武経七書ー7ー李衛公問対 下巻 | 覚書き

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李衛公問対 下巻
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李衛公問対 下巻
(1)
太宗が言いました。
「太公望は『歩兵を使って戦車や騎兵と戦う場合、必ず丘陵、墓地、地形のけわしい土地
を戦場に選ばなければならない』と言っているが、『孫子』には『山間の起伏のはげしい場
所、丘陵、墓地、城跡には、軍隊をとどめてはならない』と言っている。両者の意見はく
い違っているが、これはどういうことだ?」
李靖が答えました。
「兵士たちをうまく使うには、全員の心が一つになっていることが大切です。全員の心が
一つになるようにするには、『うらない』や『まじない』などの迷信的なことがらを禁止し、
疑念をとりはらうことが大切です。もし将軍の心が疑い迷っていたり、迷信を気にしてい
たりしたら、兵士たちの気持ちもまた動揺します。兵士たちの気持ちが動揺すれば、それ
に乗じて敵が攻めかかってきます。そこで、兵士たちが安心して陣地で配置につき、そこ
を拠点にしてしっかり戦えるようにするには、軍事行動に便利なところを選ばなければい
けません。(水場や草場が近くにあり、森林のなかに陣どり、騎兵が駆けまわりやすい場所
があれば、軍事行動に便利です)。しかし、たとえば、絶澗(こえられない山間の渓谷)、
天井(急な斜面に囲まれたくぼ地)、天陥(土地が低くて水がたまりやすく、ぬかるみやす
い土地)、天隙(二つの山の間にある狭くて通りにくい道)、天牢(山がけわしかったり、
霧がかかりやすかったりなどして、入りやすいけど、出にくい土地)、天羅(草木のおい茂
っているジャングル)などの場所は、すべて軍事行動には不便なところです。ですから、
それらの場所からはさっさと離れ、そこを避けねばなりません。こうして、敵がこちらの
不利に乗じて攻めてくるのを防止するのです。
いっぽう、丘陵、墓地、城跡などの場所は、軍事行動を阻害するものではなく、そこを
占拠すれば、こちらに有利となります。どうして、そこを放棄して、退去する必要がある
でしょうか。太公望は、兵法家として知っておくべき一番の要点について言っているので
す」
太宗が言いました。
「わしは思うのだが、この世に戦争ほど凶悪なものはない。そこで、やむをえず戦争する
ことになったときには、さっさと戦争を終わらせるためにも、どんなチャンスをも見逃し
てはならず、迷信にとらわれ、せっかくチャンスがめぐってきたのに、たとえば『今日は
日が悪いから』とか、『うらなうと不吉な結果が出たから』とかいう理由で、ぐずぐずして
決戦をためらってはならない。今後は、『うらない』や『まじない』などの迷信にとらわれ
て、せっかくのチャンスを逃すようなことがあってはならないということを、そのほうか
ら将軍たちにきちんと言って聞かせてやってくれ」
李靖は深々と頭をさげてから言いました。
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「『尉繚子』に『黄帝は、徳を用いてみずから守り、刑を用いて悪人を討伐した。ここで言
う刑徳とは、陰陽家が用いる迷信的なことがらではない』とあります。しかしながら、戦
争のうまい人が使う、相手をだまして、こちらに都合がいいように誘導する方法を用いれ
ば、こちらの思いどおりに人をあやつれますが、あやつられた方にしてみれば、どうして
そんなことになったのか、わけがわかりません。あたかも魔法にかけられたかのような錯
覚におちいります。それで、平凡な将軍たちは、『うらない』や『まじない』などの迷信を
ころっと信じてしまい、それにとらわれてしまうのです。そのため大敗した例は多くあり、
こういったことにならないように戒める必要があります。陛下から賜りましたご訓戒を、
わたくしはきちんと将軍たちに通知、徹底いたします」
(2)
太宗が質問しました。
「軍隊は、分けて使うこともあれば、合わせて使うこともある。どちらを使うかは、その
ときの状況に応じて、臨機応変に決めていくことが大切だが、むかしの戦例をみたとき、
これをだれが一番うまくできたのか?」
李靖が答えました。
「符堅は、百万人もの兵士をひきつれていながらも、謝安のひきいる三万人の軍隊に敗れ
ました。これはよく合わせることはできても、よく分けることができなかったからです。
いっぽう、光武帝は呉漢に命じて公孫述を討伐させましたが、このとき呉漢は、軍隊を
二つに分け、一隊を副将の劉尚にまかせました。そして、呉漢と劉尚は、互いに二十里ほ
ど離れて布陣したのですが、公孫述が呉漢の陣地を攻めたとき、劉尚は兵を出して呉漢軍
と合流し、公孫述の軍勢を攻撃しました。これにより、公孫述は大敗しました。このよう
に勝てたのは、分かれていながらも、よく合わせることができたからです。
太公望は、こう言っています。『分散すべきときに分散できない軍隊は、縛られた軍隊で
ある。集合すべきときに集合できない軍隊は、孤立した軍隊である』と」
太宗が言いました。
「まったく、その通りだ。符堅は、よく兵法を理解していた王猛を宰相としていたので、
中国の中心部を獲得できたが、王猛が死ぬや、謝安との戦いに敗北してしまった。これは
軍隊を縛って分けることができなかったためだろう。いっぽう、呉漢は、光武帝から軍隊
の指揮を一任され、なんの制約も受けなかったので、公孫述を打ち倒し、その支配地域を
占領できた。これは各軍を孤立させることなく、合わせることができたからであろう。光
武帝が成功し、符堅が失敗した、この事例は、後世のよい手本とできる」
(3)
太宗が質問しました。
「わしは兵法の本に書かれている言葉を多くみてきたが、その要点は『いろんな方法を使
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って、相手をまちがわせる』という一言につきるのではないだろうか?」
李靖はしばらく考えてから答えました。
「まことに陛下のおっしゃるとおりです。およそ戦いにおいては、敵がまちがわなければ、
こちらがどうして勝てるでしょうか。たとえば将棋をするようなもので、両者の力量が均
等な場合、一手でもまちがえれば、それだけでどうしようもなくなってしまいます。この
ように、古今の勝敗は、たいていたった一度のまちがいで決まっているにすぎません。ま
してや多くのまちがいをした場合、負けて当然です」
(4)
太宗が言いました。
「攻撃と守備の二つのことがらは、実際は一つの戦法ではないだろうか。『孫子』に『攻撃
のうまい人は、敵がどこを守ればいいのかわからないようにする。守備のうまい人は、敵
がどこを攻めればいいのかわからいようにする』とあるが、そこには『敵が攻めてきたと
きに、こちらも攻める場合』や『こちらが守っているときに、敵も守る場合』について、
なにも書かれていない。自他の勢いが均等で、力量が同等である場合は、いったいどのよ
うな戦法をとればいいのか?」
李靖が答えました。
「むかしから、このように互いに攻めたり、互いに守ったりすることは、とても多くあり
ます。このときの原則について、だれもが『守るのは足らないのであり、攻めるのはあり
余っているのだ』と解説しました。足らないというのは、力が弱いことで、あり余ってい
るというのは、力が弱いことです。これでは、どうも攻守の原則について、わかっている
とは思えません。
『孫子』に『勝てる者は攻めるし、勝てない者は守る』とあります。これは、『敵に勝てる
チャンスがなければ、しばらく守備しながら時を待ち、敵にスキがあって勝てるのであれ
ば、すぐさま攻撃する』という意味であり、力の強弱について説いているのではありませ
ん。後世の人々は、その意味を理解せず、そのため攻めるべきときに守ったり、守るべき
ときに攻めたりしています。攻守の使い方をまちがっているので、攻守を二つあわせてう
まく使いこなすことができないのです」
太宗が言いました。
「まったく、そのとおりだな。あり余っているとか、足りないとかいうことは、人にそれ
は力の強弱によるのだという誤解を与えた。とくに『守備の方法としては、こちらを劣勢
