2021年4月21日参拝。
この日は、東武東上線沿線の神社を巡りました。
今回も武蔵国の式内社です
横見神社(御所)
~吉見丘陵に鎮座する式内社~
東武東上線・東松山駅東口より
バス【川越観光自動車】免許センター行き「久保田」下車、徒歩25分。
社号碑。
鳥居。
とても低い位置に注連縄が掛けられています。
真新しい神額。
『延喜式神名帳』 武蔵国横見郡・三座の一「横見神社」に比定されています。
郡名の横見郡より「横見神社」と号しています。
横見郡の式内三社は狭い地域に集中していて、これは、当地一帯が朝廷から重視されていた証と言えます。
式内社というのは、一部には有力氏族の氏神というお社もありますが、
大半はその霊験の高さから、国家大事の際にその威力が期待されて列格しているから、とのことです。
手水舎が…ないです
社伝によれば、奈良時代の和銅年間(708年~715年)の創建。
吉見丘陵の東端部、麓の平地にあり、付近には、古墳時代後期の集落跡である稲荷前遺跡があります。
当社も古墳上に鎮座しています。
「御所」の地名は、平安時代から当地を領有した吉見氏の居館が築かれ、人々が「吉見の御所」と呼んでいたことに由来します。
吉見氏は、源頼朝の弟である源範頼の子孫であり、鎌倉時代の永仁4年(1296年)まで4代にわたって当地を支配していました。
中世になると、吉見氏が衰退。
以後は有力支配者が姿を消し、当地は名主などの有力農民の管理に移りました。
その混乱期の中、いつしか「飯玉氷川明神社」と称するようになりました。
「飯玉」は、
飯=炊いた米、玉=魂・霊の意味。
飯の魂=穀霊信仰を表しています。
『新編武蔵風土記稿』によれば、
久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井の8ヶ村の鎮守でした。
慶長年間(1596~1615年)に、大洪水で流失し、横見町久保田に流れ着きました。
久保田には現在、同名の「横見神社」があります。
※後半でご紹介します
明治になって旧社号の「横見神社」と改め、明治5年、御所稲荷塚古墳上に末社・稲荷社を遷座。
明治7年郷社に列格しています。
神橋(太鼓橋)を渡ります。
神橋の先は若干ですが、丘のようになっていて、空気が変わりました
拝殿
【御祭神】
建速須佐之男命
櫛稲田比売命
創建当初からの御祭神かどうかは疑問です。
「飯玉氷川明神社」の頃には、倉稲魂命も合祀されていました。
ご本殿の覆屋
ご本殿は、さらに一段高くなっています。
拝殿とご本殿覆屋は繋がっておらず、いったん外に出る形です。
『武蔵の古社』の中で菱沼氏は、もとはもっと大きい古墳だったであろうと言っています。
現在は上部や周囲が相当削り取られて原型をとどめていないが、もともとは、この古墳の被葬者を対象として祭祀が行われていた形跡がある、とのことです。
境内社は、小さな石祠が片隅に1社だけ。
三峰神社。
【御祭神】
伊弉諾尊・伊弉冉尊
参道の右手には、参集殿を兼ねた立派な社務所。
地域の公民館のような雰囲気ですね
鳥居を出てすぐ、境内の西側に、
御所稲荷塚古墳があります。
稲荷神社🦊
【御祭神】倉稲魂命
社号を「飯玉氷川明神社」から「横見神社」に戻した時に、合祀されていた稲荷社をこちらに遷しました。
稲荷塚古墳の保持のために建立されたと伝わっています。
横見神社&稲荷神社(稲荷塚古墳)を遠望
慶長年間に大洪水で流れ着いたという、横見町久保田の「横見神社」へも行ってみます。
徒歩で30分くらいです。
のどかな田園地帯をのんびりと歩きました
横見神社(久保田)
東武東上線・東松山駅東口より
バス【川越観光自動車】免許センター行き「久保田」下車、徒歩7分。
参道には雑草が伸び放題で、管理は行き届いていない感じがします
鳥居。
こちらには水盤がありました。
水盤も流れ着いたのかな
水栓の周りがぐるぐる巻き。
長いホースの先から水は出たかも知れないけれど、なんか怖いのでやめておきました
御所の横見神社に比べて、こちらは参道が長く境内も広いです。
『新編武蔵風土記稿』によれば、慶長17年(1612年)の夏の洪水で、御所の横見神社が当地に流れ着いたために祀られたのが始まり。
(『武蔵国郡村誌』では、建長年間(1249~1256年)の洪水の際に漂流したとされています。)
流れ着いた御神体を、貴い神の来臨と考えて祀り、洪水被害を受けた村の復興と豊作を祈願したとのこと。
当地に鎮座していた愛宕社を末社として、御所の横見神社の旧称に倣い、もとは「飯玉氷川明神社」と称していました。
慶長年間の創建ならば、御所の横見神社の由緒と一致します。
建長年間にしても、慶長年間にしても、『延喜式』以降のことなので、当社は式内社ではあり得ません
明治4年、村社に列格したのを機に、
明治初年に改称した御所の横見神社に倣って、社号を「横見神社」と改称しました。
菱沼氏は、洪水のことにも、流れ着いたとされる久保田の横見神社のことにも、一切触れていませんでした。
なぜか手水舎のない御所の横見神社は、手前は公民館と広場のようだけれど、太鼓橋を渡った先の小高い古墳部分は、突然気が変わりました
久保田の横見神社は、荒廃していたけれど、同じく小高い丘の上に鎮座する地主神・愛宕神社の気がとても良かったです
流れ着いた御神体を横取りして「横見神社」を名乗ったりせずに、そのまま「愛宕神社」のままではダメだったのかな…
と思いました
お読みいただき、ありがとうございました