武経七書ー8ー尉繚子ー1-1-11 | 覚書き

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第一篇 天官
梁恵王が尉繚子に尋ねました。
「黄帝の刑徳を用いれば、百戦百勝できると言うが、これは本当か?」
尉繚子が答えました。
「刑で攻め、徳で守るわけですが、これは運勢のよしあしとは関係ありません。黄帝は、
ただ人の努力だけを大切にしました。たとえば、ある城を攻めるとします。東西から攻め
ても落とせず、南北からも攻めても落とせないのは、なにも攻めるほうの運が悪かったか
らではありません。
攻め落とせないのは、城壁が高く、堀が深く、兵器が十分にあり、食料が豊富にあり、
兵士たちが心を一つにしているからです。もし城壁が低く、堀が浅く、そこを守っている
者たちがおびえていれば、簡単に攻め落とせます。この点から考えますと、運勢のよしあ
しは、人の努力ほど役には立ちません。
運勢のよしあしについて書いてある『天官』を見てみますと、『水を背にして布陣するこ
とを絶紀と言い、坂に向かって布陣することを廃軍と言う』とあり、それらの布陣の仕方
を不吉なものとしています。しかし、周王朝の武王は、殷王朝の紂王の軍隊と戦うにあた
り、水を背にし、坂に向かって布陣しました。そして、たった二万五千人の軍隊で、紂王
の七十万人の大軍を撃ち破って、殷王朝を滅ぼしていました。紂王は運勢のよい場所に布
陣していたはずなのに、負けたのです。
さらに、楚国の将軍、公子心が、斉国軍と戦ったとき、ほうき星があらわれて、その柄
の部分が斉国軍の上にかかりました。運勢のよしあしの点から考えると、ほうき星の柄の
向いているほうにいる軍隊が勝てるということになります。それで、ある人が『今回は攻
撃を中止したほうがよいと思います』と公子心に進言したのですが、公子心は『ほうき星
ごときに何がわかるのだ? ほうき星で人と戦うというのなら、ほうき星をさかさまにも
って、柄で相手をたたきつけて勝つまでだ』と言いました。そして、翌日、斉国軍と戦い、
これを大いに撃ち破りました。
黄帝は、『神に祈ったり、霊に頼んだりするよりも、まず自分の知恵を働かせたほうがよ
い』と言っています。つまり、運勢のいい者というのは、人としてできるかぎりの努力を
して実力を身につけている者のことを言うのです」
第二篇 兵談
昔は、土地の豊かさや土地の生産力を考えて、都市を作り、城壁を築きました。城壁を
築くときには地形につりあわせ、城壁の規模に人口をつりあわせ、人口の規模に食料をつ
りあわせました。城壁、人口、食料の三つがつりあえば、自国を固く守ることができ、外
敵と戦って勝つことができます。戦って外敵に勝ち、備えて自国を守るのですが、戦いと
備えとは相互に補完しあうもので、それはちょうど割り符がぴったり合うようなものです。
ですから、戦いと備えとは、別物ではないのです。
軍隊の使い方がうまい人は、地の下にいるように自軍をとらえどころなくし、天の上に
いるように自軍をつかみどころなくし、無から有を生じるように思いもよらないことしま
す。ですから、大軍でも敵にみつからず、小隊でも敵にやられません。さらに、人々が悪
い考えをいだかないようにし、ちょっとした失敗は大目に見てやり、人々が生活に困らな
いようにし、まがったことは許しません(こうして統制をおよぼします)。また、難民がい
ればやさしくして助けてやり、使われていない土地があれば開墾して使います。
そもそも、土地が広くて、それが農耕に使われていれば、収穫が多くなって国が豊かに
なります。また、人口が多くて、きちんと法律が守られていれば、人々は安心して暮らせ
るようになって国が治まります。豊かで治まった国は、国民をこき使ったり、軍隊を動か
したりしなくても、その国威は天下をおおいます。ですから、「戦争とは、政治によって勝
利するものである」と言われるのです。
兵力を用いずして勝つのは、君主にとっての勝利です。軍隊を動員して勝つのは、将軍
にとっての勝利です。
軍隊は、怒りにまかせて動かしてはいけません。勝算があれば出兵し、勝算がなければ
とどめるようにします。
外敵が国内に攻めてきている場合は、一日もおかずに出兵しないといけません。外敵が
国境を越えて侵入しようとしている場合は、一ヶ月以内に出兵しないといけません。外敵
が国境から遠く離れたところにいる場合は、一年以内に出兵しないといけません。
すぐれた将軍は、上は天運に左右されませんし、下は地形に左右されませんし、中は他
人に左右されません。さらに、寛大であって、挑発して怒らせることができません。また、
清廉であって、買収して動かすことができません。
そもそも、心が狂っており、きちんと見分けることができず、きちんと聞き分けること
ができないというように、三つの欠点をもっていながら、人々を指揮しようとするのは、
難しいことです。
すぐれた軍隊は、くねくねした道でも勝ち、ぎざぎざした山でも勝ち、山に登っても勝
ち、谷に入っても勝ち、方陣の敵にも勝ち、円陣の敵にも勝ちます。
さらに、重武装のときには、山のようにどっしりしていて、林のようにひっそりしてい
て、小川のように柔軟で、大河のように底力があります。軽武装のときには、火が野原に
燃え広がるようにすばやく、壁が物をさえぎるように敵軍は避けようがなく、雲が物をお
おうように敵軍は逃げようがありません。敵が集合しているときには分散できなくさせ、
敵が分散しているときには集合できなくさせます。敵の左軍が右軍を助けに行けないよう
にし、敵の右軍が左軍を助けに行けないようにします。
そもそも、すぐれた軍隊は、弓矢のように速くて防ぎようがなく、竜巻のように激しく
て逆らいようがなく、その兵士たちは勢いがすごくて気合いが入っており、ためらいを捨
て去り、堂々と決戦して敵を撃退します。
第三篇 制談
そもそも軍隊は、まず制度が定まっていなければならず、こうして軍隊がきちんと組織
だてられていれば兵士たちは乱れません。兵士たちが乱れなければ、刑罰は厳正に行われ
るようになり、兵士たちにきちんと統制がおよびます。そして、ドラの音で待機を指示し、
太鼓の音で進行を指示するわけですが、ドラや太鼓の指示があれば、百人がことごとく敵
に立ち向かっていきます。そうして敵の進軍をはばみ、敵の陣地を混乱させたときには、
