百人一首の歌人-21 藤原俊成
「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
(この世の中には、悲しみや辛さを逃れる方法などないものだ。思いつめたあまりに分け入ったこの山の中にさえ、哀しげに鳴く鹿の声が聞こえてくる。)
皇太后宮大夫俊成(1114~1204)
藤原俊成。権中納言藤原俊忠の子で、百人一首の撰者、定家の父。歌論書「古来風躰抄」を著し、式子内親王に贈った、余情幽玄の世界を歌の理想とした。西行法師と並ぶ、平安末期最大の歌人。正三位・皇太后宮大夫となり、63歳の時に病気になり出家、釈阿と名乗った。
古来風躰抄から抜粋
どんな歌が良いかということを言うと、四条大納言公任卿は、(その私撰集に)『金玉集(きんぎょくしゅう)』と名付け、また通俊卿の(編纂した)『後拾遺集』の序には「詞は縫物の如くに(巧みに編まれ)、心は海よりも深し」などと申しているが、必ずしも錦の縫物のようでなくても、歌はただ、口に出して読んだり詠じたりしてみると、何となく優美に聞えたり、情趣深く聞えたりすることがあるものだ。そもそも「詠歌」と言うように、声調によって、良くも悪くも聞えるものなのである。
ただ、上古の歌は、意図的に姿を飾り、詞を錬磨しようとはしないけれども、時代が昔のことで、人の心も素直で、ただ自然と詞の出て来るのにまかせて言い出したのだけれども、心も深く、姿も高く(立派で格調高く)感じられるのにちがいない。
それ(聖武天皇代、萬葉集が撰ぜられた頃)より以前では、特に柿本人麿が歌聖であった。この人は全く常人ではなかったのか、彼の歌は、当時の歌の姿や心に叶っていただけではない。時代が様々に改まり、人の心も歌の姿も、折につけ移り変わるものだけれども、かの人の歌々は、上古・中古から今の末世までを、すべて見通していたからだろうか、昔も今も、どんな時代にも適って見えるようである。
その後(萬葉集の後)、延喜の聖帝(醍醐天皇)の御治世に、紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑といった歌人が歌の道を深く悟っているとお聞きになって、勅命により撰集すべしということで、古今集を編集して献上おさせになったのである。(萬葉集は歌を精撰しなかったけれども)古今集の時から、歌の善悪を判断し選び定めるようになったのであるから、歌のまことのかたちとしては、ただ古今集を(理想と)仰ぎ信じるべきである。萬葉集の後、古今集が選ばれるまでは、多くの代が間にあり、歳月が積って、歌風も言葉遣いも、すっかり変わったのは当然である。
歌の病というようなことは、時代が改まり(上代から)隔たって、物知りぶっていた人どもが、式(規則)を作ったりした挙句、病などを言い始めて人を混乱させたのだ、ということにしたいものだ。古歌までも不適当にあげつらうなど、卑しく見えることである。先達のことを言うのははしたないけれども、しかし上代の人の詠んだ心を勘違いしてあれこれ言うことは、もう少し遠慮すべきことであるから、敢えて申し上げるのである。
勅撰集秀歌抜粋
古今集
題知らず よみ人知らず
折りつれば袖こそにほへ梅の花ありとやここに鴬の鳴く
(已上此歌ども、何れも姿心いみじくをかしく侍り。そのうち、この歌梅ををりける袖の深く匂ひけるを、こゝには花はなけれども、鴬の香をたづね来てなくらむ心めでたく侍るなり。)
やよひの閏月ありける年詠める 伊勢
櫻花春くはゝれるとしだにも人の心にあかれやはせぬ
(としだにもといひ、あかれやはせぬといひはげましたる心姿、限りなく侍る也。)
やよひのつごもり雨の降りけるに藤の花ををりて人につかはしける 業平の朝臣
濡れつつぞしひて折りつる年のうちに春はいくかもあらじと思へば
(しひてといふ言葉に、姿も心もいみじくなり侍るなり。歌は唯一言葉にいみじくも、深くもなる物に侍る也。)
仙宮に菊を分けて人のいたれるかたを読める 素性法師
濡れてほす山路の菊の露のまにいつか千とせを我はへにけん
(此歌濡れてほすとおける五文字の殊にめでたく侍るに、又山路の菊の露のまにといへるもありがたくつづけて侍るによりて、すゑの句もなにとなくひかれて、いみじくきこゆるなり。)
しがの山越にて石井のもとにて物いひける人に別れける時よめる 貫之
むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人にわかれぬるかな
(此歌むすぶ手のとおけるより、しづくににごる山の井のといひて、あかでもなどいへる、大方すべて言葉ことのつゞき、すがた心かぎりなく侍るなるべし。歌の本體はたゞ此歌なるべし。)
おきの国に流されける時、舟に乗りて出立つとてよめる 小野篁
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよあまの釣舟
(ひとにはつげよといへるすがた、心たぐひなく侍る也。)
五条の后宮の西の對に住みける人を、行へ知らず成りて又のとし、梅の花ざかりに月のかたぶくまであばらなる板敷にふして、こぞを戀ひて讀みける 業平朝臣
月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして
(月やあらぬといひ、春やむかしのなどつゞける程のかぎりなくめでたき也。)
拾遺和歌集
東宮に侍ひける繪に、倉梯山に時鳥なきたる所をよめる 藤原實方朝臣
さ月やみくらはし山のほとゝぎすおぼつかなくもなきわたるかな
(此歌まことにありがたくよめる歌なり。よりていまの世の人歌の本體とする也。されどあまりに秀句にまつはれり。これはいみじけれどひとへにまなばむにはいかゞ。)
九條右大臣家の屏風によめる 平兼盛
あやしくも鹿の立どのみえぬかなをぐらの山にわれや来ぬらむ
(これほどの秀句はこひねがふべし。)
少将に侍りける時駒迎へにまかりてよめる 太宰大貳高遠
相坂のせきのいはかどふみならし山立ちいづるきりはらのこま
延喜御時月次御屏風歌 紀貫之
あふさかのせきの清水にかげ見えていまやひくらんもち月のこま
(此ふたつの歌はとりゞゝにまことにめでたき歌なり。)
くれの秋重之がせうそこしたる返事によめる 平兼盛
くれてゆく秋のかたみにおく物はわがもとゆひの霜にぞ有りける
(これこそあはれによめる歌に侍るめれ。)
いなりにまうでゝけさうしはじめて侍りける女の、こと人にあひて侍りければつかはしける 長能
我といへばいなりの神もつらきかな人のためとはいのらざりしを
(此歌いみじくをかしきすがたなり。たゞそのふしとなけれど、歌はかくよむべきなるべし。)
詞花集
神祇伯顯仲廣田社にて歌合し侍りけるに、寄月述懐の心をよみ侍りけり 左京大夫顯輔
難波江のあしまにやどる月みれば我身ひとつもしづまざりけり
(此歌いみじくをかしき歌なり。これは拾遺集に菅原文時歌に、水の面に月のしづむをみざりせばわれひとりとや思ひはてましといへる歌をいますこし優にひきなしてみえ侍るなり。此歌はむかしの歌にもはぢざる歌なり。)
大江擧周朝臣重くわづらひて限りにみえければよめる 赤染衛門
かはらむと思ふ命はをしからでさてもわかれむ事ぞかなしき
(此歌いみじくありがたく、あはれによめる歌なり。)