こんな時間に書くのは、やはり
辛い気持ちが抑えきれない自分がいるのだと思います
今月、1人で叔父(自殺した)のお墓参りに行って来ました。
命日だと思い込んでた日付よりも1日後でしたが💦💦
どうしても、自分の中の疑問や悲しみと向き合う必要がある、PTSD克服する為にも
そう思ったから
墓石の前に来たら、やはり
泣けて、泣けて
心の中の言葉を沢山話できました
36年間父が絶縁状態だったもう1人の叔父の家を尋ねてみました
私の突然の訪問に叔父は、
そこで、自殺した叔父について色々質問してみました
36年も前のことで、忘れてしまっているのでは?と、不安もありましたが....
やはり、一番知りたかった自殺の理由は本当に誰も分からなかった
遺書も何も無いと.........
もうひとつの疑問
なぜ、絶縁状態だったのか
叔父は父への、憎しみや恨みは無く
心配だったと、お墓にお花を見る度にもしかしたらと思っていたが、探す方法が無かったと、涙ながらに話してくれました
そして、話ができるならしたいと
連絡先を交換して、私は帰路に着きました
そのことを、父に直接話そうと思い
その日のうちに、実家へ
まともな話し合いには、ならないだろうとは思いつつも
実家へ行きました
案の定、父は激攻しました
叔母の話になったからです。
父の中では、叔母と叔父はセットだったのでした
私は、可愛がってくれた最後の叔父との関係を修復出来たらそれがいいと思ったので、話をしましたが怒りで震える父を見た時に、強いフラッシュバックが
私は、父を責めるつもりはありませんでしたが
父には私がその話をすること自体が父を責めてると....
その後は、私を責め始め
過去の私の行ないを叱責し始めました
ああ、この人は45年近くたっても
私よりも弟が大切なんだと思い知らされました
次の日は診察とカウンセリングだったので一部始終を話すと
父への憎しみが強く、されたことを忘れられてない
最後に、私が父を憎むことは決して
悪いことでは無いからと、
仰って下さいました
皆さんこんにちは、以前にもアップしたブログです
私のブログ読んで下さり、ありがとうございます
始めにお断わりしておきたいことがあります
今回のブログは、内容がかなり重い話しになるかと思います。
もし不快に思われた方がおられましたら
ごめんなさい読むのを止めてくださっても大丈夫です
うつ病母さんが、「西城秀樹」さんのファンというjことは、以前にもお話しさせて頂きました。
今回はその続きになります
「傷だらけのロ-ラ」が私にとっての神曲だということはなんとなくご理解頂けましたでしょうか
うつ病母さんは「うつ病」の他にも「PTSD」 「ADHD」 「睡眠障害」と精神疾患の総合デパ-トみたいな疾患の持ち主です
悲しいですが、「精神2級」の手帳も、持っています
ここからは、本題です 私(あえて私と書きますね)
私は両親の両家にとっての初孫だということ。 私には怖い存在である「父」がいるということ。
その「父」に、「躾」という「虐待」を受け続けていたということ。
それは「母」も認めていたと言うことや、それが、「PTSD」の発端にったということ
弟が産まれると父の愛情は弟にだけそそがれるようようになったということ
大晦日に○○歌合戦を見た時に 「西城秀樹」 の
「傷だらけのロ-ラ」
「怪盗ゾロ」の「秀樹」に一目で恋に落ちたこと
それは、弟がいても変わらず続いていたことや
その辺りから心が壊れかけ始めていてかもしれないということ可愛がってくれる祖母と
テレビで見る秀樹が、壊れかけの私の心の支えになっていて、防波堤の役割をしてくれていたと言うことを、カウンセリングを受け
カウンセラーの先生と話していく中で、見つけた答えだと私もそう思えるようになったということ
このあたりまでが、パ-ト1で書かせていただいたことです。
今回はこの続きから書かせて頂きます
私の「ADHD」は、ここ2年前くらいに判断されました いわゆる「大人の発達障害」というやつです
診断が下りた時は、正直ほっとした自分がいました。今までの心の中の疑問の答えがみつっかた気がしました
と、いうのも私は幼稚園から「いじめ」にあっていました。理由はわかりません。でも今ならわかります。
周囲のお友達からしたら「発達障害児」なのですから、「変わってる子」に見えたのかもしれません。その「いじめ」は年齢が上がるに
したがって酷くなっていきます。「父」からの「虐待」も平行っしていましたから。どんどん心は荒んでいきました。
私には大好きな父方の叔父がいました。若かったので「○お兄ちゃん」と呼んでいました。長身で170㎝以上はあったと思います
きっと、テレビでしか会えない秀樹と重ねていたかのかもしれません。
「酷いいじめ」にあうと、この頃には自殺を考えるようにもなっていました中学1年のころです
「もう 嫌だ死にたい 消えたい」と強く思えば 思うほど
テレビに秀樹が出るんです 時には○の○ッ○スタジ○でマンスリーゲストの時もありました
心がボロボロの時、必ず秀樹がテレビに出る
今思えば、不思議な体験ですが、あの当時そこまで考える心の余裕はどこにもありませんでした
でも、間違いなく秀樹と祖母と○お兄ちゃんだけが私の支えでした
自殺を考えてた中一の12月 1本の電話 私がとるとそれは○お兄ちゃんの訃報でした
死因は、なんと自殺とのことでした 家族で父の実家へ
そこには、もうすでに布団に横たわった 顔に白い布をかけた ○お兄ちゃんの姿でした
悲しくて 悲しくて ズルイ大人達は原因は教えてくれず、何故自殺をしたのかはいまだに理由はわかりません
そのこともあり「PTSD」に拍車がかかったのは言うまでもありません、父方の祖母 母方の祖母も 他界 私の見方で唯一ありのままの
私を受け入れ 可愛がってくれる人は居なくなりました。
でも、唯一の救いもありました。母方の祖母にはひ孫を抱かせてあげらたことです。あの時の祖母の顔は忘れられません
この頃の 私の頭の中では「傷だらけのロ-ラ」がリピート再生していました
長くなってしまいました
最後も重い話になってしまってごめんなさいです
この続きはまたにしますね 思い出すとフラッシュバックするので これには困りますが「PTSD」の症状のひとつなので
これを自分の中で、ちゃんと消化して あのときの自分を認め 慰め 理解してあげなければならないのです
正直、辛い時もあって止めたくなる時もありますが ひとつでも治る疾患があるのなら頑張れます
こういう気持ちに慣れたのは ある秀友さんとの出会いに話しは続きます。
長々と最後まで読んでくださった 方々本当にありがとうございました