【埼玉県・入間郡毛呂山町】出雲伊波比神社 | 鳥居の向こう側

鳥居の向こう側

埼玉県・東京都・千葉県・神奈川県の神社を中心に巡り、ブログを書いています♪

2021年3月11日参拝。


県内・東武東上線沿線の神社巡りをしましたおねがい



出雲伊波比神社神社

~臥龍山上に鎮座する格調高い式内社~




表参道入口社号碑



電車JR八高線・毛呂駅より徒歩4分。
電車東武越生線・東毛呂駅より徒歩8分。

八高線・毛呂駅から来ると、こちらの表参道から入ることが出来ます。


参道入口に鳥居はなく、注連柱のみ。
幅の広い、緩やかな上り坂です。



上って行くと、突き当たりに忠魂碑が見えました。



その左になだらかな石段が続きます。
参道がクランクになる形です。



石段を上り切ると右へ折れます。



そしてまた少し左へ。
長い長い石段も好きですが、こういうつづら折りの参道もまた大好きです爆笑



突き当たって左を向くと、少しの石段の先に鳥居が見えました。



少し進むと、鳥居の中に、鳥居と拝殿が見えます。



一の鳥居



「出雲伊波比神社」は、毛呂山町のほぼ中央にある、小高い臥龍山上に鎮座しています。
町の中央にあるということは、神社を中心に町が形成されたことを意味します。
「臥龍山」の名は、遠くから見ると龍が伏しているように見えることに由来するそうです龍

古くは出雲臣が斎祀する社でした。
神社に伝わる「臥龍山宮伝記」によると、
第12代・景行天皇の53年(123年)に、日本武尊が東国を平定し、凱旋した際この地に立ち寄りました。
この時、王権の象徴として天皇から賜った「比々羅木の鉾」を御神体とし、
侍臣・武日命(大伴武日)を祭主に命じて、出雲の開拓祖神である大己貴命を祀り、創建されました。

この「比々羅木の鉾」は、今もご本殿内に安置されていて、東北鎮護という意味から穂先は東北に向けられているとのこと。

また、第13代・成務天皇の御代に、出雲臣初代武蔵国造・兄多毛比命が、祖神である出雲の天穂日命を合祀、「出雲伊波比神社」としたとされています。
 
「出雲伊波比」=「出雲の神を斎う」という意味です。

緑文字については、後述します。


【11月20日加筆】
戸矢学氏の最新刊『ヤマトタケル~巫覡の王~』に当社に関する記述がありました。

『景行天皇43年にヤマトタケルはすでになくなっているため、誤認もしくは創作であろう。
元は出雲系の人々が移住して開拓した地域であり、ヤマトタケルによる創建ではなく御祭神の変換による教化であろう。
臥龍山の山頂に鎮座していることから、この土地の氏祖神の陵墓であり、古くからの信仰をともなう聖地であったのだろうと思われる。』

とのことです。




手水舎アセアセアセアセ
簡素な建屋に「洗心」と書かれた額が掛かっています。


水盤には文字は無し。
残念ながら水は出ませんでしたぼけー



『延喜式神名帳』の武蔵国入間郡五座の筆頭にあげられていますが、論社は他に3社あります。

①入間市「出雲祝神社」 
②所沢市「物部天神社」に合祀  
③川越市「川越氷川神社」 

『延喜式神名帳』に記載の名称「出雲伊波比神社」を、そのまま社号にしているのは当社だけです。


二の鳥居



中世から江戸期にかけては、「飛来明神」「茂呂(毛呂)明神」などと称し、氏子の間では「明神さま」と呼ばれるようになっていきました。
慶安元年(1648年)には、「飛来明神社」として社領10石の御朱印状を受領。

明治になって、古来の「出雲伊波比神社」に改称します。

明治40年に白山神社・稲荷神社・愛宕神社・古宮神社・神明社・水尾神社・鈿女神社・山神社・菅原神社・愛宕神社・八坂神社を合祀しました。


『武蔵の古社』の中で菱沼氏は、
「飛来明神を改めて出雲伊波比神社としたもので、社伝などにも式内社であった伝えも証拠もない。
地理的にもやや開け過ぎていて、古くから集落があって農耕に従事していたとは思いにくい。
中世毛呂氏の氏神として有勢であったらしく、社殿は清楚古雅なる建築である。」
と、神社の素晴らしさには触れていますが、式内社であることには否定的。
入間市・「出雲祝神社」を推していますにやり


二の鳥居をくぐった先はさらに一段高くなり、玉垣に囲まれた神域です。



拝殿乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ



【御祭神】
大名牟遅神(大国主命)
天穂日命

【合祀】
須勢理比売命・息長足姫命・豊受姫命
菅原道真公・迦具土神・素盞嗚命
建御名方命・大山咋神・少彦名命
上筒男命・大日孁貴命・天鈿媛命
伊弉諾命・伊弉冉命・誉田別命
高龗神・大雷神


