五倫書ー空之巻ー2 | 覚書き

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   1 空を道とし、道を空と見る

【原 文】

二刀一流の兵法の道、
空の卷として書顯す事。(1)
空と云心ハ、物毎のなき所、
しれざる事を、空と見たつる也。
勿論、空ハなきなり。
ある所をしりて、なき所をしる、是則、空なり。
世の中におゐて、悪く見れバ、
物をわきまへざる所を空と見る所、
実の空にはあらず。皆まよふ心なり。
此兵法の道におゐても、武士として 
道をおこなふに、士の法をしらざる所、
空にはあらずして、色々まよひありて、
せんかたなき所を、空と云なれども、
是、実の空にはあらざる也。武士ハ、
兵法の道を慥に覚、其外、武藝を能勤、
武士のをこなふ道、少もくらからず、
心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、
心意二つの心をミがき、觀見二つの眼をとぎ、
少もくもりなく、まよひのくものはれたる所こそ、
実の空と知べき也。
実の道をしらざる間は、
佛法によらず、世法によらず、
おのれ/\ハ、慥成道とおもひ、
能事とおもへども、心の直道よりして、
世の大がねにあハせて見る時は、
其身/\の心のひいき、其目/\のひずミに
よつて、実の道にハそむく物也。
其心をしつて、直成所を本とし、
実の心を道として、兵法を廣くおこなひ、
たゞしくあきらかに、大き成所を思ひとつて、
空を道とし、道を空とみる所也。(2)

  ( 空有善無惡
    智者有也
    理者有也
    道者有也
    心者空也 )(3)

 正保二年五月十二日
           新免武蔵玄信
                在判
       寺尾孫之丞殿 (4)
 

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【現代語訳】

 二刀一流の兵法の道を、空の巻として書きあらわす事。
 空〔くう〕という意味は、どんな物事でも、形なきところ、知れざることを、空と見立てるのである。もちろん、空は、無いことである。有るところを知って、無きところを知る、これがすなわち空である。
 世の中において、(空を)悪く見れば、物をわきまえないのを空と見るが、これは真実の空ではない。すべて迷う心である。
 この兵法の道においても、武士として(兵法の)道を行うのに、士の法〔武士のやり方〕を知らないのは、空ということではない。いろいろと迷いがあって、どうしようもないところを、空というけれども、これは真実の空ではないのである。
 武士は、兵法の道を確かに覚え、そのほか武芸によく励み、武士の行う道にすこしも暗からず、心の迷うところなく、毎朝、そして時々に応じて(修行を)怠らず、心意〔しんい〕二つの心を磨き、観見〔かんけん〕二つの眼を研ぎ、少しも曇り無く、迷いの雲の晴れたところこそ、それが真実の空だと知るべきである。
 真実の道を知らない間は、仏の法であれ世俗の法であれ、それぞれ自分は、たしかな道と思い、善きことと思っていても、心の直道〔じきどう、真っ直ぐな道〕から、世の大きなかね〔規矩・尺度〕に合せて見れば、人それぞれの心のひいき〔偏向〕、それぞれの目の歪み〔偏見〕によって、真実の道には背いているものである。
 その意味を知って、真っ直ぐなところを根本とし、真実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに、大きいところを思い取って、空を道とし、道を空と見るのである。

  ( 空は善有りて悪無し
    智は有なり
    理は有なり
    道は有なり
    心は空なり )

 正保二年五月十二日
           新免武蔵玄信
                在判
       寺尾孫之丞殿

 

以上は、武蔵の言葉に沿ってそのバックグラウンドまで読んでみたところであるが、こうしてみると、空之巻のこの文章は、ここからさらに何かを言うべきことのあるかたちのものである。言い換えれば、空之巻は、この文章を序文として、実は続いて本論が書かれるはずのものであった。
 他の諸巻にはそれぞれ序文を付している。それと同じように、空之巻もこの序文が書かれた。しかし、以下を書く前に、武蔵は病重くして、ついに死んでしまったのである。
 すでに何度も引合いに出しているのだが、改めて、地之巻の「此兵法の書、五巻に仕立事」条の文言を読んでみる。そこでは、武蔵は空之巻の内容を予告していた。
 武蔵が云うのは、まず、――空と云う以上は、何を奥といい、何を入口だというのか。つまり、空の道において、初歩と奥儀の差異などありえない、ということである。空之巻に何か深遠な奥秘極意があると錯覚するな、ということである。これは今日一般的な誤読への警告でもある。
 そして、――道理を得てしまえば、道理を離れ、兵法の道におのづと自由があって、おのづから奇特〔きどく、不思議なほど優れた効験〕を得る。時に相応しては拍子を知り、おのづから打ち、おのづから当る。これみな空の道である、と。
 これはまさに「おのづから」のパレードだが、武蔵がいうのは「おのづからの道」である。ただそれも、ありきたりの東洋的な自然主義ではない。おのづから打ち、おのづから当る、上述のごとく、自動的に作動する戦闘機械になるということなのである。それが武蔵の云う「空の道」なのである。
 そして、そのように、おのづから真実の道に入ることを、空の巻にして書留めるのである、と云う。これが空之巻の予告内容である。
 とすれば、現存空之巻は、こう予告された事柄をほとんど語っていない。つまり、これはまだ空之巻の序文にすぎないとみなす所以である。
 空之巻付属の相伝証文で、寺尾孫之丞が云うには、この地水火風空の五巻のうち、空之巻については、武蔵は長く病床にあったので、その所存(考え)をあらわさなかった、という事実である。この「あらはされず」は、明らかにしなかったというだけではなく、著わさなかった、書きのこさなかったということである。
 むろん、寺尾孫之丞は、口頭での「あらわし」を受けたのではない。武蔵は、空之巻に書くつもりだったことを、寺尾に話したわけではない。寺尾も、空之巻がどんな内容なのか、知らないのである。武蔵から五巻の書を授かった時はじめて、寺尾は、空之巻が序文だけで終っていることを知ったのである。
 それが、寺尾の云う、《空之卷ハ、所存の程あらはされず候》ということの事情なのである。
 書誌学的に云えば、この寺尾孫之丞の文言が、空之巻の事情を証言する一次史料である。我々の見るように、空之巻は序文だけで途絶している一巻である。他の諸巻のような、本文条々も、そして後書も欠如している。いうならば、武蔵は空之巻に大きな空白を残して死んだのである。
 埒もない俗説の類いだが、武蔵は五輪書を完成して死んだ、ということを書く五輪書解説がある。もとより、それら解説者が、寺尾孫之丞相伝証文すら見たことのない、武蔵研究の素人なのだから、とくに目くじらを立てる必要もないことだが、そんな馬鹿げた謬説がなお再生産されているのが今日の状況であるとすれば、やはり、次の要点は強調しておくべきであろう。
 五輪書は草稿、全体に書きさしの未定稿である。とくに空之巻は、序文のみで終った書かれざる一巻である。武蔵がこの空之巻で何を書くつもりあったか、その具体的な個別内容は、ついに不明である、と。
 かくして、五巻の書を武蔵から遺贈された寺尾孫之丞は、空之巻に残された大きな空白も遺贈されたのである。この忠実な門人が、これをどうしたか、それは後に述べるであろう。    







