれていると、
あぁ…きっとそれは表面にはとても見せれなかった、見せなかった性格だった父の本音だなと私にはわかりました。
父はザ・九州男児。
そんな感じと、やはり育った境遇から素直になんてとても喜びを出せない人でした。
だけど本当は嬉しいのだろうなという事は私にもわかってました。
なので聞く様子全てが私には父らしく受け取れました。
「自分は家のことは何一つしなかったし、本当に働くだけで家族内での関係性も自分だけが少し遠いところに居るような感じだったかも知れない。
だから娘とも心の距離感があったような、本音でぶつかり合うとか、言い合いみたいな事も本当に無かったと思う。
でもそれが嫌なのではなく、父親とはそういうもの。真面目にコツコツ勤勉することしかない。家族もそれを見て自分を威厳のある父?のように考えていてくれたんじゃないかと、それで良いんだと思ってやっていた。」
その通りでした。
正直、気さくなよそのお父さんとは違ってたから、人のお父さんが羨ましく見えてた事もありました。
でも、本当に実直に毎日厳しい中で自衛官としてその愚痴をただの一度も口にすることなく励んでくれました。
だからうちの父はそういう人。
私もそこをわかっていたつもりです。
「お父様は最後の方は無口だからなのか闘病だからなのか、喋れなかったのかな?」
そうでした。
病気のせいで後半はせん妄?なのか会話が噛み合わないような、心が通じ合える会話は無理でした。
ミディアムさん曰く、そこをとても伝えたいと父は言って来ている。
話せなかったけどちゃんと病院に通って来てくれてたこと、
そこに孫までも足繁く来てくれてたことが本当に嬉しかったんだと伝えられました。
これを聞いたとき、あの主人を突然亡くした6月から父が亡くなる8月まで、
考えられないほどに苦しくて苦しくて、ちゃんと呼吸しているかもわからないような自分だったけど、
そんな思いをしながらも必死に父の病院まで通って良かったと、そう思う事が出来ました。
でも私、
主人と共に通ってたあの道のりを自分が電車とバスを使って息苦しいような思いで病院まで辿り着いてたこと、
あんな苦しみは一生忘れないと思ってます。
続きます。