千人がことごとく敵に立ち向かっていきます。そうして敵の軍隊を壊滅させ、敵の将軍を
討ち取ったときには、一万人が力をあわせ、心を一つにして戦います。このようであれば、
天下無敵です。
①むかしは、歩兵隊には什伍の制度があり、戦車隊には偏列の制度があり、軍隊がきち
んと組織だてられていました。そして、太鼓や旗で突撃が指示されたとき、真っ先に敵の
城壁をよじ登って敵兵を殺すのは、勇敢でパワフルな者だというわけではなく、真っ先に
敵と戦って死ぬのも、勇敢でパワフルな者だというわけではありません。力を合わせて、
みんなで戦うのがあたりまえで、一部の兵士だけが真っ先に登り、真っ先に死ぬべきでは
ありません。敵兵を一人だけ殺すのに、こちらの兵士を百人も犠牲にするのは、敵国を有
利にして、自軍を弱らせることです。今の将軍は、こういったことを防止できません。
②遠征するにあたり、軍隊を分けて進軍し、兵士が逃げ帰ったり、いざ戦いというとき
になって逃げ出したりするなら、我が軍は崩壊し、損害もまた大きくなります。今の将軍
は、こういったことを防止できません。
③遠くの敵を殺すのは、弓矢を使う部隊ですし、近くの敵を殺すのは、ヤリを使う部隊
ですが、将軍が太鼓をたたいて前進を命令しているのに、兵士たちは互いにかけ声をあげ
るだけで前進しようとせず、だれもが他の兵士のうしろに隠れていたほうが得だと積極的
に戦おうとしないということが、ひんぱんに起きるなら、その軍隊は、戦う前からすでに
負けています。今の将軍は、こういったことを防止できません。
④歩兵隊は隊伍が乱れ、戦車隊は隊列が乱れ、奇襲攻撃を行う部隊は隊長を捨てて逃げ
散り、それにつられて全軍の兵士も逃げ去るということを、今の将軍は防止できません。
そもそも将軍は、以上の四つのことを防止できるなら、高い山でも容易に越え、深い川
でも容易に渡り、堅固な陣地も容易に落とせます。しかし、以上の四つを防止できないな
ら、かじのない船で大河を渡るようなもので、どうにもなりません。
人は、死ぬことが好きで、生きることが嫌いなのではありません。命令が明確で、法制
が整備されているというように、きちんと組織化できているので、人を戦わせることがで
きるのです。信賞必罰を徹底することで、全軍に統制がおよんで、有利に戦いを始めるこ
とができ、戦えば成果をあげられます。
百人を隊長に監督させ、千人を将校に監督させ、一万人を将軍に監督させます。このよ
うに組織だてることで、少数で多数を制し、弱い力で強い力を制することができます。た
めしに私の意見を聞いてくださり、この方法を用いてくだされたなら、全軍の兵士を一人
として誤って処罰するということがなくなります。そして、軍隊のなかにおいて、父が子
の罪をかばったり、子が父の罪をかばったりすることがなくなります。親子ですら罪をか
ばいあわないのですから、他人の罪をかばったりすることはまずありません。
ある一人の暴漢が町のなかで刃物をふりまわしていた場合、人々はだれしもその暴漢を
避けようとします。これは「その一人の暴漢だけが勇敢で、その他はみんないくじがない」
というわけではありません。それは、ただ必死になっているか、そうでないかの違いにす
ぎません。
私の方法を信じて用いてくだされば、全軍の兵士を逃げている盗賊のように必死にさせ、
進撃するときには敵は防ぎきれず、退却するときには敵は追いつけず、向かうところ敵な
しというようにできます。これを「王者の軍」「覇者の軍」と言います。
十万人の軍隊を率いて天下無敵だったのはだれかと言えば、それは桓公です。七万人の
軍隊を率いて天下無敵だったのはだれかと言えば、それは呉起です。三万人の軍隊を率い
て天下無敵だったのはだれかと言えば、それは孫武です。
現在、天下の諸侯たちは、それぞれ二十万以上の大軍をもっています。しかしながら、
成功をおさめられないのは、統制がきちんとしていないからです。(統制をきちんとするに
は、人々が悪い考えをいだかないようにし、ちょっとした失敗は大目に見てやり、人々が
生活に困らないようにし、まがったことは許さないことです)。そのための制度が確立され、
一人が敵に勝つときは、十人もまた敵に勝ちますし、十人が敵に勝つときは、百人も、千
人も、一万人もまた敵に勝ちます。
ですから、「我が軍の軍備を整え、我が軍の士気を高めるなら、行動するときは鳥のよう
にすばやくなり、攻撃するときは谷をかけおりるように勢いがつく」と言われるのです。
現在、外患にみまわれている国の君主は、多額のお金を支払い、かわいい我が子を人質に
出し、領土を割譲して、他国の援助を得ようとしています。その際、他国は「十万人規模
の軍隊を応援のために派遣しよう」と言いますが、実際は数万人くらいの小規模な軍隊し
か応援にやってきません。
しかも、その応援にやってくる軍隊を率いている将軍は、必ず「わざわざ戦争をして、
よけいな損害を出すことはない」と言って、まったく戦う気がありません。
さらに、国民を徴兵するにしても、軍隊の組織がきちんとしていなければ、有効に使え
ません。十万人の軍隊を統率して、王様がいくら自分の衣服よりも兵士たちの衣服に気を
使い、自分の食事よりも兵士たちの食事に気を使っても、戦って勝てず、守って固くない
とするなら、それは兵士たちが悪いのではなく、王様みずからが招いたのです。他国の助
けを頼りにして戦うのは、すぐれた馬に対して、大したことのない馬が奮起して競争を挑
むようなもので、すぐに力がつきてしまいます。
世界的な観点からみて役立つものを我が国にとって役立つものと判断し、世界に通用す
る制度を我が国の制度とし、きちんとした命令がきちんと伝わるようにし、信賞必罰を徹
底し、仕事に励まなければ食料を得られないようにし、戦って勝たなければ高い地位を得
られないようにして、国民がみずから率先して働いたり、戦ったりするように仕向けるこ
とで、天下無敵となります。
ですから、「号令を発し、法令を出し、信義が国内に行われる」と言われるのです。国民
のなかに「勝てる」と言う者がいても、そういった言葉だけを簡単に信じてはならず、必
ず勝てるかどうかを調べなければなりません。他国の領土を自国の領土とし、他国の人間
を自国の人間とするには、自国に賢者がいないといけません。自国に賢者がいないのに、
天下を支配しようとすれば、必ず軍隊を壊滅させ、将軍を戦死させることになります。こ
