Modern View.

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テルヲとはどんな人間だったのか。

朝ドラ史上最も嫌われたお父ちゃんとして名高いこの男は、本当に難解なキャラクターだった。

それは何を動力源に行動する人間なのか、全く予期できなかったからだ。



言ってることとやってることが違うくらいならまだ分かるが、

テルヲの場合は

さっきまで言ってたこと「は置いといて!!!」

といきなり流れをぶった斬って突拍子もないことをする。

そしてその脈絡がなかったことが本人も誰も意図していないところで奇妙につながるため、余計にタチが悪いのである。



今週、そんなテルヲが死んだ。

全く同情の余地なんてないのに、月曜日からいきなり胸を詰まらせられた。

誰からも寄ってたかって貶される彼は自分がどんな顔をして良いのかわからないまま、それでも千代をよろしくお願いしますと頭を下げ続ける。

そんな姿を見ていると妙に悲しくて悲しくて、何にも言えなくなってしまうのだ(放送中は。ドラマが終わってしばらくすると、ようやくその催眠から解けていやいや都合良すぎるだろ!と突っ込めた。かろうじて)。




そして今週、全ての放送を観終えたいま思うのは、結局テルヲの異質さは千代ちゃんが奉公に出るときの、お母さんの写真を満面の笑みで渡したあの瞬間に集約されていたということだ。

テルヲの「異質さ」を視聴者に強烈に印象づけた、初期のあのシーンである。




以前、トータス松本は番組で「テルヲは自分にとっての幸せは他人にとっても幸せと思い込むような人間」と評していた。

ああ確かにそうだと納得した反面、劇中では依然としてそれだけではどうにも説明しきれない、腑に落ちないテルヲの様子が垣間見え、やはり悶々としていた。




例えば、事あるごとに千代を「自慢の娘だ」と誇ったり、映画会社に突入して社長に直談判したりする。

今週に至っては過去に揉め事を起こした場所にわざわざ赴いて、自分の死後、千代を頼むと頭を下げに行った。恩を着せるつもりなのかと思うと「こんなことで自分のことを許せなんて到底言えない」という。

改めて「何だコイツ?」状態だった。




そもそも、これらの行動はテルヲにとっての幸せだったのだろうか。

これまでの千代ちゃんのためを思った行動の原因は「父親らしいことをしたい」という自分にとっての幸せを満たしたかったからなのか?

だとすると、テルヲにとって「父親らしいこと」をすることは「自分の幸せ」だったということになる。

にも関わらず、本編では終始それとは相反する行動ばかりをとっていた。

最後も結局借金返してなくて、あやうく千代ちゃんの所に押しかけそうになっていたし。




妙に晴れやかで、でも誰よりも苦しそうな顔をしてはにかむテルヲ。

我が人生にいっぺんの悔いなしと言わんばかりの無神経な顔で、誰よりも辛そうな表情を浮かべるテルヲ。

そのテルヲの姿を観ていたとき、ふとその矛盾した心情と行動を結びつけるひとつの仮説が浮かんだ。

それは「テルヲは自分の感情と向き合い、それを表現する術を知らなかったのではないか」ということだ。




先の奉公に行く千代ちゃんとの別れの際、千代ちゃんに写真を差し出したテルヲは「こんなもんあったら栗ちゃんが嫌がるやろうからな、持ってけ」と言っていたが、ここには大切な視点が欠けている。

それはテルヲ個人がどう思っているのかである。

本当は千代が出ていかなければならない状態について自分はどう思ってるのか、その上でなぜそんな決断を下したのか、千代に自分をどう思って欲しいのかそんな溢れ出す思いを伝えたかったのではないだろうか。

それが金曜日の放送の冒頭で差し込まれた、千代と別れた後の癇癪を起こしたテルヲの姿だったように思える。

「ウチがアンタらを捨てたんや」という言葉に対してもテルヲは何も言えなかった。おそらくその言葉に対する怒りや悲しみ、そして自分に対する失望感も含まれていたのかも知れない。



