太平道、道蔵 | 覚書き

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太平道(たいへいどう)は、後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派。『太平清領書』を教典とし、教団組織は張角が創始した。教団そのものは黄巾の乱を起こしたのち、張角らの死を以て消滅した。

太平清領書[編集]

太平清領書中国語版)』は太平道が教典とした書物であり、于吉が曲陽の泉水のほとりで得た神書と伝えられる。既に失われた書だが、その内容は道教の一切経とされる『道蔵』の『太平経ドイツ語版)』へ引き継がれたと考えられている。

来歴[編集]

于吉は山東出身の方士的人物で、五行・医学・予言に長けていた。彼はこの『太平清領書』を病人に読み聞かせ符水を飲ませることで治癒を行い、民衆はもとより支配階層からも広く尊崇を受けた(于吉は尸解し祀られたと伝えられる点から、太平道への神仙思想の影響がうかがえる[1])。

順帝の折、于吉の弟子である宮崇は『太平清領書』170巻を朝廷へ献上したが「妖妄不経」の書とされ世に出なかった。桓帝の折には孫弟子の襄楷がやはり同書を献上したが、これも否定的な評価を受けた[2][3]。のち張角が同書を手に教団を興すことになるが、于吉と張角の関係は不明である[4]

内容[編集]

程度については議論があるものの[2]、『太平経』はおおむね『太平清領書』をよく受け継いでいると考えられる[5]。従って『太平経』を元に『太平清領書』の内容、また太平道の教義について、ある程度推測できる。具体的には以下のような点が挙げられる[3]

  • 吉凶や禍福は当人の行いから起こるという考え(これは人々の行為を監視する鬼神すなわち司過の神の存在を示し、緯書の影響を示唆する[4]。またこれは後述の治癒行為の結果説明にも使われる)。
  • 善行の積み重ねが長寿につながるという考え。
  • 房中術・尸解の概念。
  • 静かな部屋での内省。

また、後漢書襄楷伝では、太平清領書について「其言以陰陽五行為家、而多巫覡雜語」とされている。いずれにせよ「天地を奉じ五行に従う」のが太平道の根本思想であったようである[3]

教団[編集]

霊帝の折、黄帝道を奉じていた張角は『太平清領書』を教典として教団を創始し、自らを大賢良師と称した。教団名はその教典名に由来すると考えるのが自然である[3][6]

張角は病人に対し、自分の罪を悔い改めさせ、符水を飲ませ、九節の杖で呪術を行って治癒を行った。そして(先述の教義に則り)治癒の良否は当人の信仰心の篤さによるとした。張角とその弟たち(張宝張梁)がそれぞれ「大医」と称していた点から、教団活動において大きな比重が治癒行為に置かれていたと考えられる[7]

後漢後期になると国政の混乱に伴って人災・天災が頻発し、また羌族の侵入が相次いだため、民衆の疲弊は極度に高まっていた。豪族による土地兼併も進み、多くの農民が小作人・奴隷・流民に転落し、村落共同体の破壊が進んでいた。新たな生活基盤や信仰の拠り所を求める彼らの受け入れ先として、太平道や五斗米道は信徒を増やしていった[4][8][9]

張角は8人の主だった弟子を各地へ派遣し、十余年の間に華北一帯で数十万の信徒を得た。彼はその信徒を36個の「方」という集団に分けた。「大方」は1万人、「小方」は6000-7000人からなる集団であり、各々に指導者(渠師)がたてられた。なお「方」「大方」「小方」という語は、その集団の指導者の称号としても使われたようである[10]

太平道と五斗米道には共通点が多い。具体的には、類似した教義を持つこと、宗教が基盤となる社会を目指したこと、成立・活動時期が重なること、が挙げられる[11]。両者間で何らかの交渉があったと考えるのが自然だが、それを示す史料は見つかっていない[11]

黄巾の乱[編集]

詳細は「黄巾の乱」を参照

黄巾の乱は中国で最初の大規模な宗教反乱である[12][13]。張角らは教団による武装蜂起を計画し、入念に準備を進めた[14]。まず人々に異変を予感させるべく[14]、「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 皇甫嵩[15])」、蒼天已に死す 黄天當に立つべし 歳は甲子に在りて 天下大吉[注釈 1]」というスローガンを流布させた。亳州市曹操の一族とみられる墓から「倉天乃死」と読める磚(煉瓦)が出土しており、太平道の影響が曹一族にも及んでいたと考えられている[16]