のようであると、戦いに勝っても国はますます弱くなり、領土を獲得しても国はますます
貧しくなります。それは、国家の組織がおちぶれているからです。
第四篇 戦威
およそ戦争には、道によって勝つものがあり、威によって勝つものがあり、力によって
勝つものがあります。軍事を研究し、敵情を調査し、敵の気力を喪失させて軍隊をばらば
らにさせ、陣形は保たれていても実際には使い物にならないようにします。これが「道に
よって勝つ」ということです。法制を完備し、賞罰を明確にし、軍備を充実させ、国民の
戦意を高めさせます。これが「威によって勝つ」ということです。敵軍を破り、敵将を殺
し、城門を突破し、大弓を発射し、敵兵を倒し、敵地を奪い、戦勝したら凱旋します。こ
れを「力によって勝つ」ということです。王侯は、これら三つの勝ち方について知ること
で、うまく戦争することができます。
そもそも将軍が戦うためには、人民が必要ですし、人民が戦うためには、気力が必要で
す。気力が充実していれば、敵と戦えますが、気力を喪失させられれば、敗走することに
なります。
刑罰を使ったり、軍隊を動かしたりする前から、敵を圧倒する方法が、五つあります。
第一は、「勝算をみきわめて開戦すること」です。第二は、「良将を選任すること」です。
第三は、「すみやかに難所を通過すること」です。第四は、「守るときには堅固にすること」
です。第五は、「戦うときには戦意を高めること」です。これら五つのことは、まず敵情を
調査してから行動し、そうして敵の弱点を攻撃して敵の気力を喪失させることです。
戦争のうまい人は、敵のやる気をくじいても、敵にやる気をくじかれることはありませ
ん。敵をくじくとは、こちらの心理作戦です。命令とは、みんなの心を一つにまとめるも
のです。みんなの心がよくわかっていなければ、判断が支離滅裂になって、命令の内容が
ころころ変わるようになります。命令の内容がころころ変われば、命令が出されても、兵
士たちは信じなくなります。
ですから、命令を出す方法としては、多少の誤りがあっても変更せず、多少の疑問があ
っても言わないようにします。上官が自信をもって命令すれば、兵士たちはすんなりと命
令をききますし、ためらうことなく行動すれば、兵士たちの心は一つにまとまります。心
から信じてもらえなければ、協力してもらえません。そもそも協力してもらえなければ、
みんなを死ぬ気で戦わせることはできません。
ですから、国に礼節、信義、親切、愛情といった道義があれば、人々は飢えてもへこた
れませんし、国に親を大切にし、子供をかわいがり、清廉さをもち、恥を知る心をもつと
いった良俗があれば、人々は死ぬことも恐れません。
むかしは、君主が国民を統率する場合、①まず礼節と信義によって国民を心服させてか
ら、恩賞を使って国民が功績をあげようと頑張るようにうながし、②まず清廉さと恥を知
る心によって国民を感化してから、刑罰を使って国民が犯罪をしないようにおどし、③ま
ず親切と愛情によって国民を仲良くさせてから、法律を使って国民が治安を乱さないよう
にさせました。
ですから、うまく戦うコツは、将軍みずからが身をもって模範を示すことで兵士を奮起
させ、あたかも心が手足を動かすように、兵士たちを思いどおりに動かすことにあります。
心が奮起させられなければ、兵士は節に殉じませんし、兵士が節に殉じなければ、人々を
戦わせることができません。
兵士を奮起させる方法は、人々の生活を豊かにしてやり、地位の序列、葬式の援助、人々
の生業についてきちんと定めてやることです。必ずや、その収入に応じた生活をさせて破
産しないようにしてやり、その職種に応じた礼法を定めて混乱しないようにしてやり、み
んなが仕事にあぶれないようにしてやり、みんなで楽しむ場を設けてやり、同じ地域の人
間どうしを励まし合わせ、葬式では助け合わせ、兵役では支え合わせるからこそ、人々は
奮起するのです。
小隊の兵士たちを親戚のように助け合わせ、大隊の兵士たちを親友のように信じ合わせ、
停止するときには城壁のようにどっしりと構え、行動するときには風雨のようにすばやく
動き、戦車は後退しないようにさせ、歩兵は逃亡しないようにさせるのが、戦うときの基
本中の基本です。
領土は、国民を養うために必要なものです。城塞は、領土を守るために必要なものです。
戦闘は、城塞を守るために必要なものです。ですから、がんばって農耕すれば、国民は飢
えませんし、がんばって守備すれば、領土は侵されませんし、がんばって戦闘すれば、城
塞は囲まれません。以上の三つは、古代の名君が重視してきたことです。
そのなかでも特に軍事が急務とされてきました。ですから、古代の名君は、軍事につと
め、そのときには次の五つに注意したのです。①食料の備蓄が多くないときは、兵士は動
きません。②恩賞や給料が十分でないときは、人々は奮戦しません。③精兵を選んでいな
いときは、軍隊は強くなりません。④兵器がととのってないときは、戦力は高まりません。
⑤賞罰が的確でないときは、軍隊はひきしまりません。以上の五つに怠りがなければ、待
機しているときには固く守ることができ、行動するときには成果をあげることができます。
そもそも守りについているときに敵を攻める方法はと言うと、防衛するときにはどっし
りとかまえるようにし、布陣するときには堅固になるようにし、奇襲するときには力を合
わせて出撃するようにし、戦闘するときには心を一つにして進撃するようにします。
王者の国は、国民の利益をはかります。覇者の国は、兵士の利益をはかります。なんと
か生き残っている国は、高官の利益をはかります。いまにも滅びそうな国は、君主の利益
をはかります。いわゆる、「上の人を豊かにし、下の人を貧しくするなら、もはや救いよう
がない」ということです。
ですから、「賢者を挙用し、できる人を任用すれば、運勢のよしあしに関係なく物事がう
まくいく。法律を明確にし、命令を正確にすれば、占わなくてもよい結果となる。功績の
あった人を大切にし、よく働いた人に報いてやれば、祈らなくても幸福を得られる」と言
われるのです。
さらに、「天の時よりも地の利のほうがあてになり、地の利よりも人の和のほうがあてに
なる」と言われるのです。聖人が大切にしたのは、運ではなく、あくまでも人の努力です。
そもそもよく頑張る軍隊は、将軍が必ず率先して頑張り、いくら暑くても日傘をささず、
