2023年4月13日参拝。
間に記事を2つ挟みましたが、「駒込天祖神社」と同日に訪れました
駒込富士神社
JR山手線・駒込駅南口より徒歩8分。
東京メトロ南北線・駒込駅1番出口より徒歩7分、本駒込駅2番出口より徒歩7分。
【バス】
JR山手線・駒込駅南口より
バス都バス23区【茶51】秋葉原駅前行「駒込富士前」下車 徒歩2分。
「駒込天祖神社」からは徒歩3分くらいです
文京区本駒込に鎮座します。
通称「駒込のお富士さん」
一の鳥居。
笠木からはみ出る大きな神額です
広~い境内です。
境内というより広場という感じ。
まっすぐ進むと、石段が見えて来ました。
左手に手水舎
水盤が2つ並んでいます
向かって左は、正徳年間丸山田町(本郷)の若者中、 右は、宝永四年霊岸島川口町の19名の奉納者名が彫られています。
「山開き大祭」の万燈奉納(※後述します)について『東京市史稿』によると、
毎年、霊岸島船松町と芝桜田備前町の2ヶ所から万燈の奉納がありましたが、享保2年(1717年)に奉納の途上で事件が発生以来1年交代で奉納するようになったとのこと。
お祭りだと若い衆はエキサイトしがちですからね。
2つある水盤も、同じような理由なのかも知れません。
御神木の榧(かや)。
注連縄に紙垂ではなく、注連縄がリボン結びになっていました
下浅間社(赤堂)。
「山開き大祭」の時のみ扉が開かれます。
中には厨子が安置されているそうです。
「駒込富士神社」は、元は旧本郷村にありました。
天正元年(1573年)に、旧本郷村名主だった木村万右衛門と牛久保隼人の2人が、木花咲耶姫命の霊夢を見て、翌・天正2年(1574年)に駿河国の「富士浅間社」を勧請したのが起源と伝わっています。
寛永5年(1628年)、この浅間社の社地が加賀藩前田利常の上屋敷用地となったため、屋敷の外の本郷本富士町に遷座、さらに翌・寛永6年(1629年)に現在地に遷座しました。
旧社地は後に東京大学構内となりました。
文京区本郷7-2-5には、本富士神社の小祠が現存しています。
本郷三丁目駅の目の前なので、機会を見つけて訪れてみようと思います
慶長年間発行の『慶長見聞集』には次のように記されています。
「神田山の近所本郷という所、昔より小塚の上に小祠一つ有りて冨士浅間立たせ給うといえども、信敬せざれば他人是を知らず。
然る所に近隣駒込と云う里に人有って浅間駒込へ飛び来り給うといって、塚を築き其の上に草の庵を結び御幣を立ちおきつければ、まうでの諸人群集せり。
本郷の里人は是を見て我氏神を隣へ取られうらやむ計り也。
今見れば駒込の社立直し朱の玉垣前に大鳥居立ちしよう殊勝に有って皆人これへ参る。
神は人の敬うに依って威を増すと云う事おもい知れたり、霊験あらたにおわしますと云うならわし、近国他国の老若貴賎みな悉く駒込の冨士浅間へ参詣し、六月一日大市立て繁昌すること、前代未聞なり。」
つまり、本郷にあった時は丁寧にお祀りしていなかったため、人の目に全く留まりませんでしたが、
駒込では塚の上に社殿を建てて、御幣を立ててお祀りしたので、お参りの人々で大変賑わいました。
それを見た本郷の人々が羨ましく思った、という内容です。
『御成敗式目』の
神は人の敬によりて威を増し
人は神の徳によりて運を添う
ですね。
大好きな言葉です
石段下の遥拝所
かなり急な石段ですので、年配の方には遥拝所は嬉しいと思います
港区「芝大神宮」にも石段下に遥拝所がありました。
社伝によれば、南北朝時代の延文2年(1357年)頃には、現社地には既に富士塚と呼ばれる大きな塚があり、
この塚は前方後円墳という説もあります。
戦前の社殿には、延文年間の北朝年号のある古碑があったとのことですが、戦災で焼失してしまい確かなことはわかりません。
前方後円墳と言われる富士塚には、
富士山から運んだ溶岩や、町火消の纏(まとい)を彫った石碑が数多く飾られています。
加賀藩・前田利常と関係のある、加賀鳶の奉納による献石もあります。
近世中頃から、江戸市民の間に「富士講」が多く発生し、旧5月末になると、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行いました。
そして、富士山の山開きには講の代参人を送り、他の人々は江戸の富士(富士塚)に詣でました。
「駒込富士神社」は氏子を持たず、町火消らによって構成された「富士講」の組織で成り立っていました。
江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」といわれるほど流行した富士講の中でも、当地には最も古いとされる講の1つがあり、町火消の間で深く信仰され、「富士信仰」の拠点の1つとなりました。
