2023年1月18日参拝。
埼玉県川口市の神社のラストです
峯ヶ岡八幡神社
JR京浜東北線・川口駅東口より
【国際興業バス】峯八幡宮行「八幡坂」下車1分。
※バスの終点が「峯八幡宮」ですが、最寄はなぜか「八幡坂」。ご注意ください。
参道入口。
石段を5段上ります。
参道の両脇には石灯籠が並んでいます。
さらに石段を上ります。
鳥居。
鳥居の手前に狛犬
頭が大きく、眼が光っているよう
真っ赤な両部鳥居は、平成20年に造立されました。
長い参道はさらに続き、遠くに神門が見えます。
鳥居の神額。
鳥居の柱には、注連縄を掛けるための突起があり、八幡宮の紋「三つ巴紋」が見えます。
この時は真冬でしたが、新緑の季節だったらさらに美しい参道が見られたことと思います
参道左手に手水舎
コロナ禍で柄杓なしが当たり前になって来ましたが、やはり手水舎には柄杓があるのが良いですね
神門。
長い参道に神門、その奥に斎庭。
格式の高さを感じさせます
神門をくぐると広い境内。
「峯ヶ岡八幡神社」は、川口市大字峯に鎮座。
平安時代の末頃、武蔵の国司には、源経基や義家など、当時勢力のあった家柄の者が多く派遣されていましたが、地元荘園の領主たちが源氏に土地を寄進したりなど、次第に主従関係を結ぶようになりました。
このように勢力を拡張した源氏は、 東国の各地に氏神である八幡神社を建立し、主従関係にある者を氏子としました。
当神社もその1つで、社伝によると、 第61代・朱雀天皇の御代、天慶年間(938~947年)に、清和源氏の祖・源経基(つねもと)により、鎌倉「鶴岡八幡宮」の分社として創建されたと伝えられます。
源経基は、平将門が下総国岩井で乱を起こした際、将門追討の勅命を受け、武蔵国で幾度も合戦。
戦の最中に度々奇端霊夢を受け、ついに将門を滅ぼしました。
その霊夢のお告げにより、この峯の地に八幡宮を創建したのが「谷古田八幡宮」であり、現在の「峯ヶ岡八幡神社」とされています。
数々の源氏の武将に崇敬が篤く、前九年の役(1051~1062年)=奥州安倍氏の乱の際には、源頼義・義家父子が必勝祈願をし、
また、後三年の役(1083~1087年)=奥州清原氏の乱の際にも、源義家・義光の兄弟が必勝を祈願しています。
拝殿
【御祭神】
中央・応神天皇
右座・神功皇后
左座・仲哀天皇
神額。
拝殿は昭和39年に再建されたものです。
治承4年(1180年)、 源頼朝は平氏を討つため伊豆に挙兵し、当時、奥州藤原氏のもとにいた弟・義経も兄の挙兵に参加するため鎌倉へと赴きました。
『義経記』 には、途中「こかわぐち」 (現在の川口)の渡しで兵をあらためたことが記されています。
『鎌倉殿の13人』の、頼朝(大泉洋)と義経(菅田将暉)の初対面のシーン、懐かしいですね
江戸時代には、足立郡谷古田領32ヶ村(現在の川口市新郷・安行の一部・草加市西部)の総鎮守となりました。
ご本殿
ご本殿と瑞垣は、赤く彩色が施されています。
ご本殿は、元禄10年(1697年)に再建されたものを改修して現存しています。
拝殿・幣殿・ご本殿。
【僧形八幡坐像と胎内願文】
御祭神・応神天皇の御神体としてご本殿に祀られているのが、木造僧形八幡坐像です。
坐像は、2枚の檜材の寄木造りで、木造のしとね(敷物)の上に座し、高さ約24cm、肩幅約12cm、膝幅約25cmの木像彫刻。
袈裟をまとった僧侶の姿で、右手に錫杖(しゃくじょう)を、左手にはお経を書いた巻物を持ち、光背(こうはい)には金色の日輪が付けられ、像・台座ともに極彩色。
鎌倉時代、坂東武者は、八幡・鹿島・香取・諏訪などの武神を多く勧請しましたが、中でも八幡神社は、源氏の氏神でもあり、現在の関東地方一円に数多く勧請されています。
八幡様は神仏習合の先駆として、奈良時代より仏教の守護神として崇敬されてきたため、この時代、多くの僧形八幡像が造られました。
八幡様は本地垂迹説によると、阿弥陀如来の仮の姿とされることから、この坐像は、阿弥陀如来の形と見られています。
