2021年10月6日参拝。
楡山神社(にれやま)
~里人不入の地~
JR高崎線・深谷駅より2.5km。
バス便はありません。
私は前回の「熊野大神社」からそのまま自転車で来ました
1.5kmくらいでした。
社号碑。
一の鳥居。
屋根付きの立派な神額です。
『延喜式神名帳』武蔵国幡羅(はら)郡・四座の一。
式内社の「楡山神社」です。他に論社はありません。
手水舎
水盤は、涸れていました
鎮座地は、深谷市大字原郷。
古くは幡羅ノ郡(はらのごほり)と言っていたのを、近世に漢字を改め「原郷」としたそうです。
のどかな農村地帯で、神社のすぐ北を福川が流れ、利根川へと注ぎます
境内地を含めた福川の南側は、土地がやや高くなっています。
創建は、第5代・孝昭天皇の御代という伝承あり。
原郷から隣りの東方にかけて分布する木之本古墳群は、奈良時代頃のものと言われ、古くから拓けていた土地であることがわかります。
古くは郡衙(役所)の所在地で、八郷から成る幡羅郡の中心でした。
昔は神田が数十町もあったらしく、勢力のある神社だったと思われます。
神社の南西に「幡羅太郎館趾」がありますが、旧原ノ郷村は、平安中期の北武蔵の武将・幡羅太郎道宗が再興させた地域で、社名を「幡羅大神」とも称し、幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社と言われました。
源義家の奥州征伐の際に、道宗の長男・成田助高が当社に立ち寄り戦勝を祈願。
当社は成田家代々の崇敬が篤かったとのことです。
「楡山」の名前の由来は、昔から御神域一帯に楡の木が多く繁茂したことによるもの。
参道。これも楡の木なのかな
かつては境内の森の奥に塚があり、これを犯した者は災害ありと言われ、「里人不入の地」としたと伝えられています。
里人はこれを守り、また、鳥を神の使いとして尊ぶ慣習があります。
熊野信仰の八咫烏に繋がりますね
二の鳥居。
江戸時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理となり、熊野三社を勧請したため、「熊野三社大権現」「熊野社」と呼ばれました。
明治になり、郷社に昇格したのを機に、社号を「楡山神社」に戻しました。
狛犬(阿型)
鳩が豆鉄砲を食らったような顔です
拝殿
美しい瑞垣。
ご本殿
射し込んだ光がいい感じに映りました。
鮮やかな色彩の彫刻
大正元年に合祀されたという末社は、
主にご本殿の裏手に鎮座しています。
天満天神社。(通称:天神様)
【主祭神】
菅原道真公
【配祀】
市杵島毘売命・岩長比売命・木花佐久夜毘咩命
仙元山古墳に鎮座していた、富士浅間神社・小御嶽神社・市杵島神社と、荒神社の末社の天神社を合祀しています。
大物主神社。
【御祭神】
三輪大物主命・少彦名命
金刀比羅神社・怡母神社を合祀。
社殿はなく、石が積まれているのみです。
菱沼勇氏の「武蔵の古社」によれば…
「楡山神社」は、
【境内に古墳のある式内社】の中の、
【石槨の残っている式内社】に分類されていて、
『最初にこの地方の開拓経営にあたった土豪の霊を祀ったもののように思われる。
社殿の背後にかつては古墳があり、神社はここに葬られた人を祀ったのが起源ではないかという気がする。
ご本殿の後方すぐのところにある杉林の中に、石槨の一部と思われる石が数個組み合わされていて、その上に小祠が祀ってある。』
とありました。
モノクロの写真が掲載されていましたが、この石を積んだ祠に似ている気がします
手長神社。(通称:手長様)
【御祭神】天手長男命
天満天神社の境内社、荒神社の境内社、大雷神社の境内社、の手長神社を合祀。
この神社の境内にも、またぞろ「手長神社」が登場です。
大雷神社。(通称:雷電様)
【御祭神】
大雷神・伊邪那岐命・伊邪那美命
前回の「熊野大神社」同様、やはりご本殿裏手の境内社のエリアはとても気がよかったです
ですが、HPがちゃんとしている割には、境内に頻繁に人が訪れている気配は薄かったように思います
お読みいただきありがとうございました