*【此兵法の書、五巻に仕立事】
《第五、空之巻。此巻空と書顕す事、空と云出すよりしてハ、何をか奥と云、何をかくちといはん。道理を得てハ道理を離れ、兵法の道におのれと自由有て、おのれと奇特を得、時にあひてハ拍子をしり、おのづから打、おのづからあたる、是皆空の道也。おのれと實の道に入事を、空の巻にして書とゞむるもの也》(地之巻)












*【寺尾孫之丞相伝証文】
《令伝受地水火風空之五卷、神免玄信公予に相傳之所うつし進之候。就中空之卷ハ、玄信公永々の病気に付テ、所存之程あらはされず候。然ども、四冊之書の理あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候》


吉田家本 寺尾孫之丞相伝証文写
「所存之程あらはされず候」
――――――――――――――――

 ここで、校異の問題を、一つだけ述べておく。それは、我々の採択した筑前系諸本に見られるところの、いささか特異な字句である。
 すなわち、それは、《武藝を能勤》、《慥成道とおもひ、能事とおもへども》、《直成所を本とし》、《大き成所を思ひとつて》というあたり、仮名ではなく、漢字で詰め書きしている箇所である。
 五輪書の一般的な文体からすると、これらは、たとえば、「武藝をよく勤め」であり、「たしかなる道とおもひ、よき事とおもへども」であり、「直なる所を本とし」、そして「大きなる所を思ひとつて」とあってもよかろう。
 じっさい、肥後系の楠家本や細川家本をみるに、楠家本では、《武藝をよくつとめ》、《慥なる道と思ひ、よき事とおもへども》、《直なる處を本とし》《大きなる所をおもひとつて》と記すし、また、細川家本では、《武藝を能つとめ》、《慥なる道とおもひ、よき事とおもへども》、《直なる所を本とし》、《大きなる所をおもひとつて》と書いている。
 しかも、楠家本や細川家本に比して、漢字を多用する傾向のある丸岡家本でも、当該箇所は、《武藝を能つとめ》、《たしかなる道とおもひ、好事と思へども》、《直なる所を本とし》と記し、あるいは、《大に[誤字]なる所をおもひとつて》と書いている。
 以上のことからして、寺尾孫之丞に遡るオリジナルでは、これらの字句は、漢字で詰め書きをする筑前系の方に近いものだったのか、それとも、仮名交じりの肥後系の方に近いものであったか、という問題が生起するであろう。
 五輪書全体の文体からすると、字句に仮名が多用されている。漢字で詰め書きするのは、やや異例のように見える。とすれば、寺尾孫之丞に遡るオリジナルでは、肥後系の楠家本や細川家本が記すように、仮名まじりであった字句を、筑前系諸本では、わざわざそれを漢字で詰め書きして、いわばやや険しい文体に見せようとしたのではないか、という見方も可能であろう。
 しかし、物事はそう単純には片付かないのが、五輪書研究のおもしろいところである。
 というのも、同じ肥後系の他の写本、たとえば円明流系統の狩野文庫本に、筑前系諸本の字句と同じものが見出されるからである。つまり、狩野文庫本には、《武藝を能勤》、《慥成道と思ひ、能事と思へども》、《直成所を本とし》、《大き成所を思ひ取て》という文字がある。
 狩野文庫本は、筑前系写本とは別系統の肥後系の写本である。しかも、全体に写し崩れが多い写本である。それゆえにこそ、この字句の一致は、偶然ではないのである。
 同じ円明流系統の写本に、多田家本があるが、そこでも、《武藝を能々[衍字]勤》のほか、《慥成道と思ひ》、《直成所を本として》、《大き成所を思ひとつて》という字句が見られる。あるいはまた、円明流系統の別の異本、大瀧家本にしても同様である。
 では、もう一つの肥後系早期派生系統の富永家本は如何とみるに、これも写し崩れが多い後期写本だが、そこでも、《慥成道と思ゐ、能事とおもへども》、《大き成所をおもひ取て》という字句を見い出すことができる。
 すでにみた他の事例でも知れるのだが、円明流系統の狩野文庫本や多田家本、あるいは富永家本は、写し崩れが多い後期写本であるにもかかわらず、むしろ、肥後系早期の姿の痕跡を示すケースがある。それら諸本に、このように、筑前系諸本と共通する字句が見られるということは、他例と同様、肥後系早期には、これらの字句があったことを意味する。
 漢字で詰め書きしたこれらの字句は、筑前系のみの特異例ではなく、むしろ、筑前系/肥後系を横断して存在する。言い換えれば、これらは、肥後系早期に存在した字句であり、楠家本、細川家本および丸岡家本の系統が共通してもつ先祖は、そうした漢字で詰め書きした字句を、読み易いように仮名交じりの字句へ書き換えた写本なのである。
 かくして、この空之巻の文章について、復元テクストは、《能勤》、《慥成道》、《能事》、《直成所》、《大き成所》といったやや特異な字句を含むべきものである。それは決して、楠家本や細川家本に見られるような、《よく勤め》、《慥なる道》、《よき事》、《直なる所》、《大きなる所》という字句ではないのである。
 こうした一連のことは、肥後系諸本のみを見ていては、思いもよらなかったことである。筑前系/肥後系を横断して、できるだけ多くの異本をつき合わせてはじめて、可能になったことである。いわば、この最後の空之巻においても、我々の間テクスト的分析により、如上のテクスト復元が確定されたのである。 Go Back    






*【吉田家本】
《武藝を能勤》《慥成道とおもひ、能事とおもへども》《直成所を本とし》《大き成所を思ひとつて》
*【楠家本】
《武藝をよくつとめ》《慥なる道と思ひ、よき事とおもへども》《直なる處を本とし》《大きなる所をおもひとつて》
*【細川家本】
《武藝を能つとめ》《慥なる道とおもひ、よき事とおもへども》《直成所を本とし》《大き成所を思ひとつて》
*【丸岡家本】
《武藝を能つとめ》《たしかなる道とおもひ、好事と思へども》《直なる所を本とし》《大になる處を思ひ取て》










*【狩野文庫本】
《武藝を能勤》《慥成道と思ひ、能事と思へども》《直成所を本として》《大き成所を思ひ取て》
*【多田家本】
《武藝を能々勤》《慥成道と思ひ、よき事とおもへども》《直成所を本として》《大き成所を思ひとつて》
*【大瀧家本】
《武藝を能勤め》《慥成道とおもひ、能事とおもへども》《直成所を本として》《大き成處を思ひ取て》
*【富永家本】
《慥成道と思ゐ、能事とおもへども》《直に成る處を本とし》《大き成所をおもひ取て》



*【肥後系五輪書系統発生図】

○寺尾孫之丞相伝写本…門外流出┐
 ┌―――――――――――――┘
 └……肥後系早期写本……┐
 ┌―――――――――――┘
 ├……………………富永家本
 |仮名字句発生
 ├◎┬…┬………楠家本
 | | |
 | | └…┬………常武堂本
 | |   |
 | |   └…細川家本
 | |
 | └……………丸岡家本
 |
 └…流出……………円明流系諸本