坐像は、胎内がえぐられ、頭部がはめ込み式になっていて、明治15年(1882年)、胎内から、約36点の願文や経文が発見されたとのこと
願文には、弘安5年(1282年)の元号があることから、鎌倉後期の造立とされています。
いずれの願文も、現世安穏・子孫繁栄・病気全快・極楽往生・勝利祈願など、切実な願いを記したものが多く、鎌倉時代の人々の熱烈な信仰心が伺える大変貴重なものです。
僧形八幡坐像と胎内願文は、ともに埼玉県指定文化財です。
末社をご紹介します
社殿左手に諏訪社。
【御祭神】
建御名方神(たけみなかたのかみ)
八坂刀売神(やさかとめのかみ)
その手前、社務所のすぐ右手に
稲荷社🦊
【御祭神】
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
神門を外に出て、参道右手に
御嶽社。
※御嶽社の前に参拝者がいらっしゃって、撮影を後回しにしたら撮り忘れてしまいました
画像は、神社公式HP(上)と三諸さんの記事(下)よりお借りしました。
その手前、同じく参道の右手に
須賀社。
【御祭神】
須佐之男命(すさのおのみこと)
社殿の右手には、樹齢600年を超える
御神木の大銀杏があります
当社に参詣した、若狭の八百比丘尼(やおびくに)がひと休みした後に、置き忘れた杖が根付いて成長したものと伝えられています。
【大銀杏伝説】
前述したように、この大銀杏には、新羅三郎義光が必勝祈願したと伝えられています。
※義光は、当社を創建した源経基の玄孫(やしゃご)です。
永保3年(1083年)、奥州陸奥国で、義光の兄・八幡太郎義家と清原一族との戦いである「後三年の役」が起こりました。
兄・義家が苦戦を強いられていることを京都で聞いた義光が、兄を助けに向かう途中当社に参籠し、戦勝を祈願しました
その際、御神木の大銀杏から2羽の白鳩が現われ、金色の幣帛に姿を変えて、兄が戦う奥州の方角へ飛び去ったのです
その後、兄弟で奥州での合戦の度に、その金色の幣帛が現われて空を舞い、合戦すべてに勝利することが出来たという伝説が残っています。
【乳銀杏】
枝や幹から乳房状の突起が垂れ下がっていることから、当地の人々は、この老木を「乳銀杏」と呼んでいました。
乳の出が良くなるという民間信仰があり、古くから信仰の対象とされて来たとのこと。
妊婦や授乳中の母親が、お乳の出が良くなることを祈願したと伝わっています。
『新編武蔵風土記稿』にも「銀杏の老樹あり」と記されているように、江戸時代以前より当社のシンボルとなっていたことがわかります。
大銀杏の根元には、15個の力石。
ご存じない方のために…
「力石」とは、楕円形の表面がなめらかな重い石で、江戸時代から明治時代にかけては、神社の祭礼において、力石を使用した力比べがごくごく普通に行われていました。
60貫目(225kg)・30貫目(112kg)・35貫目(131kg)といった力石があり、
この力石を持ち上げた人物の中には、江戸随一の力持ちと言われた三之宮(越谷市)出身の宇之助がいます。
地元の「久伊豆神社」(越谷市)や三之宮の「香取神社」だけでなく、「深川八幡」「川崎大師」「鶴岡八幡宮」「江ノ島神社」などにも彼の担いだとされる力石があるそうで、当時宇之助は、東日本を代表する力持ちとして広い地域で活躍していたことがわかります
余談ですが、我が「敷島神社」にも力石があり、最近では持ち上げた方の写真を掲示しています。
何度か来られて持ち上げている越谷市の消防士の方がいらっしゃるのですが、もしかして…越谷出身の宇之助に影響を受けているのかも
今度お会いしたら聞いてみようっと
八幡さまの化身
今年は本当に神社でよく猫に会います
「峯ヶ岡八幡神社」は、長い参道や立派な社殿、社叢など、どれを取っても格調高く、素晴らしい神社でした
緑の多い季節にぜひ再訪したい神社です。
長文の記事を最後までお読みいただき、ありがとうございました