「富士講」の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」(=富士塚)が数多く数造られました。
文京区には、
・当社の「駒込のお富士さん」
・護国寺の「音羽の富士」
・白山神社の「白山の富士」
がありました。
明治の神仏分離後は、旧別当・瑞光院から独立し、「駒込天祖神社」宮司の元に氏子総代が出来て、兼務されるようになりました。
戦後新たに組織された富士講が当社を護持しています。
社殿は、富士山に見立てた富士塚の上にあります。
石段(男坂)を上ります。
かなりの急勾配
二の鳥居。
石段下を振り返ってみます。
拝殿
神額。
【御祭神】
木花咲耶姫命
社殿は戦災で焼失し、昭和36年(1961年)に現社殿が造営されました。
白い壁に竹のグリーンが綺麗
女坂を少し下りたところに、境内社があります。
右側からのほうがよく見えますね。
左から、拝殿・幣殿・ご本殿。
社殿の右手からも、緩やかに回りながら下りられます。
石碑にも「女坂」とありますね。
「丸瀧講」のマークです。
「丸瀧講」は、寛政から文化・文政、さらに幕末から明治にかけて広範囲な信仰圏を持ち、多数の講員を擁していました。
先達は、寛政7年(1795年)没の東行伊山です。
信仰圏は足立区・台東区などの下町東部に広がり、荒川区「素盞雄神社」の瑞光石のある富士塚も「丸瀧講」によるものです。
和光市白子や草加市谷塚など、埼玉県にも「丸瀧講」の築造した富士塚が現存しています
曽我御霊社。
「曾我兄弟の仇討ち」で有名な、
曽我兄弟をお祀りする小さな石の祠です。
建久4年(1193年)5月、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成 (十郎) と曽我時致 (五郎) の兄弟が夜に宿舎を襲い、父・祐泰の仇である工藤祐経を討った事件。
工藤祐経を討ち取った後、兄・十郎はその場で討ち取られ、弟・五郎は鎌倉へ護送される途中、首を刎ねられました
兄・十郎が22歳、弟・五郎が20歳の時でした。
昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、工藤祐経は、我が家の坪倉由幸さんが演じていましたね。
そう言えば我が家って全然見ないけど、坪倉さんは俳優になったのかな。
※歌川広重『曾我物語圖會』
この「曾我兄弟の仇討ち」を題材にした
『曽我物語』が成立し、「仮名本」は、能や歌舞伎などの題材として普及。
文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築きました。
「駒込富士神社」では、
毎年6月30日~7月2日に「山開き大祭」が行われます
手水舎のところで書きましたが、この「万燈回り」で使用する「万燈」の奉納をめぐって、2つの町会で揉め事が起こった、という訳です。
境内には3日間、屋台や子供向けの品を扱う店が出て大変な賑わいを見せます。
私も、この期間だけ拝受出来る縁起物がどうしても欲しくなって、再度行って来ました
2023年6月30日再訪。
参道には屋台がいっぱい
参道どころか、あのだだっ広い境内一面が屋台で埋め尽くされていました
「万燈回り」を終えた「万燈」が、二の鳥居手前の石段脇に安置されています。
紫の紋幕が掛けられています。
拝殿の右手のテント内で、この時期だけの縁起物が拝受出来るのです。
「万燈」が神社に戻って来るのが11時頃。その後、授与が始まるとのことです。
山開きの期間のみ、境内右手の社務所でいただけます。
【一富士・二鷹・三茄子】
初夢で見ると縁起が良いとされる「一富士・二鷹・三茄子」ですが、
一富士=「駒込富士神社」のこと。
二鷹🦅=徳川吉宗が当社周辺に置いていた鷹匠屋敷のこと。
三茄子🍆=良質で有名な名産物・駒込茄子のこと。
とする説があります
考えてみたら、神社巡りを始めてから、どこかしらの神社で山開きの縁起物を拝受するのは、これが初めてかも知れません。
しかも、駒込は私の産土の土地
麦藁蛇と麦らくがん、また来年も欲しいです
「駒込天祖神社」と「駒込富士神社」は、今後も折に触れてお参りしたい神社です
お知らせ
この記事を最後に、約1ヶ月間、夏休みをいただきます
所有している資格の更新のためのレポート提出があったり、暑くて外出をしない間に、何冊かの読みかけの本📖を一気に読んでしまいたいのです。
次回は、
8月11日(金)に更新します
皆さまも猛暑で体調を崩さないよう、くれぐれもご自愛ください
長文の記事を最後までお読みいただき、ありがとうございました