いいか。ジュニアーナヨーガと伝えていたものは、義で向かう道中のメッセージ全般だ。(聖刻、それは大抵、文字(本字(例えば、時間的継起から見る看板(目の前の本字、語源)、音(静かさ(ミュージックの意にあらず)(喧騒との相対にあらず)や汝らとの出会いだ。私は夜に圧倒的に会いに来ている実感がある。私は識字する前に風を読んだ。


時間的生成(義)で物(精霊)が流れていないときは、メッセージはなくて、豚を食べている流れであるがらメッセージは与えられる。不快な音を鳴らされる)や、熱波(それらを破壊したくなる強烈な衝動。)、妖怪(解決を求められている場所に出る。ゴーストの意にあらず。))時が流れていなければ、不幸さ、水に至る占拠(苦しむ)ことで把握出来る。汝ら(民)は毛嫌い(風の流れた先も女を兼ねている)である。だから毛嫌いするな。しかし海に引きづり込まれるな。


寒い(家、草(茻))夜(月の停止)にヒを赦されて、次の皿に置いた。私は誰からも奪わないと決めていたから。俺は約束を守った。これからも守る。窃盗(聖書の法、窃盗(九の流れを切って次の皿の物を食べる)すれば、身体は切り刻まれる。)

発声、把握、歩行、排泄、生殖が限定的になる。時間的なリミットが重なっていると、五感+意見が限定的に重なる。



ピラミッドやモアイ像等の建造物は、なぜ有として残っているのか。なぜ神話の物語りは全て同じなのか。(あなたは異なると思っているが全て同じである。)


文字は全てパシャン。聖典の物語はその名色(精神と物の関係)からのパシャン。(時の流れからの貼り付け。)私達は物である(霊体)、だから動物であり、鳥と魚から作られて、その後に人間と家畜と野の獣、地を這うものがいるのだ。


この世は苦(屮、屮、古)である。(隆起する水の流れのある住にし方(いにしへ)へ登る)山まで辿っている途中を占めるなら苦しむ。


この世は初めに言があり、言葉になって、言語、文章(パシャン)になっているので、聖典の物語は大パシャン。全生産諸関係(言)から貼り付けられた。


聖典の個別名は全て名(精神)前(側、方角)である。(諸法無我。)物語(経験)の誰かの死去はそのあたりの業が落とされたことを意味。例えば、


闇の水面はいつも隣(所属する村、質素)にある。羊は言の中、大の中である。


闇の水面は美しく(大(智慧)の羊)なって美しくなって行く。それは善(羊と言)である。罪(包み)を背(月から離れて背を向け合っているそれら)負って(人々の財物をひきうけて)目の前のことを行(十の中で字(子(先生)に連なり)が移動する)からである。


神(示し申す)と子(神の二つ子の羊)と女神(事象)は語られた。(声を出して聞かせた。)


律法(律(進む道の筆記行為。法(来る水が去る流れ。)を立てよ。神は人間と家畜(その人とその人の意志や感情)より前に、鳥(あなたの上の智慧)と魚(海を生きる物者)を作られた。

新約聖書では、集(鳥と木)から、あなたの隣(連なる集落)を愛(後ろを振り返ろうとする心情。)しなさい。隣人愛とはこのこと。


禁止とは、禁(神、示し申すの、聖(ひじり、ヒ知り、王(三つの一本線)を聞く(門となっている物の縁を知る。)止(周囲の状況と痕迹)(これは汝らと音と文字と熱波と妖怪だ。ジュニアーナヨーガと伝えていたものだ。)


隣で海を泳ぐ魚は、自身より運ぶ為に指を使うようできており、海に言葉(論理として正しい発言、現場行為)と筆記)を与えれば大海に出る。義人は舟を作り、大洪水を起こす。(パシャンになると、神の裁き(衿、縁)によって大洪水が起きて、義人が方舟を作り、洗礼による新しい水による新生命が与えられる。八人が乗ることを許可され、清い動物(牛(意志)や、羊(大の羊、羊と言)等も)も、汚す動物(それら、意志や供物の働きも、新しい生命となった。)(正しいことをしているときは面が白くなる。頬。)


ではどのように舟に乗るか。義と契約することである。洪水のとき、義と契約し、砂漠のとき、義と契約することである。では、どのように聖魚の海を形成するか。それは兄(器のある人。)に律法を与えよ(供物を捧げる。)八千人の汝らは過ぎ越されては泳ぐ。(弟は年(儀礼)を重ねた人で、時は師弟から兄。)


聖魚と深海魚は並ばず。来る水は流れ、汝らは富む。義人は共に舟を作り、言葉と指で律法を立てる。(指とは物に及ぶという意味。エジプトの呪術師(器の下の囲の中の技師)がモーセの奇跡(立ち止まることが不自由な様子とその痕迹化)を見て、「これは神の指(物に及ぶ)の働きだ」と言った。