に見せかけるのが大切であり、攻撃の方法としては、こちらを優勢に見せかけるのが大切
である』ということをわかっていない。こちらが劣勢であると見せかければ、敵は必ず攻
めてくるが、本当のところがわかっていないので、まさに『どこを攻めればよいのかわか
らない』という状態になる。反対に、こちらが優勢であると見せかければ、敵は必ず守り
にまわるが、本当のところがわかっていないので、まさに『どこを守ればよいのかわから
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ない』という状態になる。
攻撃と守備は一つの戦法にすぎないが、ただ敵とこちらにわかれて二つになるにすぎな
い。こちらが成功すれば、あちらは敗北するが、あちらが成功すれば、こちらが敗北する。
一方が成功すれば、他方は失敗し、一方が勝利すれば、他方が敗北するというように、攻
守の結果は二つにわかれるが、攻守は一つの戦法にすぎず、負けて当然の弱いほうが守り、
勝って当然の強いほうが攻めるというようなものではない。攻守を一つのものとしてうま
く使いこなせる人は、連戦連勝できる。だから、『あちらのことを知り、こちらのことを知
っていれば、いくら戦っても危機におちいることはない』と言われているのだが、これは
攻守が一つの戦法だと知っているということである」
李靖は深々と頭を下げてから言いました。
「すぐれた人物の戦法は、なんとも深遠なものでございますね。攻めるとは、守りながら
攻撃のチャンスを待った結果ですし、守るとは、攻めるための策略をねる時間をとる方法
です。両者ともに勝利をめざすための手段にすぎません。攻めることを知っていても守る
ことを知らず、守ることを知っていても攻めることを知らないというのは、ただ攻撃と守
備を二つにわけて考えるのみならず、両者を別々に使うようになります。『孫子』や『呉子』
の兵法を口に出して言うことができても、攻守をあわせて使うことの効用を心からわかっ
ていなければ、どうして攻守が一つであることをわかるでしょうか」
太宗が言いました。
「『司馬法』に『国は、いくら大きくても、戦いを好めば必ず滅びる。天下は、いくら平和
でも、戦いを忘れると必ず危うくなる』とある。この言葉もまた、攻守が一つの手段であ
ることを言っているのか?」
李靖が答えました。
「国をおさめ、家をおさめる立場にあるものは、攻めと守りの方法について研究し、それ
をきわめなければなりません。そもそも攻めるにあたっては、ただ敵の城を攻め、敵の陣
を攻めるだけでなく、必ず敵の心を攻めるノウハウをもつことが必要です。また、守るに
あたっては、ただ城を築き、陣を固めるだけでなく、必ずこちらの気力を守ってチャンス
を待つことが必要です」
太宗が言いました。
「まことに、そのとおりだ。わしはいつも、戦うときには、まず敵の心とこちらの心とで
は、どちらが知恵にすぐれているかをはかってから、はじめて敵の長短を判断できたもの
だし、また、まず敵の気力とこちらの気力とでは、どちらが充実しているかを調べてから、
はじめてこちらの強弱を判断できたものだ。それで兵法家は、『あちらを知り、こちらを知
ること』を重視するのだろう。今の将軍は、たとえ敵の長短をよく判断できてなくとも、
こちらの強弱を判断できていれば、どうして失敗したりしようか」
李靖が言いました。
「『孫子』に『まず敵がこちらに勝てないような状態をつくる』とありますが、これが『こ
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ちらを知る』ということです。また、『敵がこちらの勝ちやすい状態になるのを待つ』とあ
りますが、これが『敵を知る』ということです。さらに『敵がこちらに勝てないのは、こ
ちらが充実しているからで、こちらが敵に勝てるのは、敵が虚弱であるからだ』とありま
すが、わたくしはこの言葉を戒めとして、つねに忘れないようにしています」
太宗が質問しました。
「『孫子』に全軍の気力をなえさせる方法について述べてあり、そこには『早朝の気力は力
強く、昼頃の気力はたるんでおり、夕方の気力は弱まっている。用兵のうまい人は、敵の
力強い気力をさけ、気力がたるみ、弱まるのを待って攻撃する』とある。これについて、
そのほうはどう思うか?』
李靖が答えました。
「生きて血のかよっている人間が、奮起して敵と戦い、たとえ死ぬことになっても気にし
ないことがありますが、それは気力がそうさせるのです。ですから、軍隊を指揮する方法
としては、まずこちらの将兵たちの状態をよく調べ、必ず敵に勝とうとする強い意志をふ
るいたたせるようにします。そうすれば、敵を撃ち破れます。
呉起は『四機(勝つために必要な四つの要素)』をとりあげ、そのなかでも特に『気機(将
軍がすぐれたリーダーシップを発揮すること)』を重くみていて、それ以外の方法はありま
せん。将兵たちがみずから戦うように仕向けることができれば、こちらの勢いはとても強
まります。『孫子』に言う『早朝の気力は力強い』とは、時刻をかぎって言っているのでは
なく、たとえでそう言っているにすぎません。だいたい三たび突撃を合図する太鼓をうち
鳴らしても、敵の気力がたるまず、弱まらないなら、どうして敵をたるませ、弱まらせる
ことができるでしょうか。兵法書を学ぶ人は、そこに書いてあることをそのまま暗記する
だけなら、敵からいいようにコントロールされてしまいます。もし敵の気力を奪うことの
本当の意味について、きちんと理解している人がいれば、その人こそ軍隊の指揮をまかせ
るのにふさわしい人物です」
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太宗が言いました。
「そのほうはかつて『李世勣は兵法をよくわかっている』と言っていたが、これからもず
っとあいつを使いつづけられるだろうか? わしのようにあらあらしさがなければ、きっ
とあいつを使いこなせないのではないだろうか? いずれわしのあとをついで皇帝になる
治(太宗の三男)は、わしと違ってやさしい性格なので心配だ。どんなふうにすれば、治
はあいつを使いこなせるだろうか?」
李靖が答えました。
「陛下のためにもくろみますと、まず陛下が李世勣を左遷なされ、そのあと皇太子殿下が
即位されましたとき、皇太子殿下が彼をふたたび高位につけるというかたちをとるのがベ
ストでございましょう。そのようにいたしますれば、李世勣は、あのまっすぐな性格から
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して必ず皇太子殿下に恩を感じ、それに報いようとするでしょう。これなら物事の道理に
もかなっています」
太宗が言いました。
「それは名案だ。それなら大丈夫だろう」
太宗が言いました。
「李世勣と長孫無忌(太宗の妻の父)に共同で国政をとらせた場合、将来的にはどうなる
だろうか?」
李靖が答えました。
「李世勣は忠義の臣下ですから、ずっと国政をとらせてもよいでしょう。長孫無忌は建国
に貢献し、陛下に対し大きな功績をあげておりまして、陛下の親戚ということで宰相の職
についております。しかしながら、表面的には謙虚そうにみえますが、実際には賢者をね
たんで憎むような人間です。ですから、尉遅敬徳は、面と向かって長孫無忌の短所をとが
めたあと、とうとう引退してしまいした。また、候君集は、長孫無忌が旧交を忘れたこと
をうらんで、クーデターに加わりました。これらはすべて長孫無忌が原因となっておりま
す。いま、陛下がわたくしにご下問なされましたので、わたくしは言いにくいこともあえ
て言わせていただきました」
太宗が言いました。
「そのほうは、今回の話をそとにもらしてはならん。わしは、この件について、どのよう
にすべきかをゆっくり考えよう」
(6)
太宗が質問しました。
「漢王朝をひらいた劉邦は、ただのリーダーではなく、リーダーのリーダーとしてのすぐ
れた才能をもっていると言われていたが、天下を平定したあと、将軍として功績のあった
韓信や彭越を処刑したし、宰相として功績のあった蕭何を処罰した。どうしてこんなこと
になったのだ?」
李靖が言いました。
「わたくしは、劉邦も、項羽(劉邦と天下を争った戦いのうまかった王)も、ともにリー
ダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていたとは思いません。秦王朝が滅亡するに
あたり、張良(劉邦に仕えた名参謀)はもともと韓国の宰相の一族であり、韓国が秦王朝
に滅ぼされたので、その復讐をくわだてていました。また、陳平(劉邦に仕えた策士)と
韓信は、もともと項羽のところにいましたが、項羽にまったく進言を聞いてもらえないの
で、それをうらんでいました。ですから、彼らは、劉邦の力をかりて、自分たちの願いを
かなえようとしたのです。さらに蕭何、曹参、樊噲、灌嬰などは、みんな他に行き場がな
くて、仕方がなくて劉邦のもとに亡命してきた者たちです。劉邦は、そんなふうにして集
まってきた彼らを使うことで、天下をとることができました。もし秦王朝に滅ぼされた国々
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が復興されていたなら、彼らも祖国をなつかしく思い、祖国の君主に仕えたでしょう。そ
うなれば、いくら劉邦がリーダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていたとしても、
漢王朝のために彼らを使い続けることはできなかったでしょう。劉邦が天下を取れたのは、
張良がその深謀遠慮を発揮して天下統一のためのプランを指し示し、蕭何がよく銃後を守
って前線への補給を絶やさないように粉骨砕身の努力をしたからです。
以上の観点から言えば、劉邦が韓信と彭越を処刑したことと、項羽が范増(項羽につか
えた軍師)をしりぞけて憤死させたこととは、どちらも事情が同じです。ですから、わた
くしは、劉邦も、項羽も、ともにリーダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていた
とは思わないのです」
太宗が質問しました。
「光武帝は、いったん滅ぼされた漢王朝をたてなおしたあと、手柄をたてた臣下たちを守
るため、彼らを政治のおもて舞台にたたせなかった。この場合、光武帝はリーダーのリー
ダーとしてすぐれていたと言えるか?」
李靖が答えました。
「光武帝は、先祖代々にわたって築き上げてきた基盤があったので、確かに成功しやすい
立場にあったとはいえ、王莽の勢力は項羽にひけをとるものではありませんでしたし、光
武帝のもとで働いた鄧禹や冦恂の才能は蕭何や曹参ほどではありませんでした。しかし、
光武帝という人は、まごころをもって人に接し、柔和な方法を用いることのできる人でし
たので、手柄をたてた臣下たちを守りました。この点では、劉邦よりも賢明であったと言
えます。ここからリーダーのリーダーとしてのすぐれた才能について論じるなら、わたく
しは光武帝こそがそういった才能をもっていたと思います」
(7)
太宗が言いました。
「むかし、帝王は、出兵を決め、将軍を任命するにあたり、三日間にわたって身を清め、
将軍の任命式をとりおこなった。任命式では、まず将軍にまさかりを授与して、『これより
天に至るまで、将軍がとりしきる』と言い、士気を高めるべきことを示した。それからお
のを授与して、『これより地に至るまで、将軍がとりしきる』と言い、あわれみの気持ちを
もつべきことを示した。そして最後に戦車の車軸に手をそえて、『進むも、退くも、時によ
って決めよ』と言い、現場にいる将軍の判断で臨機応変に行動すべきことを示した。こう
して軍隊が出発してからは、君主の命令よりも将軍の命令が優先された。こういった将軍
を任命する儀式は今やまったくすたれてしまったが、わしはそのほうとはかって、あらた
めて将軍を派遣する儀式を制定したい。そのほうは、どう思うか?」
李靖が答えました。
「聖人の定めた礼法をみてみますに、①宗廟で身を清めるのは、縁起をかつぐためですし、
②おのやまさかりを授けたり、戦車の車軸に手をそえたりするのは、思うままに軍隊を動
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かす権限を委任するためです。今、陛下は、①開戦なさるときにはいつも大臣たちとその
是非を議論し、そのあと宗廟に祈ってから軍隊を出動させていますが、ここですでにきち
んと縁起をかついでいます。②また、将軍を任命なさるときにはいつも臨機応変に行動す
るように命じられておられますが、ここですでに思うままに軍隊を動かす権限を委任して
おられます。こうしてみてきますと、現在のやり方は、むかしの帝王のやっていた儀礼と
実質的には同じです。あらためて儀礼を制定する必要はないと思います」
太宗が言いました。
「そのほうの言うとおりだ。さっそく側近たちに命じて、以上の二つを文書にまとめさせ、
それを今後の正式なやり方としよう」
(8)
太宗が言いました。
「たとえば『まじない』や『うらない』などの迷信は、排除してよいか?」
李靖が答えました。
「それはできません。戦争においては、いかに相手をだまして、こちらに都合のいいよう
に動かすかが重要となってきます。『まじない』や『うらない』などの迷信を利用すれば、
貪欲な人や愚鈍な人をうまくコントロールすることができます。そういうわけで、排除で
きないのです」
太宗が質問しました。
「そのほうは、かつて『知恵ある将軍は、運勢のよしあしを気にしないが、愚かな将軍は、
運勢のよしあしにこだわる』と言っていたが、このことからすれば、『まじない』や『うら
ない』などの迷信は、排除したほうがいいのではないか?」
李靖が答えました。
「むかし、周王朝の武王と殷王朝の紂王が戦ったとき、その日は運勢の悪い日にあたって
いましたが、紂王はその日に戦って負け、武王はその日に戦って勝ちました。その日が両
者にとって運勢のわるい日であることには違いがなかったにもかかわらず、殷王朝は滅亡
し、周王朝は興隆したというように、戦いの結果は違いました。
さらに、南北朝時代、宋国の武帝(劉裕)は、南燕国と戦争することに決めたのですが、
その日はちょうど運勢の悪い日にあたっていました。そのため軍事顧問の役人は、日が悪
いという理由で、その日に戦争することに反対しました。しかし、武帝は『それは、こち
らが出兵し、あちらが滅亡するということだ』と言って戦争を始め、そして見事に勝利し
ました。これらのことからも明らかなように、『まじない』や『うらない』などの迷信は排
除して、あてにしないようにしなければいけません。
しかしながら、春秋戦国時代、斉国が燕国に攻められ、滅亡しそうになったとき、斉国
の将軍に任命された田単は、兵士の一人に神様がのりうつったといつわり、その兵士を全
軍の前でおがんでみせ、神殿にまつりました。そして、『燕国は敗北するであろう』という
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神様のお告げがあったことにしました。こうして田単は、斉国軍の将兵をうまくだまして、
その士気を高めたうえで、奇策を用いて燕国軍に奇襲攻撃をしかけ、大いに撃ち破りまし
た。これが兵法家の用いる『相手をうまくだまして、こちらに都合がいいようにする方法』
でして、運勢のよしあしを使うこともまた、その一種なのです」
太宗が質問しました。
「斉国の将軍の田単は、神のお告げを利用して燕国に勝ったが、周王朝の軍師の太公望は、
うらないを無視して殷王朝に勝った。一方は迷信を使い、もう一方は迷信を使わないとい
うように、両者はまったく逆のことをしているが、これはどういうことだ?」
李靖が答えました。
「その士気を高めるためにするという目的は、どちらも同じです。一方(田単)は迷信を
排除すべきという原則に逆らい、それをうまく利用して敵に勝ち、もう一方(太公望)は
迷信を排除すべきという原則に従い、そのときの状況に応じて最善の策をとったのです。
むかし太公望が、武王を補佐して牧野(殷王朝との天下わけ目の決戦が行われた場所)
まで軍を進めたとき、いきなり落雷と豪雨にみまわれ、多くの軍旗や太鼓が損傷してしま
いました。そのあまりに不吉なできごとに、将兵たちは動揺してしまいました。そこで、
散宜生(周王朝の大臣)は、その動揺をなくすため、うらなって吉と出てから再び出発す
ることを主張しました。しかし、太公望は、『うらないなど、ただの迷信にすぎず、頼りに