神額
「出雲伊波比」の「比」の字が、△を2つ並べたような独特の書体ですキョロキョロ



賽銭箱や拝殿の扉には「五七の桐」




向拝下の海老虹梁にも、細かい彫刻が施されていましたびっくり



【天穂日命について】
「アメノホヒ」の
「ホ」=秀・穂
「ヒ」=火
「生命力が火のように燃え盛る秀でた稲穂」を意味する神名です。

「誓約」の時にスサノオが、アマテラスの身につけていた八尺瓊の五百箇御統(勾玉)を噛み砕き、口から霧のように吹き出した息の中から生まれた神。
勾玉はアマテラスの所有なので、五男神を「吾が児」として養育します。
その五男神の2番目の子が、天穂日命です。

「天」と付くので「天つ神」ですが…
高天原から出雲に派遣されておきながら、出雲側に寝返った神です。

天孫降臨の前の大己貴神との交渉に、1番最初に遣わされますが、地上に留まって戻らず、後に大己貴神を祀る斎主キラキラに任命されます。
出雲臣(出雲国造)・土師連等の祖神です。

記紀では、役目をサボる、意志の弱い不忠義者のイメージで描かれていますが、
『出雲国造神賀詞』には、
アマテラスから地上の悪神を鎮める役目を命じられ、息子・アメノヒナドリとフツヌシを派遣し、地上の乱れを平定した、きちんと使命を完遂した功績ある偉大な神として描かれています。

島田裕巳氏は、
「出雲国造のあり方は天皇に近い。
天皇家の祖先神=天照大神。
出雲国造家の祖先神=天穂日命。」
と言っています。




【大伴武日について】
大伴連の遠祖
第11代・垂仁天皇の御代に、五大夫(まえつきみ)の1人として、神祇祭祀の詔を受け、倭姫命の天照奉斎を助けました

当社の由緒にもあるように、吉備武彦などとともに、ヤマトタケルの東征軍に加わったとされますが…

『古事記』では、ヤマトタケルに従軍したのは吉備武彦のみ。
『日本書紀』でも、大伴武日の具体的な行動については一切触れていません。

「壬申の乱」で近江朝廷を滅ぼし即位した天武天皇が編纂を命じた『日本書紀』の性格を考えると、
ヤマトタケルの東征で活躍したとされる大伴武日の姿は、「壬申の乱」で活躍した大伴馬来田・大伴吹負兄弟がモデルとされた可能性が高い、という説もあります。
 
大伴武日は、大伴氏の始祖・天忍日命以来、その名に継承されて来た「日」の文字が使われた最後の人です。
軍事をもって天皇家に仕えた大伴氏一族のアイデンティティーとして描かれた、重要な存在と言えます。




拝殿の左手に、「国宝出雲伊波比神社本殿」と書かれた石碑が建てられています。



拝殿の奥は瑞垣に囲まれていて、屋根がいくつか見えますが、ここからだとよくわかりませんぼけー




社殿の右側へ回ります。
唯一の境内社があります。



八幡宮



平安時代の後期、源頼義・義家親子が奥州平定を当社に祈願。
その凱旋途中の康平6年(1063年)に再び立ち寄り、冑に祀った八幡大神の霊を相殿に祀ったことが起源です。

※同じ年に、源頼義、義家親子は、鎌倉の「鶴岡八幡宮」を創建しています。

この時義家は凱旋を祝し、朝廷で行われた流鏑馬騎射の古例を模して、流鏑馬騎射を奉納したと伝えられていて、これが流鏑馬の起源となりました🏹🎯
以後、例年この神事を執行し、慶応3年(1867年)に至るまで、幕府に山鳥の尾羽根の箭1本を毎年献上しました。

※流鏑馬については、また後ほど触れます。


その後、別宮を建てて「八幡宮」とし、建久3年(1192年)に息長足姫命を配祀

二社並立で明治を迎えましたが、明治4年に「阿夫利神社」を「八幡宮」へ合祀。
その後「八幡宮」を当社に合祀し、現在の姿になりました。




こちら側からは、ご本殿がよく見えます。




拝殿・幣殿・ご本殿と繋がっている、いわゆる「権現造り」ではなく、
拝殿とご本殿には距離がありましたキョロキョロ


瑞垣の内側
拝殿の裏をいったん出ると、石垣の上に御門があります。



御門と繋がった、さらなる瑞垣の内側にご本殿の屋根が見えます。



ご本殿乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ


旧・「国宝保存法」において国宝に指定されていましたが、戦後、「文化財保護法」に変わり、国指定重要文化財となりました。

低い石垣の上に鎮座する一間社流造の現在のご本殿は、享禄元年(1528年)に毛呂参河守顕繁が再建したもので、県内最古の神社建築ですキラキラキラキラ



二重の瑞垣の内側には、ご本殿の他には神饌所のみ。



【兄多毛比命=大伴武日?】
当社に天穂日命を合祀した、初代武蔵国造・兄多毛比命について。
「武蔵一宮氷川神社」の由緒にも出て来ます。

「兄多毛比」の読みは「えたもひ」
「兄(え)」は兄弟の兄の意味として、
「たもひ」=「たけひ」とも読めるため=「武日」

つまり、
「兄多毛比」=「大伴武日」なのではないか、という説をネットで見つけました。

確かに「多毛比」は「たけひ」とも読めるので、なるほど!とは思います。
そうだとすれば、大伴氏も出雲出身なのでしょうか??

