百人一首の歌人-17 西行 | 松尾文化研究所

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百人一首の歌人-17 西行

「嘆けとて月やは物をおもはするかこち顔なるわがなみだかな」

(「嘆け」と言って、月が私を物思いにふけらせようとするのだろうか?いや、そうではない。(恋の悩みだというのに)月のせいだとばかりに流れる私の涙なのだよ。)

西行法師(1118~1190)

俗名を佐藤義清。鳥羽上皇に北面の武士として仕えていたが、23歳の時に家庭と職を捨てて出家、京都・嵯峨のあたりに庵をかまえ西行と号した。出家後は、陸奥(東北地方)や四国・中国などを旅して数々の歌を詠み、漂泊の歌人として知られる。歌集に「山家集」があり、また彼の一生は「西行物語」に詳しく語られている。

 白洲正子の「西行」を読んだ。

 白洲正子さんは女性だが、西行の生まれ変わりではないかと思うほど西行の心を知っている。そんな印象を持った。彼の和歌を綴りながら、彼がどうしてこの歌を詠んだのか、その心のうちが手を取るようにわかるのである。西行の研究は昔から数えきれないほどあるが、そのどれにもくみしない彼女独特の西行の心の像がひしひしと身に迫ってくるようだ。まずは、「空になる心」と題する章が登場。冒頭に山家集の西行が23歳で出家する直前のさくとする和歌が掲げられる。

 そらになる心は春の霞にて世にあらじともおもひ立つかな

 誰もこのような上の句から、このような下の句が導き出されるとは、思ってもみなかったに違いないと白洲さんは言う。そして、それが少しも不自然でなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移っていくところに西行の特徴が見出せると思うと述べる。さらに、その特徴とは、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかったと続ける。そして、次の歌が続いていく。

 世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん

 嘆けとて月やはものをおもはするかこち顔なるわがなみだかな

「月は物を思わせるのか、いや、思わせはしない、それにも拘わらず、自分は月を見てかなしい思いに涙していると、反語を用いることによって引き締めている。のどかな王朝の歌が、外へ広がって行くのに対して、何処までも内省的に、自己のうちへ籠るのが若いころの西行の家風であった。「嘆けとて」の歌は、千載集では「月前恋」という題詠になっているが、恋の歌と限る必要はない。そういう風に読むのなら「そらになる心」の歌も、「世の中を思へばなべて散る花の」身悶えしているような調べも、切々とした恋の告白と見做すこともできなくはない。思うに西行は心の中では、色道も仏道も一如のものであり、その求める心の烈しさにおいて少しもくぁることはなかったであろう。」少し長く引用したが、これが白洲正子の西行論であると言っても過言ではないと思った。

 

 さらに、明恵上人伝記の中の一節を取り上げていて、これもほぼ全文を引用させていただく。「世の中のありとあらゆるものは、すべて仮の姿であるから、花を詠っても現実の花と思わず、月を詠じても実際には月と思うことなく、ただ縁にしたがい興に乗じて詠んでいるに過ぎない。美しい虹がたなびけば、虚空は一瞬にして彩られ、太陽が輝けば、虚空が明るくなるのと一般である。わたしもこの虚空のような心で、何物にもとらわれぬ自由な境地で、様々な風情を彩っているといっても、あとには何の痕跡も残さない。それが本当の如来の姿というものだ。それ故わたしは一首詠むたびに、一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地がしている。わたしは歌によって法を発見することが多い。もしそういう境地に至らずに、みだりに歌を勉強する時は、邪道に陥るてあろう。云々とあって、終わりに一首の歌をあげている。

 山深くさこそ心のかよふともすまで哀はしらんものかは」

 この後も掲載する和歌とともに西行の心のうちを述べているが、本質はこれと変わらないと思った。

 

 また、在原業平への関心の強さも印書深かった。それは、業平の自由な生き方、特に歌の姿と、流離の心、といったようなものに魅かれた。現代人は、とかく目的がないと生きていけないと言い、目的を持つことが美徳のように思われているが、目的を持たぬことこそ隠者の精神だというものだ。視点が定まらないから、いつもふらふらしてとりとめがない。ふらふらしながら、柳の枝がなびくように、心は少しも動じていない。業平も、西行も、そういう孤独な道を歩んだ。そういうことを想わせる歌は山家集の中にいくらでもある。