ならない。それに第一、殷王朝の天子を倒すチャンスは、今をおいてほかにない』と言っ
て、散宜生の主張をしりぞけました。こうしてみてくると、散宜生は迷信を利用して将兵
たちの士気が低下するのを予防しようとし、太公望は迷信をバカにして将兵たちの不安を
とりのぞこうとしたわけで、迷信を排除すべきという原則に逆らったり、従ったりという
ように、そのやり方は異なっていますが、どちらも迷信のせいで動揺している将兵を安心
させるためにするという目的は同じです。わたくしが迷信を排除すべきでないと考えます
のは、あくまでも迷信を利用すれば、士気をうまく調節して、こちらを有利にするのに使
えるからにすぎず、最終的な勝敗はすべて人の努力によって決まります」
(9)
太宗が言いました。
「現在、将軍の職についているのは、李世勣、道宗、薛萬徹の三人だけだ。そして、三人
のうち、道宗以外は親族でないわけだが、だれがいちばん頼りになるだろうか?」
李靖が答えました。
「かつて陛下は、『李世勣や道宗に軍隊を指揮させると、大勝することはないが、大敗する
こともない。しかし、薛萬徹に軍隊を指揮させると、大勝しないときには必ず大敗する』
と言われました。そのお言葉から考えますに、わざわざ無理して大勝しようとせず、しか
も大敗しない軍隊は、きちんとした軍隊です。いっぽう、大勝したり、大敗したりと、勝
ち負けの波の激しい軍隊は、行き当たりばったりの軍隊です。ですから、『孫子』では『戦
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いのうまい人は、まずこちらを敵に負けない状態にして、そうして敵のどんなスキをもみ
のがさない』と述べ、きちんとした軍隊にすることの大切さを説いているのです」
(10)
太宗が質問しました。
「両軍が陣をしいて向かい合っており、戦いたくないとき、どのようにすれば戦わずにす
むか?」
李靖が答えました。
「春秋時代、秦国が晋国に侵攻したとき、晋国の張盾は軍隊をひきいて秦国の侵攻軍と戦
いましたが、両者はちょっと戦っただけで互いに退却しました。『司馬法』にも『敗退して
いる敵を追撃するときは、あまり遠くまでしてはならない。退却している敵を追尾すると
きには、あまり近づきすぎてはならない』とあります。わたくしが思いますに、みずから
退却しているときには、どんな状況の変化にも即応できる態勢ができているものです。こ
ちらの軍隊がきちんとしていて、敵もまた隊列がととのっているなら、決して安易に戦っ
てはいけません。古人が出兵しても少しだけしか戦わずに退却し、互いに相手が退却して
も追撃しなかったのは、互いにへたにしかけて失敗することをさけようとしたからです。
『孫子』に『布陣のようすが堂々としている軍隊を攻めてはならないし、旗の並び方が整
然としている軍隊と戦ってはならない』とあります。もし両軍の規模が同じで、その勢力
が対等であるなら、少しでも軽率な行動をとり、敵に乗じるスキを与えたときには、その
時点で大敗することが確実となります。これは、あたりまえなことです。そういうわけで、
戦争においては、戦わざるべきときと、戦うべきときとがあるのです。戦わざるべきとき
は、こちらの力量によって決まり、戦うべきときは、敵の力量によって決まります」
太宗が質問しました。
「戦わざるべきときは、こちらの力量によって決まるとは、どういう意味だ?」
李靖が答えました。
「『孫子』に『こちらが敵と戦いたくないとき、たとえ地面に線を引いて守っただけでも、
敵はこちらと戦いようがなくするには、敵をうまくだまして見当違いの方向に進軍するよ
うに仕向ける』とあります。もし敵に優秀な人物がいれば、たとえ互いに退却していると
きでも、敵をワナにおとしいれることはできません。ですから、戦わざるべきときは、こ
ちらの力量によって決まるのです。
ついでに戦うべきときは、敵の力量によって決まるということについても説明しておき
ますと、『孫子』に『敵をうまく動かせる者は、こちらが弱いように見せかけることで敵を
おびきだし、わざと敵を有利にしてやることで敵をひっかけるというように、利によって
敵を誘導し、精鋭部隊で敵を待ちうけ、敵がやってきたら一気にたたきつぶす』とありま
すが、もし敵に優秀な人物がいなければ、敵をうまく誘導してワナにおとしいれ、敵が不
利になったところで撃ち破るということが可能となります。ですから、戦うべきときは、
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敵の力量によって決まるのです」
太宗が言いました。
「きちんとした軍隊のもつ意味は、とても奥深いものであるなあ。きちんとした軍隊の編
成方法がわかっていれば国は栄えるが、わかっていなければ国は衰えてしまう。そのほう
は歴代のきちんとした軍隊の好例を集め、それを図解してくれ。わしはそのなかから特に
よいもの選択して、後世の模範にしようと思う」
李靖が答えました。
「わたくしが以前、陛下にお示しした黄帝と太公望に由来する二つの陣図、そして『司馬
法』と諸葛亮に由来する奇兵と正兵をうまく使い分ける方法は、どれもすぐれたものばか
りです。歴代の名将のなかにも、そのなかの一つ二つを使って勝利した者が、とてもたく
さんいます。ただ歴史を記録する役人には、兵法をよく理解しているものがほとんどいま
せん。そのため、戦例を正しく把握し、要点をもれなく記録することができていません。
わたくしは、必ずや陛下のご命令どおりの仕事をいたしましょう」
(11)
太宗が質問しました。
「兵法は、だれのがもっとも深遠ですぐれていると言えるか?」
李靖が答えました。
「わたくしはかつて、兵法の内容を三級にわけて、学ぶ人がだんだんと理解を深めていけ
るようにしました。一級は『道』です。二級は『天・地』です。三級は『将軍・法則』で
す。この『道』『天・地』『将軍・法則』は、『孫子』に出てくる言葉です。
『道』が説くところは、とても精細で、とても微妙です。それは、『易経』に言う『なんで
も聞き分け、なんでも見分け、わからないことはなく、知らないことはなく、とらわれが
なく柔軟で、乱れをきちっと治めることができ、かくして厳しい刑罰を用いずともまわり
を従わせることができる』ということで、聖人の境地です。
『天』が説くところは陰謀と陽動で、『地』が説くところは地形の状況です。だれの目にも
見えないところで画策することによって、だれの目にも見える大きな勝利を手にし、攻め
にくく守りやすいところに陣取ることによって、攻めやすく守りにくいところにいる敵を
撃ち破ります。この『天・地』は、『孟子』に言う『天の時、地の利』のことです。
『将軍・法則』が説くところは、すぐれた人物を採用し、すぐれた兵器を配備することで
す。『将軍』の内容は、『三略』に言う『人材を得たものは栄える』ということで、『法則』
の内容は、『管子』に言う『武器は強くて便利でなければならない』ということです」
太宗が言いました。
「そのほうの言うとおりだ。わしにとって、戦わずして敵を屈服させるのが上等であり、
戦って必ず勝利するのが中等であり、堀を深くし、壁を高くし、そうして守りを固めるの
が下等であるが、ここからはかり考えるに、『孫子』には三段階がすべて備わっている」
李衛公問対 下巻
12
李靖が言いました。
「その人がなにを言い、なにをしたかをみれば、その人をランクづけることができます。
たとえば張良、范蠡、孫武らは、大きな功績をあげたにもかかわらず、事がすむと、高い
地位にこだわることもなく、さっぱりと身を引いて、政治のおもて舞台から姿を消しまし
た。これは、『道』を知っているのでなければ、できないことです。
また、楽毅、管仲、諸葛亮らは、戦えば必ず敵にうち勝ちましたし、守れば必ず敵を追
い返しました。これは、天の時と地の利をよくわかっていなければ、できないことです。
次に、王猛は前秦王朝をよく保ち、謝安は東晋王朝をよく守りましたが、こういうこと
ができたのも、すぐれた将軍を任用し、すぐれた人材を採用し、軍隊の装備をととのえて、
きちんと守りを固めていたからです。
ですから、兵法を学ぶ人は、必ずまず初等から始めて中等へとすすみ、さらに中等から
