我が家は、子供の頃から
カレーと言えば、
「ハウス バーモントカレー」
でした
いつからなのか?
私自身、覚えて無かったので母に聞きました
すると母は、テレビのコマーシャルを見て美味しそうだったからと
きっとまだ、秀樹がコマーシャルをする前だと思うと.........

えっ〜〜〜
そしたら、我が家のカレーは
いつからバーモントだったのか?
衝撃の事実😱😱😱😱

私はてっきり、秀樹がコマーシャルに出たから、母がバーモントカレーにしてくれたとばかり思い込んでいました
😅😅😅

なので、ハウス歴は私が思うよりもはるか前から、我が家のカレーは
「ハウス バーモントカレー」だったと言うことが判明した、今日です💦💦

それからは、バーモントカレー
一筋
他のカレーは、ごめんなさい🙏
正直、私の口には合わないのです😅

舌がまるで洗脳されたかのように😂😂
子供が小さい時には、「甘口」は子供用に
「辛口」は、主人用にと
ルーを入れるまではひとつの鍋で
ルーを入れる時にもうひとつの鍋で
「辛口」用を作っていました
そこまでする〜🤣🤣と、親友に笑われたりもしましたが、今は子供達も大きくなり、「辛口」にしてもいいような気持ちにもなりますが、
私が「甘口」が好きなので、いつも買うのは
「ハウス バーモントカレー甘口」
                                            なのです😅😅
カレーは、節約料理にもなります
食べ盛りの息子達の胃袋を満足させるには、ルーも1箱丸々一個使います
月に多い時は4回、我が家のテーブルには、カレーが出ます🤣🤣

それでも、末っ子は
「やった〜😆今日はカレーだね😆😆」と、喜んでくれます
実は、節約&手抜きカレーの時も😅😅

カレーの話をラジオで聞き、今夜のメニューはカレーに決めた母でした🤣🤣

冷凍したお肉を解凍せねば😂😂😂
皆さんも、今夜あたりカレーの方も
おられたりしてヾ( 〃∇〃)ツ キャーーーッ♡

懐かしい、思い出と、涙の味がする
今夜のカレーになりそうです🥰🥰🥰

年内最後のブログです💦
こんな時間に書くのは、やはり
辛い気持ちが抑えきれない自分がいるのだと思います

今月、1人で叔父(自殺した)のお墓参りに行って来ました。
命日だと思い込んでた日付よりも1日後でしたが💦💦

どうしても、自分の中の疑問や悲しみと向き合う必要がある、PTSD克服する為にも
そう思ったから

墓石の前に来たら、やはり
泣けて、泣けて
心の中の言葉を沢山話できました

36年間父が絶縁状態だったもう1人の叔父の家を尋ねてみました
誰にも内緒でしたが
私の突然の訪問に叔父は、
戸惑い、驚き、困惑したようでしたが、私の訪問に涙してくれました

そこで、自殺した叔父について色々質問してみました
36年も前のことで、忘れてしまっているのでは?と、不安もありましたが....
やはり、一番知りたかった自殺の理由は本当に誰も分からなかった
遺書も何も無いと.........

もうひとつの疑問
何故父と絶縁状態になってしまったのかも聞いてみました
なぜ、絶縁状態だったのか

原因は、叔母と父の不仲が理由でした
叔父は父への、憎しみや恨みは無く
心配だったと、お墓にお花を見る度にもしかしたらと思っていたが、探す方法が無かったと、涙ながらに話してくれました
そして、話ができるならしたいと
連絡先を交換して、私は帰路に着きました

そのことを、父に直接話そうと思い
その日のうちに、実家へ
まともな話し合いには、ならないだろうとは思いつつも
実家へ行きました
案の定、父は激攻しました
叔母の話になったからです。
父の中では、叔母と叔父はセットだったのでした
私は、可愛がってくれた最後の叔父との関係を修復出来たらそれがいいと思ったので、話をしましたが怒りで震える父を見た時に、強いフラッシュバックが
私は、父を責めるつもりはありませんでしたが
父には私がその話をすること自体が父を責めてると....
その後は、私を責め始め
過去の私の行ないを叱責し始めました
我慢しましたが、弟が叱られないのに何故私は虐待されたのか?
勢いで聞くと、父の答えは
弟は要領が良かったから....
唖然としました。
「じゃあ、私も要領が良かったら
叱られる事も無かったの!」と聞くと