また首都や地方官庁の門などに白土で「甲子」と書かせたりした。さらに幹部の馬元義をしきりに都へ派遣し、朝廷内での調略を試み、宦官の張譲らを引き込むことに成功した[14]。蜂起の日は184年3月5日とされたが、密告により計画は事前に露呈した[注釈 2]

内通者から計画露呈の報を受けた張角は即座に檄を飛ばし、各方はその指示通り予定を繰り上げ2月中に兵を挙げた。このことは連絡網の整備、ひいては教団の組織力の高さをうかがわせる[17]。その際、信徒たちは頭に黄色い頭巾をつけたため、これを「黄巾の乱」と呼んだ。

(戦闘の経過については黄巾の乱を参照のこと)

冀州にあった張角の軍団は11月に鎮圧され、12月にはこれを記念して[17]光和7年から中平元年へ改元された。 これをもって黄巾の乱の終結とみるのが一般的である。ただし青州にあった主力の軍団は、その後も20年以上わたり反乱を続け(なおその一部は曹操に降り、「青州兵」として曹操軍の中核を担った)、汝南や潁川などの諸軍団も反乱を継続し、黄巾の乱が終結してからも黄巾残党軍による戦闘行為は続き、諸豪族は残党の討伐に追われた。

乱後の教団に関する記事が見られないことから、教団は乱とともに消滅したと考えられるが[18]、なかには五斗米道へはしった信徒もいたと思われる[13]。『太平清領書』の残巻である『太平経』が道教の重要経典として尊重されてきたことを考えれば、太平道の思想はその後も道教思想に影響を与えていったといえる[18]

 

 

・道蔵

(どうぞう)とは、道教の大蔵経(一切経)のことである。「正統道蔵」「続道蔵」あわせて、5485巻。

成立
南北朝時代の5世紀前半に、江南地方において三洞説が起こり、

洞真部 - 上清経中心
洞玄部 - 霊宝経中心
洞神部 - 三皇文中心
の道教経典が体系化されたことを以って、道蔵の成立とする説がある。

次いで、武則天の時代に編纂された『一切道経音義』も、その端緒となる。続く道君皇帝・玄宗は、開元中(713年 - 741年)に、『三洞瓊綱』と名づけた道蔵を編纂させた。

宋代には、やはり道教信者であった真宗代に、『大宋天宮宝蔵』4,566巻と『宝文統録』の二種の道蔵が編纂された。前者は、編者張君房が撰した『雲笈七籤』122巻によって窺うことが出来る。

金代には、『大金玄都宝蔵』6,445巻が編纂された。更に、元代には、金蔵の上に全真教の典籍を加えて再編集され、それが、今日の道蔵の原型となった。

元代までの道蔵は、モンゴル帝国時代の1244年成立の「玄都宝蔵」が数篇現存するのみで、その他に今日見ることのできる道蔵は存在しない。

正統道蔵
現行の道蔵は、明の正統年間に編纂された「正統道蔵」およびその続編の「万暦続道蔵」である。現行本は、1923年-1926年、上海商務印書館の涵芬楼影印本(上海版)の系統であり、その底本は、北京市の白雲観蔵本である。この白雲館蔵本は、道光25年(1845年)重修本である。

一方、宮内庁書陵部には、正統10年(1445年)刊の正統道蔵5305巻のうち、1190巻を欠く4115巻[1]が所蔵されている。

目録・索引類
佐藤忠淳編『道蔵経目録』(1894年)
『道蔵経目録』『続道蔵経目録』(『正統道蔵』正一部、第1057冊)
『道蔵子目引得』(『哈佛燕京学社引得』25、1942年)
『道蔵目録詳註』『大明続道蔵経目録』(広文書局、1975年)
『正統道蔵目録索引』(芸文印書館、1977年)
『道蔵目録詳註』(台湾商務印書館、1985年)
脚注
[脚注の使い方]
^ 『道教事典』平河出版社、1994年3月15日。
参考文献
陳国符著『道蔵源流攷』(中華書局、1949年)
吉岡義豊著『道教経典史論』(道教刊行会、1955年)
窪徳忠「涵芬楼影印本道蔵校勘記」(『東方宗教』10、1956年)
大淵忍爾著『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部、1964年)
関連項目
三洞四輔
雲笈七籤

