「日本昔話」の全てはパシャン。現在拡張系から現在系を読み取るには、このパシャンを読む。読み取るには何が有効か、それは園の中央にある命の木(一に連なり叩く、木)である。なぜなら読むとは言(ロゴス)を売るからである。だから読むを先行すると、春(睦月、如月、弥生)が訪れなくなる。木と叩くの連環をして来ていなかった身、体は読むことは出来ない。汝らは下位の身、体だけ認識できる。
読めない者は上の木との連環の木を実行せずにいた。下を叩かなかった。即ち労働ではなく職をした。ご縁に手紙を感じず、職の生成元に罪悪感を予感せずに職を所有したこと。
そこで自分(所有物との即応関係、it(その休日やその人。)のよろこばせ方を工夫したこと。ここに空前絶後の勘違いがある。
鶴を助ければ、女(現在拡張系)が現れて物が与えられる。世は段で、世の中に答えは無い。方向しかない。だから「答え」は言(こと)を合わせるという意味である。
自分語りをして良いのは誰かの為になるときだけだ。水商売の現場をしていたとき、自らのことを優しいと考えていなかったし、出来ることは少ないと感じていたが、8クロージング以下の人達はゴミだと思っていた。なぜなら彼らは自分が好かれたくてやっていて、相手のことを考えないから。自分がショックを受けたり、自分の為に涙を流したりして汚いと感じていた。彼らの目の中の恐怖を見たい衝動が抑えられなかった。彼らは出会った人の立場を前提に日頃から考えず、自分が相手達の場に訪れたときに、よろこんだり、ショックを受けたりしている。悪びれもせず。
そのまま年を重ねた者は、思い出(ニュートンの時間の過去)(現在拡張系以下)にブルースを感じる。それは上下連環(縁)のパトスに沿わず、風が吹けばなびく心で「僕」を継続しているからだ。エロヒームは、どこまで落ちてもそのレベルに付いてゆく。その僕は最も超越的な形で壊滅を要求される。私はそれを知っている。
器を叩きまくると兄が出来る。これはゼウス、ポセイドン、ハデスの関係になる。説くとはこれである。それら三の後、クロノス(時)は幽閉された。(永遠となる。)(クロス(十)は永遠に連環する。)
湿った粘土で土器をつくる。一を感じて器を叩くと、木が示される。一に義を通して、木を立て、器を叩きまくると上流から水が流れる。引き続き木を立てて、器を叩くと上流からの水が下流に流れて兄が出る。肖ることができる。
(この間、善悪の知識の果は売られている。)(先に存在するのは命の木の果である。)
アタマは木、叩き(命の木)と「女」の、子産みから始まる。ムネは一の意志をもって示す。ハラは鳥連なる。アシは最も丁重にすべき客人(キャクジン)である。
弥生人は弥勒に連環する王(ムネ)、鶴(ハラ)であり、縄文人はその連環の脚(キャク)であり、弥生人を産んだ巫女がいる。これを大の和合(大和の政)と云う。(縄文人は一万六千年前からの黒柱である。)
では明治とは何か。それは外的世間である。それは鏡である。(昭和六十四年、その後大正十五年、その後明治四十五年)
アブラハムは突然現れた三人の客人を丁重にもてなし、のちにその客人たちは神の使い(天使)であったことが明らかになる。キリストは三日目に甦る。(黄泉かえる。)器が無くなり、生命原理が止まる。(ゼウスだけは結末が描かれない。将来のゼウスは金澤君だと思う。これはまだ来ていないことで、思っていることだからよく分らないんだ。一、二、三、十、百、千、万だから。四から九は十進法(百、千、万)を成立する三から十の内訳の説明のはずだ。だから一に基づいて四海を旅すると三になる。(何でも九から始まる。)一が甦るとき、二はすぐそこにいるから、連環で三は新たに始まっているような気がする。この様な時、私は知識の木の果ではなく、命の木を食べる。今までずっとそうしてきたから。
あなた方が自らを爬虫類でないと信じるならば、私は基本を教えることが出来る。
1、字は誰もつくって無い。(字は誰もが(言、鳥連なりが)作って舞ウ)これを無理矢理信じること。
聖書の様な聖典は地を這っている。流れ落ちて張り付いている。
2、さいし、さいしん。(ん、二つに分ける。)
新とは「祭祀」である。ん、は丁寧に迎え入れる道具。「本」当は道の具現だ。

