優*游涵泳 -3ページ目

優*游涵泳

語りえぬものについてこそ、語ることを試みつゝ。

11月10日、日本弁論連盟主催「第64回文部科学大臣杯全国青年弁論大会」に出場しました。澄んだ秋晴れの中、東京の地で迎えた今大会の会場は、高野山東京別院。従来のホールではなく、本堂にて競弁が行われました。前日に行われた登壇順の抽選も、おみくじを使って決めるという遊び心がありました。

 

 

結果は第8位。全体の講評では、中高生のレベル上昇に比して、一般の部(大学生・社会人)の完成度は今ひとつ、といった趣旨のコメントを頂きました。一方、決まった練習場所もなく、面倒を見てくれる顧問もいない中で、社会人が自分で様々な調整をしながら大会に臨むことは、それだけで尊いと仰ってくださる審査員の方もいらっしゃいました。

 

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今回の演題は「語られざる遺産」としました。自分の仕事に関連付け、初めて土木の分野で弁論をしました。土木遺産を切り口に日本の文明化を辿り、日々接している留学生からの学びを取り入れ、私たち1人ひとりの行動や選択が、次世代が生きる街づくりに重要な役割を果たすのだというメッセージを残しました。本大会では中高生が沢山聴いてくださるということもあり、この論旨を「優しさ」というキーワードで結び、柔らかみのある弁論に仕上げました。

 

華やかなもの、分かりやすいものが持て囃される時代。それはそれで構わないのですが、それを可能にしているのは、当たり前過ぎて見過ごされている、安全で快適な都市基盤が成り立っているからです。「目立たないほど良い土木」といわれるように、その「当たり前」を維持・発展させている影の立役者が沢山いる。そして、そんな日本人から技術を学ぼうと懸命に取り組んでいる留学生たちの姿は、豊かさに慣れ親しんだ私たちに、立ち返るべき原点を示しているように思えるのです。

 

見慣れた街の景色は、先人たちが築いてきた知恵と努力の結晶であること、そこには責任という名の「優しさ」が眠っていること。そんな小さな気づきを、1人でも多くの人にお届けできたら、この弁論の目的は十分に果たされたことになろうかと思います。作中でも申し上げましたが、「専門家でない自分にも、できることはある」、そんな思いを具現化した作品でした。

 

今季はとにかく仕事が忙しく、推敲や練習に当てられた時間は、昨年度の半分以下でした。それでも、その中でできることを尽くす。それが社会人弁士たるものです。社会人だからこそできる話題提供、という意味では、多少なりとも大会に貢献できたのではないかと思います。

 

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総合して、これまでで一番楽しく、心満たされた大会でした。一番の理由は、職場の方や友人、家族など、日頃側で見守ってくださっている方々に、直接応援に来て頂けたことです。今回のテーマ選定の第一義は、職場への恩返しにありました。土木のテーマで登壇する、それ自体の価値が大きいことでした。

 

また、前日の交歓会でも繰り返し話しが出ていましたが、これだけ沢山の方の弁論を拝聴できること、そして新しい出逢いや、懐かしい再会があること。そんな、人と人との繋がりが、大会で得る最も貴重な財産です。私自身、12年のブランクを破って弁論を再開してから三度目となる本大会は、一緒に高め合い、支え合ってきた方々、特に社会人弁士の皆様に改めて感謝する機会となりました。

 

追う者も、いつしか終われる者になる。すっかりベテラン扱いされている私にも、まだ背中を見せてくださる先輩弁士がいらっしゃることは、とても心強く、また誇らしいことです。私も、若い世代の弁士の支えとなれるよう、今後も前向きに取り組んでいきたいと決意を新たにしました。

今季の弁論『優劣の彼岸』を成仏させます。弁論は、声や間、聴いてくださる方との関係性の中で成立するものであることから、原稿の掲載は控えることにしました。ただ、関心を寄せてくださった方も多く、今後も向き合っていくテーマなので、お世話になった資料たちをご紹介いたします。御清聴、誠にありがとうございました。


 

<Books>

Gareth M. Thomas(2017)”Down's Syndrome Screening and Reproductive Politics: Care, Choice, and Disability in the Prenatal Clinic”, Routledge

雨宮処凛(2014)『14歳からわかる生命倫理』,河出書房新社.

石原理(2016)『生殖補助医療の衝撃』,講談社.

大谷徹郎・大石祥子(2018)『流産をしない 繰り返さない 着床前スクリーニングQ&A』,はる書房.

大谷徹郎・遠藤直哉編(2005)『はじまった着床前診断 流産をくり返さないための不妊治療』,はる書房.

島薗進(2016)『いのちを”つくって”もいいですか?:生命科学のジレンマを考える哲学講義』,NHK出版.

シュレーディンガー(2008)『生命とは何か:物理的にみた生細胞』岡小天・鎮目恭夫訳,岩波書店.

小林亜津子(2011)『はじめて学ぶ生命倫理:「いのち」は誰が決めるのか』,筑摩書房.

杉俊隆(2007)『EBMに基づく不育症診療の実際』,金原出版.

杉俊隆(2014)『不育症学級 改訂版』,金原出版.

杉浦真弓(2017)『エビデンスに基づいた不育症・習慣流産の診療』,金芳堂.

ニーチェ(1970)『善悪の彼岸』木場深定訳, 岩波書店.

中川孝(1995)『六祖壇経』, たちばな出版.

西山深雪(2015)『出生前診断』,筑摩書房.

日本学術会議事務局(2018)『<いのち>はいかに語りうるか?:生命科学・生命倫理における人文知の意義』,日本学術協力財団.

福岡伸一(2007)『生物と無生物のあいだ』,講談社.

増渕幸男(2010)『「いのちの尊厳」教育とヒューマニズムの精神:生命科学との対話の道を探る」, 上智大学出版.

柳田邦男・静慈圓(2007)『「生と死」の21世紀宣言:日本の知性15人による徹底議論』,青海社.

米本昌平・ぬで島次郎・松原 洋子・市野川容孝(2000)『優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか』,講談社.

流産・死産経験者で作るポコズママの会編(2007)『ともに生きる:たとえ産声をあげなくとも』,中央法規出版.

 

<Journal>

「着床不全・流産をいかに防ぐか:PGS時代の不妊・不育症診断ストラテジー」,『臨床婦人科産科』第71巻 第9号, 医学書院.

「不育症を知る」,『助産雑誌』 第66巻 第10号,2012年10月25日発行, pp.811-848, 医学書院.

「『卵子の老化』が問題になる社会を考える:少子化社会対策と医療・ジェンダー」,『学術の動向』第22巻 第8号, pp.7-51, 日本学術協力財団.

海老原嗣生(2015)「命を選別する『着床前診断』どう考える?」,『プレジデント ウーマン 2015年9月7日号』,2015年9月7日.

杉原徹(2006)「新優生学と教育:生殖系列遺伝子改良と子どもの<他者>性をめぐる考察を通して」, 『東京大学大学院教育学研究科 教育学研究室研究室 紀要第32号』,2006年6月.

徳永哲也(1997)「生命倫理と優生思想:出生前診断と選択的中絶をめぐって」,『メタフュシカ 大阪大学文学部哲学講座 [編]28号』p.65-P.80, 1997年12月25日.

野村真理(2006)「優生学と倫理」,『講義録・研究者になりたい人のための倫理:先端科学を中心に』p.53-58 ,2006年,金沢大学.

古川雅子(2016)「新型出生前診断の増加は障害児排除につながらないのか」,『AERA 2016年10月31日号』,2016年10月31日.

森岡正博(1994)「人間生命の始まりと生命倫理学」,『法哲学年報1993巻』p.19-24 ,1994年.

八藤後忠夫・水谷徹(2005)「障害者の生存権と優生思想:障害児教育への示唆と展望」,2018年2月.

 

<Website>

University of Lethbridge "What is Newgenics?", <https://eugenicsnewgenics.com/2014/05/14/what-is-newgenics/>, 2018年2月5日アクセス.

坂野真理(2007)「法の理念と国民の価値観:日本の優生史をたどる」,<https://www.mskj.or.jp/report/2899.html>,2018年6月4日アクセス.

山口裕之「優生思想と生命倫理」,徳島大学総合科学部学部共通科目「科学と人間」講義資料, <https://web.ias.tokushima-u.ac.jp/shin-kokusai/scienceandhumanity/2009/20090626yamaguti.pdf>, 2018年1月30日アクセス.

山中智哉(2018)「着床前診断とは?種類、メリット、対象者、安全性について」,<https://news.ameba.jp/entry/20170512-866>, 2018年1月30日アクセス.

 

<Others>

毎日新聞(2018)「旧優生保護法を問う:強制不妊手術で国を提訴『尊厳侵害、違憲』」,2018年1月30日.

毎日新聞(2018)「訴訟をきっかけに多くの人が名乗り出てほしい」,2018年1月30日.

松原洋子(2018)「優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこに向かうのか」,ゲノム問題検討会議第5回シンポジウム資料.

 

<Special Thanks>

立命館大学大学院先端総合学術研究科 松原洋子先生

清泉女学院短期大学 神門しのぶ先生

京都大学大学院医学研究科 大音理恵様

杉ウィメンズクリニック 杉俊隆先生

慶應義塾大学病院臨床遺伝学センターの皆様

横浜国立大学関係者の皆様

各種大会関係者の皆様

恩師、友人、家族、空の子供たち

1月12日、髙松瑞樹弁士主催「第一回高松杯全日本弁論大会」にて、優秀賞(第2位)を頂くことができました。香川県高松市にて開催された今大会は、”弁論ガール”として弁論文化の普及・発展に尽力されている髙松弁士の新たな試みで、他の大会に見られる年齢制限を廃し、10代から70代までの弁士が集いました。

 

応募動機も含めた予選を経て、本選では従来の「論旨」「表現」という評価基準に加え、参加者の方々からの投票による「感動」という要素も盛り込まれました。出場弁士は学生5名、社会人5名。約半数は弁論初心者ということで、多くの人に門戸を広げたいという髙松弁士の願いが具現化された大会でした。

 

弁士へのインタビューや大会後の懇親会も用意され、この大会を通じて多くの出逢いに恵まれました。この大会で「弁士」としてデビューされた方々の真っ直ぐな姿、目を輝かせて夢を語る学生弁士たちの姿には、特段感銘を受けました。かくいう私も、今回はコンディションの調整に苦戦し、出番を終えてから知り合いの方々にご挨拶した際には、涙が溢れてきました。弁士として、また一歩進む機会となりました。

 

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昨年の文部科学大臣杯で髙松弁士にお逢いした際、「伝統的な大会では敷居が高い方々にチャンスを」とのお話を伺っており、自分が応募すべきか、暫く悩みました。しかしそのような趣旨の大会だからこそ、「社会人でも弁論は続けられる」ということ、そして学生弁士の方々に対しては「卒業が引退ではない」ということお伝えできればと思い、応募に至りました。

 

それでも、”経験者”であることが、今回の大会では逆の意味でコンプレックスになり、これまでに経験したことのない不安が押し寄せました。身振り手振りもなく、静かに語る自分のスタイルが、どのように受け止められるのか。自分はこの大会で、どのように振る舞い、どのような役割を果たすべきか。大会前夜まで懊悩しました。

 

そして当日の朝決めたこと。それは、そのままの自分を出そうというシンプルなものでした。様々な全国大会を闘ってきた者として、これまで大切にしてきた自分なりの弁論の形、関係者の方々や演台への礼節を、自分の姿で示していこうと。自分が登壇できたということは、登壇できなかった人たちがいるということです。遠くから応援してくださっている方々への想いも載せて、その1日を懸命に生き抜きました。

 

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高校時代のように「一大会一原稿」で臨むには時間が足りず、またそれぞれの大会開催日も近かったことから、今季の弁論『優劣の彼岸』は、非常に多くの方々に聴いて頂ける作品となりました。尾崎行雄杯、文部科学大臣杯、そして今回の高松杯と、それぞれに色の異なる大会で一定の評価を得たということの意味を、現在は振り返りながら考えています。

 

高松杯で繰り返し強調されていたのは、「弁論は生き様である」ということです。7分間に、その人となりが凝縮される。幸か不幸かそれに取り憑かれてしまった我々弁士たちは、「弁論とは何か」「なぜ弁論をするのか」という問いに、しばしば苛まれることになります。しかしその苦しみから絞り出された言葉は、確かに人の心を打つ。「弁論は人格を高める手段」と言われる所以はこの辺りにあると考えています。

 

大会シーズンが始まる頃から、「正しさ」とは何かについて考え続けています。人は誰しも、自分なりの正しさを軸に生きており、そこに正誤や優劣はない。『優劣の彼岸』は、ニーチェの代表作『善悪の彼岸』からも当然着想を得た他、本論である優生思想への問いかけ、そして、弁論そのものが到達すべき場所という意味も込めてつけた演題です。競技である以上、順位はつきます。しかし、優劣のその先に、「弁論」に象徴される、一人ひとりの人生があるのだと。その数多の人生への敬意と祝福を込めて。

 

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「弁論でお強いということは、どのようなことでも論破できるのでしょうか?正反対の意見が出た時、どんな風に反論するのですか?」

 

随分昔、そのような質問を受けたとき、こう答えました。

 

「優しく包み込むだけです」

 

今もその気持ちは変わりません。どんなにかけ離れた人生の背景を持っている人同士も、どこか結びける点がある。私はそう信じています。私は、「伝えたいこと」があって弁論を作るのではなく、諍いや哀しみを、優しさで包みこむために、闘っています。そして、これからも。

 

 

*観光らしい観光はできず、春日川に架かる橋にて出逢った鳩との思い出を胸に。

1118日、日本弁論連盟主催「第63回文部科学大臣杯全国青年弁論大会」に出場し、優秀賞(3)・京都市教育委員会教育長賞・日本弁論連盟会長賞を頂くことができました。今年の開催地は、立命館大学朱雀キャンパス。原稿審査を通過した一般の部20名、予選を勝ち上がった中高生の部19名が集いました。


前日の尾崎杯を終えてから深夜に京都入り。連戦の経験はなかったため、コンディションの調整には聊か苦労しましたが、概ね平常心で臨めました。ただ、2秒ほど集中の切れた瞬間を自覚し、登壇を終えてからは暫く自己への憤りと向き合っていました。全力を尽くすことが、聴き手への、そして弁論そのものへの礼節だと思うからです。


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今シーズンのためにしたためた『優劣の彼岸』は、評価という意味では陽の目を見ました。昨年の課題は克服できたと思いますし、等身大の自分で立ち続けることはできたような気がします。審査員の方からも、言行一致である点、言葉の精査に相当な配慮をしている点についてはお褒め頂きました。


一方、表現の面ではまだまだ不勉強です。突き詰めるとアカデミックな方向へ進みがちな原稿を如何にほぐし、誰の耳にも心地良い言葉の流れとして奏でられるか。「静かな弁論」と評されることの多い私の語り口は、英語の大会で“too clean”と指摘されたこともあり、聴き手を包み込むような柔和な部分が今ひとつ不足しています。


私に似たタイプの弁士にはしばしばあることかも知れませんが、言葉に配慮するあまり、日常で発する言葉に本心が宿っているのか、時に自問しなければならないことがあります。綺麗事が綺麗事と言われないような世を願いながらも、自己の傲慢さや醜さ、時に卑しい面から目を逸らさずに向き合ってこそ、人間味のある言葉が生まれるのでしょう。


心身ともに、凝り固まったものを揉み解していくのが、当面の目標になりそうです。弁論とはまさしく生き様なのですから。(その様に構えてしまう姿勢も、いったん崩した方が良さそうですが)


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大会一週間後には「社会人弁士の会」を開き、互いのフィードバックや、語ることそのものへの想いを共有しました。生きてきた文脈は異なれど、弁論という一筋の光で出逢った方々との時間は、とても温かく幸せなものでした。ライバルでありながらも、同じ人間として高め合える仲間でいたいですし、そういう人間関係が、中高生弁士のロールモデルになることを願います。


私は、弁論のメインターゲットを中高生に定めています。彼らに、社会人弁士ならでは視点を示す。その場ではピンとこなくても、10年後、20年後に、ふと何か思い出すきっかけとなるような弁論を。その意味で、大会は自己との闘いの場であり、教育現場でもあります。


木枯らしの吹きすさぶこの季節、凛と咲く椿の花に勇気付けられます。自分の言葉が、たった一人でも、誰かの心にそっと綻ぶことを祈りつつ、また苗木を植えて参ります。

11月17日、杜のホールはしもとにて開催された「第16回尾崎行雄(咢堂)杯演説大会」に出場しました。この大会は「尾崎行雄を全国に発信する会」によって主催され、一次審査、二次審査を通過した6名が、尾崎行雄の生誕地である相模原市で決勝戦を行うというものです。

 

自分の弁論スタイルが大会趣旨に沿うのか一抹の不安はありながらも、力試しに応募してみました。幸い一次審査通過者の15名に残ることができ、きめ細かなフィードバックを頂いたのち、大幅な加筆修正を加えてからの二次審査。そして決勝進出の切符を手にすることが出来ました。宮台真司氏、丸山和也氏といった知識人を審査員に迎え、500名を超える方々の前でお話する機会を得たことは貴重な経験となりました。

 

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今回は、『優劣の彼岸』と題し、優生学から見た生命倫理について論じました。優生学は、「良い生まれ」を意味する”eugenics”という語で表され、ナチスドイツの人種政策にも影響を及ぼした学問的立場です。ダーウィンのいとこに当たるイギリスの科学者、フランシス・ゴールトンが提唱しました。戦後はタブー視されていましたが、近年の医療の発達に伴い、医療行為の選択にあたっては無視することのできない切り口でもあるため、自身の経験を軸にお話ししました。

 

人はどこから人なのか、人はどこから人なのか。生殖補助医療や延命治療といった、人の生と死に関わる医療を選択しなければならない時、果たして我々は何を基準に判断していけば良いのか。私は、流産や死産によって亡くなる命も、胎内での寿命を全うした「人」として捉えますが、その価値観が必ずしも他の人と同じという訳ではありません。また、近しい人が脳死と判定された時に出てくる臓器提供に関しても、本人の意思がどこまで尊重されるべきなのかは、議論の分かれるところです。

 

答えは十人十色と言えばそれまでです。しかし、難しい医療行為の選択を迫られている一当事者としてお伝えしたかったのは、生と死について語り合う機会があまりにも少ないという現状への危機感です。明日、医療行為の選択を迫られるかも知れない。短時間で決断を下さなければならないかも知れない。そうしたときに、悔いのない選択に少しでも近づくには、近しい人々と、互いの価値観を確認し合う他ないのです。

 

優生学の文脈から見れば、染色体異常のある受精卵は障碍を持って生まれるリスクを孕んでいますし、脳死者は社会的な役割を果たしていくのは難しい存在、つまり「良い生まれ」とは見なされない存在となります。しかし、私たちは、いま、ここに生きているという点において皆等しい。そのことについて自覚的になり、優劣の枠組みを超えた、自身の内なる声に耳を傾けた上での死生観を問うことが重要です。

 

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上位の受賞は逃しましたが、聴いてくださった方々からの反響は大きく、私個人としても、いま出来ることは尽くしたという気持ちで大会を終えることが出来ました。また、講評を通じて「弁論」と「演説」の違いについても考えることができ、広く「伝える」ということに対して興味の深まった時間でもありました。聴き手の行動を変えるような伝え方の追求という意味では、ようやくスタート地点に立てたのかも知れません。