078- 005-0073
蛍光灯が眩しい
プリズムのような役割を果たす涙がその眩しさを一層
つよくさせる
白い壁
白いシーツ
白い枕
両手にまかれた白い包帯
何これ
白が眩しい
視点が合わない
ゆらゆら揺れている
なんでアッコがいるの?
なんでまた泣いてんの?
「アッコ…わ た し どうしたん」
(よかったー)
(サチ 良かった 私分かるん?)
「え、なんて 言ってんの?」
生きてて良かった
(・・・・・・・・・・・)
ほんま生きてて良かった
(・・・・・・・・・・・・)
手を震わせながら
か細く、それでいて大きな文字を書きなぐり
それを サチコの目の前で大きく開いた
生きててよかった
「な ん か分からんけど…」
もうしゃべらんでええよ
(・・・・・・・・・・・・・・・・・)
何が起きたのか
どういう状況に置かれているか
いまいち分からない
ただ
全てが離れていく夢を見ていたせいか
自分が生きていることに喜んでいるアキコをみて
サチコは なんだか嬉しかった
「なんか分からんけど あ り が と う」
アッコは ふたたび手帳をめくり
078-005-0072
マスター?
マスターなの?
「サチ、明るい未来ってのはな、
決して自分本位の問題じゃないと思うねん」
また説教?
もう聞き飽きたわ。
今度はヒトミ?
あれ、ミキも一緒なの?
またブタシャカをいじめとんのかな?
ヒトミやミキとも、結局疎遠になってしまった。
懐かしいような、懐かしくないような
寂しいような、寂しくないような。
どうでもいいような、どうでもよくないような。
あれはケンジかな?
そういえばいたっけ、ケンジ。
あまり優しくされた記憶がないけど、
顔がそこそこいいからって、
どんどん女変えよって。
「サチ? 気付いた? 私だよ、アッコだよ」
アッコ……?
アッコか……。
「あんなぁ、サチ、あんたな、私はどうせ名前と違って幸が薄いからって思っとうやろ」
「世の中なんて、どうせ不公平やし。私には明るい未来がないからとかな」
「だから、一瞬の楽しさも、幸せになる努力も、馬鹿馬鹿しいわって」
「ふざけんなよな。一人で世界に浸りやがって」
「じゃあ、あたしはなんなん? あんたにとって」
「辛いときは辛いって言えよ。寂しいときは話聞いてくれって電話してこいよ」
「あんたはアホや。アホすぎるわ」
また説教か。
どうせ死ぬなら、
死神のようなあんたに会わずに死にたかったわ。
最後の最後まで目の前に現れて……。
「明るい未来なんてないことを覚えとき」
マスター? また!?
でもまあ、確かに
マスターの言うとおりやわ。
「かわいいね、さっちゃん」って言ってくれたお母さんも
いまじゃいない。
お父さんの記憶も薄れかけとう。
私はひとりや。
誰もおらん。
でも……
でも、そんなこと言ってたマスターが、
あの阪神大震災のとき、助けてくれたっけ。
「明るい未来はない」はずなのに、
一生懸命に私を未来へとつないでくれた。
マスター
アッコ
ヒトミ
ミキ
ブタシャカ
ケンジ
いい思い出ばかりじゃないけど、
一応、出会ってきた。
ということは、これからもいろんな出会いがあるんかな?
ねえ、マスター。
私はひとりじゃなかったのかな?
これからも、ひとりじゃないのかな?
明るい未来、本当にないんかな?
なら、なんでマスター、私を助けてくれたん?
いろいろ面倒見てくれたん?
