百人一首の歌人-14 柿本人麻呂 | 松尾文化研究所

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百人一首の歌人-14 柿本人麻呂

「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のなかながし夜をひとりかも寝む」

(垂れ下がった山鳥の尾羽のような長い長いこの秋の夜を、離ればなれで寝るという山鳥の夫婦のように、私もたった一人で寂しく寝ることになるのかなあ。)

 柿本人麿(不明~709?)

持統天皇の頃の宮廷歌人で、三十六歌仙の一人。下級官吏で710年ごろに石見国(現在の島根県益田市)で死んだといわれている。万葉集の代表的歌人の一人で、長歌20首、短歌75首が収められている。

古今集の冒頭に、「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と記されている山部赤人と共に万葉の歌聖と呼ばれた。持統天皇の時代に宮廷に仕え、歌人として活躍した。

 中西進の「柿本人麻呂」を読んでみた。なかなか奥深い内容の本であるが、百人一首の上の歌は全く見られない。特に印象に残った文章をいくつか掲げてみる。

 大化の改新以来の強固なる天皇支配の宮廷精神は、人麻呂の詩的倫理でさえあった。

 大君は神にし座せば天雲の雷の上に廬せるかも

 近江の都繁栄を偲んだ歌。

 淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ

 近江大津宮は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩御後に朝廷の指導者となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。

 長歌の、大河の如き流れとひびきこそ、人麻呂の生命である。人麻呂は、長歌においてより高い名声を得た。長歌歌人だと言ってよい。一例として、讃岐の狭岑島に、石中にみまかれる人を見て、人麻呂が作った歌。

玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 

神柄か ここだ貴き 天地 日月とともに 満りゆかむ

神の御面と 継ぎ来る 中の水門ゆ 船浮けて 

わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち

辺見れば 白波さわく 鯨魚取り 海を恐み 行く船の 梶引き折りて 

をちこちの 島は多けど 名くはし 

狭岑(さみね)の島の 荒磯面に いほりてみれば 

波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 

枕になして 荒床に ころふす君が 

家知らば 行きても告げむ 妻知らば 

来も問はましを 玉鉾の 道だに知らず 

おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは

山部赤人との比較。人麻呂が歌を宮廷に供したのは、芸術家としての虚構精神や、巧みな職人性をもって、それを果たしたとは考えられない。虚構精神や職人気質には、すでに自立した個人がある。そうした個人のなしたものではない。「なす」のではなく、「なる」行為によって生まれた詩なのである。次の時代の山部赤人などは、ある美しい自然詩を「なす」。しかし、人麻呂の詩は、おのずから「なる。人麻呂はいかなる素材にまれ、全身を埋没せしめることによって、自らがそれに化身していく。その見事さ、そこにこそ七世紀宮廷歌人人麻呂の本質があった。

人麻呂と赤人の旅の歌の比較。

飼飯の海の庭よくあらし刈薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣り船 人麻呂

武庫の浦を漕ぎ回る小舟粟島を背向に見つつ羨しき小舟 赤人

赤人の歌は、上・下それぞれに分けて「小舟」を繰り返し述べる形をとっている。小舟は武庫の浦を漕ぎ回る小舟であり、粟島を後に見ながら漕ぐそれである。そのような小刻みの表現は、「羨し」という繊細な感情と相俟って、かそけき抒情を醸し出す。対して人麻呂の歌の描くところは、飼飯の海上の広々とした景であり、そこに動き回る多くの釣船の姿である。赤人のような感傷はどこにもない。無言の世界だけれども、じっと瞳をこらして釣船を見ている心は暗く沈んでいるのではない。むしろ海人の釣船を結句に歌い据えることによって釣船への凝視が強く語られ、その姿を心の中で味わっている姿が感じられる。

 人麻呂の求めたものは、現前に喪失しているもの、不在なるものであった。不在なるものを現前において把握するという。この時空の超越に人麻呂の詩の強靭な体質があって、何人もこの領域を侵すことができないところに、人麻呂の偉大さがあった。

 人麻呂の上記以外の代表作を最後に掲げる。

 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

 昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり

 明日からは若菜摘まむと片岡の朝の原は今日ぞ焼くめる

 梅の花それとも見えずひさかたの天霧る雪のなべて降れれば

 ほととぎす鳴くや五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも

 飛鳥川もみぢ葉流る葛城の山の秋風吹きぞ頻くらし

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ

 頼めつつ来ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つにまされる

 我妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき

 もののふの八十宇治川の網代木にただよふ波の行方知らずも

 また、久松潜一の「万葉集入門」では、万葉集の歌人として3人を選ぶとすれば、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良とし、さらに一人を選ぶとすれば柿本人麻呂だとしている。そして、人麻呂観としては、歌聖と仰ぎ重んじる見解と詩人としての感動よりも宮廷歌人として詠んだ儀式歌の類型性を認めようとする見解の対立した考え方がある。百人一首の歌は掲げられていない。

 さらに、吉海直人の「三十六歌仙」では、百人一首の歌は、万葉集ではよみびと知らずとされており、柿本人麻呂の歌ではありえないと断じている。