女の唇 <Second story⑥> | 明鏡 ーもうひとつの信義ー

明鏡 ーもうひとつの信義ー

韓国ドラマ『信義ーシンイー』二次小説

 

兵営の夜は、とても静かだ
訓練に疲れた者は、早々に寝床につき
早朝からの務めの者は、明日の為に眠りにつく
起きているのは、見回りと王様の寝所を護る者だけ
その者も今は兵営にはいない
私室の見張りを無くしてからもう五年になる

「誰が入っていても分からないが(俺の寝床にくるような輩は此処にはいない)」

確かに俺は王様の寵愛を受ける重臣イ家の息子だ
だが、長兄でも次兄でもない末息子
余程の者でなければ「婿に」とは誰も言わぬ
もし「婿に」などとなれば父上が首を縦に振らぬだろう
勿論俺がその気がないなどという理由ではなく
自らの利となる者との繋がりを得られぬ為だ
「王女か、医仙の娘なら首を縦にふろう」
真剣な顔でそう言われた時は、我慢ならなかった

「あの時はルビはまだほんの子どもだった」

戯言にも程があると憤慨し屋敷を飛び出した事もあった
あれから八年
同じことの繰り返しの王宮でルビだけが俺の彩になっていた
古い木の扉を足でコツンと蹴り肩で押し開けた
ふんわりと甘い香りがする

「来ているのですか?」

俺は慌てて寝台のある部屋の奥へと向かった
「うん」
寝台隅の柱によく医仙が着られている衣が無造作に掛けられていた
「此れを着て抜け出して来たのですか?」
「質問ばかりね」
「了承は得て(来たのですか?)」
「もういい・・・母様に言って来てるから」
時間はもうあまりないの質問ばかりしないで
絹の肌着一枚でシンの寝台に寝転んで頬杖をついた

「今宵かぎりですよ、もう無しです」

シンは寝台の足元に剣を置き
後ろを向いて上衣と下衣を脱ぎ卓の上に置かれた夜着に袖を通した
がっちりとした男の背中

「明日も早い。もう寝ましょう」

その言葉はとても優しくてなんの含みもない
「寒いでしょう、此方へ」
薄い上掛けを捲り身体を潜り込ませ私を背後から抱きしめる
私の肘がシンの胸に当たった
「どうしてもと言うなら俺が」
「父様に切られるわよ」
「そうですね」
どうして切られてもいいって言ってくれないの
その癖私を抱きしめる両手に力が入っている

「私が必ず(あなたを欲しいって言うから)」
「なんですか」
「いいの・・・いいの・・・」

いつになくシンは朝まで私を抱きしめていた
離れていく私を引き留めるみたいに
腕の力が弱くなった頃に私は体を起こした

「待ってて、帰ってくるの」

母様の衣を肩に軽く羽織りそのまま王宮へと向かった
上衣の紐を結びながら歩く、外はまだ暗くとても寒い
ムガクシの宿舎の前で大叔母様が立っているのが見えた
「来たか」
「はい」
「なんという格好だ」
「この方が目立たないもので」
大叔母様の背後にムガクシが二人控えていた
右側の者は、手に黒い衣
左側の者は、父様が持っているのより少し短い剣
背中に括り付けられるように装飾されている
「遠いぞ」
「分かっています」
「必ず帰ってくるのだ」
「勿論、父様には何処へ行ったかは内緒に」
着ていた衣を脱ぎムガクシに差し出された黒い衣を着た
身支度を整えたら、もう一人のムガクシが私に剣を渡した
「この二人の顔をよく覚えておきなさい」
「はい」
「時より向かわせる」
最後にその二人から黒い小さな布を渡される
「将軍、私どもが結ばせて頂きます」
目から下を覆う黒い布の紐をその二人が結んだ
この時私はチェ・ルビを封印した

「凍てつく夜も灼熱の夜も・・・耐えぬきます」
「裏門に馬を用意している、夜が明ける前に出立しなさい」

東の空がほんの僅かに光を帯びている
私は軽く頭を下げて走った
父様はきっと怒るにちがいない
烈火の如く連れ戻しにくるかもしれない

「待ってちゃ、手に入らない恋もあるのよ」

裏門に着く頃には空が紫色に染まりはじめていた
黒い馬とその手綱を持つ人の影がくっきりと見えた
「父様」
私は思わず知られたのだって思って立ち止まってしまった
「立ち止まるな!」
私は、声のままに走った
「早く行け!ミンがお前を欲しいと今日王様に言う」
「知っていたの」
「見つかる前に行け、必ず生きて戻ってこい」
王命を拝し王宮におらぬ者に婚姻を願っても
許しようがないと王様は言ってくれる
真っ黒な馬の赤い手綱に手をかけると父様が
私の腰を両手で掴み馬に乗せてくれた

「夜が明ける、行け」

父様は、馬のお尻を力強く叩く
馬は嘶き前脚を高く持ち上げた
豊な立髪が同時に揺れる

「三年、きっかり三年で帰ってくる」

父様のあんなに悲しそうな顔を見たのははじめてだった
誰もいない裏門から私は飛び出した

「行ってしまったな」
「そうね」

あの方は木の影から顔を出した
引き止めてしまいそうで見送れないと言っておきながら
来ちまうんだ

「3年って言っていたわね」
「延ばしても其処までだな」

何処へ行くのかなど問わなくても分かっている
一番困難で過酷な地でなければ意味がない
飼い慣らす事のできない虎を引き連れ戻る日を
俺は信じて待つ、お前の為に出来る事をしながら





ー春の宵、桜の下には魔物が巣食う③ー

きっと何人もの配下を引き連れ乗り込んでくるだろう
「此処を護っているのは、俺達だ」
「そうです、俺達だ」
「舐められるなよ、お前達」
不揃いで傷んだ鎧を纏う郷兵にも誇りはある
高貴な鎧に身を包み砦の上から命令だけをし
俺達に命を賭けさそうとする男を俺は赦せない

砦の上から黒く小さな塊が見えた
馬の手綱を掴み歩いてくる・・・少年か?
しっかりとした歩みだ、道に迷った訳ではないようだ
「ほらもうちょっとよ、がんばれー」
顔を黒い布で覆っているのが妙だが
微かに聞こえた声が、少年より高い・・・女か
「あそこまで行ったらお水飲もうね」
やはり女か、しかも悠長な言いざまだ

砦の上から男達が此方を見下ろしている
その突き刺さるような視線を私は睨みつけた
「戦いはここからなのね」
私は、将軍ユ・ヨンの一歩を踏み出した