その答え、見つけたい。
生きたい……。
アキコは、サチコが自分の手を握り返したのを
確かに感じ取った。
サチコの右目からは
一筋の涙が、耳の方へ流れていた。
「サチ? サチ!!」
サチコの目が
ゆっくりと開いた。
「アッコ……」
A.S
078-005-0071
「サチ、気付いた? わかる? あたしだよ、アッコだよ」
手を強く握り返して、サチコの顔をのぞき込むアキコ。
「強く揺さぶったら駄目ですよ」とたしなめる救急隊員。
アキコは握っていたサチコの手に、もう片方の手を重ね、手の甲をなでた。
サチコは、さっきのように握ってはこなかった。
声を発することもなかった。
病院に着き、救急車から院内に運び込まれていった。
アキコは病院職員に促されるままに、手続きをした。
手術室の扉が開くまで、何を考えていたのか定かではない。
待っていた時間が長かったのか短かったのかも、よくわからない。
ざわつく胸の前で両手を握りしめ、サチコが握り返してきた感触だけを思い返していた。
ドラマのワンシーンのように「手術中」のランプが消え、サチコが運び出されてきた。
顔にも付いていた血が拭き取られたからか、眠っているように見えた。
家族がいないと受け付けで話したためか、けがの具合の説明を聞くよう言われた。
医者と対面すると、なんだか苛立ってしまい、
説明が始まる前に「私は家族のようなものですから」と主張していた。
今は麻酔で眠っているが、時期に意識は戻るでしょう。
左足を骨折しているので、しばらくの入院とその後の通院、リハビリは必要です。
直後は精神的にも不安定になるでしょうから、そばにいてあげてください。
医者の丁寧な説明が、風のように耳を通過していった。
私がそばにいなくては。
「ありがとうございました」と言ってあわてて立ち上がり、病室へ急いだ。
サチコはまだ、眠っていた。
手を握った。握り返してはこない。
それでも、体温は感じた。呼吸もしている。
なんだかまた苛立ってきた。
「あんなぁ、サチ、あんたな、私はどうせ名前と違って幸が薄いからって思っとうやろ」
「世の中なんて、どうせ不公平やし。私には明るい未来がないからとかな」
「だから、一瞬の楽しさも、幸せになる努力も、馬鹿馬鹿しいわって」
「ふざけんなよな。一人で世界に浸りやがって」
「じゃあ、あたしはなんなん? あんたにとって」
「辛いときは辛いって言えよ。寂しいときは話聞いてくれって電話してこいよ」
「あんたはアホや。アホすぎるわ」
サチコの手が、握り返してきたように感じた。
顔をみると、右目から一筋の涙が、耳の方へ流れていた。
N.K
078-005-0070
サチコとアキコを乗せた救急車は
ポートアイランドにある大きな病院へひた走った。
ギュウギュウにつかえている加納町の交差点
「そこのけ そこのけ」と
ひときわ大きなサイレンが鳴り響く。
大げさに左によった車にぶつかりそうになる
宅配ピザのバイク。
何の事情も知らず
青なのにいっこうに進まない事に
いらつきながらクラクションを鳴らし続ける新婚サラリーマン。
クラクションを鳴らされ
窓から顔を出し
後ろをにらみつける先頭車両のアメ車に乗る若者。
その助手席でFACEBOOKを見続ける彼女。
救急車の後ろにつき
愛娘が待つ家へ高速で走りぬくペンキ職人
後部座席には誕生日のケーキが積んである
様々な思いを一台の救急車が2分間遮る。
「さっちゃんはね
さちこというんだ本当はね。」
無感情な声
隊員のやり取りが車中で響く
その声が響いてこない二人の空間
その嫌過ぎる静寂を塗りつぶすため
アキコは何となくサチコの顔を見つめながら
さっちゃんの歌を歌いだした
「だけどちっちゃいから
自分のことさっちゃんって言うんだよ
かわいいね、さっちゃん」
歌い終わると
サチコがアキコの手をかすかながら
握り返した。
RO
078-005-0069
追いかけてくるアキコを構うことなく
北野坂を下りながら
幼い頃 母親が夕飯の準備をしながら歌っていた
その歌が聞こえてくると
サチコはトコトコと台所に向かい
エプロンの位置から 「じー」と母親を見上げていた
かわいいんだよ」
歌の最後に
そう言って いつも力強く抱きしめてくれた。
誰か抱きしめてよ
078-005-0068
「はぁあ、すんませぇん。」
「いいえぇ、モモくんよかったねぇ。ほしたら行こか。」
くんずほぐれつしていた二匹の小型犬は引き離されてもまだ、名残惜しげに互いの匂いを嗅ぎ合ったが、ひとたびリードをぐいと引かれると、何事もなかったかのように、飼い主と歩調を合わせた。