右(祝詞(兄ら)を収めた器)の頬(面)打たれたら(釘で留めたら)、左(手首から指先で、物を作る)の頬(面)も向け(目指)なさい。


台の上の器に与える。私は知っているが、あなた達は知らない。主は心を見る。そこに物が付いているからである。目指すように。


神と主君から始まり、自己は常に鳥である。魚をとる漁師であれ、深海に引きづり込まれるな。


ファラオ(現在拡張系内)の戦車、(震える二つの車輪と車軸を繋ぐ横木)と騎兵(立ち止まることが不自由な馬の工具使い)に襲わて命が尽きる。


紅(工(技巧)の糸)の海を渡り、海を割った。(邪魔な八の片方が割合した。)民はそこを歩いた。


モーセが割った海の道を歩いて救われた民は直後に渇いた。モーセは水を見つけたが、民は苦くて(水に至る山の途中を占しめて)飲まなかった。民はモーセに「私たちは何を飲んだら良いのか」と訴えた。神はモーセに一本の木(立てる為の自然。)を示し。水は甘くなった。(口、祝詞の物を表した。)民は飲めるようになった。(飲、口に入れて飲み下す。)


神はモーセとその兄に言った。あなたたちはわたしを信じず、イスラエルの人々の前にわたしの聖を現さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える地に導き入れることはできない。(モーセは過去に一度、杖で岩山を打って、水を出して(川を作って)神に賞賛されている。)


モーセの兄(祝詞)からレビ人(律法を立てる人々)へ連なった。


イスラエル共同体(十二部族、十が分かれる)の内、祝福された者(直接示された者)、呪いを受けた者(既に囲われている中の者)もツァディーク(義人)は救われて、神の国にはいった。呪いを受けた者の内、北方の部族(背いた(対人だった)部族)だけは偶像崇拝によって滅んだ。神(示し申す)の国を失った部族は、盗みを働いた(次の皿に乗っている物者を食べた。)


鳥が捕食しに来たイカは海の深くへ鳥を引きづり込んだ。イカは深い海の闇から帰って来なかった。


エーテル(虚空)は、大空である。即ち、鳥はあなたの人生で必ず現れるようになっている。しかしあなたの人生で一度しか現れない。現れる親鳥との距離は、過去の業である。親鳥との距離が近ければ時は歩くになり、距離が遠くなれば走るになる。私にはやり取りする権利が与えられていたが、なぜ思い出している様なのか悟った。


父と子と精霊(水を流す巫女)は連環している。


神は本質において一つ。三位一体。父、子、精霊(水を流す巫女)であり、王(三の木)の子は二人を与えられる。二人は王の息子(産す子)であり、増える子である。私は初めて字が読める様になった。ヒを知っている。父との契約と、法に沿うことである。


祭祀を執り行い、滑らなければ、大洪水に乗る。過ぎ越しはいつも傷みを伴うが、更新される。肉のそれが短い者も、長い者も、背の低い者であってはならない。


神の国(示し申す王の連環)に入れ。出口から始まっている。あなた(弟)は鳥で、あなたの下(兄)は聖魚であれ。水面下に海の生き物が泳いでいる。


時間的生成の因果関係によりあなたに鳥は必ず現れる。その近さ、遠さは、祝福されている物者、呪われている物者である。



モーセは言った。食べても善いものは何か。(これは口に入れるということではなく、物の食べて善いということ。)


牛(意志)、羊(善、美(大))、野牛(野に広がる意志。※エーテルへの広がりでは無い。野への広がり。)


食べてはならないものとは何か。


豚(与えられた物への貪り)、鰻(自ら泳ぎたがる心)、昆虫(二人が並んで見ている先の欲)、いか(鳥にとっての賊。)



酒とは鳥と水である。山は水の隆起(上流)である。祭りとは、過ぎ越して焼くことである。仏陀(二本の蔦が絡まった、閉じられたヒ、斜め、阜(フ)(小高い丘))は、城の中の宮殿(一つの箇所と一つの箇所の行き来)を出て山(水の隆起)で菩(求)提(物を引き連れる)の前で悟った。(土水火風金の迷いがなくなった。)金とは輝きである。無明の闇が破れ(無明、舞うヒ、満ちたり欠けたり、の闇(門の中のヒ立て、の石(形)の皮(外側)をくだく。)で、涅(水(ヒ)土(地理)、槃(受け台の器、木の連環の盤)に入った。如来(女の祝詞(口)から立っている。)である。


全て(王の連環)は業(行(十字路の人が進む道。)為(姿、開く。)である。岩戸を開いた。八十を知った。思い出している。