「松菊万年歓」「十六葉八重表菊」「三千大千世界」「六根六境十二処十八界」「六道輪廻」

万事は休す。七日目に神は休んだ。


「三千」は「三回千を重ねる(小・中・大)」という意味であり、3000(アラビア数字)ではない。一仏一世界。これ自立系の正体(五の体)である。(一仏の教化する範囲の連環。)


「人」に横棒(クロス)で、千(金文)であり、それは十である。(流れ氏である。)(人類の中間(腹)に人間界が在る。)


神木は生命の依り代。(衣の時代の段々。)

木立てと叩くは連環している。命(一に連なり、叩く)は、光だった。

人、言、叩くは、信、仰、である。


上位連環(現在系連環)の光は、下位連環(現在拡張系連環)の光だった。(だから水、金、地、火、木、土、天、海の連環(冥王星は結末の第九惑星、鳩)(善の連環)を「天、体」と言う。「正(五)」は自立、現在、現在拡張、横回りに連環されている。



性欲とは生きている実感。(労働、祭りに所以する。)

労働(有用)は、秩序、合理、目的性、献身性。

祭り(無用)は、非合理、陶酔、破壊、浪費。忠信性。


労働と祭りは一環(連続)しており有無同然なり。舞う日月。

衣(身、体)として社会的(社の会(時)として)連環、連続しており、生死の日常的な統合性の実感の連環である。(連環は人生(現在系)において少なく、現在拡張系(核家族と場面)においては多く。)(だから数の多さの中にその人(アダム)はいない。)


祭りの正体は酔うということであり、労働は幸である。人間は労働(幸)がなくなると、自分は何者か分からなくなって不安定になる。だから労働(幸)をさせないと従業者は辞めてしまう。労働(幸)を相手が所有した際に職(従業)は起こる。物が展開して行く果て、職の隆起の交換物にその休(itの休日)が在る。

彼らは連ならない為に休めず。故にインフレーションの過程では、it(イット)の業(職)即応するitの休日を現象として与えるべきである。彼らにとってのバランスなのである。この辺で労働と祭りは、万年、萬(サソリ(虫類)ヘビ(爬虫類)に即した様相の祭り(形)になる。すぐ横にフェスティバルの様相が在る。


労働は有用で、祭りは労働で整えたものを無用(舞う化)にすること。(時空として過ぎ越させること。)

木立てにて連環する。有用性に対する問答は無用(舞う化、舞うを用いる)である。

休むは人、木、ヒの連環である。(下位に落ちれば落ちるほど、交換的、期限付きの人生になる。全現象の交換強度が強くなってゆく。そこに五蘊が漂う。)



労働とは、叩くということであり、祭りもまた叩くということである。有用と無用を合わせたものが叩くということである。叩くは木と連環している様子である。叩くとは一に連なる命である。木立て、叩く。園の中央ある命の木。ここから全て連環している。(命の木の果(このみ)は永遠の生命。善悪の知識の木の果を先に食べると堕落する。)(臨時課題から知性がある。時に臨まず、知性を所有すれば(損得が分かる。分からないが有ると思えば)誰でもとことん落ちることが出来て仕舞う。)(元王から完全が成る。)


自己より下位を見よ。善悪の知識の木の果を、命の木の果より先に貪りつづけてきた(損得、分かる、分からないを続けた)者達の五蘊は証拠である。天体現象の連環。縁に依り、命の木を食べる。知識の果は、命の木に連環する。あなたの月は物理的損得、感情的損得が何かを知らない。何かを愛するというのは、今現在の月の発光に対する渇愛である。それを前提にすると満ち欠けする。

時空は、こちらの様子が先行して、世間の様子が後行している。鏡。森羅万象とはこの事。



上位の木立てと叩きは、下位に木立てと叩くことを与える。命(一に連なり叩く)は連環している。幸は連環して叩くことにあり、進む(行、鳥)は、連環して木立てるにある。叩かなければ沈み、木立て進まなければ止まる。正(五)に連環せよ。それは舞う日月である。五蘊である。これ法なり。(律は木立て、指、筆書き。)


汝らの多くの過ぎ越し(祭り)は、木を担ぐ叩きである。それは破壊(滅)である。与える事である。酔うというは、園の中央から成る(連環する)人生経験の進みの臨場である。