彼らにとって人間のちからはあまりにも巨大である。
抗う事の許されない絶対的なちから関係がそこにはある。
もしも人間に歯向かおうものならば、その命は簡単に断たれる。
震災
人間にも逆らってはならない巨大なちからがあったのか。
現代の人間は、その巨大ななにかに歯向かったというのだろうか。
もしそうならば、なぜいつも、すべてではなく一部の人間だけが苦しまなければならないのか。
なぜ自分がその一部に含まれたのか。
あの頃、自分が何をしたというのか。
さっきまで爆笑していたサチコは、2匹の小型犬が離ればなれになる頃から真顔に戻り、そんなことを考えながら歩いた。
とは言え、サチコにはその答えはとっくに見つかっている。
「理不尽」
はじめからこの世の中は理不尽に出来ている。
そう割り切ってものを見るようになってから、サチコは幾分楽に生きてこられた。
いや、割り切らなければ、生きられなかった。
いつか、虎のような目をしたマスターに持論を展開された。
「君には明るい未来はまったくもってない」
受け入れられず、サチコはトゥームストーンを飛び出して狂い泣きした。
幼くして母親を亡くし、憧れの高校に入っても、自分の家庭環境は他の子たちのそれとは明らかに違うことや、抗ってもどうにもならないものがあることを、他の子たちよりも知っているつもりでいたサチコにも、あのマスターの言葉は辛辣すぎた。
少女の生きる喜びを完全に奪い去った。
そして、そんな少女の存在はもちろん、そこに何があったなどまるで意味がないかのように、巨大なちからは未曾有の天変地異を引き起こした。
そしてサチコの父は死に、開きかけた未来への希望も死んだ。
理不尽と割り切ってやり過ごすには余りある出来事が17才の少女に降りかかった。
だが、あのマスターの言葉が常に脳内に張りついていたおかげで、不幸な出来事にも耐えられた。
今、幸せであろうがそうでなかろうが、どのみち未来は明るくない。
だからと言って、今を精一杯楽しもうとも思わない。
どのみち未来は明るくないのだから。
瞬間的な幸せはあっても、ずっと続く幸せなんてあり得ない。
だから、幸せを求める事はせず、不幸の中を生きていく。
サチコは割り切る事によって諦めにも似た境地にまで達した。
そうする事で生きられた。
「たぶん今、東日本大震災でも、あの頃の自分のような子が居とうに違いない。」
そう思うと、急激に呼吸が荒くなり、胸がドキドキするのを覚るとともに、奥歯の痛いところが存在感を表しはじめた。
歩く振動に響き、次第に心臓の拍動に呼応するように悲鳴を上げだした。
やがて吐く息に撫でられるだけで、激痛がサチコの脳天を突き上げた。
そこには目を見開き、口をあんぐり開けて、前のめりに立つ、空気の抜けた卑猥なビニールの人形のようなサチコがいた。
「サチ、どうしたん?」
サチコの異変にようやく気づいたアキコが訊いた。
らぁアッコ、あ~し、やっぱい帰るわ。
(なぁアッコ、わたし、やっぱり帰るわ。)
そう言って一人、とぼとぼと坂を下りはじめた。
K.C.
078-005-0067
二人と一匹は
アキコの鼻歌を行進曲に
肌寒い夜風に吹かれながら
北野坂を歩いていた
この曲何やったかなとぼんやり
サチコは考えていた
「何か食べたいものある?」
「もう、お酒はいいでしょ?」
笑顔で問いかけるアキコ
「うん、何でもええよ」
アキコは、何かいいことを思いついたように
両手を胸の前に合わせながら
「ご飯の前に久しぶりに神戸の夜景みに行かない?ハーブ園もう開いてないよね?」
サチコは腕時計を見た
「ハーブ園はもう閉まってるやろ」
サチコは久しく行ってない
あそこから見える夜景を思い出した
ロープウェイから
ハーブ園から
徒歩で降りる下山道から見える夜景を
震災後、二人でよく見にいった
震災直後はほとんど真っ暗な街並みしか見えなかった
日が立つにつれ明かりが増えていくのが嬉しくもあり
何故か悲しくもさせた
夜景が元通りの姿を取り戻すたびに
その数だけ元の日常がたくさんの人に戻っていくなか
私には決して戻ってこなかった
1月17日 あの時マスターと病院へ向かう
その道中の光景に呆然とした
街の明かりは何もなく
そこは私の知らない灰色の街だった
交差点の角にあった焼き鳥屋も
その隣のパチンコ屋も跡形もなく崩れていた
通りがかりの住宅街では
パジャマ姿の人があちらこちらで呆然と立ち尽くし