そう考えると、テルヲのセリフの白々しさにも納得がいく。

事あるごとに言うもののそう思った理由については言及しない「千代はワイの自慢の娘や」、謝るときの一辺倒な「堪忍や」。

いずれも形はあるが、中身のなさを感じずにはいられなかった。本来であればもっと多様な言葉を用いて自分の感情を表現することができたはずだ。



ただ、テルヲには「表面」しかない。それを形成しうる複雑な感情との向き合い方が分からないために、一辺倒な表面上の言葉を使ってしまうのだ。

自分がどう思うのか、それをどんな態度や言葉で向き合うのかーー人間が人間たる所以でもあるこの利点を、テルヲはついに一度も獲得することなく死を迎えようとしていたのである。




しかし、テルヲは死期が迫る中、やはり「なぜそうしなくてはいけないか分からない」まま、千代のもとに駆けつけた。

「父親らしい」ことがしたいとか、そんな難しい欲望が彼を突き動かしたとは、本人も気が付いていないだろう。

ただ一心不乱に、自分の感情と相対する適切な行動は何かを考える間もなく、思いつくことをただやったに違いない。




テルヲが監獄でみた幼い頃といまの千代ちゃんの姿、そして満面の笑みで投げかけられる「お父ちゃん」という言葉は、きっとテルヲが死ぬまでに本当に欲しかったものなのだろう。

お母ちゃんが死ぬことがなければ、そしてお母ちゃんとの生活で感情を表現する機会に恵まれていれば、

テルヲはきっとその大切な瞬間を享受できたのかもしれない。




ただ、それが自分にとってそんなにも価値があるものだったと気づいたのは、意識が遠のく最期の瞬間だった。

そして同時に「それを見ることができなかったのはなぜか」という、これまでの自分の咎に向き合うことができたのもあの瞬間だった。きっと猛烈な後悔と充実感が同時に訪れたのではないだろうか。




ある意味、最期まで鈍感でいられれば楽に死ねたはずだ。

テルヲに対する一番の罰は「『自分の感情との向き合い方が分からず、また自分が最も欲しかったものすら分からなかっため、それを手に入れられなかったこと』が最期の瞬間に分かったこと」だと思う。




トータス松本さん、脚本の八津弘幸さん、本当に最高でした。ありがとうございました。

今後も楽しく観させていただきます🙇‍♂️




P.S.

ほっしゃん演じる千さんが口では「地獄のテルヲはんに」と言いながらも、誰も見てないところで天国に盃を掲げたシーンも、最高でした。









自分ばっかり、なんでこんな目に…。




なんてこと、よく考えませんか??





僕なんかはもう
こんな思考の常連中の常連といいますか、




良く言っても悪く言っても、
「被害妄想が激しい」人生を爆走中でございます。





お久しぶりです。
もだんあっぷる。でございます。





なに?
いきなりしんみりし過ぎて
読む気失せる?






そう言わずそう言わず。
最後まで読んでください。
なにも不幸自慢がしたかったわけじゃないんです。




うそ、ホントはしたい。
存分にしたいですがな、そら!!
むしろ聞いてよ!!




と、
気を抜くと
すぐに本筋から外れてしまいそうなので、
とっとと本題に入ります。





行ってまいりました。
オリジナル・ラブの
「Eternal Return Tour 2017」。



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田島さんにどハマっておよそ2年。




それよりも前から
お馴染み「接吻」とか「ヴィーナス」とか、
「そら嫌いな人間なんていませんわな的名曲」は聴き親しんできた次第でございますが、





アルバム一枚を通して聴いて、
その魅力を検証したい!





と思うほどの忍耐力も情熱も、
失礼ながら、
その当時は持ち合わせておりませんでした。




こんな気持ちがガラッと一転したきっかけは、
この度休止が決まり、未だ話題が冷めやらない「ビートラム・フェス」でございました。






さてここで、
自分で言っておきながら何なのですが、
少し話を脱線させます。





ビートラム!!
なんで?! なんで休止なの!?