これに即すことでアルコールに、薬物に、ロマンスに、裏切り(縁切り)に、敗北することあらず。


我は汝らに酒を飲ます存在である。爬虫類は酒を飲めず。アルコール、ギャンブル等に溺れて、地を這う。アイドールを好む事に対する罪悪感の欠如である。

傲慢にそれは分かるそれは分からない(これは得、これは損)を繰り返せば、青、緑を燃やす。燃えている炎は、吹き消す(消(あやか)る)ことが出来る。それは善悪の知識の果を食べないこと。命の木(一に連なり叩く木)を食べる。


木はイザナギから流れゆき、海はイザナミから始まる。

アタマは苦しみを始めに受け立ち、胸、腹、腿に十全たる人生を歩ませる。苦しみは水の集まるに至る。


小、中、膨らみである。大和(小)から魏(中)あり。鮮(から)あり。膨らみは亀(日の本)であり、その膨らみは中華民国である。その膨らみは朝鮮に連なる。

大和から連なる。膨らめば、膨らむほど排外主義的になる。



上を認めず、学ばずで人生は窮屈になってゆく。下を叩かず(与えず、連環せず)に、配ることで人生は物理的に期限的になってゆく。縁に即して、正しい言を云う。あなたが正しいことを知らないならば、知らないと云うは、正しい言である。(純粋に「格」を知る。各々の木の段。天、体の発光の影響力。)(排外主義的に人ノ間をアラビア数字的に固体化して、排外先のアラビア数字(人ノ間固体)と、僕の固体として比較(差別)をしない。)



例えば、4年前の人骨なら不気味だが、四千年前の人骨だとロマンスになる不思議は、鶴(鳥連なる。)になるより以降の万年の感受性である。

天、体の関係。衣(身、体)が連関的に膨らんでいるので、膨らんださきの同業は上で紡いでいない時は、必ず壊れるのである。


一般とは、一から連なり(船の縁を棒(木の奉行)で叩いて巡らせる。)格の人間関係と経済は証拠である。涅槃に至るには上下の縁を知るべし。



土器は八百度、陶器は千度、磁器は千二百度で焼く。湿った土(粘土)で器をつくる。

言葉が先にあるというのは、縄文土器と弥生土器がなぜ残っているかの答えだ。

葉(十ノ日、木ノ上の世界。)は隠れていて、縁への忠誠にて見える。


縄文土器は紀元前一万三千年から。弥生土器は紀元前十世紀から。弥勒に連なる弥生は、いずれ海から距離を取る。漁業は縄文人中心になる。縄文人の自尊心はアクセサリーになる。その上に女は君臨する。だから始まると言う。アマテラスは古事記だと女性だが、国家神道(縄文時間)だと男性だ。亀の時間は実在する。聖書の六部属と六部族を分けるとはこの事である。呪文と祝福は分かれる。千は重なっている。


初めに言あり、言は神(示、申、エロヒーム)と偕(とも)に在り、言は神なり。八柱ありて、七にて区切られ太陽あり。これ万年の時間なり。少から多として多の内に職業者は実在する。(太陽(形成)は四十六億年前。これは三千大千世界(千の三の重なり。千(小千) × 千(中千) × 千(大千)= 1,000 × 1,000 × 1,000= 10億。)(四、六。)(亀の時間にかけて、アラビア数字的に膨らむ。存在とは小から多である。)(過ぎ越すは一般なり。思い出に渇愛せず与えるべし(叩くべし。)(itの親は保護し、与える対象である。思い出を所有するは亀なり。親は木の上に立って見る者である。時(日、土)は流ル。


原始数、万年の時間(少ない、多い。)

メソポタミア(六十進法)(インフレーションにて、60分、60秒、360度。)

古代エジプト(十進法、記号の繰り返し。)、

古代中国(十進法、位取り)(算木、算盤。)

マヤ文明(二十進法)(0概念の明示。分けるの連環。)

ここからインフレーションにて、アラビア数字。(3000等)は0がないと説明が保たれない。)

パシャン処理(コンピューター、二進法(時間がないので(揺らぎだけなので)01で表面を正確に分ける。ここで0はnothingになる。このレベルではno(断る縁に即すが先行している。)


この世はヌーン(混沌)であり、それは八の咫である。進とは十に鳥連なる。伝統は自立系から現在系へ連なる鳥の連環(鶴)であり、文化は亀である。国家という文化の行方(旗)は白と中央の赤(四)である。丸い赤に入れ、叩け。木は示す通りである。宇宙は十二因縁なり。舞っているものが有る無いになるので、貨幣は刷ると一時的に亀に有効なのである。