ビクともしない崩れた家の瓦礫を叫びながら
必死に取り除こうとする人
血を流し座りこんでいる人
子供の叫び声、泣き声
地獄だった
いや、地獄という言葉では足りない光景だった
オトンのことが心配で足早になる気持ちと
不安で足取りが重くなった
足が自分のものでなかった
その隣でマスターが大丈夫、大丈夫と
呪文のようにつぶやくのがわずかな支えだった
ひたすら歩いた
もうそろそろ7階建ての病院が見えるはずの場所なのに
病院がみえなかった・・
ひたすらひたすら歩いた
やっと病院が姿を現した
私が記憶している姿と何かが違った
病院は3階部分が地面にあった
オトンのいるはずの2階はなかった
駆け出そうとしたとき
見ず知らずのおっさんに右腕を摑まれた
「お姉ちゃん、この先はすぐ右手に火があがってるからこの先は危険や」
「オトンがおるねん」
私は右腕をふりほどいた
駆け出そうとした
今度は左腕を摑まれた
マスターだった
唇をかみながら、力強く私の左腕を強く握っていた
「あかん」
うつむきながらマスターがつぶやいた
それまで私は神なんか信じたことはない
でもあの直後から神を信じた
神の存在を信じた
そして神を憎んだ 怨んだ
誰かのせいにして
誰かを悪者にして
誰かを憎まないと怨ないとやりきれなかった
「こらっ」
アキコの大声に我に返った
アキコの犬が通りがかりの他の犬に近寄って
後ろに回って発情している
「すいません」
アキコは恥ずかしそうに謝っている
相手の飼い主の中年女性が顔の前で手を振りながら
「うちのオスなんでいいですよ」
と微笑んだ
「そうなんですか、うちもオスなんで、じゃあ大丈夫ですね」
アキコも微笑んだ
サチコはそのやり取りをぼんやり眺めながら
ある意味大丈夫じゃないでしょ
何で止めない
何で相手の犬も嫌がらない
心の中で一人で突っ込んだ
何かおかしくて笑いがこみ上げてきた
サチコは声を出して笑った
あんな事があってもこうして笑うこともできる
人間はいいようにできてる
二人がきょとんとサチコをみつめている
そんなことかまわず犬はまだ発情している
N.F
078-005-0066
アキコと1匹と一緒に、店を出て歩き始めた。
テキーラが残る体に、冷たい夜風がしみこんできた。
アキコは何も話しかけてこなかった。
歩くリズムに合わせ、鼻歌を歌っていた。
東北の地震の影響で、神戸のまちも自粛ムードが広がっていた。
いつもは主張しすぎてまぶしかったコンビニも、飲食店や風俗店の看板も、
遠慮気味に、でも十分な明るさで灯っていた。
だからこそ、月の光を強く感じるのだろうか。
空を見上げた。まん丸より、ほんの少し欠けていた。
満月が近い。
月を見て歩きながら、サチコはさっき見た夢を思い出していた。
体が2度跳ねて目覚めた自分を、別の自分が見ている。
部屋の本棚から貯金箱が落ちたかと思った直後、本棚ごと倒れた。
台所の方向から、食器が割れるような音が響いている。
声が出ず、布団をかぶる…
この夢を何度見たかわからない。
夢だけれど夢ではない夢。
1995年1月17日から、何度も見た夢。
あの日、父親が入院していて、家は一人きりだった。
看病の日々で疲れがたまっていて、ぐっすり眠っていた。
土曜、ようやく学校に行ったことだし、
日曜と祝日だった月曜は病院で付き添っていたので、
普通に起きて学校に行くつもりにしていた日だった。
今でも夢を見るあの瞬間が5時46分だったというのは、
1週間ほどしてから新聞で知った。
揺れがとまって布団から顔を出すと、部屋中に物が散乱していた。
「とにかく、ここから出なければ」と思考がまとまるまでに、どれくらい時間を要しただろうか。
椅子にかけていたはんてんをはおり、前夜脱ぎ捨てていた靴下をはいて、
倒れた本棚をまたいで、部屋を出た。
台所は、割れた食器が散らばり、のけようと触って指を切った。
玄関の扉はゆがみ、開けようとしても開かなかった。
急に怖くなって、涙が出てきた。
泣いているうちに、考えが浮かんだ。
「そうだ、電話だ」。
少し冷静になった。
足をけがしないよう、靴を履いて室内に戻る。
マスターにかけよう。
受話器を持ち上げた。
なんの音もしなかった。
線をさし直して持ち上げても、無音だった。
また泣きそうになってきたのを、ぐっとこらえた。
その場にしゃがみこんだ。
目をつぶって、一生懸命考えた。
「おーい、おるんか~」。
聞き慣れた声。
ドンドンドン。扉をたたく音。
「おい、おるなら返事せえ」。
顔を上げた。