第12代・景行天皇の御代に、ヤマトタケルの東征に帯同し、大己貴命を祀った大伴武日と、
第13代・成務天皇の御代に、天穂日命を合祀した兄多毛比命が同一人物ということになってしまいます。
ずいぶん長生きだし、同じ由緒の中でわざわざ名前の表記を変えるでしょうか…えー


参道の右手に、小さめの
神楽殿ルンルン



二の鳥居の手前には、橙色の実がたわわに成った橘の木がありました🍊





参道の左手にあったこの建物。
たまに境内にあるこの細長い建物の名称は、何と言うのでしょう??



その裏側、境内の西側に真っ直ぐ伸びている道。
流鏑馬馬場です。



【出雲伊波比神社の流鏑馬】馬🏹🎯
「八幡宮」のところで触れましたが、
当社の流鏑馬は、源頼義・義家親子の徳を讃えて「平国流鏑馬」と呼ばれる、920年の歴史を持つ古式流鏑馬です。
昭和33年に埼玉県の無形民俗文化財に指定され、県内で唯一毎年奉納される流鏑馬です。

3月第2日曜日の「祈年祭」では、
『春の流鏑馬』として、一の馬による流鏑馬が斎行。
11月3日の「秋季例大祭」では、
『古式流鏑馬祭』として、一の馬・二の馬・三の馬による流鏑馬が斎行されます馬
乗り子は、町内の家の長男(小・中学生)が務めます。


正装姿の乗り子を乗せた祭馬一行が、馬場を行進する「あげ馬(馬見せ)」

※画像は毛呂山町HPより


午前の朝的(あさまとう)、午後の夕的(ゆうまとう)の2回行われる
「矢的(やまとう)」行事



「射手(いて)」を務める少年、凛々しいですね照れ


合併により、現在は毛呂山町となっていますが、乗り子は、それ以前の毛呂村の頃から代々住んでいる家の長男に限るそうです。

水泳のメダリストである瀬戸大也選手は毛呂山町出身で、平成17年には乗り子として騎乗しているとのこと。
以前は、拝殿前に瀬戸大也選手奉納の『願的』があり、ネットにも写真がたくさんアップされていましたカメラえー

「瀬戸大也」と書かれ、泳いでいる写真まで貼られたものだったのですが、
例の一件で、現在は拝殿前から撤去されていましたほっこり




ちょうど拝殿の左手あたりに、
出羽三山の石碑



馬場の側から、ご本殿瑞垣の近くまで登れました照れ



瑞垣とご本殿、美しいですラブ乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ




馬場の先は、そのまま北参道へ繋がっています。



とても気持ちの良い参道でした照れキラキラキラキラ
写真いっぱい撮ってしまいましたカメラ





ご本殿が見えます。





こちらが北参道の鳥居


今回は、八高線・毛呂駅から来ましたが、東武越生線・東毛呂駅から来ると、こちらから入ることになります。


気持ちが高まる参道の入口乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ
次回はこちらからお参りしたいですおねがい



鎮座地の住所にも「岩井」が付いていました照れ




【御朱印】




大伴武日に関連して、大伴氏の祖神・天忍日命についても少し調べましたが、すでにかなり長くなっているのでやめましたにやり
それはまた別の機会に。

天穂日命や天忍日命など、
名前の頭に「天」が付く神様を、一度整理したいと思っていますが…
果てしなくいらっしゃいますよね滝汗

初代武蔵国造・兄多毛比命のこと、出雲国造家と大国主のことなど、まだまだスッキリしないことがたくさんありますショック

「出雲伊波比神社」が式内社かどうか。そんなことは、行ってみたらどうでも良いことのように思えました。
社殿も社叢も、本当に素晴らしかったですラブ乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ


長~い記事を最後までお読みいただき、ありがとうございました爆笑ルンルンルンルンルンルン



【参考文献】
●「武蔵の古社」菱沼勇 有峰書店
●「『日本人の神』入門~神道の歴史を読み解く」島田裕巳 講談社現代新書
●「『日本の神様』がよくわかる本」戸部民夫 PHP文庫
●「日本の神様読み解き事典」川口謙二 柏書房
●神社検定公式テキスト⑩「神話のおへそ『日本書紀』編」 神社本庁 扶桑社