 
 (3)空有善無惡、智者有也、理者有也、道者有也、心者空也
 空之卷の末尾に記された識語である。楠家本や細川家本をはじめ、たいていの肥後系写本にこれを記載する。しかも、今日、世の中の研究者は、この空の識語が空之巻にもともと書かれていたとして、それを疑わない。
 まずはじめに言っておけば、――読者には意外のことかもしれぬが――この空の識語が武蔵のオリジナルかどうか、それが問題である。つまり、空之巻が武蔵の草稿にあったことは前提とするとしても、この識語部分は後人による加筆なのである。
 それというのも、肥後系諸本にはあっても、筑前系諸本にはこれがないからである。もとより筑前系諸本の祖本たる吉田家本空之卷には、この識語を掲載しないのである。    

永青文庫蔵
細川家本 空之巻末尾 空識語あり(赤枠内)
楠家旧蔵
楠家本 空之巻末尾 空識語あり(赤枠内)
九州大学蔵
吉田家本 空之巻末尾 空識語なし
 ご覧の通りで、この空の識語は、肥後系の細川家本や楠家本にはあって、筑前系の吉田家本には存在しない。しかも、それは吉田家本に限ったことではなく、他の筑前系諸本にも共通して、これはないのである。つまり、早川系の中山文庫本・大塚家本・伊丹家本、あるいは、立花=越後系の松井家本・赤見家本・渡辺家本・近藤家本・猿子家本その他、筑前系諸本には、空識語は存在しないのである。
 ここまでの五輪書読解において、随所に見てきたところであるが、筑前系/肥後系を区分する指標的というべき相違事例は多かった。しかしながら、空之巻におけるこの空識語の有無は、云うならば、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的相異の代表的なものである。
 もとよりこのことは、従来の五輪書研究においてまさに看過されてきた重要点である。したがって、このページを読んではじめて知った人も多かろう。それもそのはずで、この件を明確に指摘したのは、まさに諸君がいま読みつつあるこの読解論攷が最初であったからだ。
 この識語は、肥後系諸本にあって、筑前系諸本には存在しない。――では、そのことをどう考えるか。もともと空之卷にはこれがあったのに、筑前系諸本はそれを不注意にも脱落せしめたのか。
 その可能性は、まずありえない。ご覧のように細川家本でも楠家本でも、この識語を大書している。空之卷にはじめからこれがあったなら、それが書き落とされるはずがないのである。
 それに、吉田家本空之巻は、寺尾孫之丞段階の前期を示す文書である。すなわち、寺尾孫之丞は承応二年(1653)に柴任美矩に五輪書を伝授したのだが、その柴任美矩が、延宝八年(1680)に吉田実連へ相伝したのが、この吉田家本空之巻である。
 これに対して、肥後系諸本には、楠家本や細川家本のように寺尾孫之丞の奥書記載のあるものがある。しかし、すでに地水火風四巻の内容を精査して判明したことだが、この両本とも、字句および誤記の特徴から、早期写本ではなく、伝写を繰り返した後の、後発性を示す写本である。しかも、その奥書は、相伝文書としての体裁をなしていない。いうならば、海賊版写本を編集して作成された様子が明らかである。楠家本や細川家本によって原型が推測されると見るのは、そもそもの前提が間違っている。
 それを承知した上で、まず、問題をひとつ片付けておこう。
 細川家本の奥書をみれば、寛文七年(1667)山本源介宛、楠家本奥書は、その翌年の寛文八年(1668)槇嶋甚介宛、という記事がある。これは時期としては、寺尾孫之丞後期である。寛文七、八年は、寺尾五十五、六歳、享年は六十歳である。
 これに対し、吉田家本空之巻記載の相伝記事によれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から五輪書を伝授されたのは、承応二年(1653)。細川家本や楠家本の奥書の時期よりも、十四~五年早い段階での相伝文書である。こうした前後関係からすれば、ことはおのづから明かであろう。
吉田家本 承応二年(1653)柴任美矩宛 ――識語なし
細川家本 寛文七年(1667)山本源介宛 ――識語あり
楠家本  寛文八年(1668)槇嶋甚介宛 ――識語あり
 前のものにはなく、十四、五年後のものにはある。したがって、空之卷の識語は、後になって出てきたのである。
 柴任は、延宝八年(1680)、播州明石の居宅で吉田実連に空之巻を授与した。それに対し、細川家本や楠家本は、いつだれが編集制作したものか不明、という由来不明の後世の編集物である。
 ともあれ、承応二年(1653)に寺尾孫之丞から相伝されたものを、柴任美矩が写して吉田実連に与えたのが、吉田家本空之卷である。その吉田家本には、上記の識語はない。とすれば、承応二年に寺尾孫之丞が発給した五輪書には、識語がなかったのである。
 それに対して、楠家本や細川家本の奥書によれば、それから十四、五年後の寛文七、八年の段階のことになる。この年月日を一応踏まえれば、この後期寺尾孫之丞は、空之卷末尾にこの識語を付記するようになったらしい、という推測が可能である。
 ただし、それも、楠家本や細川家本がそれぞれの原本を忠実に写した写本だということが前提である。ところが、楠家本や細川家本は、その体裁をみれば明らかに知れることだが、そもそも相伝規式を知らぬ者による後世の編集物である。なるほど、その空之巻奥書は相伝文書の体をなさず、事情不通の門外者による記事である。もちろん、いつだれが写したものか不明である。
 したがって、この二本にともにあるからといって、寛文年間に寺尾孫之丞が発給した空之巻に、この識語があったとはなしえないのである。それよりも、この二本以外の肥後系諸本にも共通してこの識語があることがポイントである。肥後系早期に、つまり、門外流出後間もなく、ある写本制作時に、この識語が発生したのである。
 また、すでに各巻随所で確認したように、その誤記のありようからして、肥後系諸本は複数の先祖を有するものではなく、ある特定の元祖一本から派生増殖した写本群である。このことは、肥後系諸本がすべてこの空識語を記すという点とも合致する。すなわち、肥後系早期にこの空識語を書き込んだ写本が、その元祖一本に生じたのである。
 これを要するに、すくなくとも、寺尾孫之丞の段階には、後にも先にも、この識語が存在しなかったということである。
 もしこの空識語があったのなら、それは武蔵の空観要諦のごとき体裁のものであるから、上記の寺尾孫之丞の相伝証文にも言及があってしかるべきである。ところが、寺尾の相伝証文が引用言及しているのは、小倉武蔵碑の頭冠部に刻記されている「實相圓満逝去不絶」の遺偈なのである。ようするに、寺尾孫之丞は、肥後系諸本が記す空識語など、見たこともなかったのである。
 ともあれ、吉田家本空之巻が教えるのは、武蔵死後八年の承応二年(1653)段階では、空之卷に問題の識語は存在しなかった、という事実である。とすれば、結論はどうなるか。すなわち、――この識語は、そもそも武蔵自身の五輪書草稿には存在しなかったのである。
 これは五輪書研究において、きわめて重要なポイントである。それゆえ、これが従来の研究史において一貫して看過されてきたことは、まことに由々しき失態であった。
 五輪書の通俗解説本は論外として、諸本校合したはずの研究書はどうか。そうした研究書でさえ、これをあっさり看過して、その解説にはこの件について自覚した言及が何もない、というありさまである。
 それゆえ、世間では、武蔵が空之巻のこの識語を書いたという錯覚が訂正されえないのである。ただし、これは従来の研究者の責任であるというよりも、研究者たち自身が看過してきたのだから、事態はいかにも救いようがない。
 これは肥後系写本しか知らないという悪弊の結果でしかない。五輪書のまともな研究は、我々の研究プロジェクト以前には存在しなかったとは、この五輪書読解サイトにおいて何度も指摘のあることだが、その極みは、まさにこの空之巻識語の問題認識にある。
 したがってここで、後学研究者への啓蒙のためにも、この識語は武蔵自身の草稿にあったものではない点、ここでとくに注意を喚起しておく。そしてそれとともに、これを記載している肥後系諸本は、後に肥後で発生したある写本の末裔だということを確認しておくべきである。すなわち、この空識語の記載こそが、海賊版五輪書の標識なのである。    