ドスン、と音がしたかと思うと同時に、光がさしこみ、
見慣れたおっさんの姿が目に入った。
「マスター」。
扉を蹴破ってくれたおっさんの方へ駆け寄った。
「けがしてへんか? なんや、寝起きの顔に涙、その上に笑顔、ぐちゃぐちゃやぞ」。
髪をなでながら、抱きしめてくれた。
「お父さんとこ、行くぞ」。
電車もバスも止まったまちを、歩いて病院へ向かった。
道中は…これもよく見る夢の1場面。
そして、あの日、一瞬で景色が変わった神戸のまち。
テントが張られた公園で見た空には、
今日よりもまんまるい、月があった。
N.K
078-005-0065
ああ
歯が痛いなあ。
うちは歯が痛いんや。
サチコは
自分の店のカウンターで
ひとり、足をぶらぶらさせながら
顔をつっぷしながら
歯痛について悶々と闘っていた。
テキーラに
顔を浸していた。
ああ、冷たくていいわあ。
けど奥んとこは熱いなあ。
歯が痛くないときは
歯のことなんか
なあんも気にせんのに
痛くなると
歯のことしか考えられへんく
なるなあ。
歯が痛くないとき
っていうんは
当たり前のようにみえるけど
実は
ぎりぎりバランスのとれた
奇跡みたいな時間のことで
そういうんを忘れた時に
「健康をなめとんか」みたく
戒めみたいに
歯がうちを怒ってるわ。
怒鳴ってはるわ。
もうわかったから
そんな怒らんといて欲しいなあ。
いややなあ。
大人になって戒められるんわ
ほんまいややなあ。
せやけど
痛くなくてもこの
沈んだ泥の塊みたいな気分は
どうせいっしょなんのやから
結局うちこんなして
おったやろうしな。
それやったら
痛いんと痛くないんは
同じなのかも知れへんなあ。
歯が痛いんは
人から見てもわからんことやし
なんや気色の悪いこの気分も
全部ぜんぶ
うちの身体の、うちの器の中で
起こってる事やから
うちがどうにかせんと
あかんねやけど
いや待って。
身体が全然動かへん。
歯が痛いからやなあ。
歯が痛いわあ。
あと、うち、
かお、びしょびしょやわあ。
気持ち悪いわあ。
サチコは
足下に転がる何かを感じ
目をやると
コウベアーの人形だった。
ストラップからちぎれたのだろう。
誰かの落とし物。
だれのやったかなあ。
見た気がするんやけど
もうぜんっぜん思い出さんし
ああ歯が痛い。
歯があるからあかんねや。
いっそこの歯を全部抜いてもて
代わりに
コウベアーつめたろか。
歯やからあかんねん。
コウベアーやったら神経も通ってない。
ただの固いゴムや。
すこぶる調子がええなあ。
にっこり笑ったら
口元にコウベアーずらー並んどって
並んだコウベアーもにっこり笑ってはる。
うちはコウベアーになりたいわ。
コウベアーに歯があるんか
どうか知らへんけど
あれはメルヘンやから
不幸な事なんか起きひん。
酒なんか飲まへんでも
ずっと楽しいことばっかりやし
あほみたいにわらっとったら
みんながそれでええゆうてくれるし
金がなくてもそれはそれで
鳥とかとお話しとけば
メルヘンやからなんとかしてくれる。
めるへんにいきたいわあ。
そうつぶやくとサチコは
むっくり身体を起こし
そのまま後ろに倒れた。
目線の先には天井。
エアコン。配管。なんかの線。
それらが膨らんだり縮んだりを繰り返しながら
揺れたりぐるぐるになったり色を発したり。
なんか、ずうっと昔にも
こんなんあったなあ。
思い出されへんわあ。
めるへんやわあ。
サチコは
そのまま歯痛と眠った。
それからいくらかの時間が過ぎて
サチコのほっぺたをなめるものがある。
小さな舌で何度も素早くなめられている。
目を開ける。
毛むくじゃら。
なにこれ。
ああ、犬か。
犬やわ。
もう一度目をつむる。
なんで犬やねん。
さっきよりも目を大きく開くと
やっぱり犬。
犬のリードの先には
アキコが笑っていた。
「ひどい顔やな」
サチコは横になったまま
アキコを眺めていた。
ああ、歯が痛い。
歯が痛いんやった。
アキコは笑った顔のまま
「ちょっと話せる?」と言って
「ここじゃなくて。どっかお店で」と
外に出ようと促した。
サチコは横になったまま
「うん」とだけ言って
そのあとすぐに
「顔は、洗った方がええよ」と言われ
二人は笑った。
笑うともっと歯が痛かった。
顔を洗って
電気を消して
扉に鍵を閉めて。
「閉めて、よかったん?」
「まあ、たまにはええよ」
「どこ、いこうか」
二人と、ちいさいのが一匹。
三ノ宮は、まだ夜だった。
s.f
078- 005-0064
+アキコ