いくら寒くても厚着をせず、険しい道では乗り物から降りて歩き、全員の飲み水が確保さ
れてから水を飲み、全員の食事が用意されてからものを食べ、全員の設営が完了してから
休憩をとり、兵士たちと苦楽をともにします。このようにできれば、どんなに長く戦争に
行っていても、衰えませんし、弱まりません。
第五篇 攻権
軍隊はおちついていることで勝ち、国は統率されていることで勝ちます。兵力がばらば
らなときには勢いが弱く、将軍の心にためらいがあるときには部下は従いません。
そもそも兵力が弱いので、進むも退くも力強さがなく、敵をのさばらせて討ち取れない
のです。将軍と兵士とは、一体となって行動すべきものです。上下が互いに疑い合い、互
いに背き合っているときには、上官が作戦を発動しても部下は動きませんし、部下が動い
ても上官は兵士たちがいろんなたわごとを言うのを止められません。将軍の態度はきちん
とせず、兵士の訓練はおろそかとなり、出陣して敵を攻撃したときには必ず惨敗します。
これを「威勢ばかり強くて実力のない軍隊」と言い、こんな軍隊とともに戦うことなどで
きません。
たとえて言うなら、将軍は心のようなもので、兵士は手足のようなものです。心に手足
への誠意があれば、手足は必ず力をつくしますが、心に手足への疑念があれば、手足は必
ず思いどおりに動きません。そもそも将軍が兵士を心服させられず、兵士が将軍の手足の
ように働かないのなら、たとえ勝てたとしても、それはまぐれで勝てたにすぎず、うまく
攻めるために考えた結果ではありません。
そもそも人々には、両方ともを畏怖するということはありません。自国を畏怖すれば必
ず敵国を軽蔑しますし、敵国を畏怖すれば必ず自国を軽蔑します。軽蔑されている者は敗
北し、威厳を確立している者は勝利します。
およそ将軍が威厳を確立する方法をよくわかっていれば、役人は必ずその将軍を畏怖し、
役人が将軍を畏怖していれば、人々はその役人を畏怖し、人々が役人を畏怖していれば、
敵国はその人々を畏怖するようになります。
そういうわけで、どうやって勝ち負けが決まるかをわきまえている人は、畏怖と軽蔑と
をうまくコントロールします。将軍を心から好いていない兵士たちは役に立ちませんし、
将軍を心から恐れていない兵士たちは頼りになりません。部下がすなおだからこそ愛情が
成り立ち、上官がしっかりしているからこそ威厳が成り立ちます。部下に愛情をそそぐか
らこそ裏切りませんし、上官に威厳があるからこそ逆らわないのです。ですから、すぐれ
た将軍は、愛情と威厳を兼ね備えているのです。
戦争して必ず勝利できるのでなければ、戦争を口にしてはいけません。攻撃して必ず成
功できるのでなければ、攻撃を口にしてはいけません。このようでなければ、いくら賞罰
を厳正に行っても、人から信頼されません。日頃から信頼をつちかい、前々から計画をよ
くねっていなければいけません。
そのようにするので、①兵士は、召集されたときには、必ずよく働きますし、②軍隊は、
出陣したときには、必ず奮戦しますし、③索敵するときには、必ず敵をとらえようとしま
すし、④攻撃するときは、必ず敵をうちのめそうとします。
もし敵がこちらの攻めにくし険しいところに分かれて布陣して守っているなら、その敵
には戦う気がありません。もし敵がこちらに戦いを挑んでくるなら、こちらは全力で反撃
しないようにします。もし敵が戦いをしかけてくるなら、こちらは全軍で迎撃しないよう
にします。(敵がこのように戦いを挑んだり、しかけたりしてくるのは、こちら誘おうとし
ているのですから、本気で相手をしてはいけないのです)。
正義のために戦うときは、こちらから開戦することが大切です。私情で争って怨まれた
ときは、やむおえず受けてたちますが、どうしようもないくらいに怨みが強まって戦争す
るしかないにしても、相手がしかけてきてからにするのが大切です。ですから、戦争する
ときには、必ず相手がしかけてくるのを待つべきですし、戦争していないときには、必ず
敵の攻撃に備えておくべきです。
戦争には、こちらの政府で戦って勝つ場合があり、原野で戦って勝つ場合があり、相手
の都市で戦って勝つ場合があります。勝つ気で頑張れば成功しますが、逃げ腰で応じれば
失敗します。運よく失敗せずにすんでも、それは思いもよらず敵がパニックになってたま
たま勝ったというものです。たまたま勝つのは、完全な勝利ではありません。
完全な勝利でないなら、どうやれば勝てるのかをよく考えているとは言えません。です
から、賢明な君主は、いざ戦いとなれば、太鼓をたたいて軍隊を待機させたり、進軍させ
たり、笛を吹いて部隊を展開させたり、集結させたりといった指揮を、戦況をみながらほ
どよく行い、勝とうとしなくても勝つのです。
軍隊のなかには、守備をやめて油断しているように見えたり、威力をなくして衰弱して
いるように見えたりするのに、相手に勝てるものがありますが、それは普段から模範的な
あり方ができているので、そのようにできるのです。これは、軍隊の装備がよくととのっ
ているのであり、応戦の準備はと言うと、もれがありませんし、軍隊の統率はと言うと、
最高によくできています。
ですから、五人をまとめて伍という一つの部隊を作り、十人をまとめて什という一つの
部隊を作り、百人をまとめて卒という一つの部隊を作り、千人をまとめて率という一つの
部隊を作り、一万人をまとめたときには将軍を任命して指揮を任せます。こういった組織
作りができあがったあと、将軍が朝に死んだときは朝に交代をたて、将軍が夕方に死んだ
ら夕方に交代をたてるようにし、敵情をはかり考え、将軍の能力をみきわめてから、軍隊
を動かして戦いを始めます。
ですから、兵士たちに召集をかけたときには、千里ほど離れたところなら十日以内に、
百里ほど離れたところなら一日以内に、敵国の国境に必ず集結します。兵士たちが集結し、
将軍が到着してから、敵地に深く進軍し、敵国の主要な道路を封鎖し、敵の主要な都市や
村落に進駐し、自軍の兵士に敵の城壁を乗り越えさせ、敵の急所をたたかせ、敵国住民を
パニックに陥らせ、地形にそって敵の重要な戦略拠点を攻めさせ、敵から奪った城壁に囲
まれた町を拠点にして周辺の道路を封鎖させ、そこからさらに先を攻めます。敵将は互い
に不信をもち、敵兵は互いに不和を生じ、そういった状況が刑罰を使ってもいっこうに改
善されないなら、必ず敵を負かすことができ、援軍がやってこないうちに敵城を落とせま