そうだろうな!と

聞かなければ良かったと思いましたが、もうこうなると私も歯止めが効かなくなり、
怒りをぶつけてしまいました。
そんな中でも、私は心の中で冷静に

ああ、この人は45年近くたっても
何も変わらない

私よりも弟が大切なんだと思い知らされました


帰りの車中では、
「傷だらけのローラ」をエンドレス再生して、号泣しました😭😭😭😭
アウトプットです

次の日は診察とカウンセリングだったので一部始終を話すと
父への憎しみが強く、されたことを忘れられてない
一時は許せたはずでしたが、
深層心理の奥深い所ではやはり、
許せていなかった。
それだけ肉体的にも精神的にも
深く傷ついていて、虐めでも、
両親から愛されてないと感じた
機能不全家族で、
その家族の中で起きた不幸を子供である娘の私にも背負わせた事もPTSDの原因だと.........

父への憎しみ、そのことをもう少し話させて欲しいとカウンセラーの先生にも言われ

最後に、私が父を憎むことは決して
悪いことでは無いからと、
されてきたことへの当たり前の感情だから、決して自分を責めないようにと
仰って下さいました

帰りの、車中でも
もちろん「傷だらけのローラ」を
エンドレス再生で、泣きながら😭帰宅

医師には、不安時の頓服薬も処方してもらいましたが、やはり
飲まずにはいられない自分が悲しく😭
そんな時はYouTubeで秀樹の動画を見てまた号泣😭😭😭😭😭
泣き疲れて、そのまま寝る😴

こんな感じの、繰り返しですが
去年と比べると、考えられない程
治療に前向きになったことや、
豊洲や大阪まで行けたこと、
外に出るかける機会が増えたこと
人と会い話す機会が増えたこと

カウンセラーの先生も驚かれていました

「秀樹さんと秀友さんからのパワーは
       凄いね🥰」と
        まで言ってくれました🥰🥰🥰

今年は私にとって、西城秀樹さんが
「たとえ僕に会えなくても、
     僕のファンが君を支えてくれるよ」 

   と言ってくれてるように、思います。

沢山、辛く、悲しみ、涙も枯れるくらいに泣いて、傷ついたけど😭😭😭😭

その分を三男を育てて行く中で、
足し算のご縁で、沢山のことを学ばせてもらい、
最後は秀友さんとのご縁まで足し算してくれました🥰🥰💖💖

これからも、引き算のご縁ではなく
足し算のご縁を大切にして
治療にも前向きに、向き合って
時間はがかかるかもですが💦💦

笠井アナとは比べてはいけませんが、
笠井アナと西城秀樹さんを目標に
これからも、頑張りたいと思います。

最後になりますが、
今年、足し算のご縁でお世話になりました秀友の皆様、本当にありがとうございました🙇‍♀️🙏
沢山の励ましとパワーを頂きました
これからも、自分のペースで
ゆっくりですが、前向きに
秀樹さんのように、諦めない姿勢を
目標に、頑張りますので
来年も、宜しくお願い致します🙇‍♀️🙏

どうか、良いお年をお迎え下さい

最後まで読んで頂き
ありがとうございましたm(*-ω-)m
来年も、頑張るぞ〜٩(。•ω•。)و

 

皆さんこんにちは、以前にもアップしたブログです



私のブログ読んで下さり、ありがとうございますお願い


始めにお断わりしておきたいことがありますお願い

 

今回のブログは、内容がかなり重い話しになるかと思います。

 

もし不快に思われた方がおられましたら

ごめんなさいお願い読むのを止めてくださっても大丈夫ですアセアセ

 

うつ病母さんが、「西城秀樹」さんのファンというjことは、以前にもお話しさせて頂きました。

今回はその続きになります

「傷だらけのロ-ラ」が私にとっての神曲だということはなんとなくご理解頂けましたでしょうか?

