2021年3月11日参拝。
東武東上線沿線の神社巡りの続きです
出雲乃伊波比神社
~洪水で古資料が失われた式内社?~
東武東上線・男衾駅より徒歩13分。
社頭です。道路を挟んで撮影
大鳥居。
笠木がめちゃめちゃ大きい木製鳥居です
社号碑。
社号は「出雲乃伊波比神社」。
「乃」が入ります
鳥居の神額にも、立派な屋根が付いています
文字は消えてしまって読めません。
『延喜式神名帳』武蔵國男衾郡・三座の一、「出雲乃伊波比神社」の論社。
もう1つの論社は、
熊谷市板井にある「出雲乃伊波比神社」です。
境内は、さほど広さはありません。
右手に手水舎
水盤に水はありませんでしたが、
蛇口を捻ると少しだけ出ました
雰囲気の良い境内です
創建年代は不詳。
古くは川本町畠山(現在の深谷市)に鎮座していたと伝えられています。
天喜年間(1053~58年)、前九年の役の際、源頼義が陸奥国へ向かう途中、当社に戦勝を祈願し、白旗を献上しました。
その際「白旗八幡社」と改称したとのこと。
弘治3年(1557年)に赤浜村下河内の八幡塚に移転し、「赤浜の八幡さま」と呼ばれるようになりました。
さらに天正8年(1580年)、度重なる荒川の大洪水により、集落一体の大移動と共に、30mほど標高の高い現在地へ遷座しました。
この洪水により、古資料は滅失、社史の詳細は不明となってしまいました
旧地・八幡塚の南には、飲み水を湧出し、氏子の喉を潤し疲れた身体を癒していた「宮乃井」という井戸があったそう
土地改良整備事業によって存在が忘れ去られようとしているため、記念碑が建てられているとのことです。
この「宮乃井」も見に行こうと思いましたが、調べても場所が特定出来ず、諦めました
明治になり王政復古を機に、伝統ある旧号の「出雲乃伊波比神社」に改称しましたが、今でもなお「八幡さま」の通称のほうが広く知られているそうです。
明治40年に、近隣の無格社10社を合祀して現在に至ります
明治時代になって、元の名前に戻したとのことですが…
古資料が洪水で流失し、社史の詳細が不明となったのに、何を根拠に今の社号に変えたのでしょう
延長5年(927年)に完成した『延喜式神名帳』に載っている「出雲乃伊波比神社」が、当社だという証拠もないと言うことですよね
狛犬は、正面を向きながらも、顔だけ内側を向いています。
珍しいスタイルですよね。
拝殿
【御祭神】
須佐之男命
【配祀】
三穂津姫命・誉田別命(応神天皇)
天児屋根命・天太玉命
天穂日命・大己貴命
【合祀】
天照皇大神・軻遇突智命
配祀神の三穂津姫命は、
『日本書紀』の葦原中国平定の場面で、第二の一書にのみ登場する神です。
大己貴神が国譲りを決めた後、高皇産霊尊が大物主神に対して、
「そなたが国つ神を娶るのなら、私はまだそなたを疑ってしまうから、私の娘の三穂津姫をそなたの妻としよう。」
と言いました。
つまり、
高皇産霊尊の娘で、大物主神の后です。
三穂津姫命については、また近いうちに
そもそも、「出雲乃伊波比神社」って
なんだか胡散臭い名称ですよね
『延喜式神名帳』に記載の、武蔵国式内社の中には、
入間郡に「出雲伊波比神社」
横見郡に 「伊波比神社」
男衾郡に 「出雲乃伊波比神社」
があるのです。
『武蔵の古社』の中で菱沼氏は、
『入間郡宮寺で天穂日命を祀っていた出雲祝氏の一族が、入間川を下り移住し、同じ氏神を祀ったものが横見郡の「伊波比神社」。
そして、和田吉野川を遡り落ち着いて、やはり同じ氏神を祀ったものが男衾郡の「出雲乃伊波比神社」ではないか。
当時の武蔵国司が「出雲伊波比神社」と区別するため「伊波比神社」とし、
さらに二社と区別するため「出雲乃伊波比神社」としたのではないか。』
と言っています。
なるほど良い名前は先に取られちゃってて、仕方なくということか
そして、そのそれぞれに論社がいくつかある…ややこしいです
書き置きですが、神社の西側に隣接する宮司さんのお宅でいただけます。
対応時間は、10時~16時で、事前の電話連絡が必要とのこと。
私は事前、というより直前の電話でしたけど、快く応対していただきました
菱沼氏は、当社については、
『その社域には古社らしさはまずみとめられない。証拠となるような社伝や古文書も残っていない。
よって、式内社であるとは考えられない。』
としています。
私は、雰囲気は悪くないと思いましたが…
宮司さんのお宅と地区の集会所に挟まれた、あまりにも規模の小さい境内でした
東上線沿線であることから、こちらへ先に来てしまいましたが、熊谷にあるもう1つの論社へも行って来ます
次回は、この神社から徒歩3分くらいにある「小被神社」をご紹介します
【参考文献】
●「武蔵の古社」菱沼勇 有峰書店
●神社検定公式テキスト⑩「神話のおへそ『日本書紀』編」 神社本庁 扶桑社