上等へとすすむというようにすれば、順序よくスムーズに理解を深めていけます。そのよ
うにしなければ、ただ兵法家の言葉をまねして言い、兵法書に書いてあることを丸暗記す
るだけとなり、学んだことを実戦に役立てることができなくなります」
太宗が言いました。
「道家は、親子三代にわたって将軍になることを忌み嫌っている。確かに兵法は、凶悪な
戦争のための学問であるので、みだりに伝えるべきではないが、しかし国を守るためにも、
兵法をだれかに伝えないわけにはいかない。そのほうは、慎重に人を選んだうえで、その
者に兵法を伝えてもらいたい」
李靖は、深々と頭を下げてから退出すると、自分の蔵書をすべて李世勣に与えました
1
李衛公問対 下巻
(1)
太宗が言いました。
「太公望は『歩兵を使って戦車や騎兵と戦う場合、必ず丘陵、墓地、地形のけわしい土地
を戦場に選ばなければならない』と言っているが、『孫子』には『山間の起伏のはげしい場
所、丘陵、墓地、城跡には、軍隊をとどめてはならない』と言っている。両者の意見はく
い違っているが、これはどういうことだ?」
李靖が答えました。
「兵士たちをうまく使うには、全員の心が一つになっていることが大切です。全員の心が
一つになるようにするには、『うらない』や『まじない』などの迷信的なことがらを禁止し、
疑念をとりはらうことが大切です。もし将軍の心が疑い迷っていたり、迷信を気にしてい
たりしたら、兵士たちの気持ちもまた動揺します。兵士たちの気持ちが動揺すれば、それ
に乗じて敵が攻めかかってきます。そこで、兵士たちが安心して陣地で配置につき、そこ
を拠点にしてしっかり戦えるようにするには、軍事行動に便利なところを選ばなければい
けません。(水場や草場が近くにあり、森林のなかに陣どり、騎兵が駆けまわりやすい場所
があれば、軍事行動に便利です)。しかし、たとえば、絶澗(こえられない山間の渓谷)、
天井(急な斜面に囲まれたくぼ地)、天陥(土地が低くて水がたまりやすく、ぬかるみやす
い土地)、天隙(二つの山の間にある狭くて通りにくい道)、天牢(山がけわしかったり、
霧がかかりやすかったりなどして、入りやすいけど、出にくい土地)、天羅(草木のおい茂
っているジャングル)などの場所は、すべて軍事行動には不便なところです。ですから、
それらの場所からはさっさと離れ、そこを避けねばなりません。こうして、敵がこちらの
不利に乗じて攻めてくるのを防止するのです。
いっぽう、丘陵、墓地、城跡などの場所は、軍事行動を阻害するものではなく、そこを
占拠すれば、こちらに有利となります。どうして、そこを放棄して、退去する必要がある
でしょうか。太公望は、兵法家として知っておくべき一番の要点について言っているので
す」
太宗が言いました。
「わしは思うのだが、この世に戦争ほど凶悪なものはない。そこで、やむをえず戦争する
ことになったときには、さっさと戦争を終わらせるためにも、どんなチャンスをも見逃し
てはならず、迷信にとらわれ、せっかくチャンスがめぐってきたのに、たとえば『今日は
日が悪いから』とか、『うらなうと不吉な結果が出たから』とかいう理由で、ぐずぐずして
決戦をためらってはならない。今後は、『うらない』や『まじない』などの迷信にとらわれ
て、せっかくのチャンスを逃すようなことがあってはならないということを、そのほうか
ら将軍たちにきちんと言って聞かせてやってくれ」
李靖は深々と頭をさげてから言いました。
李衛公問対 下巻
2
「『尉繚子』に『黄帝は、徳を用いてみずから守り、刑を用いて悪人を討伐した。ここで言
う刑徳とは、陰陽家が用いる迷信的なことがらではない』とあります。しかしながら、戦
争のうまい人が使う、相手をだまして、こちらに都合がいいように誘導する方法を用いれ
ば、こちらの思いどおりに人をあやつれますが、あやつられた方にしてみれば、どうして
そんなことになったのか、わけがわかりません。あたかも魔法にかけられたかのような錯
覚におちいります。それで、平凡な将軍たちは、『うらない』や『まじない』などの迷信を
ころっと信じてしまい、それにとらわれてしまうのです。そのため大敗した例は多くあり、
こういったことにならないように戒める必要があります。陛下から賜りましたご訓戒を、
わたくしはきちんと将軍たちに通知、徹底いたします」
(2)
太宗が質問しました。
「軍隊は、分けて使うこともあれば、合わせて使うこともある。どちらを使うかは、その
ときの状況に応じて、臨機応変に決めていくことが大切だが、むかしの戦例をみたとき、
これをだれが一番うまくできたのか?」
李靖が答えました。
「符堅は、百万人もの兵士をひきつれていながらも、謝安のひきいる三万人の軍隊に敗れ
ました。これはよく合わせることはできても、よく分けることができなかったからです。
いっぽう、光武帝は呉漢に命じて公孫述を討伐させましたが、このとき呉漢は、軍隊を
二つに分け、一隊を副将の劉尚にまかせました。そして、呉漢と劉尚は、互いに二十里ほ
ど離れて布陣したのですが、公孫述が呉漢の陣地を攻めたとき、劉尚は兵を出して呉漢軍
と合流し、公孫述の軍勢を攻撃しました。これにより、公孫述は大敗しました。このよう
に勝てたのは、分かれていながらも、よく合わせることができたからです。
太公望は、こう言っています。『分散すべきときに分散できない軍隊は、縛られた軍隊で
ある。集合すべきときに集合できない軍隊は、孤立した軍隊である』と」
太宗が言いました。
「まったく、その通りだ。符堅は、よく兵法を理解していた王猛を宰相としていたので、
中国の中心部を獲得できたが、王猛が死ぬや、謝安との戦いに敗北してしまった。これは
軍隊を縛って分けることができなかったためだろう。いっぽう、呉漢は、光武帝から軍隊
の指揮を一任され、なんの制約も受けなかったので、公孫述を打ち倒し、その支配地域を
占領できた。これは各軍を孤立させることなく、合わせることができたからであろう。光
武帝が成功し、符堅が失敗した、この事例は、後世のよい手本とできる」
(3)
太宗が質問しました。
「わしは兵法の本に書かれている言葉を多くみてきたが、その要点は『いろんな方法を使
李衛公問対 下巻
3
って、相手をまちがわせる』という一言につきるのではないだろうか?」
李靖はしばらく考えてから答えました。
「まことに陛下のおっしゃるとおりです。およそ戦いにおいては、敵がまちがわなければ、
こちらがどうして勝てるでしょうか。たとえば将棋をするようなもので、両者の力量が均
等な場合、一手でもまちがえれば、それだけでどうしようもなくなってしまいます。この
ように、古今の勝敗は、たいていたった一度のまちがいで決まっているにすぎません。ま
してや多くのまちがいをした場合、負けて当然です」
(4)
太宗が言いました。
「攻撃と守備の二つのことがらは、実際は一つの戦法ではないだろうか。『孫子』に『攻撃
のうまい人は、敵がどこを守ればいいのかわからないようにする。守備のうまい人は、敵
がどこを攻めればいいのかわからいようにする』とあるが、そこには『敵が攻めてきたと
きに、こちらも攻める場合』や『こちらが守っているときに、敵も守る場合』について、
なにも書かれていない。自他の勢いが均等で、力量が同等である場合は、いったいどのよ
うな戦法をとればいいのか?」
李靖が答えました。
「むかしから、このように互いに攻めたり、互いに守ったりすることは、とても多くあり
ます。このときの原則について、だれもが『守るのは足らないのであり、攻めるのはあり
余っているのだ』と解説しました。足らないというのは、力が弱いことで、あり余ってい
るというのは、力が弱いことです。これでは、どうも攻守の原則について、わかっている
とは思えません。
『孫子』に『勝てる者は攻めるし、勝てない者は守る』とあります。これは、『敵に勝てる
チャンスがなければ、しばらく守備しながら時を待ち、敵にスキがあって勝てるのであれ
ば、すぐさま攻撃する』という意味であり、力の強弱について説いているのではありませ
ん。後世の人々は、その意味を理解せず、そのため攻めるべきときに守ったり、守るべき
ときに攻めたりしています。攻守の使い方をまちがっているので、攻守を二つあわせてう
まく使いこなすことができないのです」
太宗が言いました。