松井家本 空識語なし



中山文庫本 空識語なし



近藤家丙本 空識語なし






柴任美矩夫婦の墓
兵庫県明石市人丸町 雲晴寺



*【肥後系五輪書系統発生図】

○寺尾孫之丞相伝写本…門外流出┐
 ┌―――――――――――――┘
 |         空識語発生
 └…肥後系早期写本……◎…┐
 ┌――――――――――――┘
 ├…………………富永家本
 |
 ├…┬…┬………楠家本
 | | |
 | | └…┬………常武堂本
 | |   |
 | |   └…細川家本
 | |
 | └……………丸岡家本
 |
 └…流出…………円明流系諸本
          ○空識語変形




赤見家本 空識語なし



猿子家本 空識語なし
 そのように、この空の識語が、武蔵が書込んだ語句ではなく、後世、何者かによって挿入された肥後ローカルな字句だ、という根本問題があるのを承知した上で、では、この識語を読んでみよう。これが武蔵草稿はむろんのこと、寺尾孫之丞段階の書込みですらないとしても、それはそれで、何者か後人の、空之卷の空意に対する応答を示すものだからである。
 そこで、一応断わっておかねばならぬが、とり上げるのは、肥後系諸本に数多いこの識語のヴァージョンである。同じ肥後系でも、円明流系諸本では、右掲のごとく、誤写だけではなく、字句の増幅までみられる。いうならば、この識語は後々成長進化することもあったのである。
 しかし、ここでは、それらを爾後の派生変形とみなして、基本形とみなしうるものをとり上げることにする。さて、その空の識語は、
《空は有善無悪である。智は有である、利は有である、道も有である。心は空である》
ということである。よりメリハリをつけて訳せば、「智は有にすぎず、利は有にすぎず、道も有にすぎない。しかし心こそ空なのである」というのが、その空の了解である。
 これは諸本ほぼ同内容である。字句に相違があるのが、伝承のバラつきを示しているが、内容にはとくに問題はない。ただし、《利は有なり》とある「利」は、「理」という意である。「智」と「道」と、前後にあるところからすれば、概念上のレベルで整合性のあるのは「利」ではなく、「理」である。つまり、智恵も有、理も有、道も有、という話である。
 また、「有善無悪」とは、善のあって悪なきことである。これは道徳的に読む必要はないし、また小乗律法風に解することではない。
 空という真実には、善はあって悪なし、である。これを大乗的思考だと受取らねばならない。というのは、以下に、智・理・道のいづれも有だとするからである。有とは、有無の有、無に対する有、規定的な存在である。
 これに対し、心〔しん〕は空だとする。心は、有無の差異を離れた空である。ここからすれば、智も理も道も存在しない。心は絶対の空である――と言えば、何か戦前の説教を思わせるのであるが、要するに、この《心者空也》、これもつまりは、
《心即仏》(心は即ち仏である)
とした禅家の頓悟原理のロジック――『六祖壇経』*には慧可が般若波羅密を説いたとある――その脱宗教版である。すなわち、形式は相同で内容がシフトされ、迷いの心はあるが、心は本来空なりとするのである。衆生仏性、これが大乗の論理である。
 さて、明敏なる読み手ならすでに気づいているように、この識語――《空有善無悪、智者有也、利〔理〕者有也、道者有也、心者空也》――は、およそ武蔵的ではない文言である。おそらく、門外流出後のある段階で、何者かが、禅僧にでも委嘱して作文させて、ここに編入したものである。
 しかし、なぜそのようなことをする必要があったのか。――もちろん、そこには、この空之巻が序文だけで終っているという特殊な事情があった。
 寺尾孫之丞は五輪書を相伝ツールとし、その門流は寺尾孫之丞以下の相伝証文を付してこれを伝承した。相伝証文を付すのは、寺尾孫之丞以来の方式で、それはそもそも、空之巻が序文のみで終っていることから生じたことである。武蔵が残した空之巻の空白を、各自埋めてみよというのが、その趣旨である。
 これに対し、寺尾孫之丞の門流ではない求馬助系統では、海賊版五輪書しかなく、もとより孫之丞以下の相伝証文はない。むしろ、肥後系早期に、孫之丞の宛名もその相伝証文も抹消してしまった。
 しかるに、序文のみでは不足感が残るのは誰しも同じであって、寺尾孫之丞の相伝証文を抹殺してしまった裸の状態では何ともおさまりがつかない。そこで、体裁を整えるために、禅家流の識語をここに挿入したのである。
 この空之巻に、空の意味を示すもっともらしい識語を付加すれば、それで、見かけは完結した体裁になる。ようするに、非正規の海賊版しかもたぬというネガティヴな条件を、一発逆転しようとしたのが、この空の識語を付すという工作であった。
 改めて云えば、これは門外流出後の作為である。非正規の海賊版しかもたぬというネガティヴな条件の下で、ある意味で、必要にかられてなされた改竄とみえる。ただし、それでも、その識語がおよそ武蔵的ではない、まるで禅坊主臭い、というところに、その作為の馬脚が露呈しているのである。言い換えれば、この識語の存在そのものが、自身の海賊版たることの旗印を大きく掲げているに等しいのである。
 蛇足とは本来存在しないもののことである。それゆえ、肥後系諸本のこの識語は、蛇足以外の何ものでもない。しかるに、世の中の五輪書翻刻本は、その蛇足たることに気づかず、これを堂々掲示して憚らない。
 さて、我々が投じたこの啓蒙の一石の効果が、世間に行き渡るのはいつであろうか。それも興味深いことだと、我々はその後の成り行きを見守っているのである。   Go Back    
*【楠家本】
《空有善無悪、智者有也、利ハ有也、道ハ有也、心ハ空也》
*【細川家本】
《空ハ有善無悪、智ハ有也、利ハ有也、道は有也、心は空也》
*【丸岡家本】
《空有善無悪、智ハ有也、利ハ有也、道ハ有也、心ハ空也》
*【富永家本】
《空有善無悪、智者有也、利者有也、道者有也、心者空也》
*【狩野文庫本】
《空有善無悪、皃有也、利有也、道有也、心空也》
*【多田家本】
《空有善無悪、蓋有也、利者有也、道者有也、心者空也、空無善悪、利有善悪、道者有也、心者空也》
*【稼堂文庫本】
《空有善無悪、蓋有也、利者有也、道者有也、心者空也、空無善悪、利有善悪、道者有也、心者空也》
*【山岡鉄舟本】
《真空ハ有実善無虚悪、智ハ有ナリ、利ハ有ナリ、道ハ有ナリ、心ハ空ナリ》







