福岡県 鞍手郡 鞍手町の音楽教室
みずま音楽教室
度々このブログでも綴っていますが、昨年度からある大学の先生の『社会支援論』『対人支援論』の講義(配信)を視聴させて頂きました(数ヶ月前に配信された『LGBTについて』の単発講義も本当に素晴らしく、考えさせられる内容でとても勉強になりました!今期の講義は私が視聴の時間が確保できたらという厳しい状況なので、前回のようにコンスタントには勉強出来ていませんが、先生の講義をマイペースで視聴させて頂いているところです♪)
そこに通底するものは『人権意識』
「多様性を認めよう!」というキーワードを比較的よく耳にするようになったものの、その根幹とも言うべき『人権』について学び始めると、“その意識があればこんな酷いことが起きるはずがないのに…”という思いに至り、世の中のリアルな現状や身近な現状にかなり凹んでしまいます
とは言え、私自身も人権について学んでいる途中の身なので、“例え無自覚であっても、一歩間違えれば『私は差別する側の人間になる可能性がある』”と、自分に注意をしています
もしも後悔する(自覚ある)発言を思い出したり、無意識な発言の可能性を疑うならば、せめて今からでも意識をして過ごしたいと思います(私は神でも仏でもパーフェクトな人間でもないので、『善き行い』が出来ている自信は持てない…)
『人権』や『子どもの人権』について考え、そして私が学生の頃の学校や先生方の言動や体制を改めて思い返してみると、度を超えた指導=人権侵害が横行していたと思います
❇︎
私が小学生の時の担任は、罰として(もはや何に対しての罰だったのか?そもそもそれは罰を受けることなのか?すら思い出せない昔のことだけれど)『ケツバット』と称して生徒のお尻を授業で使う巨大定規(だったかな?)でフルスウィングで叩かれました
中学でも掃除時間に同じ班の子たちと(少し)おふざけしていた所を目撃した担任が、班の全員に対してダブルゲンコツという両手でのゲンコツ(強烈な音と激しい痛みを伴う)を受けました
今思うと“よく病院送りにならなかったなぁ”と不思議に思うくらいのゲンコツで、正真正銘の体罰が罷り通っていました
中3の時の男性担任はセクハラ発言を平気でして、それに対し長い間怒っていた私の姿を様子見て「なっちゃんはなんで最近怒っているの?」と、自分の発言に全く気づかない・悪いことをしたなんて記憶すら無い状況でした
私の通っていた高校もかなり酷かった…
数学の時間…教師からの質問に秒で答えられなかったクラスメイトに対し更に圧力を掛け、授業が終わるまで起立させる…とか(完全にその教科担任の虫のいどころの悪さの当てつけで、パワハラ+虐待に値する)
世界史の教師は教科書を忘れた私と、教科書を貸してくれた隣のクラスの友だちをビンタ
忘れ物をしたのは私
もちろん“今度から気をつけよう!”と猛省しました
でも忘れたことで授業が大混乱するワケでも無く、教師にもクラスメイトにも直接的に迷惑をかけたワケでもない
教科書が無くて困るのは私(教科書を快く貸してくれた友人にはとても迷惑をかけてしまい、理不尽な体罰を受けさせられて心底申し訳なかった)
コレのどこに罰を受ける要素があるの?
100歩譲って忘れた私が罰を受けても、『連帯責任』という名でビンタをされた友人の行為と心情は罪なの?
一体どこが連帯責任なの?
友人の行為は『忘れた罪人の幇助』になるとでも?
私はこういう“全体の和を見出すな‼︎”的な名目の下の、理不尽な全体主義や連帯責任がとてもとても苦手
でもね、よーく周りを見渡してみて
今でもこういう光景が“普通に”ありませんか?
破綻した理論と体罰のセット
そして『1人の責任はみんなの責任』という戦前戦中のような状況が
学校でも、部活でも、習い事の場でも…
「私は絶対にこんなことをしない!」と思い込んでいるワタシもアナタも…
そして根本的に変えられないことへの蔑視もしていませんか?