「まったく、そのとおりだな。あり余っているとか、足りないとかいうことは、人にそれ
は力の強弱によるのだという誤解を与えた。とくに『守備の方法としては、こちらを劣勢
に見せかけるのが大切であり、攻撃の方法としては、こちらを優勢に見せかけるのが大切
である』ということをわかっていない。こちらが劣勢であると見せかければ、敵は必ず攻
めてくるが、本当のところがわかっていないので、まさに『どこを攻めればよいのかわか
らない』という状態になる。反対に、こちらが優勢であると見せかければ、敵は必ず守り
にまわるが、本当のところがわかっていないので、まさに『どこを守ればよいのかわから
李衛公問対 下巻
4
ない』という状態になる。
攻撃と守備は一つの戦法にすぎないが、ただ敵とこちらにわかれて二つになるにすぎな
い。こちらが成功すれば、あちらは敗北するが、あちらが成功すれば、こちらが敗北する。
一方が成功すれば、他方は失敗し、一方が勝利すれば、他方が敗北するというように、攻
守の結果は二つにわかれるが、攻守は一つの戦法にすぎず、負けて当然の弱いほうが守り、
勝って当然の強いほうが攻めるというようなものではない。攻守を一つのものとしてうま
く使いこなせる人は、連戦連勝できる。だから、『あちらのことを知り、こちらのことを知
っていれば、いくら戦っても危機におちいることはない』と言われているのだが、これは
攻守が一つの戦法だと知っているということである」
李靖は深々と頭を下げてから言いました。
「すぐれた人物の戦法は、なんとも深遠なものでございますね。攻めるとは、守りながら
攻撃のチャンスを待った結果ですし、守るとは、攻めるための策略をねる時間をとる方法
です。両者ともに勝利をめざすための手段にすぎません。攻めることを知っていても守る
ことを知らず、守ることを知っていても攻めることを知らないというのは、ただ攻撃と守
備を二つにわけて考えるのみならず、両者を別々に使うようになります。『孫子』や『呉子』
の兵法を口に出して言うことができても、攻守をあわせて使うことの効用を心からわかっ
ていなければ、どうして攻守が一つであることをわかるでしょうか」
太宗が言いました。
「『司馬法』に『国は、いくら大きくても、戦いを好めば必ず滅びる。天下は、いくら平和
でも、戦いを忘れると必ず危うくなる』とある。この言葉もまた、攻守が一つの手段であ
ることを言っているのか?」
李靖が答えました。
「国をおさめ、家をおさめる立場にあるものは、攻めと守りの方法について研究し、それ
をきわめなければなりません。そもそも攻めるにあたっては、ただ敵の城を攻め、敵の陣
を攻めるだけでなく、必ず敵の心を攻めるノウハウをもつことが必要です。また、守るに
あたっては、ただ城を築き、陣を固めるだけでなく、必ずこちらの気力を守ってチャンス
を待つことが必要です」
太宗が言いました。
「まことに、そのとおりだ。わしはいつも、戦うときには、まず敵の心とこちらの心とで
は、どちらが知恵にすぐれているかをはかってから、はじめて敵の長短を判断できたもの
だし、また、まず敵の気力とこちらの気力とでは、どちらが充実しているかを調べてから、
はじめてこちらの強弱を判断できたものだ。それで兵法家は、『あちらを知り、こちらを知
ること』を重視するのだろう。今の将軍は、たとえ敵の長短をよく判断できてなくとも、
こちらの強弱を判断できていれば、どうして失敗したりしようか」
李靖が言いました。
「『孫子』に『まず敵がこちらに勝てないような状態をつくる』とありますが、これが『こ
李衛公問対 下巻
5
ちらを知る』ということです。また、『敵がこちらの勝ちやすい状態になるのを待つ』とあ
りますが、これが『敵を知る』ということです。さらに『敵がこちらに勝てないのは、こ
ちらが充実しているからで、こちらが敵に勝てるのは、敵が虚弱であるからだ』とありま
すが、わたくしはこの言葉を戒めとして、つねに忘れないようにしています」
太宗が質問しました。
「『孫子』に全軍の気力をなえさせる方法について述べてあり、そこには『早朝の気力は力
強く、昼頃の気力はたるんでおり、夕方の気力は弱まっている。用兵のうまい人は、敵の
力強い気力をさけ、気力がたるみ、弱まるのを待って攻撃する』とある。これについて、
そのほうはどう思うか?』
李靖が答えました。
「生きて血のかよっている人間が、奮起して敵と戦い、たとえ死ぬことになっても気にし
ないことがありますが、それは気力がそうさせるのです。ですから、軍隊を指揮する方法
としては、まずこちらの将兵たちの状態をよく調べ、必ず敵に勝とうとする強い意志をふ
るいたたせるようにします。そうすれば、敵を撃ち破れます。
呉起は『四機(勝つために必要な四つの要素)』をとりあげ、そのなかでも特に『気機(将
軍がすぐれたリーダーシップを発揮すること)』を重くみていて、それ以外の方法はありま
せん。将兵たちがみずから戦うように仕向けることができれば、こちらの勢いはとても強
まります。『孫子』に言う『早朝の気力は力強い』とは、時刻をかぎって言っているのでは
なく、たとえでそう言っているにすぎません。だいたい三たび突撃を合図する太鼓をうち
鳴らしても、敵の気力がたるまず、弱まらないなら、どうして敵をたるませ、弱まらせる
ことができるでしょうか。兵法書を学ぶ人は、そこに書いてあることをそのまま暗記する
だけなら、敵からいいようにコントロールされてしまいます。もし敵の気力を奪うことの
本当の意味について、きちんと理解している人がいれば、その人こそ軍隊の指揮をまかせ
るのにふさわしい人物です」
(5)
太宗が言いました。
「そのほうはかつて『李世勣は兵法をよくわかっている』と言っていたが、これからもず
っとあいつを使いつづけられるだろうか? わしのようにあらあらしさがなければ、きっ
とあいつを使いこなせないのではないだろうか? いずれわしのあとをついで皇帝になる
治(太宗の三男)は、わしと違ってやさしい性格なので心配だ。どんなふうにすれば、治
はあいつを使いこなせるだろうか?」
李靖が答えました。
「陛下のためにもくろみますと、まず陛下が李世勣を左遷なされ、そのあと皇太子殿下が
即位されましたとき、皇太子殿下が彼をふたたび高位につけるというかたちをとるのがベ
ストでございましょう。そのようにいたしますれば、李世勣は、あのまっすぐな性格から
李衛公問対 下巻
6
して必ず皇太子殿下に恩を感じ、それに報いようとするでしょう。これなら物事の道理に
もかなっています」
太宗が言いました。
「それは名案だ。それなら大丈夫だろう」
太宗が言いました。
「李世勣と長孫無忌(太宗の妻の父)に共同で国政をとらせた場合、将来的にはどうなる
だろうか?」
李靖が答えました。
「李世勣は忠義の臣下ですから、ずっと国政をとらせてもよいでしょう。長孫無忌は建国
に貢献し、陛下に対し大きな功績をあげておりまして、陛下の親戚ということで宰相の職
についております。しかしながら、表面的には謙虚そうにみえますが、実際には賢者をね
たんで憎むような人間です。ですから、尉遅敬徳は、面と向かって長孫無忌の短所をとが
めたあと、とうとう引退してしまいした。また、候君集は、長孫無忌が旧交を忘れたこと
をうらんで、クーデターに加わりました。これらはすべて長孫無忌が原因となっておりま
す。いま、陛下がわたくしにご下問なされましたので、わたくしは言いにくいこともあえ
て言わせていただきました」
太宗が言いました。
「そのほうは、今回の話をそとにもらしてはならん。わしは、この件について、どのよう
にすべきかをゆっくり考えよう」
(6)
太宗が質問しました。
「漢王朝をひらいた劉邦は、ただのリーダーではなく、リーダーのリーダーとしてのすぐ
れた才能をもっていると言われていたが、天下を平定したあと、将軍として功績のあった
韓信や彭越を処刑したし、宰相として功績のあった蕭何を処罰した。どうしてこんなこと
になったのだ?」
李靖が言いました。
「わたくしは、劉邦も、項羽(劉邦と天下を争った戦いのうまかった王)も、ともにリー
ダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていたとは思いません。秦王朝が滅亡するに
あたり、張良(劉邦に仕えた名参謀)はもともと韓国の宰相の一族であり、韓国が秦王朝