*【六祖壇経】
現存最古の敦煌本六祖壇経のオリジナル・タイトルは、「南宗頓教最上大乗摩訶般若波羅蜜経、六祖慧能大師於韶州大梵寺施法壇経一巻、兼受無相戒弘法弟子法海集記」である。






多田家本 空之巻識語


足のあるウロボロス
 
 (4)正保二年五月十二日
 本書の奥書、年月日・記名・宛名の記事である。諸本まちまちであるが、
    (日付) 正保二年五月十二日
    (記名) 新免武蔵玄信 [在判]
    (宛名) 寺尾孫之丞殿
と記すもののごとくである。つまり、正保二年(1645)五月十二日に、新免武蔵玄信が、寺尾孫之丞に本書を伝授したというかたちである。
 武蔵の死亡日は、同年五月十九日なので、この日付は武蔵死去の七日前ということである。
 武蔵伝記の『丹治峯均筆記』や『武公伝』などにも、この五月十二日に武蔵が寺尾孫之丞へ五巻の兵書を相伝したした事蹟を記す。しかし、これら武蔵伝記の記事が、五輪書の年月日を傍証するのではない。逆である。五輪書の奥書にあるこの年月日によって、後世の武蔵伝記の筆者がそのように書いたのである。
 したがって、五輪書の諸写本にある年月日・記名・宛名が、この日、本書を武蔵が寺尾孫之丞へ授与したという事蹟の証拠記録なのである。
 しかし問題は、肝心なこの記録の体裁が、諸本まちまち、相異がかなりあることである。
 筑前系諸本は、寺尾孫之丞から柴任美矩へ伝えた系統のもので、しかも以後代々相伝し来たったので、もっとも体裁が整っている。つまり、年月日・記名・宛名が記されている。
 ただし、吉田家本についていえば、風之巻までの各巻は、記名が「新免武蔵守玄信」であるが、柴任美矩が書いた空之巻は、「新免武蔵玄信」と記し、「守」字を落としている。後の写本である中山文庫本も、あるいは越後の松井家本他も同じく、この「守」字のない「新免武蔵玄信」という名を記している。したがって、この空之巻にかぎって、柴任美矩が「守」字のない「新免武蔵玄信」と記したのを、正確に伝えているのである。
 柴任が空之巻に「守」字のない「新免武蔵玄信」を記したのは、おそらく、寺尾孫之丞から伝授された空之巻には、そう記されていたからであろう。寺尾が空之巻で「守」字を落としたのには、格別の理由があるわけではなく、おそらく偶発的なものであろう。
 柴任美矩が承けた五輪書には、空之巻以外の各巻は「新免武蔵守玄信」、空之巻には「新免武蔵玄信」とあったのである。筑前系五輪書には、それ以外に、相異はない。
 これに対し、肥後系諸本では、この奥書の年月日・記名・宛名の記事の体裁がさまざまに異なっている。






*【丹治峯均筆記】
《正保二年乙酉五月十九日、平日ノ如ク正念ニシテ命ヲ終ラル。行年六十二歳也。五巻之書、同年同月十二日ノ日付也。病臥起居不安ユヘ、年号月日ハ所ノ庄屋ニカヽセ、枕ヲアゲテ判形アリテ、寺尾信正ニ授ラル》

*【武公伝】
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス。[五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ]》





個人蔵
松井家本 空之巻奥書
【吉田家本】

正保二年五月十二日  新免武藏玄信
              在判

       寺尾孫丞殿

 *以下に寺尾孫之丞相伝証文あり
【中山文庫本】

          新免武藏 玄信
正保二年五月十二日     在判
 

      寺尾孫之允殿

 *以下に寺尾孫之丞相伝証文あり
【松井家本】

正保二年五月十二日  新免武藏玄信
              在判

       寺尾孫之亟殿

 *以下に寺尾孫之丞相伝証文あり
【楠家本】

(年月日なし)
          新免武藏守玄信

       (宛名なし)

 *以下に寺尾孫之丞相伝証文あり
【細川家本】

正保二年五月十二日     新免武藏

       寺尾孫丞殿


 *寺尾孫之丞相伝証文なし
【丸岡家本】

 正保二年五月       新免武藏
             玄信識

      (宛名なし)

 *寺尾孫之丞相伝証文なし
【富永家本】

正保二年五月十二日
          新免武藏守玄信
               在判

      (宛名なし)

 *寺尾孫之丞相伝証文なし
【狩野文庫本】

          新免武藏守玄信
正保二年五月十二日      在判

      寺尾孫亟殿
      古橋惣左衛門殿

 *両者の相伝証文ともになし
【稼堂文庫本】

正保二年五月十二日
       新免武藏守藤原朝臣
              玄信
              在判
      (宛名なし)