 

・三洞四輔

(さんどうしほ)は道教経典の分類規定。『道蔵』内の七分類のこと。

三洞 - 洞真部、洞玄部、洞神部
四輔 - 太玄部、太平部、太清部、正一部
三洞は天上の三清に対応するものとされている。

歴史
南北朝時代、南朝宋の陸修静(中国語版)は明帝から尊ばれ、帝は首都建康の北に崇虚館を建てて陸修静を住ませた。そこで陸修静はさまざまな経典を収集した[1]。さらに仏教徒による経録の作成に影響されて、道教経典の目録である『三洞経書目録』(現存せず)を作り、帝に献上した。これが現在知られる最初の三洞による分類である[2][3]。

三洞のうち洞神部は『三皇文』(天皇・地皇・人皇の三皇から伝授されたといい、これらの神格を呼び出すものという。現存せず[4])を中心とする鬼神を呼び出す経典である。

洞玄部は『霊宝経』(古い方術の文献をもとに、東晋末の葛巣甫によって大量に偽造された経典群。大乗仏教の思想を取り入れる[5])を中心とする。

洞真部は『上清経』(東晋の許謐(きょひつ)・許翽(きょかい)親子が茅山(中国語版)で霊媒の楊羲を媒介として収集した神仙の言葉を集めた経典群が原形となる[6][7])を中心とする。

その後、南朝宋の末ごろには三洞に加えて四輔が設けられた[2]。四輔は分類としては三洞に遅れるが、経典そのものの成立時期は三洞より古い[8]。うち、太玄部は老子関係、太平部は『太平経』(太平道の系統とされるが、どの程度当初の内容を伝えているかは不明[9])、太清部は金丹術関係、正一部は天師道関係の経典を含む[10]。

脚注
^ 横手(2015) p.76
^ a b 横手(2015) p.114
^ 丸山(2001) p.21
^ 横手(2015) pp.90-92
^ 横手(2015) pp.92-98
^ 横手(2015) pp.98-104
^ 丸山(2001) pp.19-20
^ 大淵(1967) pp.59-60
^ 横手(2015) p.69
^ 横手(2015) pp.114-115
参考文献
大淵忍爾 著「教団宗教の形成」、窪徳忠・大淵忍爾編 編『宗教』大修館書店〈中国文化叢書 6〉、1967年、31-60頁。
丸山宏 著「はじめに」、増尾伸一郎・丸山宏編 編『道教の経典を読む』大修館書店、2001年、1-33頁。ISBN 446923169X。
横手裕『道教の歴史』山川出版社、2015年。ISBN 9784634431362。

 

・『雲笈七籤』

(うんきゅうしちせん)は、中国・北宋の道教類書である。成立は真宗の天禧年間(1017年 - 1021年)で、撰者は張君房。当初は120巻であったが、現行本は122巻。

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
雲笈七籤
『正統道蔵』の太玄部に収録される。道教では書套のことを「雲笈」と呼んでおり、道書の分類に「三洞四輔」の七部があるので、本書の題名を「雲笈七籤」として、三洞四輔の七部の精華を総収した意を表している。本書の内容は道教全般にわたっており、「小道蔵」という呼び方もされている。また、北宋以前の道教の珍しい資料を収集しており、読者が宋以前の道教の概況を把握するのに好材料を提供している。

成立
真宗は、1010年に宰相の王欽若に命令して、道教経典の校訂と編集に着手させた。その事業は、1016年にいったん完了する。しかし、その内容や構成等に不十分な点が見つかったので、改めて、張君房に命じて、江南地方の余杭郡(現在の浙江省杭州市)で編纂し直させた。1019年に整理は完了し、真宗に上進されて『大宋天宮宝蔵』の題名を賜った。

本書は、仁宗朝になってから、『大宋天宮宝蔵』の概要を抄出して仁宗に献上されたものである。『大宋天宮宝蔵』が散逸した現在では、宋代以前の道教典籍について窺い知ることのできる貴重な文献となっている。

参考文献
中嶋隆蔵著『雲笈七籤の基礎的研究』(研文出版、2004年)ISBN 4876362386

 

・太平道

(たいへいどう)は、後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派。『太平清領書』を教典とし、教団組織は張角が創始した。教団そのものは黄巾の乱を起こしたのち、張角らの死を以て消滅した。