信じられないのよ、未だに。





フェスにしてはコンパクト。





いままでは聴くことがなかった、
いや、
存在すら知らなかったアーティストの音楽を
乗り慣れた電車に揺られながら聴くことができるという、
「日常」と「非日常」が見事に融合した不思議な空間。





そして、
いつもは気を張り詰めて仕事やら学校やらに向かっている日常の風景の中で
真昼間から Beer…ビーア…
を嗜むことができる優越感。





まさに
「地元の、地元による、地元のための…」







…とか書くと
あいつもついに閉鎖的に…
とか言われそうなので、





「地元の、地元による、全国の音楽ファンのためのフェス」
だったわけですね。





冗談抜きで、





富山を
全国的に開かれた“観光”県へと変えていくためには
絶対に欠かすことができないイベントだったと思うんですよね。





ツイッターの公式アカウントへのリプを読むと、






このイベントに行ったことで
富山の魅力にも気がついた!!
と言う方がたくさんいらっしゃるんですよ。



うーん、惜しい。
誰だ。誰の陰謀だ。





金○か。
陰湿なやつだ。。。(消されるぞ)







というところで
お待たせいたしました。
本線に戻ります。





田島さんの魅力を知ったのも、
まさに
このビートラム・フェスだったわけです。




田島さんはまさに、
「ライブ・アーティスト」
を体現する音楽家だ、





と私は思いました。





CDで聴くのとでは
まるで印象が変わるのです。





迫力。大迫力。





どれだけ田島さんに近いステージであったとしても
決して近づくことができないほどの大きな「気迫・気力」を持った方なのですね。




文字通り「体」の「力」を使って、
数々の名曲を掻き鳴らす姿が
ズガンッッと僕の心を捉えたわけです。




田島さんの曲が良いことはね、
誰だって一曲聴けば分かるんだから。
わざわざ僕がしのごの言う必要はないでしょう。











でも強いて言うなら、
(やっぱり言いたいんかい)





「いつまでも追い続けている」音




であるというところでしょうか。




何かに葛藤して、とか
違う自分を探して、とか
ではなく。







結構聞かれる意見が
「大人な音楽」
「ジャジーだ」
「ロマンティック」と言うもの。




確かにそう言った面が目に付きやすいですよね。



でも、
まずなによりも忘れてはいけないのは
「貪欲さ」ではないかと。




答えがないからこそ、
恐れを持たない。




真に自分を愛しているからこそ、
彼の音楽は安心して聴くことができるのではないでしょうか。





そして、
軽やかなメロディアスでありながら、
力強く、印象的なフレーズ。





氣志團の翔やんは言いました。





「田島貴男は ブルースだ」と。





まさにその通りだと思います。
「唄い」なのです。




田島貴男のあのパワフルなパフォーマンスは
このブルーズ魂が曲に収まりきらず
外へ外へとあふれ出そうとしていることが要因なのではないかと考えてしまいます。
彼の歌はコブシすら似合いますね。

 




で、




まとめますと、





 
軽やかで魅力的なメロディは
「トレンディーなラブ精神」から。
力強くて印象的なフレーズは
先人から脈々と伝わってきた「哀愁」と「『絶望の中の希望』」が合わさったブルーズ魂から来ているのではないか!と。





そんなところが、
田島貴男の魅力なのであります。




長くなりましたが、
ビートラム・フェスにおいて田島さんの迫力を体感してからというもの、
某Y氏にはこれまで揺さぶられることがなかった“何か”が
ダイナミックに震わされてしまいました。
 