す。
もし敵が、港や橋を整備せず、重要な陣地を修理せず、城の強さを高めず、障害物を敷
設してないなら、いくら城があっても守りようがありません。国境を警備する部隊が増援
されず、国境を侵犯している軍隊がひきあげないなら、いくら人がいてもいないようなも
のです。放牧している家畜を集められず、実った穀物を収穫できず、各地にある財物をと
りよせられないなら、いくら物資があってもないようなものです。敵の城や村がからっぽ
で、敵に物資や財産がなくなっているなら、こちらはその弱みにつけこんで攻撃します。
兵法に言う「進むところ敵なしで、敵軍は戦わずして撃ち破れる」とは、このことを言
うのです。
第六篇 守権
およそ守っている者で、うって出るときには城を利用して戦いを少しでも有利にしよう
とせず、うしろに引くときには敵の追撃をはばむ障害物を設置しないなら、それは戦争の
プロとは言えません。勇敢な人、優秀な人、堅固な防具、強力な兵器、それに遠くまで飛
ぶ大弓や弓矢が城内にそろっているのに、城壁の外にある食料を敵に奪われないようにす
べて城内に移し、城外の建物を敵に使われないようにすべて破壊して、みんなで城内にた
てこもるのは、攻めてきた敵の士気を高めさせて、こちらの士気を敵の半分以下に低下さ
せることになります。このとき敵に攻めてこられたなら、こちらは大きな被害を受けるこ
とになります。しかしながら、世の中の将軍たちは、こういった守るときの要領を知りま
せん。
そもそも守るとは、こちらが守りやすい状態にあるのをうまく利用して戦いを有利にす
すめようとすることです。固く守る方法は、次のとおりです。すなわち、城壁の長さ三十
メートルあたりに十人の兵士を守備につかせますが、そのなかには工兵隊や食事係を含み
ません。そして、出撃する部隊は守備に加えず、守備する部隊は出撃に加えないようにし、
このように城を拠点にして戦えば、一人で十人の敵と戦え、十人で百人の敵と戦え、百人
で千人の敵と戦え、千人で一万人の敵と戦えます。ですから、城を築くということは、い
たずらに民力を浪費して、土木工事を行うことではありません。実際のところ、守りを固
めるために城を築くのです。
周囲を囲む城壁が三万メートルある場合、一万人の兵士が必要です。堀は深くて広く、
城壁は堅固でぶ厚く、兵士も住民も十分におり、燃料も食料も十分にあり、遠くを攻撃す
るための大弓は強力で、敵に近づいて攻撃するためのヤリも敵にひけをとらないほど優良
であること、これが固く守るための方法です。
十万人以上の大軍に攻められた場合、援軍が期待できるときには必ず城を守りきれます
が、援軍が期待できないときには城を守りきれません。
もし城が堅固であって、本気で助けにやってくる援軍がいるときには、どんなに下らな
い男、つまらない女でも、城にたてこもり、財産や労力を惜しまずに出して守ります。そ
んな城は一年以上にわたって陥落することがありません。これは攻め手より守り手が強力
であり、守り手より援軍が強力であるということです。このときには攻めてはいけません。
もし城が堅固であっても、本気で助けにやってくる援軍がいないときには、どんなに下
らない男、つまらない女でも、城壁にすがってめそめそします。これが人情です。いくら
備蓄している食糧をみんなに気前よく分け与えて、住民たちを慰撫したとしても、めそめ
そを止めることはできません。このときには、猛々しくて優秀な人、雄々しくて有能な人
を鼓舞して進め、堅固な防具、優良な武器、強力な大弓、強靭な弓矢を前方での戦闘にま
わし、老人、子供、負傷者、病弱者を後方の支援にまわします。(こうして奮戦すれば必ず
勝てます)。
十万人をこえる敵の大軍がこちらの城を攻めあぐねている場合、援軍は敵軍の包囲を必
ず突破でき、守備軍は奮い立って城から出撃できます。出撃したら、そのまま城外の要所
に拠点を築きます。このとき援軍は、ただ後方を支援するだけにとどめ、敵の補給路をた
たないようにし、援軍と守備軍とは、敵に気づかれないように連絡をとりあいます。これ
は、援軍が守備軍を本気で救援する気がないように見せかけるためです。本気で救援する
気がないように見せかけたなら、敵軍は援軍に背を向けて城に向かって布陣します。する
と、援軍にとっては、遠くに敵の精鋭部隊がいて、目の前には敵の老兵や弱兵がいるとい
うかたちになり、このとき攻撃すれば敵は防ぎようがありません。この援軍の攻撃によっ
て敵が混乱したところで、城にたてこもっている守備軍も突撃を始めるわけですが、こう
なると敵はどうしようもありません。これが、防戦するにあてっての臨機応変のうまい対
策です。
第七篇 十二陵
①威厳は、いったん決めたことは簡単に変えないことによって身につきます。
②恩恵は、時宜にかなっていてはじめて十分なものとなります。
③機略は、そのときそのときの状況に応じて作られるべきものです。
④戦闘は、兵士の気力をうまくコントロールできてこそ勝てます。
⑤攻撃は、敵の意表をつくことでうまくいきます。
⑥守備は、擬装してこちらの実力を知られないようにすることが大切です。
⑦過失は、深くよく考えていればなくなります。
⑧困難は、あらかじめきちんと準備できていれば生じません。
⑨慎重さは、些細なことでも十分に警戒することで身につきます。
⑩智謀は、大局をきちんと把握できていることによって身につきます。
⑪害悪は、果敢で果断であることによって取り除かれます。
⑫味方は、謙虚であることによって多く増やせます。
以上が優勢を決定づける十二の要因です。
①後悔することになるのは、優柔不断だからです。
②不吉なことが起きるのは、罪のない人々を殺すからです。
③不公正になるのは、私心にとらわれるからです。
④いまわしいことになるのは、自分の過失を指摘されることを嫌うからです。
⑤際限なく浪費するのは、民力をことごとく使うからです。
⑥きちんと判断できなくなるのは、敵の離間策にのせられるからです。
⑦成果があがらないのは、軽挙妄動するからです。
⑧頑迷で見識がないのは、賢者を遠ざけるからです。
⑨災難にみまわれるのは、利益に目がくらむからです。
⑩害悪が生じるのは、つまらない人間と親しくするからです。
⑪国が滅ぶのは、防衛対策をきちんとしていないからです。
⑫危険な目にあうのは、命令がきちんとしていないからです。
以上が劣勢を決定づける十二の要因です。
第八篇 武議
