百人一首の歌人-20 紀貫之 | 松尾文化研究所

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百人一首の歌人-20 紀貫之

「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける」

(あなたのおっしゃることは、さて昔のままであるかどうか分かりません。馴染みの深いこの里では、花は昔のままにいい香りを漂わせています。)

 生年不詳〜945 平安時代前期を代表する歌人。「古今集」の選者の一人で、三十六歌仙の一人。日本最初のかな日記である「土佐日記」を著したことで知られている。

 大岡信の「紀貫之」を読む。

 正岡子規が「貫之は下手な歌詠みにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝する誠に気の知れぬことなどと申すものの、実は斯く申す生も数年前までは古今集を崇拝する一人にして候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味は能く存申候。云々」という書き出しで紀貫之と古今集をこき下ろし、それが世間的には受け入れられつつあった。そのような中でこの本が登場し、まさに貫之復権の書として注目されたのであった。彼は貫之の作品を詳細に調べ、そこに子規がほめたたえた万葉集からの脱却を図ろうとした貫之の明確な意図を見出したのであった。それは、貫之が万葉集以後長らく力を失っていた「やまとうた」を「からうた」に代わる地位に押し上げるため、漢詩や公的な日記に求められる要素を歌に与えようと努めた。皇族や貴族からの注文にこたえ、専門家人として晴れの席で屏風絵に歌を付ける。自分の姿を消し、他者に成り代わって歌を詠む。現実の風景でない平面の世界に言葉で奥行きを現出させながら依頼者の心を満たす。短時間でそれをこなすには、機知と学識に加えて、「やまとことば」の新規なコードが必要となる。万葉の世界に色濃い「我」を取り払い、漢詩が持っている季節の型を和歌に移植して花鳥諷詠を自在に操れば、現実の季節よりも暦の上での架空の季節、先んじた季節、あるいは逃した季節について、「しばしば抽象的、思弁的、想像的な和歌」を構築することができる。それを貫之は徹底した。古今集の仮名序には、日本の詩歌発想の原型がある。土佐日記と題された虚構の日記を生む物語作者としての力量と、それを完全に相対化し客観視する批評眼備わっていた。「下手の歌詠み」は。上手下手の区別ではなく、「やまとことば」を未来に開く「詩語」として、その可能性と沃野のありかたを指し示しうるか否かに腐心した詩人のへと姿を変えるだろうと、この本の解説で堀江敏幸は述べていて、大岡信の言いたいことがここに見事に集約されていたので引用した。

 次いで土佐日記を読んだ。

 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という有名な出だしで始まるこの日記。その後の「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「更級日記」「紫式部日記」など、主に女性の手による日記文学の先駆けになったことはいうまであるまい。土佐の守に任じられ、4年でその任を終え、都へ帰っていく有様を日記にしたのであった。土佐から和泉まで47日間の船旅であった。それだけでも現代との違いが実感させられる。その日その日の出来事を彼自身の和歌を掲げながら綴ったこの日記は、当時の生活の様子が実感させられる。最初読んだとき、和歌に対して厳しい批評がなされており、辛らつだなと思ったが、ほとんど全てが貫之の歌であるということを知って、歌人としての貫之の偉大さを感じ取ったのであった。いくつか歌を掲げてみたい。

都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり

あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりけり

色深くにほひし事は藤浪のたちもかへらで君とまれとか

浅茅生の野辺にしあれば水も無き池に摘みつる若菜なりけり

ゆく人もとまるも袖の涙川汀のみこそ濡れ勝りけれ

世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな

雲もみな波とぞ見ゆる海人もがないづれか海と問ひて知るべく

水底の月の上より漕ぐ船の棹にさはるはかつらなるらし

影見れば波の底なる久方の空漕ぎわたるわれぞわびしき

立つ波を雪か花かと吹く風ぞ寄せつつ人をはかるべらなる

都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ

漕ぎてゆく船にて見ればあしひきの山さへゆくを松は知らずや

わたつみの道触の神に手向けする幣の追風止まず吹かなむ

日をだにも天雲近く見るものを都へと思ふ道の遥けさ

年ごろを住みしところの名にし負へば来寄る波をもあはれとぞみる

たまくしげ箱の浦波立たぬ日は海を鏡とたれか見ざらむ

寄する波打ちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝下りて拾はむ

いま見てぞ身をば知りぬる住の江の松よりさきにわれは経にけり

住の江の船さし寄せよ忘れ草しるしありやと摘みてゆくべく

ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな

いつしかといぶせかりつる難波潟葦漕ぎ退けてみ船来にけり

疾くと思ふ船悩ますはわがために水の心の浅きなりけり

千代経たる松にあれどいにしへの声の寒さは変わらざりけり

君恋ひて世を経る宿の梅の花昔の香にぞなほ匂ひける

さざれ波寄する文をば青柳の影の糸して織るかとぞ見る

久方の月に生ひたる桂川底まる影も変わらざりけり

生れしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ

こうしてみると、歌人紀貫之の日記であることがひしひしと感じられる。やはり、正岡子規は一時の感情が爆発してあんな批評をしたと思う。もう少し長生きしていれば彼への感情は変わっていたと信じたい。それと同時に大岡信の力作に改めて賛辞を贈りたいと思った。