2023年6月22日参拝。
國學院大學博物館で見たい企画展があったので、その前にお参りさせていただきました
國學院大學神殿
JR、東京メトロ、京王、東急・渋谷駅C1出口より徒歩10分。
【バス】
渋谷駅B7出口 東口バスターミナル・54番乗り場より
都バス23区【学03】日赤医療センター前行「国学院大学前」下車すぐ。
博物館へは、過去に2回訪れていて、今回が3回め。
前回訪れた2021年11月に神殿へもお参りしていますが、記事にはしていませんでした。
(2021年11月に撮影した写真も含まれます。)
國學院大學・渋谷キャンパス正門を入って、すぐ右手に鎮座しています
狭い神域なのですが、緑も豊富で、キャンパス内とは思えない静けさ。
キリッと引き締まった空気が感じられます
「國學院大學」の起源は、明治15年(1882年)に創立された「皇典講究所」です。
元は、麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)にありました。
当初は神道・神社などに関する研究・教育機関でしたが、教育制度の充実に伴い、神職養成機関としても機能していくことになりました。
明治23年(1890年)、「皇典講究所」を母体として、国史・国文・国法を攻究する教育機関「國學院」が誕生し、大正8年(1919年)に「國學院大學」と改称。
翌・大正9年(1920年)、大学令により正式な大学に昇格しました。
大正12年(1923年)、渋谷の「氷川裏御料地」に移転・新校舎が完成し、
昭和5年(1930年)、「國學院大學」の鎮守として神殿が建立されました。
参道右手に手水舎
水盤
水の流れる音だけが心地よく響いていました
参道は真っ直ぐではなく、ほんの少しだけ左に折れています。
鳥居。
土間拝殿
空気がしっとりとして、カラーとモノクロの中間みたいな世界です
こちらは2021年11月撮影
日が当たって陰影のある感じもまた美しい
拝殿・幣殿は、平成5年(1993年)の第61回神宮式年遷宮による撤却古材(外宮御正殿の一部・板垣壁板)を拝受して、平成7年(1995年)に竣功清祓式を斎行しました。
【主祭神】
天照皇大御神
【配祀】
天神地祇八百万神
年間20回を超える祭儀が行われ、「歳旦祭」「天長祭」「建国記念祭」など全国の神社と同様に執り行う祭儀はもちろん、学生を中心とした「入学奉告祭」、「卒業奉告祭」など大学独自の祭儀もあります。
ご本殿
飯田橋から現在の渋谷キャンパスに全学移転したのを機に、明治・大正の実業界の元老として活躍した和田豊治理事の寄付を受けて建設されました。
和田氏は創立以来、校地に神殿がないことを遺憾とし、学神を鎮祭する神殿建立を希望して、その費用を寄付したのですが、渋谷移転直後に関東大震災が発生。神殿着工は大幅に遅れ、和田氏は神殿のご鎮座を目にすることなく亡くなられたそうです。
きっと、御祭神とともに和田氏も見守ってくださっていることでしょう
昭和5年(1930年)4月30日に神殿祭・鎮座祭を斎行し、翌5月1日に御鎮座奉祝祭を斎行しました。
以後、5月1日に大祭として「神殿鎮座記念祭」を斎行しています。
屋根の千木は外削ぎ、鰹木は3本(奇数)です。
「國學院大學」は、全国で2つしかない神職を養成する機関としての役割を持つ大学であることから、神殿や祭祀が持つ意味も特別なものです。
もう1つは、三重県伊勢市にある「皇學館大学」ですが、学内に神社はなく、伊勢神宮と密接に繋がりを持っています。
皇大神宮別宮・倭姫宮のすぐそばにあり、私も昨年伊勢を訪れた際、キャンパス内を歩きました
「皇學館大学」は、「皇典講究所」と同年に設立された「神宮皇學館」が前身で、当初は神宮神官の子弟のための教育機関でした。
ご本殿の右手に神饌所。
「國學院大學神殿」では、中心となって奉仕をするのが、神職資格を持つ教職員の中で、理事長から命を受けた神殿奉斎員と祭儀員です。
祭祀では学生たちも奉仕します。
「瑞玉會(みづたまかい)」という長い歴史を持つ伝統のサークルがあり、作法や雅楽、舞などの稽古に取り組み、日々の神殿の清掃や祭儀の準備、祭儀員の補助、雅楽、舞人などで奉仕しています。
参道石畳脇の玉砂利は、美しく掃き清められていました
元々社殿(建物)は、神様のためのものではなく、人間のためのもの。