そしてなおかつそのサムシングめが
件の「震え」の病みつきになってしまったのでございます。





さらに幸か不幸か、
田島氏はビートラムからひと月も経たぬうちに
同じく富山で「ひとりソウル・ショウ」なるワンマンライブを開催。




所謂「サンドイッチの具がない」状態によって、
パンの旨みを……
じゃなくて、
田島貴男の旨みを存分に味わってしまったのです。



ちなみに、
去年まではこの
「ビートラムからのソウル・ショウ」の一連の流れがお決まりごとのようになっており、



我が家の中では
この2つのイベントに参加することが「秋の到来の象徴」となっていたのです。





このままビートラムが開催されていれば、
「富山の秋は田島貴男が運んでくる」
というキャッチコピーが成立しそうだったのに…(僕の中で)。やっぱり残念。。






あ、また脱線した。







で、そんなこんなで、





まんまと田島さんの魅力に取り憑かれ、




セコセコとライブに足を運んだり、




音源を聴いて研究したりしてたのですが、





ひとつ戦々恐々としている点がありました。







「田島貴男ひとりでこんなにパワフルってことは… 
オリジナル・ラブでライブを体感したら…
どうなっちゃうんだろう❤️」








そう。
それまで僕は
「田島貴男」名義のライブには参加していたのですが、
「オリジナル・ラブ」としてのライブには参加したことがなかったのです。




うーん!聴きたい!
生のツインギターやらベースやらドラムやらキーボードやらコーラスやら、
ひとりソウルショーでは再現しきれないバンドサウンド!!
実に聴きたいぞー!!






と、ずーっと思うこと2年!!
(やっと中盤の冒頭の年数の話に繋がります)




ついに、新潟は新潟LOTSで
オリジナル・ラブによるライブを観ることができたのです。




いや、もうねグルーヴ感がハンパないと。
唸ってるんですよ。身体中で。
爆発しそうでした。
溜まりに溜まっていた複雑な憂鬱が、
一気に晴れていった感覚をすごく覚えています。




いままで僕の中で色を持っていなかった曲が、
予想もしていなかった塗料で着色されていきました。





どーしていままでこの曲の良さを気付かなかったよ、自分!!




そして、田島さんのかっこよさよ。
ライブパフォーマンスのどこを切り取っても絵になる。
「貫禄」とかなんとか、
重たい言葉は似合いません。
よく跳ねること、よく踊ること。
あぁ、音楽を愛してるんだなぁ。




愛しすぎてどうしようもなくて、
カラダが勝手に動いちゃうんだなぁと、
冷静に分析してる僕もどこにいました。



ちょくちょく、
「こんな曲知らないかも」
「全然売れなかった!」
的な言葉を使うのですが、
不思議と「恥ずかしさ」は伝わってきませんでした。
でも、それは当然なんだと思います。




そこには常に
「自信」があるから。




そして
純粋に音を「楽しんで」いるから。




本当に楽しそうなんですよ。
どこでやっていても関係ないんだなぁと。




きっとそこに対する葛藤は想像以上のものがあったはずです。
むしろ誰だってあるでしょう。




でも田島さんには
スッと一本の道が見えたんだろうなぁと。



自分は何者なのか…とまで言うと大袈裟かも知れませんが、
結局、音楽家は「音」を「楽しんで」いるからこそ、存在できるのでしょう。
誰かのためだとか、
こんな思いがあるからとかではなく、




ただそこに自分があり続けること。
それが「音楽」なのではないでしょうか。




慈善事業じゃないからね。

















ちょっと飛躍し過ぎたかな。笑
でも僕はそこまで考えてしまいました。




そして、新潟でのライブを語る上で
1番欠かしてはならないこと。
それは田島さんの体調不良。




ダメな顔してました。笑




あれは本当に体調が悪い人のやつ。





朦朧とし過ぎて、
どうしても立てないくらいの時の体調の悪さが伝わってきました。





いままでのライブでは見ることがなかった
歌詞を間違える姿や、
おそらくは「はちみつレモン」をMCの合間合間に飲む姿など、
すごく心配になりました。





それでも田島さんは負けずに歌い切っていました。




いやぁ…あれがプロ根性だなぁと。
しみじみ実感させられました。




自分の役割が分かっているからこそ、
どんな状況でも負けることなく
力強い声を出す。



それは自分の曲と、
自分の曲を好いているファンと、
自分の曲を一生懸命奏でてくれるメンバー、
そして自分自身を愛しているからこそ、
できることなのだと思います。





あと
これは完全に私感ですが、





僕と田島さんとでは
「辛い」の種類は異なっているかとは思いますが、





「どれだけ辛くても僕はこうして踏ん張ってる!!君も踏ん張れ!!」



というメッセージを伝えてくれているような気がしてしまいました。





今の僕にはいちばん効きました。




田島さん!
ありがとうございました!!



また10月にお会いできることを、
楽しみにしております!!