 *相伝証文あり。ただし求馬助名
 改めて肥後系写本を順次見ておけば、まず楠家本には、年月日の記載もなければ、「寺尾孫之丞殿」という宛名もない。相伝文書としての体裁を欠いている。
 楠家本は、そのように年月日、寺孫之丞宛名の二つとも記載がないのだが、その後に寺尾孫之丞の相伝証文を記載する。これは筑前系諸本の相伝文書と照合するに、かなり内容に偏差がある。後人の手になるものとみえる。しかも、寺尾孫之丞の証文なのに、「新免武蔵守玄信」と記名し連名のかたちである。これは、おそらく、「新免武蔵守玄信門人」とでもあったのを、脱字誤写したものか。何れにしても相伝文書の体をなさず、槇嶋甚介宛の奥書とともに、事情不通の後世の門外者による編集物である。しかも寺尾の印判を模すところが、笑止な作為である。
 次に細川家本では、年月日・宛名ともあるが、記名が「新免武蔵」とのみあって、諱の「玄信」を落している。あるいは、相伝文書なら「在判」とあるべきだが、それも記さない。しかも、細川家本には、つづいて寺尾孫之丞名の山本源介宛名、その年月日の記載があるが、そもそも肝心の寺尾孫之丞の相伝証文を欠く。これまた、体裁上の不備があらわである。寺尾の名に花押を模写するところも、相伝文書にはあらざる格好、門外者がそれらしく体裁を作ったというところである。
 丸岡家本は、期日記載が「正保二年五月」とのみあって、「十二日」という日を落としている。また、「寺尾孫之丞殿」という宛名も記載しない。そして、新免武蔵玄信の記名はあるが、そこに「識」という文字を入れている。これは相伝文書ではありえないことで、いかにも門外者の書きそうな体裁である。同系統の田村家本も同様のかたちだが、こちらはわざわざ朱印二顆を模写して付加している。これも相伝文書の形式にはない作為である。
 以上の肥後系諸本は、何れも相伝書としての体裁を欠く。とくに楠家本は槇嶋甚介へ、細川家本は山本源介へ、それぞれ寺尾孫之丞が伝授したかたちの写本であるが、このように相伝書としての体裁を欠くところを見ると、上述のように、奥書そのものが後世の編集物であって、しかも門外者による捏造文書のかたちである。
 他方、肥後系で早期に派生した系統の末裔たる富永家本は、奥書の体裁は筑前系諸本のそれに最も近い。これが肥後系早期形態の痕跡であろう。ところが、それでも、相伝証文を欠くうえ、「寺尾孫之丞殿」という肝心の宛名を落としている。
 その反面、後の写本ではこの奥書に文字の増補もあった。円明流系統では、狩野文庫本は、年月日・宛名ともにあるが、その宛名を寺尾孫之丞と古橋惣左衛門の連名とする。これは、本来ありえない記事で、古橋系の末裔が書き入れたものである。
 そして、稼堂文庫本では、記名がご丁寧にも「新免武蔵守藤原朝臣玄信」である。このように「藤原朝臣」という文字を入れるのは、龍野円明流の多田家本と同じである。多田家本とは空識語も同じである。稼堂文庫本が円明流系統の写本を参照している証拠である。
 また、稼堂文庫本では、多田家本と同様に、ここには「寺尾孫之丞殿」という宛名がない。代りに、楠家本と同様の相伝証文が付されているが、写し崩れが大きいだけではなく、その名は「寺尾孫之丞」ではなく、何と「寺尾求馬助信行」なのである。
 これは、肥後では後に、武蔵から相伝を受けた正統は、求馬助唯一人という主張が生じたという事情を勘案しなければならない。そこから、稼堂文庫本が依拠した写本では、「寺尾孫之丞」を誤記として、求馬助名に差し替えたのである。もとより求馬助門流の後人の仕業であろう。後世の改竄だとしても、肥後系写本はここまで変異するという事例である。
 以上のように肥後系諸本は、奥書の記載がまちまちである。寺尾孫之丞が、そんなバラバラの様式で五輪書を伝授するわけはないから、現存肥後系諸本はそれぞれ、祖型から遠く離れ、かなり崩れた形式しか伝えていないのがわかる。
 相伝文書としての体裁がかくも崩れるということは、肥後系諸本が、寺尾孫之丞の道統から離れたところで伝写されて行った、その過程の産物だからである。言い換えれば、肥後系諸本は、五輪書の相伝とは無縁なところで発生した海賊版写本の末裔なのである。
 これに対し、筑前系諸本は、寺尾孫之丞段階の体裁を保ち伝えた。というのも、五輪書が師から弟子へ相伝されて行ったからである。相伝証文は、代を重ねるごとに順次増えていった。道統が生きていた証拠である。
 以上を整理して、肥後系諸本における空之巻奥書の特徴をまとめておけば、以下の如くであろう。

宮本武蔵顕彰会蔵
楠家本 空之巻相伝証文奥書

個人蔵
丸岡家本 空之巻奥書

金沢市立玉川図書館蔵
稼堂文庫本 空之巻奥書

個人蔵
田村家本 風之巻奥書

個人蔵
田村家本 空之巻奥書
     武蔵記名    年月日    宛 名    孫之丞相伝証文
 楠家本    新免武蔵守玄信    (なし)    (なし)    記載あり
 細川本    新免武蔵    正保二年五月十二日    寺尾孫丞殿    (なし)
 丸岡本    新免武蔵玄信識    正保二年五月    (なし)    (なし)
 田村家本    新免武蔵守
  藤原玄信識    正保二年五月    (なし)    (なし)
 富永家本    新免武蔵守玄信在判    正保二年五月十二日    (なし)    (なし)
 狩野文庫本    新免武蔵守玄信在判    正保二年五月十二日    寺尾孫丞殿
古橋惣左衛門殿    (なし)
 多田家本    新免武蔵守藤原朝臣
     玄信在判    (なし)    (なし)    (なし)
 稼堂文庫本    新免武蔵守藤原朝臣
     玄信在判    正保二年五月十二日    (なし)    記載あり ただし
寺尾求馬助信行名