およそ軍隊を動かすにあたっては、過ちのない城を攻めず、罪のない人を殺さないもの
です。人の父兄を殺し、人の財産を奪い、人の子女を奴隷にするのは、盗賊のすることで
す。
ですから、軍隊とは、世を乱す者をやっつけ、正しくないことが行われるのを禁止する
ためのものなのです。軍隊を進めた地域で、農民が農地を離れずにすみ、商人が商店を離
れずにすみ、役人が役所を離れずにすむようにさせられるのは、トップが軍事についてう
まくリーダーシップを発揮できているからで、だからこそ武力を行使せずとも、天下万民
は配下につくのです。
一万台の戦車を戦争に動員できる大きな国は、食料生産と軍事行動をはかります。千台
の戦車を戦争に動員できる中くらいの国は、守備力の充実をはかります。百台の戦車を戦
争に動員できる小さな国は、民力の増大をはかります。食料生産と軍事行動をはかる国は、
他国の指導を必要としません。守備力の充実をはかる国は、他国の援助を必要としません。
民力の増大をはかる国は、他国の資本を必要としません。
そもそも外国を攻めることもままならず、自国を守ることもままならない国は、交易に
力を入れて経済力をつけるようにします。経済力があれば、攻撃力や守備力を強化するこ
とができます。大きな国は、中くらいの国の援助がなくても、小さな国の国家予算と同じ
額の軍事費を調達できる経済力をもっています。
そこで君主は将軍を重んじるのですが、およそ将軍が処刑を行うのは武威を目に見える
かたちであらわすためです。Aを処刑すると全軍が恐れて従うようになるなら、Aを殺し
ます。Aを処刑すると万人が喜んで従うようになるなら、Aを殺します。殺される人間は、
地位の高い人間であるほうが、効果があがります。賞される人間は、地位の低い人間であ
るほうが、効果があがります。殺されて当然の罪を犯したなら、たとえ高貴な身分の重要
な人物であっても、必ずその者を殺します。これは、いわゆる「刑罰は上にまで徹底され
る」ということです。ただの牧童や馬丁でも賞するのは、たとえ地位の低い人間でも賞す
べきは必ず賞されるということです。そもそも、たとえ地位が高くても罰し、たとえ地位
が低くても賞するのが、将軍の武威というものです。だからこそ、君主たる者は、将軍を
重んじるべきなのです。
そもそも将軍は、突撃を合図する太鼓をひっさげ、バチをふるい、みずから戦場に立っ
て陣頭指揮をとり、最後の勝敗を決めるために戦い、敵と軍隊をぶつけ合って武力を競い
合うものです。軍隊を指揮して勝利すれば、功績がたたえられ、名誉が得られますが、軍
隊を指揮して敗北すれば、将軍本人は戦死し、国は滅びることになります。これは、国家
の興亡や国民の安否は将軍の戦い方いかんにかかっているということです。そうである以
上、君主はどうして将軍を重んじないことができるでしょうか。
そもそも太鼓をひっさげ、バチをふるい、軍隊をぶつけて武力を競い、君主が軍事で成
功するのは、わたくしが思いますに、難しいことではありません。
古人は「攻める装備をもっていないのに攻め、守る装備をもっていないのに守るのは、
よい軍隊とは言えない」と言っています。見ても見るところがなく、聞いても聞くところ
がないのは、国内に市場がないからです。
そもそも市場というのは、あらゆる商品をとりしきりますが、安いものを買い、高いも
のを売ることで、人々の生活をおさえています。人は一日に一斗の穀物を食べ、馬は一日
に三斗の飼料を食べるわけですが、人が飢え、馬がやせるのは、いったいどうしてでしょ
うか? それは、市場に商品が出まわっていても、国が市場を管理していないからです。
そもそも天下を左右できる力をもちながら、市場を管理する役人を置かないなら、よく戦
えないのも当然です。
軍隊を出動させ、兵士たちを甲冑のなかにシラミが生じるほど長く戦地にとどめても、
全員がやる気をなくすことなく必ず自軍のために奮闘するのは、将軍の威厳に圧倒されて、
力を尽くさざるを得ない状態にあるからです。たとえば、ワシに追われているスズメは、
人のふところにぶつかってきたり、家のなかに飛びこんできたりすることがありますが、
それは生きるのが嫌になって死にたいと思ったからではなく、これも恐いものに追われて
いるからにすぎません。
太公望は、七十歳のころ、朝歌(殷王朝の首都)で牛の解体をし、孟津(黄河の渡し場)
で食堂を経営していました。七十歳をすぎても、君主から任用されることなく、人々から
狂人あつかいされていました。周の文王が善政をしいているのを知ると、西方の周に移り
住み、渭水のほとりで釣りをしていたところ、文王と出会い、文王に見こまれて文王の参
謀として迎えられました。文王の死後、武王が即位したとき、太公望は武王の参謀として
三万人の軍隊を指揮し、一度の戦いで天下を平定しました。太公望が軍略にたけていなけ
れば、このように文王や武王の参謀として迎えられなかったでしょう。
ですから、古人のなかには「良馬は、騎手が乗っていれば、千里もの遠い道のりを走破
できる。賢者は、君主にめぐりあうことで、世を治める大道を明らかにできる」と言って
いる人がいるのです。
周王朝の武王は、殷王朝の紂王に対する討伐軍をおこし、孟津で諸侯軍と合流して黄河
を渡り、軍旗をはためかせ、兵器をつらね、三百人の死ぬ気で戦う兵士、三万人の奮戦す
る兵士をひきつれていました。一方、殷王朝の紂王の陣には、七十万人をこえる兵士がい
て、さらに飛廉や悪来という力が強く、すばやい武将が、みずから先頭に立ち、武器を手
にして戦い、周王朝軍を圧倒しました。しかし、武王は、住民を戦乱にまきこんだり、兵
士によけいな血を流させたりすることなく、殷王朝に勝ち、紂王を倒しました。これは、
運がよかったのではありません。武王は人としての努力をつくし、紂王は人としての努力
をおこたったので、このような結果になったのです。
今の将軍たちは、人としての努力をつくさず、日のよしあしを考えたり、星占いをした
り、亀の甲羅を使って吉凶を占ったり、星の動き、風の向き、雲のかたちを見たりして運
勢を判断し、そうすることで勝利をおさめ、功績をあげようとしています。しかし、わた
くしが思いますに、それで勝つのは難しいでしょう。
そもそも優秀な将軍は、上は天に左右されず、下は地に左右されず、中は人に左右され
ないものです。
もともと軍隊は凶器であり、争いは背徳であり、将軍は死がつきまとう役職です。です
