「淑妃様の頃から、宮廷内でも仲睦まじいと評判でしたが、今の王の素行は、タン王妃におかれましても嘆かわしく思われているのではないでしょうか?」
王邸の玄関前に到着し私が車のドアを開けると、アホネン課長は車から降り立ち、タン王妃へ丁寧にお辞儀をした後、先程来からの苦言を蒸し返し始めた。
タン王妃は、その言葉に動じることなく、微笑を浮かべながら答えた。
「私には、わかりかねますので。」
予想外の反応に、手応えのなさを感じたアホネン課長は、半ば諦めたように再び客席へと身を沈めた。続いて、高野少尉も、王と王妃に向けて軍式の敬礼を行い、アホネン課長の後に乗車した。
皇兄殿下は、「力士、いつものように二人を送ってくれ。」と言い残し、タン王妃と手を取り合って邸宅の中へと消えていった。
その際、私へ向けられたタン王妃の、氷のように冷たい眼差しを、私はまともに受け止めるのだった。
武官の居住区域、通称「武家屋敷」で高野少尉を降ろし、官吏公舎が立ち並ぶ区域へと車を走らせながら、私は、タン王妃から未だに許されていないのだと、改めて痛感していた。
(そうだ、陛下に毒を盛ったのは、私なのだから。)
あの忌まわしい記憶が、鮮明に蘇る。
「お前が毒を盛らなければ、王邸の全員の命はないと思え。先帝の侍従長だったお前なら、わかるはずだな。」
邸宅の玄関前に居並ぶ、武装した多くの近衛兵の中から、近衛長官が私の前まで進み出て、嘲るように言った。
それは、有無を言わさぬ脅しだった。
「わかりました。献上してまいりますので、そのまま、お待ちください。」
私は、震える手で毒杯を受け取り、邸宅の中へと足を踏み入れた。
女官たちのすすり泣く声が漏れる王の居室では、皇兄殿下が、泣き崩れるタン王妃を必死になだめていた。
「ついに、その時が来たのだな……。」
まだ十代のあどけなさを残す青年は、まるで全てを諦めたかのような、虚ろな表情で私を見つめた。
「関白殿へ送った、朕……いや、余の書状が、聞き届けられたということか。」
「さようでございます。」
私が声を絞り出すように答えると、殿下の表情に、わずかな安堵の色が浮かんだ。
「よかった……。」
「それでは、検死のための見分を行う侍医と、近衛長官の入室を許可する。」
普段は緊張のあまり、言葉に詰まることの多かった殿下が、今日はまるで別人のように、淀みなく言葉を紡いだ。
「今日は、別れの宴だが、悲しむことはない。余……私は、これで王という呪縛から解放されるのだから。皆には、心から祝福してほしい。」
私の後に続いて、玄関にいた近衛長官と侍医が居室に入ってきた。
「リーよ、関白殿から余宛に届いた書状を、ここにいる皆へ読み聞かせてくれ。」
いつもとは違う殿下の様子に、近衛長官は背筋を伸ばし、恭しく書状を取り出すと、そこに記された言葉を読み上げた。
「墾農王の求めに応じて答えせし…」これは公表されることのない書状だが誠実に履行されるであろう文面が続く。
そして書状は最後の部分にさしかかった。
「……タン王妃殿におかれては、墾農王薨去の後も、引き続き王邸宅への居住を認め、国庫より毎月の生活費を支給する。この年金は、王妃殿の居住地の変更、あるいは再婚後も保証するものとする。」
全てを近衛長官が読み終えた後、タン王妃が涙ながらに皇兄殿下へ訴えた。
「生と死の道は違えども、私は、生涯殿下をお慕いし続けます……!」
しかし、皇兄殿下は、優しくタン王妃の髪を撫でながら、静かに首を横に振った。
「タンよ、そなたの人生は、これからまだ長いのだから。どうか、一刻も早く余のことを忘れ、幸せに生きてほしい。そなたを、幸せにできなかったことだけが、私の唯一の心残りなのだ。」
そして、一同を見渡し、晴れやかな笑顔で言った。
「皆の者、これにて、永い別れだ。」
皇兄殿下は、毒杯を持ち上げ、静かに、そして力強く、それを煽った。
「おお!やっと帰宅できたぞ!」
突然、客席のインターホンから、アホネン課長の陽気な声が響き渡り、私は我に返った。
邸宅の玄関先には、アホネン課長の妻子が、彼の帰りを待ちわびていた。
「これはいつものお土産です。」
菓子折りの中には、菓子以外のモノも入っている。
私が手渡すと、高野少尉が頑なに辞退したのとは対照的に、アホネン課長は満面の笑みで受け取り、家路へと急いだ。
彼の後ろ姿が見えなくなるまで見届け、私は再び車に乗り込んだ。
(陛下…いえ、皇兄殿下。あの日の選択が、本当に正しかったのか、今でも私にはわかりません。)
邸宅へと続く道を走りながら、やり場のない後悔の念が、胸の中に深く沈んでいた。
つづく。
※表現に不備な点があれば訂正していきます。
※加筆修正しました。