太平清領書
『太平清領書(中国語版)』は太平道が教典とした書物であり、于吉が曲陽の泉水のほとりで得た神書と伝えられる。既に失われた書だが、その内容は道教の一切経とされる『道蔵』の『太平経(ドイツ語版)』へ引き継がれたと考えられている。

来歴
于吉は山東出身の方士的人物で、五行・医学・予言に長けていた。彼はこの『太平清領書』を病人に読み聞かせ符水を飲ませることで治癒を行い、民衆はもとより支配階層からも広く尊崇を受けた(于吉は尸解し祀られたと伝えられる点から、太平道への神仙思想の影響がうかがえる[1])。

順帝の折、于吉の弟子である宮崇は『太平清領書』170巻を朝廷へ献上したが「妖妄不経」の書とされ世に出なかった。桓帝の折には孫弟子の襄楷がやはり同書を献上したが、これも否定的な評価を受けた[2][3]。のち張角が同書を手に教団を興すことになるが、于吉と張角の関係は不明である[4]。

内容
程度については議論があるものの[2]、『太平経』はおおむね『太平清領書』をよく受け継いでいると考えられる[5]。従って『太平経』を元に『太平清領書』の内容、また太平道の教義について、ある程度推測できる。具体的には以下のような点が挙げられる[3]。

吉凶や禍福は当人の行いから起こるという考え(これは人々の行為を監視する鬼神すなわち司過の神の存在を示し、緯書の影響を示唆する[4]。またこれは後述の治癒行為の結果説明にも使われる)。
善行の積み重ねが長寿につながるという考え。
房中術・尸解の概念。
静かな部屋での内省。
また、後漢書襄楷伝では、太平清領書について「其言以陰陽五行為家、而多巫覡雜語」とされている。いずれにせよ「天地を奉じ五行に従う」のが太平道の根本思想であったようである[3]。

教団
霊帝の折、黄帝道を奉じていた張角は『太平清領書』を教典として教団を創始し、自らを大賢良師と称した。教団名はその教典名に由来すると考えるのが自然である[3][6]。

張角は病人に対し、自分の罪を悔い改めさせ、符水を飲ませ、九節の杖で呪術を行って治癒を行った。そして(先述の教義に則り)治癒の良否は当人の信仰心の篤さによるとした。張角とその弟たち(張宝・張梁)がそれぞれ「大医」と称していた点から、教団活動において大きな比重が治癒行為に置かれていたと考えられる[7]。

後漢後期になると国政の混乱に伴って人災・天災が頻発し、また羌族の侵入が相次いだため、民衆の疲弊は極度に高まっていた。豪族による土地兼併も進み、多くの農民が小作人・奴隷・流民に転落し、村落共同体の破壊が進んでいた。新たな生活基盤や信仰の拠り所を求める彼らの受け入れ先として、太平道や五斗米道は信徒を増やしていった[4][8][9]。

張角は8人の主だった弟子を各地へ派遣し、十余年の間に華北一帯で数十万の信徒を得た。彼はその信徒を36個の「方」という集団に分けた。「大方」は1万人、「小方」は6000-7000人からなる集団であり、各々に指導者(渠師)がたてられた。なお「方」「大方」「小方」という語は、その集団の指導者の称号としても使われたようである[10]。

太平道と五斗米道には共通点が多い。具体的には、類似した教義を持つこと、宗教が基盤となる社会を目指したこと、成立・活動時期が重なること、が挙げられる[11]。両者間で何らかの交渉があったと考えるのが自然だが、それを示す史料は見つかっていない[11]。

黄巾の乱
詳細は「黄巾の乱」を参照
黄巾の乱は中国で最初の大規模な宗教反乱である[12][13]。張角らは教団による武装蜂起を計画し、入念に準備を進めた[14]。まず人々に異変を予感させるべく[14]、「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 皇甫嵩伝[15])」、蒼天已に死す 黄天當に立つべし 歳は甲子に在りて 天下大吉[注釈 1]」というスローガンを流布させた。亳州市の曹操の一族とみられる墓から「倉天乃死」と読める磚(煉瓦)が出土しており、太平道の影響が曹一族にも及んでいたと考えられている[16]。