壁がなく風が吹き抜ける土間の拝殿は、自然(神様)と一体化しているような気分になれるので好きです
拝殿から鳥居方向を振り返ります。
向こう側に校舎があるとは思えないほど、静かな空間です
神奈備川(かんなびがわ)
平成21年(2009年)、渋谷キャンパスの再開発事業の一環として、前庭に、神殿左脇の井戸水を利用した清らかな流れを造り、「神奈備の森(千年の森)」が構築されています。
この流れを渡って神域へと向かうことが出来るのです
正門を出て、道路を挟んだ向かい側に
國學院大學博物館があります。
5月20日(土)から7月9日(日)まで、
企画展『祓(はらえ)~儀礼と思想~』が開催されています。
現在神社では、祭祀の前には祓(はらえ)/修祓(しゅばつ)が行われ、毎年6月と12月には、全国各地で大祓(おおはらえ)が行われます。
「祓」は、古代から現在に至るまでどのように変化して来たのか。
「祓」の儀礼・用具・思想の歴史を、この図録を基に整理してみたいと思います
『神拝詞』も購入しました。
『大祓詞』とは…
6月と12月末日の大祓式の他、各種の祓や神前での奉仕の際に、罪を解き、清浄を期す目的で広く読み上げられる詞です。
『祓詞』とは…
「修祓」に際して奏上する詞。
祭祀に先立ち、神職以下の奉仕者・参列者、神饌・幣帛・玉串などの品々、祭祀に用いる祭具を対象に、その清浄を期すための行事。
祓を司る「祓戸大神等」に対して、禍事(まがごと)と罪穢の祓い清め(払拭)のみを願うという行事の目的から、端的で簡潔な文章となっています。
【「祓」とは】
悪いものの除去を期した神事儀礼で、祭祀とともに神道の中核にある儀礼。
祓で用いる具(=祓具)も、目的や形式に合わせて変化してきました。
【「祓」の起源】
神話の時代、スサノオが高天原で犯した罪は「天つ罪(あまつつみ)」と呼ばれ、稲作🌾や祭祀を妨害する行為でした。
罪の代償として、スサノオに多くの祓物を差し出させて贖罪を科し、天上から追放したことが「祓」の起源です。
スサノオが高天原を追放される際、「千位置戸」を差し出した(払い)だけでなく、髪の毛を剃り、手足の爪を剥がれています(身削ぎ)。
払い=祓
身削ぎ=禊
つまりスサノオは、この「禊祓」により変貌を遂げ、出雲国でヤマタノオロチを退治してクシナダヒメと結婚し、英雄となったのです。
《古代》
罪科(つみとが)の解除が目的。
罪を贖う(あがなう)対価として、麻や貴重品など様々な祓物を差し出しました。
《平安時代》
罪の解除や穢汚を払拭して清浄を期すことが目的。
様々な祓具が用いられるようになりました。
大麻(おおぬさ)・切麻(きりぬさ)
解縄(ときなわ)・散米・人形(ひとがた)
菅貫(すがぬき) など。
ちょうどフラフープくらいの大きさですね
朝廷では、毎年6月と12月の末日に、官人たちの半年間の罪を除くために行った「大祓」がありました。
『古事記』には、仲哀天皇が神の怒りを受けて崩御した後に、国家を挙げて「大祓」を行った記述もあります。
弘仁年間(810~824年)に、道教由来の人形(ひとがた)を使う「東西文部の祓」と、麻で罪・穢れを除く中臣・卜部の伝統的な祓を一体化させた、天皇のための祓である「御贖(みあが)」が恒例化します。
祓具としての人形と麻の組み合わせが成立し、10世紀以降、貴族以下の個人を対象とする「陰陽道祓」として急速に普及すると、祓の用具は多様化していきます。
『親信卿記』に木・鉄・錫製の人形が登場したり、『源氏物語』には人形を船に乗せ海に流す様子が描かれています。
【『六月晦大祓』と『中臣祓』】
神道には教典はありませんが、祓で用いられた『中臣祓』『六月晦大祓』『大祓詞』の注釈を通して、数多くの神道思想が述べられてきました。
●『六月晦大祓(みなづきのつごもりのおおはらえ)』
朝廷の公的な大祓の儀式で用いられた、官人などに対して読み上げた形式。
末尾は「~諸聞き食へよと宣ふ」と
【宣読体】で、上位から下位へと告げる意味の言葉です。
●『中臣祓(なかとみのはらえ)』
陰陽師や僧侶・神職が私的な祓や祈祷で用いた、祓戸の八百万の神々へ祈願を奏上する形式。
末尾は「~聞し食せと申す」と
【奏上体】で結びます。
現在、多くの神社で用いられている『大祓詞』も【宣読体】と【奏上体】の2種類があります。
前述のように、平安時代中期、個人の祈祷を行っていたのは陰陽師です。