に滅ぼされたので、その復讐をくわだてていました。また、陳平(劉邦に仕えた策士)と
韓信は、もともと項羽のところにいましたが、項羽にまったく進言を聞いてもらえないの
で、それをうらんでいました。ですから、彼らは、劉邦の力をかりて、自分たちの願いを
かなえようとしたのです。さらに蕭何、曹参、樊噲、灌嬰などは、みんな他に行き場がな
くて、仕方がなくて劉邦のもとに亡命してきた者たちです。劉邦は、そんなふうにして集
まってきた彼らを使うことで、天下をとることができました。もし秦王朝に滅ぼされた国々
李衛公問対 下巻
7
が復興されていたなら、彼らも祖国をなつかしく思い、祖国の君主に仕えたでしょう。そ
うなれば、いくら劉邦がリーダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていたとしても、
漢王朝のために彼らを使い続けることはできなかったでしょう。劉邦が天下を取れたのは、
張良がその深謀遠慮を発揮して天下統一のためのプランを指し示し、蕭何がよく銃後を守
って前線への補給を絶やさないように粉骨砕身の努力をしたからです。
以上の観点から言えば、劉邦が韓信と彭越を処刑したことと、項羽が范増(項羽につか
えた軍師)をしりぞけて憤死させたこととは、どちらも事情が同じです。ですから、わた
くしは、劉邦も、項羽も、ともにリーダーのリーダーとしてのすぐれた才能をもっていた
とは思わないのです」
太宗が質問しました。
「光武帝は、いったん滅ぼされた漢王朝をたてなおしたあと、手柄をたてた臣下たちを守
るため、彼らを政治のおもて舞台にたたせなかった。この場合、光武帝はリーダーのリー
ダーとしてすぐれていたと言えるか?」
李靖が答えました。
「光武帝は、先祖代々にわたって築き上げてきた基盤があったので、確かに成功しやすい
立場にあったとはいえ、王莽の勢力は項羽にひけをとるものではありませんでしたし、光
武帝のもとで働いた鄧禹や冦恂の才能は蕭何や曹参ほどではありませんでした。しかし、
光武帝という人は、まごころをもって人に接し、柔和な方法を用いることのできる人でし
たので、手柄をたてた臣下たちを守りました。この点では、劉邦よりも賢明であったと言
えます。ここからリーダーのリーダーとしてのすぐれた才能について論じるなら、わたく
しは光武帝こそがそういった才能をもっていたと思います」
(7)
太宗が言いました。
「むかし、帝王は、出兵を決め、将軍を任命するにあたり、三日間にわたって身を清め、
将軍の任命式をとりおこなった。任命式では、まず将軍にまさかりを授与して、『これより
天に至るまで、将軍がとりしきる』と言い、士気を高めるべきことを示した。それからお
のを授与して、『これより地に至るまで、将軍がとりしきる』と言い、あわれみの気持ちを
もつべきことを示した。そして最後に戦車の車軸に手をそえて、『進むも、退くも、時によ
って決めよ』と言い、現場にいる将軍の判断で臨機応変に行動すべきことを示した。こう
して軍隊が出発してからは、君主の命令よりも将軍の命令が優先された。こういった将軍
を任命する儀式は今やまったくすたれてしまったが、わしはそのほうとはかって、あらた
めて将軍を派遣する儀式を制定したい。そのほうは、どう思うか?」
李靖が答えました。
「聖人の定めた礼法をみてみますに、①宗廟で身を清めるのは、縁起をかつぐためですし、
②おのやまさかりを授けたり、戦車の車軸に手をそえたりするのは、思うままに軍隊を動
李衛公問対 下巻
8
かす権限を委任するためです。今、陛下は、①開戦なさるときにはいつも大臣たちとその
是非を議論し、そのあと宗廟に祈ってから軍隊を出動させていますが、ここですでにきち
んと縁起をかついでいます。②また、将軍を任命なさるときにはいつも臨機応変に行動す
るように命じられておられますが、ここですでに思うままに軍隊を動かす権限を委任して
おられます。こうしてみてきますと、現在のやり方は、むかしの帝王のやっていた儀礼と
実質的には同じです。あらためて儀礼を制定する必要はないと思います」
太宗が言いました。
「そのほうの言うとおりだ。さっそく側近たちに命じて、以上の二つを文書にまとめさせ、
それを今後の正式なやり方としよう」
(8)
太宗が言いました。
「たとえば『まじない』や『うらない』などの迷信は、排除してよいか?」
李靖が答えました。
「それはできません。戦争においては、いかに相手をだまして、こちらに都合のいいよう
に動かすかが重要となってきます。『まじない』や『うらない』などの迷信を利用すれば、
貪欲な人や愚鈍な人をうまくコントロールすることができます。そういうわけで、排除で
きないのです」
太宗が質問しました。
「そのほうは、かつて『知恵ある将軍は、運勢のよしあしを気にしないが、愚かな将軍は、
運勢のよしあしにこだわる』と言っていたが、このことからすれば、『まじない』や『うら
ない』などの迷信は、排除したほうがいいのではないか?」
李靖が答えました。
「むかし、周王朝の武王と殷王朝の紂王が戦ったとき、その日は運勢の悪い日にあたって
いましたが、紂王はその日に戦って負け、武王はその日に戦って勝ちました。その日が両
者にとって運勢のわるい日であることには違いがなかったにもかかわらず、殷王朝は滅亡
し、周王朝は興隆したというように、戦いの結果は違いました。
さらに、南北朝時代、宋国の武帝(劉裕)は、南燕国と戦争することに決めたのですが、
その日はちょうど運勢の悪い日にあたっていました。そのため軍事顧問の役人は、日が悪
いという理由で、その日に戦争することに反対しました。しかし、武帝は『それは、こち
らが出兵し、あちらが滅亡するということだ』と言って戦争を始め、そして見事に勝利し
ました。これらのことからも明らかなように、『まじない』や『うらない』などの迷信は排
除して、あてにしないようにしなければいけません。
しかしながら、春秋戦国時代、斉国が燕国に攻められ、滅亡しそうになったとき、斉国
の将軍に任命された田単は、兵士の一人に神様がのりうつったといつわり、その兵士を全
軍の前でおがんでみせ、神殿にまつりました。そして、『燕国は敗北するであろう』という
李衛公問対 下巻
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神様のお告げがあったことにしました。こうして田単は、斉国軍の将兵をうまくだまして、
その士気を高めたうえで、奇策を用いて燕国軍に奇襲攻撃をしかけ、大いに撃ち破りまし
た。これが兵法家の用いる『相手をうまくだまして、こちらに都合がいいようにする方法』
でして、運勢のよしあしを使うこともまた、その一種なのです」
太宗が質問しました。
「斉国の将軍の田単は、神のお告げを利用して燕国に勝ったが、周王朝の軍師の太公望は、
うらないを無視して殷王朝に勝った。一方は迷信を使い、もう一方は迷信を使わないとい
うように、両者はまったく逆のことをしているが、これはどういうことだ?」
李靖が答えました。
「その士気を高めるためにするという目的は、どちらも同じです。一方(田単)は迷信を
排除すべきという原則に逆らい、それをうまく利用して敵に勝ち、もう一方(太公望)は
迷信を排除すべきという原則に従い、そのときの状況に応じて最善の策をとったのです。
むかし太公望が、武王を補佐して牧野(殷王朝との天下わけ目の決戦が行われた場所)
まで軍を進めたとき、いきなり落雷と豪雨にみまわれ、多くの軍旗や太鼓が損傷してしま
いました。そのあまりに不吉なできごとに、将兵たちは動揺してしまいました。そこで、
散宜生(周王朝の大臣)は、その動揺をなくすため、うらなって吉と出てから再び出発す
ることを主張しました。しかし、太公望は、『うらないなど、ただの迷信にすぎず、頼りに
ならない。それに第一、殷王朝の天子を倒すチャンスは、今をおいてほかにない』と言っ
て、散宜生の主張をしりぞけました。こうしてみてくると、散宜生は迷信を利用して将兵
たちの士気が低下するのを予防しようとし、太公望は迷信をバカにして将兵たちの不安を
とりのぞこうとしたわけで、迷信を排除すべきという原則に逆らったり、従ったりという
ように、そのやり方は異なっていますが、どちらも迷信のせいで動揺している将兵を安心