 こうしてみると、寺尾孫之丞相伝証文の有無以外にも、肥後系諸本の空之巻奥書には、かなりのバラつきがみられる。
 武蔵記名にしても、新免武蔵(守)玄信が、細川家本のように諱「玄信」を落したり、丸岡家本や田村家本のように「識」字を付加したり、あるいは田村家本では、空之巻以外の四巻には「藤原」玄信と記す。さらには、多田家本や稼堂文庫本のように、「藤原朝臣」とまで入れるものがある。
 年月日の項目には、記載しないものがあり、それを記載しても、丸岡家本や田村家本のように、「十二日」という日の記載を欠くものがある。寺尾孫之丞という宛名にしても、記載しないものが多い。
 そこで我々が注目するのは、この宛名を記すケースの方が、むしろ少ないという事実である。上掲八本のうちでは、細川家本と狩野文庫本だけが宛名を記載する。
 しかも、狩野文庫本には、寺尾孫之丞だけではなく「古橋惣左衛門」の名が連名で記されている。というのも、この一本は、我等は古橋の手筋だという流派の作成物なのである。つまり、特殊な事情のある十八世紀後期の作為文書である。
 それゆえ、こうした古橋系を主張する狩野文庫本を除けば、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系諸本には、基本的には寺尾孫之丞の名を記さないのである。ということは、肥後系早期写本の段階では、まず、寺尾孫之丞の宛名を消した空之巻が発生していたのである。
 云うまでもなく、これは不注意による脱落ではない。党派的な工作措置であり、求馬助系統の仕業である。この系統では、流祖・寺尾求馬助が武蔵正統だと主張するようになっていた。「寺尾孫之丞」という宛名が残っていては、具合が悪いのである。
 したがって、肥後系諸本に寺尾孫之丞という肝心の宛名の欠落があるのは、求馬助系統が肥後武蔵流の主流になったあたりで、宛名の抹消があったためである。そして寺尾孫之丞という名とは無縁なところで、五輪書が伝写されて流通するようになったのである。
 そのように肥後系早期において、上述のように、空の識語を入れるとともに、この寺尾孫之丞の宛名を消した。上記の空の識語の書込みと寺尾孫之丞の名の抹消とは、おそらく同じ措置の両面だったのである。
 とすれば、細川家本に、寺尾孫之丞の名を付すのは、いかなる仕儀か。
 それは、細川家本と相対的近縁関係にある楠家本や丸岡家本を見ればわかる。丸岡家本には、宛名はない。そして楠家本にもそれがない。ということは、肥後系のある段階までは、――すくなくとも、楠家本の祖本が細川家本の祖本と派生分岐する以前には、「寺尾孫丞殿」という宛名はなかった。
 言い換えれば、寺尾孫之丞の宛名をもつ写本が発生したのは、まさに細川家本系統のみという例外的な事態だったのである。細川家本と同系統の常武堂本は、同じく「寺尾孫丞殿」と宛名を記す。つまり、細川家本・常武堂本の祖本の段階で、宛名が発生したのである。
 上述のように、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系諸本には、基本的に寺尾孫之丞の名を記さない。しかも、細川家本と比較的近縁関係にある丸岡家本系統も、宛名を記載しない。つまり、すくなくとも丸岡家本が分岐する時点までは、肥後系写本には宛名がなかったのである。
 ようするに、肥後系諸本に関するかぎり、寺尾孫之丞の宛名があるのは、古型ではなく、むしろ逆に、新型の写本たる標識である。そこで、楠家本と細川家本、この近縁関係にある両本の奥書の検分である。
 楠家本空之巻には、寺尾孫之丞の宛名はない。寺尾孫之丞の相伝証文を付すが、それも「新免武藏守玄信」の名が証文の後に再出するなど、混乱した様式で相伝文書の体をなしていない。これは事情不通の者が、古式を模して復元しようとしたようだが、一目で後世の捏造と知れる代物である。
 ようするに、寺尾孫之丞の相伝証文だという文書と、槇嶋甚介が寛文八年何月何日に寺尾孫之丞から相伝したという伝承、この二つがあれば、この文書を拵えあげることができる。ただし楠家本は、「寛文八年五月日」と書いていて、五月の何日か記さない。どうやら、寛文八年五月とまでは聞いていたが、発給日までは知らなかったようである。
 つまり、楠家本は、空之巻に寺尾孫之丞の宛名がない点では、肥後系の古型をとどめているが、相伝証文以下は、後に編集されて付加されたものである。
 また、細川家本に至っては、さらに不備な体裁の文書である。寺尾孫之丞相伝証文すらもたないからである。そのうえ、肝心の武蔵の記名には「玄信」という諱さえ忘れている。この種の文書は、山本源介が寛文七年何月何日に寺尾孫之丞から相伝したという言い伝えがあれば、それだけで作成できる体裁の文書である。
 しかも、肥後系諸本に共通する体裁からすれば、「寺尾孫丞殿」という宛名が後発写本の標識である。武蔵記名に「玄信」という諱を落としてしまったが、代りに「寺尾孫丞殿」という宛名が増補されたのである。
 この両本は、門流内外という次元の仕業ではなく、需要があって制作された模擬文書の類いである。必ずしも肥後武蔵流の文書ではない。もっともらしく体裁を作っているが、相伝フォーマットに無知な者が制作したのが、たちどころにバレるような文書の体裁である。
 ともあれ、楠家本や細川家本が、寺尾孫之丞門人への相伝を示す奥書を有するからといって、それを頭から信じてしまう者が、研究者の中にはいまだに多いのだが、肥後系諸本の系統派生と五輪書相伝事情に無知だという点では、これを制作編集した者と大差はないのである。    

永青文庫蔵
細川家本 空之巻奥書
宛名「寺尾孫丞殿」

東北大学蔵
狩野文庫本 空之巻奥書
宛名「寺尾孫丞殿/古橋惣左衛門殿」



*【肥後系五輪書系統発生図】

○寺尾孫之丞相伝写本…門外流出┐
 ┌―――――――――――――┘
 |         空識語発生
 └…肥後系早期写本………◎…┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├…………………富永家本 宛名無
 |
 ├…┬…┬…楠家本 宛名無証文有
 | | |
 | | |宛名発生
 | | └◎┬…常武堂本 宛名有
 | |   |
 | |   └…細川家本 宛名有
 | |
 | └…┬…丸岡家本 宛名無
 |   |
 |   └………田村家本 宛名無
 |
 └流出…┬…円明流系諸本 宛名無
     |
     └……狩野文庫本 宛名有



楠家本 相伝証文奥書
「新免武蔵守玄信」?
 話は元へもどって、――では、武蔵のオリジナルはどうであったか。
 武蔵は、兵書五巻を完成させて、寺尾孫之丞に伝授したのではない。というのも、武蔵は死を前にして、本書を草稿のまま、寺尾孫之丞に託したからである。
 これは、後のような五輪書相伝というかたちではない。そもそも五輪書は完成していなかったのだから、これが相伝という形式をとったわけがない。寺尾孫之丞は「相伝」と書いているが、武蔵は死期に臨んで、寺尾にこれを「授けた」ということである。いわばそれは、太刀や書画を遺品として贈与したのと変わりがない。
 武蔵には、他流のように門人に与えた相伝証書がない。もし武蔵が相伝証書を発行していたら、その痕跡くらいはありそうなものなのだが、それが存在しない。武蔵には、独特な考えがあって、他流の如くそんな証書を発行しなかったのである。
 風之巻の「奥表」の事で述べられていたように、入門誓詞すら取らなかった武蔵である。奥も口もない武蔵流には、入門も卒業もなかった。それゆえ、特定の門人に与えた一流相伝証書も存在しないのである。
 草稿の五輪書が寺尾孫之丞に託されたが、それは一流相伝を証する文書としてではない。というのも、五巻のうち、最終的な内容の空之巻について、――寺尾孫之丞自身の言によれば、――その所存をあらわさなかった、つまり具体的な内容までは書き残さなかった。上述の如く、空之巻は序文のみで頓挫した一巻なのである。
 そういう未完成の文書が相伝書となることはない。ということは、寺尾孫之丞は、五巻の書を授けられたが、相伝をうけた者ではなかったのである。
 五輪書を相伝したというのなら、空之巻の意味を伝授されてはじめて、相伝者と云えるものである。しかし寺尾孫之丞が証言するように、空之巻の本文条々は書き著されなかった。したがって、寺尾孫之丞でさえ、空之巻に何が書かれようとしたか、その具体的な内容はわからないのである。空之巻に関して寺尾が受け取ったのは、序文のみの、残りは書かれざるその空白であった。この点は、書誌学的にも明確に認識すべき急所である。
 もとより、他の四巻の内容を見るに、これは初心者まで読者に想定した兵法教本であって、特定の者に伝授した奥義書の類いではない。この兵書五巻は、武蔵の種々の遺品の一つとして、寺尾孫之丞に贈与されたにすぎない。
 しかも、それは草稿であった。この五巻の書が、武蔵著述の段階で、五巻それぞれが独立した巻物の体裁をとったか、どうかも不明である。むしろ、截紙のような紙片もあっただろう。これを書巻の体裁に整理編纂したのは、寺尾孫之丞である。
 したがって、五巻すべてに奥書を付し、年月日・武蔵記名・判形・宛名があったとは想定できない。おそらく、空之巻にのみ、奥書記載があったのであろう。重病の武蔵は、ようやく印判を押すのみであったろうが、そのようにして、この草稿を自らの遺品として寺尾孫之丞に与えた。
 しかし、寺尾孫之丞は、この武蔵遺品たる兵法教本を、別の意味で、そのままにはしておかなかった。いわば、大きな付加価値を生み出したのである。つまり、この兵書五巻を、一流相伝のツールに化けさせたのである。
 それは、具体的に云えばどういうことであったか。
 寺尾孫之丞の工夫は、第五巻・空之巻の扱いにあった。武蔵は、空之巻を序文のみ書き置いて、死んでしまった。武蔵の身近に隨仕していた寺尾孫之丞でさえも、その内容について、武蔵から口頭でも何も聞いてはいなかった。むしろ、武蔵は、誰にも空之巻の中身を明かさず、それを空白のまま残して死んだ。
 寺尾孫之丞は、生真面目な人らしく、それを宿題として受け取った。そして、この課題を工夫して、柴任美矩ら門人に一流相伝のときは、武蔵の空之巻に、自身の空観、空意を付するようにした。それが相伝証文に明記するものとなって、相伝門人らにも、同様にして伝えよと言い置いた。
 これはいわば、宿題の相続である。師たる者は、一流相伝にあたって、門人に自身の空意を明示しなければならぬ。以心伝心ではない。言語表現において喝破しなければならない。それによって、師としての知的な容量も露呈する。
 こういう相伝方式を、寺尾孫之丞は開発した。かくして、寺尾孫之丞の門流は、武蔵の空之巻を宿題として、その空の意味を自身で工夫し、それを解いた答えを発明するという条件が課された。それゆえ本書五巻の内、空之巻は格別のものとなったのである。
 武蔵はだれにも相伝証書の類を与えなかったが、寺尾孫之丞は、相伝証文を発行するようになった。ただし、他流の相伝方式と違って、それは独立した一巻の証書ではない。寺尾孫之丞の相伝証文は、武蔵の序文に続いて記す文章である。
 かくして、後に以下代々空意を記す相伝証文が列記されてみれば、武蔵の序文は、あたかも以下の相伝証文群を先導し牽引する機関車のごとくである。
 これはきわめてユニークな相伝文書のスタイルである。この方式を発明開発した功績は、いうまでもなく寺尾孫之丞に帰すべきものである。