 

うつ病母さんは「うつ病」の他にも「PTSD」 「ADHD」 「睡眠障害」と精神疾患の総合デパ-トみたいな疾患の持ち主ですアセアセ

悲しいですが、「精神2級」の手帳も、持っています

 

ここからは、本題ですアセアセ笑い泣き笑い泣き  私(あえて私と書きますね)

私は両親の両家にとっての初孫だということ。 私には怖い存在である「父」がいるということ。

その「父」に、「躾」という「虐待」を受け続けていたということ。

それは「母」も認めていたと言うことや、それが、「PTSD」の発端にったということ

弟が産まれると父の愛情は弟にだけそそがれるようようになったということ

 

大晦日に○○歌合戦を見た時に 「西城秀樹」 の

「傷だらけのロ-ラ」

「怪盗ゾロ」の「秀樹」に一目で恋に落ちたことラブ

 

それは、弟がいても変わらず続いていたことや

その辺りから心が壊れかけ始めていてかもしれないということ可愛がってくれる祖母と

テレビで見る秀樹が、壊れかけの私の心の支えになっていて、防波堤の役割をしてくれていたと言うことを、カウンセリングを受け

カウンセラーの先生と話していく中で、見つけた答えだと私もそう思えるようになったということ

このあたりまでが、パ-ト1で書かせていただいたことです。

 

今回はこの続きから書かせて頂きますお願い

私の「ADHD」は、ここ2年前くらいに判断されました いわゆる「大人の発達障害」というやつです

診断が下りた時は、正直ほっとした自分がいました。今までの心の中の疑問の答えがみつっかた気がしました

と、いうのも私は幼稚園から「いじめ」にあっていました。理由はわかりません。でも今ならわかります。

周囲のお友達からしたら「発達障害児」なのですから、「変わってる子」に見えたのかもしれません。その「いじめ」は年齢が上がるに

したがって酷くなっていきます。「父」からの「虐待」も平行っしていましたから。どんどん心は荒んでいきました。

私には大好きな父方の叔父がいました。若かったので「○お兄ちゃん」と呼んでいました。長身で170㎝以上はあったと思います

きっと、テレビでしか会えない秀樹と重ねていたかのかもしれません。

 

「酷いいじめ」にあうと、この頃には自殺を考えるようにもなっていました中学1年のころです

「もう 嫌だ!死にたい! 消えたい!」と強く思えば 思うほど

テレビに秀樹が出るんです! 時には○の○ッ○スタジ○でマンスリーゲストの時もありました!

心がボロボロの時、必ず秀樹がテレビに出る!

今思えば、不思議な体験ですが、あの当時そこまで考える心の余裕はどこにもありませんでした

でも、間違いなく秀樹と祖母と○お兄ちゃんだけが私の支えでした

 

自殺を考えてた中一の12月 1本の電話 私がとるとそれは○お兄ちゃんの訃報でした

死因は、なんと自殺とのことでした 家族で父の実家へ

そこには、もうすでに布団に横たわった 顔に白い布をかけた ○お兄ちゃんの姿でした

悲しくて 悲しくて ズルイ大人達は原因は教えてくれず、何故自殺をしたのかはいまだに理由はわかりません

そのこともあり「PTSD」に拍車がかかったのは言うまでもありません、父方の祖母 母方の祖母も 他界 私の見方で唯一ありのままの

私を受け入れ 可愛がってくれる人は居なくなりました。

でも、唯一の救いもありました。母方の祖母にはひ孫を抱かせてあげらたことです。あの時の祖母の顔は忘れられません

この頃の 私の頭の中では「傷だらけのロ-ラ」がリピート再生していました

 

長くなってしまいましたアセアセアセアセ

最後も重い話になってしまってごめんなさいですお願いお願い

この続きはまたにしますねアセアセ 思い出すとフラッシュバックするので これには困りますが「PTSD」の症状のひとつなので

これを自分の中で、ちゃんと消化して あのときの自分を認め 慰め 理解してあげなければならないのです

正直、辛い時もあって止めたくなる時もありますが ひとつでも治る疾患があるのなら頑張れます

こういう気持ちに慣れたのは ある秀友さんとの出会いに話しは続きます。

長々と最後まで読んでくださった 方々本当にありがとうございましたお願いお願い