させるためにするという目的は同じです。わたくしが迷信を排除すべきでないと考えます
のは、あくまでも迷信を利用すれば、士気をうまく調節して、こちらを有利にするのに使
えるからにすぎず、最終的な勝敗はすべて人の努力によって決まります」
(9)
太宗が言いました。
「現在、将軍の職についているのは、李世勣、道宗、薛萬徹の三人だけだ。そして、三人
のうち、道宗以外は親族でないわけだが、だれがいちばん頼りになるだろうか?」
李靖が答えました。
「かつて陛下は、『李世勣や道宗に軍隊を指揮させると、大勝することはないが、大敗する
こともない。しかし、薛萬徹に軍隊を指揮させると、大勝しないときには必ず大敗する』
と言われました。そのお言葉から考えますに、わざわざ無理して大勝しようとせず、しか
も大敗しない軍隊は、きちんとした軍隊です。いっぽう、大勝したり、大敗したりと、勝
ち負けの波の激しい軍隊は、行き当たりばったりの軍隊です。ですから、『孫子』では『戦
李衛公問対 下巻
10
いのうまい人は、まずこちらを敵に負けない状態にして、そうして敵のどんなスキをもみ
のがさない』と述べ、きちんとした軍隊にすることの大切さを説いているのです」
(10)
太宗が質問しました。
「両軍が陣をしいて向かい合っており、戦いたくないとき、どのようにすれば戦わずにす
むか?」
李靖が答えました。
「春秋時代、秦国が晋国に侵攻したとき、晋国の張盾は軍隊をひきいて秦国の侵攻軍と戦
いましたが、両者はちょっと戦っただけで互いに退却しました。『司馬法』にも『敗退して
いる敵を追撃するときは、あまり遠くまでしてはならない。退却している敵を追尾すると
きには、あまり近づきすぎてはならない』とあります。わたくしが思いますに、みずから
退却しているときには、どんな状況の変化にも即応できる態勢ができているものです。こ
ちらの軍隊がきちんとしていて、敵もまた隊列がととのっているなら、決して安易に戦っ
てはいけません。古人が出兵しても少しだけしか戦わずに退却し、互いに相手が退却して
も追撃しなかったのは、互いにへたにしかけて失敗することをさけようとしたからです。
『孫子』に『布陣のようすが堂々としている軍隊を攻めてはならないし、旗の並び方が整
然としている軍隊と戦ってはならない』とあります。もし両軍の規模が同じで、その勢力
が対等であるなら、少しでも軽率な行動をとり、敵に乗じるスキを与えたときには、その
時点で大敗することが確実となります。これは、あたりまえなことです。そういうわけで、
戦争においては、戦わざるべきときと、戦うべきときとがあるのです。戦わざるべきとき
は、こちらの力量によって決まり、戦うべきときは、敵の力量によって決まります」
太宗が質問しました。
「戦わざるべきときは、こちらの力量によって決まるとは、どういう意味だ?」
李靖が答えました。
「『孫子』に『こちらが敵と戦いたくないとき、たとえ地面に線を引いて守っただけでも、
敵はこちらと戦いようがなくするには、敵をうまくだまして見当違いの方向に進軍するよ
うに仕向ける』とあります。もし敵に優秀な人物がいれば、たとえ互いに退却していると
きでも、敵をワナにおとしいれることはできません。ですから、戦わざるべきときは、こ
ちらの力量によって決まるのです。
ついでに戦うべきときは、敵の力量によって決まるということについても説明しておき
ますと、『孫子』に『敵をうまく動かせる者は、こちらが弱いように見せかけることで敵を
おびきだし、わざと敵を有利にしてやることで敵をひっかけるというように、利によって
敵を誘導し、精鋭部隊で敵を待ちうけ、敵がやってきたら一気にたたきつぶす』とありま
すが、もし敵に優秀な人物がいなければ、敵をうまく誘導してワナにおとしいれ、敵が不
利になったところで撃ち破るということが可能となります。ですから、戦うべきときは、
李衛公問対 下巻
11
敵の力量によって決まるのです」
太宗が言いました。
「きちんとした軍隊のもつ意味は、とても奥深いものであるなあ。きちんとした軍隊の編
成方法がわかっていれば国は栄えるが、わかっていなければ国は衰えてしまう。そのほう
は歴代のきちんとした軍隊の好例を集め、それを図解してくれ。わしはそのなかから特に
よいもの選択して、後世の模範にしようと思う」
李靖が答えました。
「わたくしが以前、陛下にお示しした黄帝と太公望に由来する二つの陣図、そして『司馬
法』と諸葛亮に由来する奇兵と正兵をうまく使い分ける方法は、どれもすぐれたものばか
りです。歴代の名将のなかにも、そのなかの一つ二つを使って勝利した者が、とてもたく
さんいます。ただ歴史を記録する役人には、兵法をよく理解しているものがほとんどいま
せん。そのため、戦例を正しく把握し、要点をもれなく記録することができていません。
わたくしは、必ずや陛下のご命令どおりの仕事をいたしましょう」
(11)
太宗が質問しました。
「兵法は、だれのがもっとも深遠ですぐれていると言えるか?」
李靖が答えました。
「わたくしはかつて、兵法の内容を三級にわけて、学ぶ人がだんだんと理解を深めていけ
るようにしました。一級は『道』です。二級は『天・地』です。三級は『将軍・法則』で
す。この『道』『天・地』『将軍・法則』は、『孫子』に出てくる言葉です。
『道』が説くところは、とても精細で、とても微妙です。それは、『易経』に言う『なんで
も聞き分け、なんでも見分け、わからないことはなく、知らないことはなく、とらわれが
なく柔軟で、乱れをきちっと治めることができ、かくして厳しい刑罰を用いずともまわり
を従わせることができる』ということで、聖人の境地です。
『天』が説くところは陰謀と陽動で、『地』が説くところは地形の状況です。だれの目にも
見えないところで画策することによって、だれの目にも見える大きな勝利を手にし、攻め
にくく守りやすいところに陣取ることによって、攻めやすく守りにくいところにいる敵を
撃ち破ります。この『天・地』は、『孟子』に言う『天の時、地の利』のことです。
『将軍・法則』が説くところは、すぐれた人物を採用し、すぐれた兵器を配備することで
す。『将軍』の内容は、『三略』に言う『人材を得たものは栄える』ということで、『法則』
の内容は、『管子』に言う『武器は強くて便利でなければならない』ということです」
太宗が言いました。
「そのほうの言うとおりだ。わしにとって、戦わずして敵を屈服させるのが上等であり、
戦って必ず勝利するのが中等であり、堀を深くし、壁を高くし、そうして守りを固めるの
が下等であるが、ここからはかり考えるに、『孫子』には三段階がすべて備わっている」
李衛公問対 下巻
12
李靖が言いました。
「その人がなにを言い、なにをしたかをみれば、その人をランクづけることができます。
たとえば張良、范蠡、孫武らは、大きな功績をあげたにもかかわらず、事がすむと、高い
地位にこだわることもなく、さっぱりと身を引いて、政治のおもて舞台から姿を消しまし
た。これは、『道』を知っているのでなければ、できないことです。
また、楽毅、管仲、諸葛亮らは、戦えば必ず敵にうち勝ちましたし、守れば必ず敵を追
い返しました。これは、天の時と地の利をよくわかっていなければ、できないことです。
次に、王猛は前秦王朝をよく保ち、謝安は東晋王朝をよく守りましたが、こういうこと
ができたのも、すぐれた将軍を任用し、すぐれた人材を採用し、軍隊の装備をととのえて、
きちんと守りを固めていたからです。
ですから、兵法を学ぶ人は、必ずまず初等から始めて中等へとすすみ、さらに中等から
上等へとすすむというようにすれば、順序よくスムーズに理解を深めていけます。そのよ
うにしなければ、ただ兵法家の言葉をまねして言い、兵法書に書いてあることを丸暗記す
るだけとなり、学んだことを実戦に役立てることができなくなります」
太宗が言いました。
「道家は、親子三代にわたって将軍になることを忌み嫌っている。確かに兵法は、凶悪な
戦争のための学問であるので、みだりに伝えるべきではないが、しかし国を守るためにも、
兵法をだれかに伝えないわけにはいかない。そのほうは、慎重に人を選んだうえで、その
者に兵法を伝えてもらいたい」
李靖は、深々と頭を下げてから退出すると、自分の蔵書をすべて李世勣に与えました