から、やむをえない場合にしか戦争をしてはいけないのです。しかし、戦争を始まったな
ら、軍事の全権を委任された将軍は、天をしのぎ、地をしのぎ、人をしのぎ、君主をしの
ぎ、敵軍をしのぐ強い力をもちます。そして、一人の将軍に任せられた数万の軍勢は、虎
や狼のように勇猛で、風や雨のように急激で、雷光や雷鳴のように迅速で、ものすごい勢
いがあり、敵にはとらえどころがありません。そのため、天下万民はだれしも驚嘆します。
勝てる軍隊というのは、水によくにています。そもそも水は、とても柔軟なものです。
しかしながら、丘陵を突き崩すほどの破壊力も持っています。これは、別に奇異なことで
はありません。水は一つにまとまりやすいものであって、その一つにまとまった水がまる
ごとぶつかっていくからです。
今、強力な武器、堅固な防具、多数の兵士を用い(破壊力)、奇策と正攻法を臨機応変に
使い分ければ(柔軟性)、天下無敵です。
ですから、「知恵ある人を挙用し、才能ある人を任用すれば、日のよしあしに関係なく物
事がうまくいく。法律を明確にし、命令を確実にすれば、占わなくても吉となる。功績を
たてた人を尊重し、頑張った人を大切にすれば、祈らなくても福がくる」と言われ、さら
に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」と言われるのです。むかしの聖
人は、人の努力のみを大切にしました。
用兵の達人だった呉起は、将軍として秦国の軍隊と戦ったとき、野営するときには兵士
と同じく粗末なところで寝ました。それは、人に対しておごり高ぶっていなかったからで
す。
人に死を恐れることなく働いてもらいたいなら、みずから尊大にかまえてはいけません
し(謙虚さが必要)、人に力の限り働いてもらいたいなら、部下の無礼をとがめてはいけま
せん(寛大さが必要)。
ですから、むかし、隊長は、戦地にいるときには礼儀作法にこだわらず、部下をよけい
なことでわずらわせるつもりのないことを示したのです。そもそも相手をよけいなことで
わずらわせておきながら、死を恐れることなく力の限り働いてもらおうとしても、それは
無理な話です。
そもそも将軍は、出撃の命令を受けたときには、自分の家族のことを忘れ、軍隊を率い
て戦場に着いたときには、自分の親のことを忘れ、戦闘が始まって兵士を指揮するときに
は、我が身の安全を忘れなければなりません。
呉起が将軍として戦争に行ったときのこと、側近たちは呉起に武器を身につけるように
すすめました。しかし、呉起は、「将軍は、全軍に指示を出すための旗や太鼓をあつかって
いれば、それでよい。危険に直面して困惑を解決し、軍隊を指揮して戦闘を完遂すること、
これが将軍の仕事だ。武器を手にして敵とじかに格闘するのは、将軍の仕事ではない」と
言って、武器を身につけませんでした。
三つの軍隊が編成できたら、前軍が三十里ほど先に進んでから中軍が出発し、中軍が三
十里ほど先に進んでから後軍が出発します。こうして前軍が九十里ほど進んだなら、そこ
から怒涛の進撃を開始します。そして、敵軍と遭遇したときには、その得意とする戦法に
もとづいて戦い、敵が白ならこちらも白くしますし、敵が赤ならこちらも赤くします。
呉起が将軍として軍隊を率い、秦国軍と戦うことになったとき、本格的な戦闘が始まる
前に、一人の兵士が血気にはやって勝手に突撃し、敵の首を二つ取って帰ってきました。
呉起は、すぐさま部下に命令して、その兵士を処刑させようとしました。そのとき、副官
が「その者は、有能で勇敢です。殺すべきではないと思います」と忠告しました。しかし、
呉起は、「確かに、その者は有能で勇敢かもしれないが、将軍の命令を無視した」と言って、
処刑させました。
 

第九篇 将理
そもそも将軍は、物事を決断し処理する役職で、あらゆる物事をつかさどり、私心をも
ってはいけません。私心をもっていないからこそ、どんな事件も裁決でき、どんな事態も
処理できるのです。
りっぱな人は、囚人をやすやすと逃がしたりなどしませんが、捕らえられる距離にいる
からといって、むりやり捕らえたりなどしません。ですから、囚人をきちんと審問するこ
とができ、拷問せずとも、囚人は本当のことを白状するのです。
相手の背中をムチ打ち、相手のわき腹に焼きごてをおしつけ、相手の指を縛りあげて、
囚人に白状するように問いただせば、どんな豪傑でも、その苦痛に耐えられずにウソの自
白をするものです。
今のことわざに「千金を支払えば、死刑をまぬがれる。百金を支払えば、処罰をまぬが
れる」とあります。賄賂を使えば、刑を軽くしてもらえるということです。しかし、もし、
わたくしの考えを試しに用いてくだされば、すぐれた知恵をもっていても、まったく言い
逃れることはできず、多くの財産をもっていても、まったく賄賂を使えないようにできま
す。
現在、一つの裁判が行われるたびに、小さな事件では十人以上、中くらいの事件では百
人以上、大きな事件では千人以上の人間が、それぞれ監獄に入れられます。しかも、十人
の囚人を出す事件では百人、百人の囚人を出す事件では千人、千人の囚人を出す事件では
一万人の人間が、それぞれ関係者として捕らえられます。関係者の一番は囚人と血のつな
がりのある親戚や兄弟であり、二番は囚人が結婚している相手の両親であり、三番は囚人
の友人や知人です。
こうして捕らえられると、農民は田畑から引き離され、商人は商店から引き離され、役
人は役所から引き離されてしまいます(これでは経済が低迷するだけです)。このように善
良な住民が関係者として捕らえられているのが、今の囚人の実情です。
兵法に「十万の大軍を動員すると、一日に多額の費用がかかる」とあるのに、現在、十
万人の善良な住民が監獄に入れられています。上の人がこのことを反省しなければ、国の
将来は危ういとしか言いようがありません。
 

第十篇 原官
役人とは、あらゆる事務をつかさどるもので、国を治めるにあたり欠かせないものです。
制度とは、役人、農民、職人、商人と役割を分けることで、国を治めるための分業です。
地位や給料が、その人の才能や徳性にみあったものにするのは、上下の秩序を正しくす
る方法です。
善人を尊重し、悪人を懲罰して、法律を正しく運用するのは、万民を正しい方向に導く
ための手段です。
田畑を均等に分け、兵役や徴税を軽くするのは、人々の収入をほどよくすることです。
