煤けた外套を羽織り、深く帽子を被った男。その男は、周囲を警戒するように見回しながら、足早に娼館へと入っていった。その後ろには、いつも通り、宦官の私が控えていた。
男が二階へと消えていくのを見届け、四半時が経つ。
「チッ!」
店の喧騒を打ち消すように、男が盛大に舌打ちをした。
日も暮れて煌々と赤く怪しい明りで溢れ、行き交う人々の笑い声や嬌声が飛び交う中、いかにも身なりを整えた官吏風の小太りな男は、露骨に苛立ちを露わしはじめた。
男と、緑のポロシャツを着たカジュアルな男。この不釣り合いな二人組は、相対する机の上で、それぞれの時間を過ごしている。
酔いが回ってきた官吏風の男は、先ほどから口調だけでなく態度まで締まりがなくなり始めている。
「おい!酒が無くなってるぞ。おい!」
店の女中へ声をかけるが、来店客が増え始め、なかなか注文を取りに来ない。
二階から降りてきた私は、店の厨房へ急ぎ彼の好みの酒を受け取り盃へ注いだ。
「お待たせいたしました。どうぞ」
「宦官に酒を注いでもらってもなぁ、ちっとも美味くねえんだよ!」
官吏風の男は、聞こえよがしに店内の他の客へも届くように、少し大きめの声で答えた。
「まあまあ。そのようなことを言わずに」
ポロシャツの男が、官吏風の男の言葉を遮るように、たしなめた。
酔客特有のドロンとした濁った眼を向け、私に何か嫌味を言いたそうに口をへの字にしていた官吏風の男だったが、すぐに矛先を変え、ポロシャツの男に酒を勧めた。
「貴殿も一杯ぐらい、どうですか?非番なんでしょ?」
「まあ、勤務時間外ではありますが…私は酒が強くないので…はは」
ポロシャツの男は、酔いどれのダル絡みを受け流し、皿に盛られている肉野菜炒めを自分の小皿へ取り分けている。
「…そもそも」
官吏風の男は、盃に注がれた酒を眺めながら、独り言のように愚痴を続けた。
「いくら関白殿から内々の頼みとはいえ、貴殿も私も仕事時間外にですぞ、こう何度も殿下のご趣味に付き合わされるとなると迷惑至極だ。」
「アホネン殿!それは不遜というものですぞ。」
官吏風の男が「迷惑至極」と言い終わる前に、ポロシャツの男が遮った。普段よりも低いが、聞いている者がハッと我に返るほど重く鋭い声色。そして歴戦の軍人としての本性を現したかのような眼光だ。
その気迫に、アホネン課長の酔いは一瞬で醒めた。
「だ、だがしかし高野どの、こうも頻繁に娼…このような如何わしい店へ通われるのはいかがなものか?少尉も思いませんか?」
高野少尉は、肉野菜炒めを口に運びながら、静かに答えた。
「……皇兄殿下は、我々尉官に教えを乞われました。その知識の吸収力は、目を見張るものがある。その聡明さは…」と擁護するような口調になっていることに気が付き、彼は襟を正して続けた。
「殿下には何か意図があるように思えます。それに、貴殿も私もあくまで目付け役。公私の区別は弁えているつもりです」
アホネン課長は、鼻を鳴らし、再び酒を煽った。
「ふん、苦労するな。あんな『うつけ』の相手をするとは……」
私に向けられたアホネン課長の嫌味を無視し、無言で課長の酌と適当に肴をそえる。
「まあまあ、関白殿の好意で貴殿はただ酒が飲めて、私もココの名物料理を堪能できる。それで良いではないですか?今は楽しみましょう。わっはっはっはっ。」
高野少尉は、先ほど一瞬垣間見せた厳しい顔つきが嘘のように、人好きのする笑顔へ戻っていた。
二人の相手をしながら私は、事件以後から殿下の変容を思い返していた。
私には殿下への忠誠心と、それに反して殿下の行動に対する疑念が渦巻いている。
(殿下は、なぜ頻繁に娼館へ通われるのか?本当にただの道楽なのか?それとも、少尉が言うように何か別の目的があるのだろうか?)
私は、殿下の真意を探ろうと、密かに情報収集を続けている。しかし殿下は常に周囲を警戒し、近習の私だけでなく誰にも本心を明かそうとはしなかった。
(事件後の殿下を身近で観ているが、あのお方の行動は、まるで霧の中に隠された謎のようだ)
私は、皇兄殿下に仕える身でありながら、彼の行動に何か危険なものが潜んでいるのではないかと感じていた。それは、私が宦官として、常に権力闘争の渦中に身を置いてきた経験からくる、第六感のようなものだった。
つづく
※表現に不備な点があれば訂正していきます。
※加筆修正しました。