第16回尾崎行雄(咢堂)杯演説大会 | 優*游涵泳

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語りえぬものについてこそ、語ることを試みつゝ。

11月17日、杜のホールはしもとにて開催された「第16回尾崎行雄(咢堂)杯演説大会」に出場しました。この大会は「尾崎行雄を全国に発信する会」によって主催され、一次審査、二次審査を通過した6名が、尾崎行雄の生誕地である相模原市で決勝戦を行うというものです。

 

自分の弁論スタイルが大会趣旨に沿うのか一抹の不安はありながらも、力試しに応募してみました。幸い一次審査通過者の15名に残ることができ、きめ細かなフィードバックを頂いたのち、大幅な加筆修正を加えてからの二次審査。そして決勝進出の切符を手にすることが出来ました。宮台真司氏、丸山和也氏といった知識人を審査員に迎え、500名を超える方々の前でお話する機会を得たことは貴重な経験となりました。

 

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今回は、『優劣の彼岸』と題し、優生学から見た生命倫理について論じました。優生学は、「良い生まれ」を意味する”eugenics”という語で表され、ナチスドイツの人種政策にも影響を及ぼした学問的立場です。ダーウィンのいとこに当たるイギリスの科学者、フランシス・ゴールトンが提唱しました。戦後はタブー視されていましたが、近年の医療の発達に伴い、医療行為の選択にあたっては無視することのできない切り口でもあるため、自身の経験を軸にお話ししました。

 

人はどこから人なのか、人はどこから人なのか。生殖補助医療や延命治療といった、人の生と死に関わる医療を選択しなければならない時、果たして我々は何を基準に判断していけば良いのか。私は、流産や死産によって亡くなる命も、胎内での寿命を全うした「人」として捉えますが、その価値観が必ずしも他の人と同じという訳ではありません。また、近しい人が脳死と判定された時に出てくる臓器提供に関しても、本人の意思がどこまで尊重されるべきなのかは、議論の分かれるところです。

 

答えは十人十色と言えばそれまでです。しかし、難しい医療行為の選択を迫られている一当事者としてお伝えしたかったのは、生と死について語り合う機会があまりにも少ないという現状への危機感です。明日、医療行為の選択を迫られるかも知れない。短時間で決断を下さなければならないかも知れない。そうしたときに、悔いのない選択に少しでも近づくには、近しい人々と、互いの価値観を確認し合う他ないのです。

 

優生学の文脈から見れば、染色体異常のある受精卵は障碍を持って生まれるリスクを孕んでいますし、脳死者は社会的な役割を果たしていくのは難しい存在、つまり「良い生まれ」とは見なされない存在となります。しかし、私たちは、いま、ここに生きているという点において皆等しい。そのことについて自覚的になり、優劣の枠組みを超えた、自身の内なる声に耳を傾けた上での死生観を問うことが重要です。

 

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上位の受賞は逃しましたが、聴いてくださった方々からの反響は大きく、私個人としても、いま出来ることは尽くしたという気持ちで大会を終えることが出来ました。また、講評を通じて「弁論」と「演説」の違いについても考えることができ、広く「伝える」ということに対して興味の深まった時間でもありました。聴き手の行動を変えるような伝え方の追求という意味では、ようやくスタート地点に立てたのかも知れません。