また首都や地方官庁の門などに白土で「甲子」と書かせたりした。さらに幹部の馬元義をしきりに都へ派遣し、朝廷内での調略を試み、宦官の張譲らを引き込むことに成功した[14]。蜂起の日は184年3月5日とされたが、密告により計画は事前に露呈した[注釈 2]。

内通者から計画露呈の報を受けた張角は即座に檄を飛ばし、各方はその指示通り予定を繰り上げ2月中に兵を挙げた。このことは連絡網の整備、ひいては教団の組織力の高さをうかがわせる[17]。その際、信徒たちは頭に黄色い頭巾をつけたため、これを「黄巾の乱」と呼んだ。

(戦闘の経過については黄巾の乱を参照のこと)

冀州にあった張角の軍団は11月に鎮圧され、12月にはこれを記念して[17]光和7年から中平元年へ改元された。 これをもって黄巾の乱の終結とみるのが一般的である。ただし青州にあった主力の軍団は、その後も20年以上わたり反乱を続け(なおその一部は曹操に降り、「青州兵」として曹操軍の中核を担った)、汝南や潁川などの諸軍団も反乱を継続し、黄巾の乱が終結してからも黄巾残党軍による戦闘行為は続き、諸豪族は残党の討伐に追われた。

乱後の教団に関する記事が見られないことから、教団は乱とともに消滅したと考えられるが[18]、なかには五斗米道へはしった信徒もいたと思われる[13]。『太平清領書』の残巻である『太平経』が道教の重要経典として尊重されてきたことを考えれば、太平道の思想はその後も道教思想に影響を与えていったといえる[18]。

注釈
^ この「蒼天に黄天が取って代わる」というスローガンは、一見五行思想を反映しているようでいて、実際はその循環論に従っていない。すなわち後漢が標榜したのは火徳(赤)であり、木徳(青)ではない。また木徳(青)から土徳(黄)への移行は、五行相生説/相勝説いずれにもあてはまらない。これには以下のような解釈が試みられている。(澤 (1999) p.27)
循環に問題はあるが、五行に拠っている。
「蒼天は青々とした天、黄天は平民に古来から用いられてきた黄色を指し、通俗化された五行が使われている。」(宮川尚志)
「第一句は木が尽きたことを示す。木が尽きれば火も消え、土が生じる。政府を刺激しないための婉曲表現である。」(大淵忍爾)
一見五行と関係するようだが、実際は無関係。
「第二句、第三句だけが重要であり、それを強調し口調を整えるため前後に句を加えただけである。」(福井重雄)
「青い天が黄色く変わるとは、華北でしばしば起こる黄塵万丈を指す。つまり天変地異を信徒だけが免れ、太平の世が訪れるという寓意である。」(鈴木中正)
^ この密告で張譲の内通も暴露され、霊帝は張譲を詰問したものの、結局不問に付している。霊帝が無能というよりは、宦官を断罪できない状況があったようである。(澤 (1999) p.26)
脚注
^ 窪 (1980) p.114
^ a b 神保 (1999) p.77
^ a b c d 窪 (1980) p.116
^ a b c 窪 (1980) p.117
^ 神保 (1999) p.79
^ 澤 (1999) p.23
^ 澤 (1999) p.22
^ 窪 (1980) p.113
^ 澤 (1999) p.13
^ 澤 (1999) p.24
^ a b 澤 (1999) p.29
^ Hartz (2005) p.60
^ a b 窪 (1980) p.119
^ a b c 澤 (1999) p.25
^ ウィキソース出典 范曄 (中国語), 後漢書/卷71, ウィキソースより閲覧。
^ 『三国志 THREE KINGDOM UNVERLING THE STORY』 p75
^ a b 澤 (1999) p.26
^ a b 澤 (1999) p.28
参考文献
窪徳忠『道教史』 9巻、山川出版社〈世界宗教史叢書〉、1980年。ISBN 978-4634430907。
Paula R. Hartz『道教』鈴木博、青土社、2005年。ISBN 978-4791753000。
澤章敏 著、田中文雄、丸山宏、浅野春二 編『道教教団の形成 -五斗米道と太平道-』 第二巻『道教の教団と儀礼』、雄山閣出版〈講座 道教〉、1999年。ISBN 978-4639016809。
神保淑子 著、砂山稔、尾崎正治、菊池章太 編『太平経の世界』 第一巻『道教の神々と経典』、雄山閣出版〈講座 道教〉、1999年。ISBN 978-4639016458。