肌・髪・髪質・瞳の色・血液型(特に血液型で性格を判断すること←日本人の多くが自他問わず無意識に行う差別の一つであり、海外ではそもそも血液型に対して必要以上に意識をする習慣がなく、重ねて“プライバシーに触れることなので、そこを話題にすることは逆に良い印象を持たれません)・障がい・身体の形状・その人の性自認・人種・種族といったモノや(特に肉体・身体的なモノ)、国籍・信仰の自由など…
子どもの時から赤毛だった私は(不思議なことに20代を過ぎてから自然に黒くなりましたが)通っていた高校で『赤毛登録=私はカラーリングをしていません、元から赤毛です。』なるモノをさせられました※元から赤毛の子たちは私以外にも勿論いたから、その子たちも謎のルールを強いられた
要は“校則違反をして風紀を乱す『カラーリングをした人とは違います証明』をさせられたワケです
ではカラーリングではないことを証明するって、どうすると思います?
なんと!子どもの頃の写真を
その風紀の担当教師に
見せに行くんです‼︎‼︎
明らかな身体差別ですよね?明らかなルッキズムですよね?
私は理不尽さに対して割と立ち向かうタイプの生徒だったので(^_^;)その担当教師に「自分の髪が元から赤いだけでこんなことをさせられるなら黒に染めてきましょうか?因みにその場合のカラーリングは校則違反になるのでしょうか?」と、嫌味という名の質問をしたところ←今思うと“オマエ、怖いモノ知らずやなぁ”とちょっと気恥ずかしく思うのですが「そうやな!」と私を睨みながら言った体育教師…Mr.O、今でも覚えてるで(怒)
信じられないでしょう?
でもね、こんなことが罷り通っていた私の学生時代+私の通っていた学校と教師たち
『生徒の人権』なんて学校も先生方も到底持ち合わせていないだろうと思われることばかり
そう、
子どもや生徒に人権が存在することを理解していない大人って、相当数いました
だからこんなことが普通に行われていたのです
では2023年の今は…?
もちろん、そうではない先生方や学校は存在すると思いますし、そう思いたいです
❇︎
7/25(火)に配信されたサポシーのYouTubeラジオ
シリーズ『在英歴20年以上のYukiちゃんに子育て・教育・意識・サポートについて聞いてみた!』その③ では、『教育現場での多様性』をテーマにYukiちゃんに語ってもらいました
特にこの回は必聴回なので
ぜひご視聴ください
多様性を考える時、同時に考えなくてはいけないことは『人権』
『多様性を認めること』と『人権』は1セット
今、簡単に口にされている『多様性』に実は『人権』が 1セットだと気づいた人は、そう安易に『多様性』を語ることは出来ないと思います
何故ならば『その人の存在』『その人の命』『その人の人生』が関わっているから
そしてアナタもワタシも『その人を排除しようとしていないか?』『自論は正論と思い込んでいないか?』『自論で他者を強制・コントロールをしようとしていないか?』ということに直面すると思います
そうすると、そう容易に誰かのことについて語ることはでき辛くなる
必ず一呼吸置いて『考える一手間』が生まれる
そうです、それが『当たり前』なのです
誰かの人権を侵害していないか?
誰かのプライバシーを一方的に晒していないか?
リアルでもSNSでも
だからワタシタチはもっと『人権』について深く、広く、考えなくてはいけないと思うのです
そして子どもさんにも、学生さんにも人権があるのだ、ということを私たち大人は充分に理解をし、行動に移さなくてはいけないと思います
【余談】
私は鍵盤レッスンの際にフォームの指導で生徒さんの身体に触れる時、また女の子の場合髪の毛が視野に入って不快なのでは?鍵盤や楽譜が見辛いのでは?と思う時、「髪の毛を触るよ。(触っても良い?)」「指、触るね。」と生徒さんに必ず声掛けをします
中には身体に触れられることが苦手な生徒さんがいらっしゃるので、その声掛けは予告の意味も兼ねていますが、基本、
アナタの身体はアナタのモノ
ワタシの身体はワタシのモノ
なのです
そして触れる・触れないに対してOK / NG(又はYES / NO)の意思表現はアナタの自由であり、アナタが決めるべきことなのです
隣や目の前の誰かが勝手に決めることでは無く、場合にやっては『双方で話し合って決めること』が求められます
『話し合う』というと少し堅苦しい感じもしますが、『お互いが納得し合える点を見つけだすこと』は、カジュアルなコトから重要なコトまで共通します
特にその人のパーソナルスペースに接触する時に一言添えることは、その人を尊重する行為の一つと私は考えます(危険を予測した際の突破的な行為は別として)
性教育で言うとプライベートゾーンに接触する時にも該当しますよね
その人の存在を大切に思う
『音楽教室』という小さな社会の中でその人の存在を大切に扱うことは、レッスン以前の基本だと思っています