「穢れ」に接触した状態で祭祀を行うことは神の祟りをまねくとされ、神職は「穢れ」に対する「祓」に積極的に関わることが出来ませんでした。
これは、「祓」が【罪を贖う儀式】から【穢れを除く儀式】へと変化していったためです。
現在「祓」は、神職が心身に付着した「穢れ」を祓い、清浄を期すために行うものと認識されていますが、神職が広く祓を行うようになったのは、平安時代末期以降のことでした。
《中世》
中世以降「御祓」は、効験を得ようと千度や万度といったように複数に及ぶようになりました(数祓)。
『吾妻鏡』には、源頼朝が平氏政権に対して伊豆で挙兵する前日に、一千度の御祓をしたいう記述があります。
やがて様々な秘伝が形成され、『中臣祓』の新たな註釈や、「清浄」についての神道思想が成立します。
室町時代後期には、吉田兼倶が「唯一神道」を作り、江戸時代に広く流布しました。
【心の清浄】
古代の神々は人間の外部にあり、「祓」も犯した罪を贖うものであって、心の不浄を払うものとは位置付けられていませんでしたが、
中世になると、人間の心に神が宿るとされ、「正直」などの道徳を守ることや「心の清浄」が重視されるようになります。
『中臣祓訓解』では、心は神の居所であるとし、神職が「清浄」を重視すべきことを説いています。
これは、「祓」が外的な罪や穢れを除去するのみでなく、人間の内面も清浄にするものであることを意味しています。
これが伊勢神宮の神職たちにも受け入れられ、外宮神職・度会氏によって形成された「伊勢神道」にも大きな影響を与えました。
《近世》
吉川惟足による「吉川神道」では、
「祓」とは「内(心)」と「外(体)」をそれぞれ清浄にするもの、と説いています。
ちなみに「度会神道(伊勢神道)」では、
「外清浄」=潮をかき水を浴びて身に穢れたところのないもの。
「内清浄」=幣帛をも捧げず心に念じ祈るところのない境地。
としています。
私はこの「心に念じ祈るところのない境地。」という表現が好きです
そんな境地になってみたい
寛文5年(1665年)の「神道裁許状」の発給を通じ、吉田家の「祓」作法や『中臣祓』の本文が各地の神職に受容されます。
伊勢神宮の「御師」たちの活動も「祓」を普及させる要因となりました。
【神宮大麻について】
「大麻」とはお祓いに用いられる祓具。
神宮のお神札の名称の由来となりました。
伊勢神宮の御師が「御祓」と称する祈祷を行い、祈祷で用いた祓串を「お祓いさん」「御祓大麻」として全国に配っていました。
祓串が複数の場合は「御祓箱(おはらいばこ)」に収め、(「おはらいばこ」の由来です。)
単数の場合は和紙に包みましたが、包んだ和紙の形が剣先状のものを「剣祓」といい、神宮の神札の祖型の1つです。
剣祓(けんはらい)。
※伊勢神宮公式HPより。
伊勢神宮の授与所で見かけました
国学者たちの間では『六月晦大祓』を含む祝詞研究も行われ、大祓に用いられた祓詞は『大祓詞』と呼ばれました。
明治維新以降、近代的な神社制度が整備され、現在各地の神社で行われている「祓」や「大祓」の作法も整えられていきました。
神道史の研究が進むと、「祓」やそれをめぐる儀式・思想の研究も進められました。
「國學院大学」の前身「皇典講究所」の創立は、この動きとも密接に関わっています
平安時代には菅貫(菅抜)の輪の中を人がくぐっていましたが、
6月末日に行われる「水無月祓」では、社頭に大きな茅の輪が設置されるようになります。
茅の輪については、『備後国風土記』逸文の、茅の輪を腰につけて疫病を免れた蘇民将来の説話が由来とされます。
この説話に登場する武塔神は、牛頭天王の別名とされ、牛頭天王はスサノオと習合しています。
ここでも「祓」がスサノオに繋がりますね。
元来疫病除けの装身具であった茅の輪が広まり、夏の終わりの風物詩として定着していきました。
堅い話が続いたので、最後に…
【祓具の種類】
・大麻(おおぬさ)
茅(かや)を束ねて輪にした祓具。
参道に大きな茅の輪を設け、左・右・左と∞の字を描くよう3回くぐり抜けることで罪・穢れや災厄を祓います。
大変長くなりましたが、「祓」についてあらためて深く知ることが出来た上で、本日茅の輪をくぐり、人形に罪・穢れを移して、「内(心)」も「外(体)」も清浄にしたいと思います
長文の記事に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました