優*游涵泳 -2ページ目

優*游涵泳

語りえぬものについてこそ、語ることを試みつゝ。

今月、一児の母となることができました。世間的には第一子、でも、私にとっては第五子です。4度の流産を経てこの手に抱いた我が子は、小さくて軽く、そして5人分の重みがありました。長くなりますが、自身の記録のため、そして遠くの誰かに届くことを祈って、これまでのことを綴ろうと思います。

 
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不育症の検査を勧められたのは、3度目の流産のあとのことでした。「まだ若い」「妊娠できるだけよかった」という励ましの言葉とは裏腹に、「時間がない」「失うことが怖い」という気持ちが増幅し、その頃には妊娠=別離と考える心構えができていたように思います。不育症専門の病院は2ヶ月待ちで、同じような境遇の人が街のあちこちに潜んでいることを知りました。
 
精緻な血液検査の結果、見つかったのは血液凝固異常。高リン脂質抗体症候群という持病により血栓ができやすく、臍帯(へその緒)から充分な酸素が届けられないため、子供が亡くなってしまうということでした。原因が見つかったということは、対策が打てるということ。原因不明であることも多い不育症としては、不幸中の幸いでした。できることは全て尽くそうと決め、食事や運動などの基本的な生活改善に加え、漢方も取り入れました。
 
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4度目の妊娠がわかったところで、病院の指示のもと、投薬を開始しました。血液凝固を防ぐために、毎日のバイアスピリン服用と、12時間おきのヘパリン自己注射を続けました。お腹を夜空に見立てて、針穴で星座を作ることをささやかな楽しみにして。しかし、そんな努力も虚しく、小さな命はまたも儚く去っていきました。
 
これを受け、今度は夫婦で染色体検査を受けることになりました。その結果、私に先天性の染色体異常があることが発覚。均衡型相互転座といわれるもので、13番目と17番目の染色体の一部がそれぞれ切断され、入れ替わっているということでした。治療することはできないため、「着床前診断」というスクリーニングによって染色体異常のない受精卵を選別し、体外受精するしか選択肢はないのだそうです。
 
「流産の原因は胎児の染色体異常が殆どで、お母さんのせいではありません」
 
これが、流産を経験した人を励ますときの常套句です。しかしその染色体異常が、私から遺伝しているという事実は、受け入れるまでに時間を要しました。自分が親であることが、子供の死を引き起こす。自責を通り越して途方に暮れました。
 
「着床前診断」を受けるには、倫理審査が必要でした。ダウン症をはじめ、染色体異常があったとしても、誕生できる受精卵はある訳です。その命の萌芽を人為的に選別する行為は、優生思想にも繋がる問題を孕んでいました。紹介された大学病院で「遺伝カウンセリング」という遺伝子に関する説明を受け、決断に迫られました。
 
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与えられた選択肢の限り努力するのも一つの在り方です。しかし私は、ここで堂々巡りに陥りました。子供の命は誰のものなのか。妊娠を望むのはあくまで私のエゴであって、どこまで医療行為に頼るべきなのか。心が揺れ動く一番の理由は、私がこの着床前診断を受け入れることが、これまで宿ってくれた4人の命を否定することに繋がるように思えたからです。
 
流産でなぜ深く傷つくか。それは母にとって、宿ったそのときからその命は「我が子」だからです。私も例外ではありません。例え数週間であっても、確かに子供たちは私の胎内に生き、その短い生涯を全うした。誕生日は確かに出産した日だけれど、子供の鼓動はそのずっと前から動いている。この世に産まれる前から、私の中に産まれている。知らず知らずのうちにそういった死生観が身についていたため、染色体異常のない卵を選出する=染色体異常のある卵を破棄するという選択に、一抹の躊躇があったのです。
 
一方で、家族への想いも交錯しました。私が出産することで、夫は父になれる。両親・義両親は祖父母になれる。私の意思決定が、近しい人たちのライフイベントに大きな影響をもたらすことを鑑みると、「出産」を明確なゴールとして最善を尽くすということもまた正義です。「ひ孫を待っていてね」と鼓舞し続けた祖母たちが立て続けに亡くなり、果たせなかった約束が宙に浮いてしまった哀しみを拭うには、やはり道半ばで諦めきれない想いもありました。
 
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最終的に、私は着床前診断を受けるための倫理審査申請をすることに決めました。きっかけは実に些細なことで、勤務先の学生さんが、研究のために大量のアンケート調査を回収しているときに交わした言葉でした。
 
「この一件一件のアンケートが、研究の支えになるんです」
 
その一言で、私は思考回路を組み直すことができました。つまり、当事者というよりも、社会のいち構成員として意義のある判断をしようと。自らが倫理審査のいちサンプルとなることで、生殖補助医療の研究の小さな小さな一助になろうと。そう思い至ることで、私は倫理審査申請に踏み出したのでした。
 
倫理審査は様々な立場の専門家が意見を交わすため、結果が出るまでに約1年かかるとのことでした。妊娠を望む年頃の夫婦にとって、1年という期間は非常に長く感じられるものです。しかしそこは割り切って、仕事や自己研鑽に励む期間としました。もしこれまでの妊娠が順調であったなら、私は今の職場に巡り合うことはなく、弁論を再開することもありませんでした。子供たちが与えてくれたご縁の中で、できることを尽くそうと心に決めたのです。
 
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倫理審査の結果を待ちながら、子供のいない暮らしや里親制度も視野に入れて過ごしていた折、図らずも自然妊娠で訪れたのがこの5人目の子供でした。また亡くなってしまう。喜びよりもそれがまた崩れる瞬間を覚悟していたところ、お腹は次第に大きくなり、健診で「順調」と言われるむず痒さと、それを重ねるたびに強まる小さな安堵に支えられ、遂に臨月を迎えたのでした。35週で投薬を止めることになっており、そのときにも不安が走りましたが、我が子はみるみる大きくなりました。
 
予定日の翌日に陣痛が始まり、強い痛みに耐え忍ぶこと丸一日。お産が進む気配はなく、陣痛促進剤を投与するかどうか医師と相談することになっていました。NST(ノンストレステスト)でお腹の張りと子供の心拍を記録しながら朝をやり過ごし、いざ担当医と対面となった折、急に子供の心拍が弱まり始めました。
 
「あれ、おかしい」
「さっきまで元気だったのに」
「まずい、赤ちゃんを助けないと」
 
次々と集まってくる医療従事者たち。医師は電話越しの夫に向かって「心拍が弱まっているので緊急帝王切開にします」と短く告げ、私は採血や点滴など四方八方から手術の準備を進められ、ドラマのワンシーンさながらに手術室へと運ばれていきました。「深呼吸して。お母さんが赤ちゃんのためにできるのは深呼吸だけだから」という助産師の声を最後に、全身麻酔で眠りました。
 
「赤ちゃん、無事に産まれましたよ」
 
目を覚まして聴いた第一声に、思わず涙しました。その日は保育器に居るということで面会が叶わなかったものの、助産師さんが写真を撮ってきてくれ、家族に報告することができました。私も翌日までは文字通り寝たきり状態で、翌日は直ぐ近くにある新生児室まで歩くというリハビリから始まりました。最後の最後まで、確かなことなど一つもない。それが妊娠・出産であることを痛感しました。
 
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いま私の横で眠る我が子はただただ愛らしく、なんてことのない一瞬一瞬に感謝が尽きません。しかし、着床前診断を受けずに誕生したこの子は、およそ半分の確率で、私と同様の染色体異常を受け継ぎ、不育症と闘うことになると言われていました。女の子であれば本人が、男の子であればその配偶者が、流産を繰り返すということです。そうなったときには、親として、当事者として、誰よりも身近な理解者で居続けようと心に決めています。
 
「人生を与えるということは、哀しみを含めて全部を与えるということ」
 
いつだったか、母が言ってくれた言葉です。きっと母も、もがき苦しむ私の姿に、複雑な気持ちを抱いていたことでしょう。でも、そうやって人生は繋がっていく。私は不育症も含めて自分の人生を誇りに思っているし、その経験を以って誰かに寄り添える生き方をしたいという気持ちは変わりません。
 
弁論やSNSで不育症を語ることに抵抗はありました。非常にデリケートな問題で、受け取り手も様々な感情を抱くでしょう。夫をはじめ、私と近しい人のプライベートの一部に触れることにもなります。不育症であることがアイデンティティになってしまったり、ある種の免罪符になってしまったりしないよう、充分な配慮が必要です。
 
それでも発信することを選んだのは、私もまた、発信された言葉や数少ない専門書に助けられた1人だからです。たった1人でも、自身の問題と向き合うきっかけに繋がるのなら、私は言葉で残していきたい。それは、亡くなった子供たちの短い生涯に意味を与える行為でもあります。誰もがそうすべきということではなく、自分にはそのような使命があるのだと、勝手に思い至ったに過ぎません。
 
とは言え、これから発する私の言葉は「結果的に産めた人」のものになります。きっと、寄り添える人もまた少しずつ変わっていくのでしょう。それはもう仕方の無いことで、そのときの自分にできることをする。それしかないのだと思います。ただ、流産や不育症で深い悲しみの渦中に居るとき、ふと思い出してもらえる存在になれたら。そう願っています。

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人はどこから人なのか。人はどこまで人なのか。
 
弁論でも問うてきたことです。正解があるわけではありませんが、変わりゆく環境の中で、常に自分へ問いかけ、その時々ででき得る最善の判断を下していきたいですし、また社会がそのようになることを切に願います。命の明暗を分かつのは、医療の進歩だけでなく、ちょっとした偶然の重なりや、私たち個々人の意思決定の積み重ねだからです。
 
着床前診断を受けるための倫理審査は、およそ1年半を過ぎた今でも結果は分からず、そして新型コロナウイルス拡大の影響を受け、体外受精ができる状況になるのかも不透明です。仮に2人目を望むのであれば、再び自分たちの方針について検討しなければなりません。自然妊娠に任せると、また流産を繰り返す可能性が高いからです。
 
報われた訳でも、乗り越えた訳でもありません。でも確実に、私はこの出産を経て、また新たな価値観を学びました。哀しみは抱きかかえたまま、しかし同じ地点に立ち止まることなく、不育症と共に生きる母として、できることを続けていきたいです。
 

雨上がりの午後、活気を取り戻しつつある街へ繰り出し、今月から再び開館した神奈川近代文学館へ足を運びました。6月13日から「文学の森へ:神奈川と作家たち展」が開催されています。夏目漱石を筆頭に、神奈川県にゆかりのある文豪たちがバランス良く紹介されている今回の企画は、特定の作家を取り上げる企画よりも、多くの方に親しみやすいのではないかと思います。

 

 

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展示室へ入る前に、ロビーで上映されている紹介映像を観賞。こちらを観ておくと、それぞれの文豪の人物像や、作品の舞台となった神奈川県内の地域をひととおり押さえられるので、展示の理解が深まります。神奈川県民にとっては馴染みのある景色も登場し、文豪たちとの時を越えた繋がりのようなものを味わうことができます。

 

展示では、文豪のプロフィール、神奈川県を舞台にした作品の一節、原稿、書簡、身の回り品など、それぞれの個性が伺える展示物がお行儀よく出迎えてくれます。解説はシンプルで読みやすい一方、病歴や複雑な人間模様に言及されているなど、国語便覧を眺めるような面白さがありました。最も数の多い夏目漱石の資料については、前期・後期で内容が変わるため、漱石ファンは二度訪れると良いでしょう。

 

少し遅めの時間に行ったからか、文学館はほぼ貸し切り状態で、ゆっくり観て回ることができました。そのまま港の見える丘公園を散策していると、仲睦まじいモンシロチョウのカップルが、空高くで舞い踊っていました。折り重なる分厚い雲に晴れ間の覗く夕刻の空は、完成間近の油絵のようでした。



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美しい洋館の並ぶ山手の街。外国人墓地を抜け、「えの木てい」本店にてひとやすみ。こんな風に、外出らしい外出をしたのは、今年度に入って初めてかも知れません。図らずも象牙の塔に籠るような春を越えることとなりましたが、それはある種の精神修行のようにも思える日々でした。

 

感性を研ぎ澄まし、内省を深めるには、時に閉鎖的な環境に身を置くことも必要でしょう。しかし、その糧となる情景や情報は、外に出て五感を存分に使ってこそ得られるのだということを、帰路の疲れた足が物語っていました。山があり、海があり、外交の玄関口でもあった神奈川の地で、文豪たちは何を感じ、それを言葉に託したのか。また時間を掛けて文学作品に触れ、紐解いてみたいと思いました。今年も程なく折り返しです。

久々のブログ更新となりました。もともと、講演会や博物館見学など、非日常での学びを残す場所として始めました。しかし、日常そのものが非日常、もとい、その非日常が今度は日常になり始めた昨今、日常と非日常の境界がいかに曖昧であるかを突きつけられます。

 

青みの濃くなってきた空、ジワジワと滲み出る汗、日を追うごとに頬を染める紫陽花。夕刻に吹く風の心地よさを教えてくれるのが初夏の好きなところです。馴染みの道でさえ、ふと立ち止まると、それは日常の景色でありながら、非日常の風情を帯びています。

 

 

 

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大学教員には、「サバティカル」と呼ばれる研究休暇の制度があります。この期間中は授業や会議といった大学の用務から離れ、自身の研究にたっぷりと時間を当てるのです。私はそのような立場にありませんが、今年度はサバティカルと位置付け、意識的に新しい取り組みに足を踏み入れるようにしています。

 

まず、4月からスピーチライターという立場で株式会社カエカの事業に参画することになりました。弁論大会で知り合った代表取締役の千葉佳織さんからご縁を頂き、若い仲間に囲まれながら様々なプロジェクトに励んでいます。大学の部署では最年少の私も、ここでは最年長。場所によって異なる役回りを果たすことも、面白さの一つです。

 

今月からは、"はなしことば"を磨くオンライン学習コミュニティ「goodspeak zero」が始まりました。有名スピーチ分析や表現を磨くトレーニングなど、私自身も教材作りに携わっています。リアルタイムに参加できなくても、学習の様子はアーカイブで視聴できるほか、SNSでの交流やフォローアップがありますので、今からでもぜひご参加頂ければ幸いです。

 

そして、今月は下記のとおり電子書籍を2冊出版しました。

 

心を動かす非常識な文章術: 6つの最強ライティングメソッド

一万人を魅了するスピーチの手法: 内閣総理大臣賞を受賞したスピーチライターが教える技術!

 

日頃から私の文章に触れている方々は、語調の強いタイトルに驚かれたかも知れません。それもそのはず、タイトルは出版社様が決めたものです。今回、クラウドソーシングでご縁を頂いた経緯があり、原稿を提供した時点で、著作権も出版社様に帰属します。当初は少し戸惑いましたが、より多くの人が手に取ってくださるように、という出版社様の方針もありますので、一度手を離れたものについては未練なく、行く末を見守っていければと思います。

 

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世の中の流れと時を同じくして、私自身の暮らしも自宅が拠点となり、じっくりと物事を考える時間が増えました。本を読む時間も増えました。それゆえ、どうしてもインプット偏重の過ごし方になってしまい、様々なことが"わかったつもり"になってしまうことへの危機感を覚えました。その意味で、上記のようなアウトプットの機会は、バラバラに学んだものを関連付け、自分なりに体系化するためにはとても有意義であると感じています。

 

また、ここ数年感じている、自分が紡ぐ言葉への限界をひとまわり押し広げたいという気持ちが根底にあります。スピーチ然り、ハウツー本然り、直接的で分かりやすいものが重宝されるのが時流です。それ自体の是非はともかくとして、私の書き言葉、話し言葉は、そういった波に乗るには些か堅く、重い。それは、「こだわり」であったり「聞き手への信頼」であったりするわけですが、それだけでは、「独りよがり」にもなりかねません。

 

弁論大会においても、私は繊細な情景描写や日本語らしい比喩を大切にしています。何度も聴きたいと思っていただけるような弁論を目指しています。一方で、聴いてくださる方々の人生の貴重なお時間を、そんなに自分に当てて頂けるとは限らない、という自覚もあります。ならば、自分らしさは残しながらも、更に聞き手に「寄り添う」表現を学び、試していく必要があるのだと思い至った次第です。その上で、SNSで問題視されている骨髄反射的な発信へのアンチテーゼを示していけないものか、それが今後の挑戦です。

今季の弁論『語られざる遺産』を成仏させます。前作に引き続き、お世話になった資料たちをご紹介いたします。充分な時間が取れず懊悩するシーズンでしたが、限られた時間の中でできることは尽くせたと思います。御清聴、誠にありがとうございました。

 

*写真は、尾崎行雄杯の演説の中でご紹介した「小倉橋」です。台風19号が通過した翌日、濁流の中で雄々しく佇んでいました。

 

 

<Books>

内村鑑三(1946)『後世への最大遺物・デンマルク国の話』,岩波書店.

梅棹忠夫(1998)『文明の生態史観』,中央公論社.

小川総一郎(2014)『ふたつの国の物語―土木のおはなし』,理工図書.

川勝平太(2016)『文明の海洋史観』,中央公論新社.

合田良実(2001)『土木文明史概論』,鹿島出版会.

高田龍一, 浅田純作, 木村一郎, 上田務, 宇野和男, 松江工業高等専門学校環境建設工学研究会(編集)(2005)『学生のための初めて学ぶ土木工学』,日刊工業新聞社.

中島岳志(2019)『NHKテキスト 100分de名著 オルテガー大衆の反逆』,NHK出版

藤井聡(2010)『公共事業が日本を救う』,文藝春秋.

 

<Journal>

岡本摩耶(2016)「小・中・高校生の科学技術に関する情報に対する意識と情報源について:2015年の日本人研究者によるノーベル賞受賞決定直後の親子意識調査より」,文部科学省 科学技術・学術政策研究所(NISTEP).

小林信一 (1991)「『文明社会の野蛮人』仮説の検討 :科学技術と文化・ 袿会の相関をめぐって一」pp247-260,『研究技術計画 Vol.6 , No .4, 1991』,研究・イノベーション学会.

迫田至誠(2016)「開発途上国の建設工事におけるコンサルタントの安全管理 」,『こうえいフォーラム第24号』.日本工営株式会社

細坪護挙(2016)「科学技術に関する国民意識調査:熊本地震」, 文部科学省 科学技術・学術政策研究所(NISTEP).

森田勇造 「文明社会に対応する少年教育の考察」

吉田喜久子 (2001)「科学技術文明と日本人の自然観」,『人間と環境』2(2011),人間環境大学.

 

<Website>

「公益社団法人土木学会(JSCE)」,<http://www.jsce.or.jp/>

「独立行政法人国際協力機構(JICA)」,<https://www.jica.go.jp/>

「土木学会選推土木遺産」,<http://www.jsce.or.jp/contents/isan/>

「細田暁の日々の思い」,<https://blog.goo.ne.jp/akirahosoda>

「横浜国立大学都市基盤学科」,<http://www.cvg.ynu.ac.jp/>

 

<Others>

土木学会会長重点活動特別委員会(2010)「これからの社会を担う土木技術者に向けて」,平成21年度 土木学会会長重点活動特別委員会 報告書.

内閣府(2015)「『防災先進国・日本』を世界に発信する取組について 」,第3回国連防災世界会議 資料4.

中村文彦(2019)「優しさの街」,<https://www.youtube.com/watch?v=RKVbTLQ3AI8>

久石譲(1986)「View of Silence」,<https://www.youtube.com/watch?v=0-GPay8lSZs>

 

<Special Thanks>

Bangladesh University of Engineering and Technologyの皆様

噂の土木応援チーム「デミ―とマツ」 松永昭吾様

Playing Managersの皆様

横浜国立大学関係者の皆様

各種大会関係者の皆様

恩師、友人、家族、空の子供たち

11月16日、尾崎行雄を全国に発信する会主催「第17回 尾崎行雄(咢堂)杯演説大会」に出場しました。幸いにも2年連続の出場となりましたが、この日を迎えるまでに歩んだ茨の道は筆舌に尽し難く、決勝まで進むことの難しさをひしひしと感じました。一次審査、二次審査で頂くフィードバックはなかなか厳しく、一週前の文科杯での振り返りも盛り込みながら、結局大会前夜23時までは書き直しの作業を続けていました。

 

努力は実り、この大会で初めて優秀賞(準優勝)を頂くことができました。難易度と完成度の両立。それが私のこだわりの1つです。「語られざる遺産」は、自分の持ち味である毅然とした演説に生まれ変わりました。「私は有馬さんのコンセプトは好きです。喋り方が変わっても、言葉選びが変わっても、芯の部分は揺るがないで欲しいなと、勝手ながら思います。」そんな先輩弁士からの言葉が、大きな支えとなりました。

 

「テーマ自体が難しい」というのが、あらゆる大会で頂くフィードバックです。昨年の尾崎杯でも、宮台先生から「最高難度のテーマ設定」とのコメントを頂きました。その辺りは真摯に受け止めるものの、そういったお言葉への回答として、難易度を下げた弁論を提供するのは正解とは思えません。構成、表現、語彙の選択などを私自身が更に勉強することで、いつしか深い共感に届く弁論・演説が作れるものと信じています。

 

 

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「語られざる遺産」という演題そのものは、シャーロック・ホームズのシリーズで用いられる”The Untold Tales(語られざる事件)”から着想を得ました。作品中、名前は出てきても、その内実が言及されない事件群のことを指します。これはまさしく、土木遺産にも当てはまると感じました。土木遺産そのものがまだ一般的に知られていないと思いますし、その裏にある歴史となれば尚更です。自分自身が全く関心のない素人の1人であったからこそ、知らない/気づかないことへの危機感を感じるようになったとも言えます。そういった心境の変化も述べると、より共感を得やすい演説になったのかも知れません。

 

また、この演題には、一次審査、二次審査で競った全国の方々への敬意も込めました。自分が登壇できるということは、それが叶わなかった方々がいるということです。歴然とした実力の差はなかったでしょう。個人の努力ではカバーできない要素があいまって出た結果です。全国に眠る原稿の数々もまた、「語られざる遺産」なのだということを、私はこの演題を見るたびに自分に言い聞かせるようにしていました。夢半ばに壇上へ辿り着けなかった方々にも納得して頂けるものを作る。それくらいの責任を持って臨むのが自分なりの流儀です。

 

宮台先生から頂いたご講評の1つに「キャリコットの最先端の学説が組み込まれている」とのコメントがありました。環境倫理学の提唱者です。特に意識した訳ではありませんでしたが、結局のところ、私は切り口を変えても、論旨の根底に流れるのは哲学・倫理であるということに気づかされました。他の方へのご講評も含め、学びの多い大会でした。そして何より、高校生から社会人までが一緒になって学び合える、貴重で幸せなひとときでした。

 

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今回、土木というテーマで一定の評価を頂けたことは、いち弁士としての自信に繋がりました。というのも、私が社会人になってから書いた過去2作品は、自分自身の境遇をベースにしたものだったからです。境遇自体が説得力を持たせ、共感を呼びやすいテーマでした。もちろん切実な想いと使命感があっての作品ですが、そこにとどまっている限り、弁士としての成長は頭打ちになることを予期していました。今回の演説にも入れ込みましたが、自分の外側にある物事にどれだけ当事者意識を持って考えられるか。その姿勢を、私自身が、私自身に対して課してみたということです。

 

その結果得たものは何か。それは、土木に携わる方々からの沢山の感謝の言葉でした。職場の方々は、今回の結果を我がことのように喜んでくれました。世界トップレベルの先生方を前に、いったい何ができるのか。日々悩み足掻きながら、それでも、自分にできる形で笑顔の種を作れたことは、とてもとても幸せなことでした。

 

怒涛の大会シーズンも幕引きです。

肌身に感じた周囲の人の温かさを胸に、堅実に越冬して参ります。