*【丹治峯均筆記】
《五巻ノ書、草案ノマヽニテ信正ニ授ケラレシユヘ軸表紙ナシ。依之、後年相傳ノ書、其遺風ヲ以軸表紙ヲツケズ》










吉田家本 寺尾孫之丞相伝証文
「所存之程あらはされず候」


*【寺尾孫之丞相伝証文】
《令伝受地水火風空之五卷、神免玄信公予に相傳之所、うつし進之候。就中空之卷ハ、玄信公永々の病気に付テ、所存之程あらはされず候。然ども、四冊之書の理あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に到候。只兵法はおのづからの道にまかせ、しづか成所、うごかざる所に、自然とおこないなし、豁達して空也。
実相圓満兵法逝去不絶、是は玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を可有鍛錬也。以上
  承応二年十月二日 寺尾孫丞信正
                    在判 》




寛政三年 松井家本 空之巻 武蔵序文及び相伝証文列記 寺尾信正~七代丹羽信英
吉田家本相伝証文(寛政四年立花増昆作成)より一年早い。目下最古の空之巻相伝証文
 言うならば、空之巻に相伝証文を列記しない五輪書は、すべて、門外に流出して派生した海賊版なのである。現存写本の体裁を通覧するかぎりにおいて、肥後系諸本はその種の非正規の海賊版が伝写を重ねたものである。
 どうして、肥後系諸本にはそういう非正規版しか存在しないのか。――それは、肥後では、この寺尾孫之丞の門流が衰微し、寺尾求馬助系統が主流になったからである。
 寺尾孫之丞の相伝門人は肥後に少なからず存在したが、筑前系諸本を除けば、その門人たちが自身の弟子に相伝した五輪書というものを、写本ですら我々はまだ見ない。たとえば、筑前系で云えば、三代柴任美矩が四代吉田実連に相伝した世代のものである。いわんや、寺尾孫之丞の孫弟子がその弟子に伝えたという四代→五代の段階のものもない。
 これは、筑前の相伝事情と対照すれば、いささか異常な事態である。寺尾孫之丞の門流が衰微したというだけではない、何か特殊な事情があったようである。それが、たとえば孫之丞系統の駆除という事態まで及んでいたのかもしれない。
 既述の『兵法二天一流相伝記』の志方之経は、求馬助系統の主流だったが、求馬助のことは語っても、肝心の孫之丞のことは一言も触れないのである。むしろ、求馬助を唯一相伝者とするのである。孫之丞という存在のこうした抹消には、いささか意図的な作為を覚える。それゆえにこそ余計に、今後、肥後の孫之丞系統の門人が発行した五輪書が発掘されるかもしれぬ、という可能性に期待する他はない。
 他方、寺尾求馬助の門流は、五輪書に関して最初から難題をかかえていた。求馬助は、むろん、兄の孫之丞から五輪書を相伝されてはいない。五輪書に関するかぎり、肥後は、正統性を有しない流派が主流になったのである。
 したがって、肥後系諸本には、体裁の整わぬ非正規版しか存在しないわけである。肥後系早期の段階で、寺尾孫之丞という宛名を抹消し、その存在を抹殺する作為もあった。
 現存写本のうち、上述のように、楠家本と細川家本の二本は、寺尾孫之丞が門人に与えた体裁をとるものである。だが、それにしても、既述のように形式に不備があり、相伝文書としての体裁の崩れが大きい。というよりも、後世のある時期、古式を模して編集されて出来た、二次的産品なのである。現存肥後系写本をもって、「これが武蔵の五輪書だ」と言えないのは、そのためである。
 かたや、そんな肥後系に対してアドヴァンテージを有する筑前系諸本にしても、柴任美矩による吉田家本の空之巻(延宝八年・1680)が史料上限である。吉田家本の地水火風四巻は、十八世紀中期あたりの写本である。柴任が吉田実連に与えた他の四巻は、まだ発見されていない。
 また、筑前系諸本は、代々相伝証文を有する確かなものであり、寺尾孫之丞前期の姿を伝える貴重な資料であるが、五輪書そのものは後世の写本である。写し崩れが比較的少ないとはいえ、武蔵のオリジナル草稿に肉薄しうるだけの、これ、という決定版はない。
 五輪書諸写本に関する我々の所見は、当面、以上のようなことである。近年我々が地元関係者の協力を得て発掘して回った越後系諸本も含めて、世の中には五輪書は数多い。ただ、我々の見るところ、まだまだ史料不足である。したがって、五輪書研究のリミットを痛感するのである。
 しかし、そのうち、寺尾孫之丞が門人に伝授した五輪書が、どこかで出現するかもしれない。そうなると、また新しい研究の地平が開ける可能性がある。そんな未見の五輪書発掘に期待する、――というのが、現在の五輪書研究の、将来の希望とするところである。