 行くへなく月に心のすみすみて果はいかにかならんとすらん

 ともすれば月すむ空にあくがるる心のはてを知るよしもがな

 籬に咲く花にむつれて飛ぶ蝶の羨ましくもはかなかりけり

 ひとかたに乱るともなきわが恋や風さだまらぬ野べの苅萱

 藤原公任の百人一首「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」に因んだ一節。赤染衛門の「あせにけるいまだにかかる滝つ瀬の早くぞ人は見るべかりける」と西行の「今だにもかかりといひし滝つ瀬のその折までは昔なりけん」が掲載されていて興味深かった。

 

 西行はたしかに王朝文化の影響を受けて育ったが、心は遠い昔の自然信仰の中に生きていたことを裏付ける歌。

 仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば

 西行は修験道の苦行を経験しているが(大嶺修業)

 

 西行の出家の大きな原因となった待賢門院への恋心、その苦しみから解き放たれ、愛の幸福を詠うようになった歌。要するに大自然の懐に抱かれていれば、対象は紙でも仏でもよかったということで、そういう意味では、いかなる宗教にも束縛されぬ自由人であったのである。

 ねがはくは花にしたにて春死なむそのきさらぎの望月の頃

 散る花を惜しむ心やとどまりてまた来ん春のたねになるべき

 春ふかみ枝もゆるがで散る花は風のとがにはあらぬなるべし

 山桜枝きる風のなごりなく花をさながらあがものにする

 

 松尾芭蕉は西行を大いに評価していて、旅に出て西行の残した佇まいを訪ね歩いた。

 とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすほどもなき住居かな 

 これは西行の歌ではないかもしれないが、この歌を西行の歌と信じて詠んだ「野ざらし紀行」の一句がいい。

 露とくとく心みに浮世すゝがばや

 芭蕉が訪ねた草庵で西行が詠んだ歌。

 とふ人も思ひ絶えたる山里の錆さなくはすみ憂からまし

 さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里

 はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目つつまで物思はばや

 

 西行は能因法師の跡を慕って奥州へ旅行し、芭蕉は西行の風雅を追って「奥の細道」を書いた。芭蕉は那須野の殺生石を見物した後、「又、清水ながるる柳は蘆野の里にありて、田の畔に残る。云々」と詳しく描写し、その時に次の句を詠んだ。

 田一枚うゑてたちさる柳かな

 これは西行の次の歌を意識しているという。

 道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ

 

 行尊の百人一首「諸共に哀れと思へ山桜花より外に知る人もなし」、その卒塔婆に、紅葉が散りかかっているのを見てその歌を思い出して詠んだ歌。

 あはれとて花見し峯に名を留めて紅葉ぞ今日は共にふりける

 

 最後に「三夕の歌」に触れておく。新古今集巻四秋歌上に西行を中心に寂連と藤原定家の「秋の夕暮」の歌が並んでいて、そのことをいう。

 寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮 寂連

 心なき身にはあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮 西行

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 藤原定家

 新古今集が成った時、西行はすでにおらず、定家と寂連は西行の歌を下敷きにしていることは疑えないとしている。小林秀雄は「西行」の中で、それについて的確な批評を下している。「外見はどうあろうとも、定家の歌はもはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集でこの二つが肩を並べているのを見ると、詩人の傍らで、美食家があゝでもないかうでもないと言っている様に見える。寂連の歌は挙げるまでもあるまい。三夕の歌なぞと出鱈目を言い習はしたものである」 だが、いつも世間を闊歩しているのはその出鱈目な方で、茶道では、定家の「見わたせば・・・」の歌がわびの極致とされている。そういわれるとそのように見えなくもないが、定家は純粋にレトリックの世界に生きた人で、この歌も源氏物語の「明石」の巻その他に典拠があり、いってみれば机上で作られた作品なのである。定家の人生とも生活とも関係がない。それにひきかえ西行の歌は、肺腑の底から搾り出たような調べで、小林秀雄が、上三句に「作者の心の疼きが隠されている」と言ったのは、そういう意味である。

 

 最後に、その他、この本に掲げられた和歌を抜粋して下記に掲げる。

 世の中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬ我が身なりけり

 捨てたれど隠れて住まぬ人になればなほ世にある似たるなりけり

 あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世はかくも苦しかるべき

 伏見過ぎぬ岡の屋になほ止まらじ日野まで行きて駒試みん

 春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり

 吉野山去年の枝折の道かへてまだ見ぬかたの花をたづねん

 山ふかく心はかねて送りてき身こそ浮世をいでやらねども