働く人に仕事をわりふって生産がとどこおらないようにし、道具や物資が不足しないよ
うに備えておくのは、職人に課せられた使命です。
管轄区域を分けて要所を警備するのは、人を惑わしたり、世を乱したりすることがらを
なくすための処置です。
法律を守り、きっちり執行するのは、臣下の本務です。
法律を定め、効果のほどを見極めるのは、君主の仕事です。
役人にそれぞれの職務を自覚させ、越権行為や職務怠慢をなくさせるのは、大臣の権限
です。
褒賞を公正にし、処罰を厳正にするのは、腹黒い人物がのさばるのを防ぐ方法です。
優先順位をつけ、基本理念をつらぬくのは、政治の要点です。
下の人の思いが上の人に達し、上の人の思いが下の人に通じるのは、民衆の声のわかる
よい政治です。
国家財政の収支をきちんと把握することは、国家財政に余力をもたせることにつながり
ます。
敵の弱点を知ることは、こちらを強くする根本です。
敵の動向を知ることは、こちらの平穏につながります。
役人を文官と武官にわけるのは、王者が政治を行う際の二つの手段です。
礼儀作法を統一するのは、天下を天子のもとにまとめるためです。
策士やスパイが国に入らないようにするのは、国に正論を守るための方法です。
諸侯が天子の定めた礼法を守り、君主と臣下の関係が世襲されるのは、王命が遵守され
ているのです。
勝手な行動をしたり、これまでのやり方に違反したりするのは、天子の明徳に逆らうこ
となので、礼にもとづいて討伐します。
役人が忙しく働かなくても世は治まり、上の人が賞しなくても人々はきちんとし、人々
の間には争いごとがなく、だれもが地道に働いてもうけばかりを考えたりしないのが、王
道の極致です。
優秀な人材が採用されるかどうかは、王が人の話を聞けるかどうかにかかっています。
 

第十一篇 治本
およそ国が人を治める方法は、どんなものなのでしょうか? 穀物がなければ、腹を満
たせませんし、織物がなければ、体を包めません。ですから、腹を満たすために穀物があ
り、体を包むために織物があるわけですが、夫は外で畑を耕し、妻は内で布を織るように
すれば、貯蓄ができます。
夫は豪華な装飾のある道具を使わず、妻は豪華な装飾のある衣服を作らないようにしま
す。
豪華な木の器に酒をつぎ、豪華な金の器に肉をもり、盛大に飲食する人もいますが、聖
人は粗末な土器を使って飲んだり、食べたりします。ですから、職人は粘土を使って食器
を作るわけですが、材料の土はいくらでもあるので、節約ができます。
今はと言うと、金や木で作られた器は寒がったりしないのに、わざわざ高価な布で包ん
でいますし、馬や牛は雑草を食べるのに、わざわざ貴重な穀物を与えています。これは、
政治が根本を逸しているということであり、制限を設けなければいけません。
春と夏には夫は畑を耕し、秋と冬には妻が布を織り、そのように仕事に励んでいれば、
人々は困窮しません。ぼろい衣服すら着られず、粗末な食べ物すら食べられないのは、政
治がなっていないのです。
むかしは、肥えた耕地と荒れた耕地という差もなければ、勤勉な人と怠惰な人という差
もありませんでしたが、むかしの人はどうしてこのようにできて、今の人はどうしてこの
ようにできないのでしょうか? 今の人は、畑を耕すにしても中途半端にし、布を織るに
しても時々しかしません。これで、どうして寒さや飢えを防げるでしょうか? むかしは
政治がきちんと行われていましたが、今は政治がきちんと行われていないのです。
そもそも治めるということは、人々から私欲をなくさせることです。人々が私欲をもっ
ていなければ、天下は一家のようになり、だれもが自分のためだけに畑を耕さず、自分の
ためだけに布を織らないようになり、寒いときはともに寒がり、飢えるときはともに飢え
ます。ですから、子供が十人もいる家族も食べ物に困らず、子供が一人だけの家族も食べ
物を粗末にせず、酒におぼれて大騒ぎをして善良な風俗をこわすこともないのです。
人々が軽薄になれば、私欲の心がめばえ、利益をめぐって争いごとが生じます。むりを
通して自分勝手なことをする人間が一人あらわれれば、人々は自分だけが食べ物を食べて
あとは備蓄し、自分だけがお金を使ってあとは貯蓄するようになります。犯罪者が出たと
き、逮捕して刑罰を用いて治めるだけなら、人の上に立つ資格はありません。
すぐれた政治は、制令をきちんと執行し、人々から私欲をなくさせます。下にいる人が
私欲を満たそうとしなくなれば、違法なことをする人はいなくなります。
根本にたちかえり、道理にもとづき、一定の方針をつらぬいたなら、人々の欲心はなく
なって争いごとはなくなり、犯罪者は消え、農業に励む人が増え、多くの食料が倉庫に蓄
えられ、人々の生活は安定し、外国の人からも敬慕され、国外の戦乱に悩まされることも
なく、国内に暴動が起きる心配もなくなります。これを「最高によく治まっている」と言
います。
青々と果てしなく広がる天は、どこで終わるのかわからないように、むかしの聖人と呼
ばれた名君たちも、偉大すぎて全体をつかみきれず、なかなか真似することができません。
過去の聖人は戻ってきてもらうことはできませんし、未来の聖人に来てもらうこともでき
ません。それなら、今の君主は、どうすればいいのでしょうか? 今の君主は、努力して
自分自身に実力をつけていくしかありません。
いわゆる天子の資格には、四つあります。第一は、すぐれた知恵をもっていることです。
第二は、恩恵を広く及ぼすことです。第三は、人の道にかなった秩序をもたらすことです。
第四は、天下無敵であることです。これらは、天子の努力目標です。
大切に育てた動物でなければ、祭りのときにお供え物として祭壇にささげることはでき
ませんし、いろんなことを知っているだけでは、優秀な学者として政治に関与することは
できません。
今の言葉に「大きな海は、一人の渇きもいやせないが、小さな泉は、大軍の渇きをいや
せる」とあります。わたくしが思いますに、欲望は節度がないことから生じますし、邪悪
は制限がないことから生じます。
ですから、最上のやり方は精神的に感化することであり、その次は物質的なものを用い
て教化することであり、その下は人々をいたずらにこき使わず、人々の財産をなにかと徴
用しないようにすることです。
そもそも世の中の悪を禁じるには武力が必要ですし、世の中の善を賞するには文徳が必
要です。