 

・五斗米道

(ごとべいどう)は、通説では後漢末に太平道に少し遅れて、張陵(張道陵とも)が、蜀郡の成都近郊の鶴鳴山(あるいは鵠鳴山とも、現在の四川省成都市大邑県)で『老子道徳経』を基本にして起こした道教教団。2代目の張衡の死後、蜀郡では巴郡の巫である張脩(中国語版)の鬼道教団が活発化した、益州牧の劉焉の命で、3代目の張魯とともに漢中太守蘇固(中国語版)を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。

関連する文献に、『正一盟威籙』『二十四治気図』『天官章本』などがある。また、六朝時代の天師道の残した文献から、『老子』を重んじていたことも推測できる。

籙とは道の気が変化して形を持った神々の目録のことであり、これらの神々と契約を結んだとされている。図とは宇宙全体の見取り図のようなもののことを指す。章本は太上老君に上呈する祈願文の範例を集めたものを言う。

概要
魚豢の『典略』(『魏略』)によると、五斗米道として教団を創始したのは張脩であるという。『三国志』の注釈者である裴松之はこの記述について「張脩は張衡とあるべき」としているが、『資治通鑑』や『三国志集解』にある『張魯伝集解』ではこれを否定している。『後漢書』では「黄巾の乱が起こった中平元年(184年)7月に、巴郡の巫の張脩が反乱した」とあるので、一時期は張脩が宗教勢力を持っていたのだろう。

五斗米道の名は、信者に五斗(=500合=当時20リットル)の米を寄進させたことに由来する。張魯が張陵を『天師』として崇めたことから、後には『天師道』という呼称に変わり、さらに正一教と名を変えて現代まで残る。呪術的な儀式で信徒の病気の治癒をし、流民に対し無償で食料を提供する場を設けた。悪事を行ったものは罪人とせず3度まで許し、4度目になると罪人と評して道路工事などの軽い労働を課した。これらのことにより信仰を集め、さらに信者から構成される強固な自治組織が形成されていった。一般信者を鬼卒、それをまとめるものを祭酒、更にその上に治君・師君(張魯が号した)を置く階級制があった。

こうして五斗米道は、三国時代直前には漢中に宗教王国とも言える組織を形成したが、建安20年(215年)に曹操が漢中に侵入してくると、これに帰順する。五斗米道は帰順後も漢中支配を実質的に容認されたが、曹操が五斗米道信者を強制的に北方へ連行した事から教祖を中心とした祭酒制度を崩壊、五斗米道そのものは一時中絶の危機に陥る。その後、西晋が滅亡し東晋が東遷した時に、鄱陽郡にある龍虎山へ拠点を移した。

東晋においては、孫恩や盧循が反乱を起こし猛威を振るったが、東晋軍によって鎮圧された(孫恩の乱、盧循の乱)。五斗米道は反乱は苦境にあった東晋の力をさらに弱体化させ、その反乱を鎮圧するなかで強大な権力を握った劉裕は、東晋から禅譲を受ける形で南朝宋を建国した。

五斗米道の流れを継ぐものとしては正一教の項を参照の事。

教義
教義は太平道に似ていて、病気治療が基本である。この教団によると、ヒトが病気をするのは、人間界を支配する宇宙の神がそのヒトの罪悪に対して懲罰を与えるためであると説いた。それで、病人は静室に閉じこもって過去に犯した罪悪を懺悔し、服罪と自戒を意味する直筆の祈祷書または誓約書を三通書かせ、一通目は山の上に置いて山の神へ、二通目は地に埋めて地の神へ、三通目は水中に沈めて水の神へ、いわゆる天・地・水の三官神に捧げて病気治療をした。

 

・全真教

(ぜんしんきょう)は、金の支配下にあった中国の華北の人、王重陽(1112年 - 1170年)が開いた道教の一派である。七真人と呼ばれる七人の開祖の高弟たちが教勢の拡大に努め、次第に教団としての体制を整えていった。

七真人
七真人とは、馬丹陽、譚長真、劉長生、丘長春(1148年 - 1227年)、王玉陽、郝広寧、孫不二の七人である。

教理
全真教の教理は、儒教の信奉者から道教に改宗した唐代の道士呂洞賓の説く内丹的道教思想に淵源を見ることができる[1]。 その教理の根本は、王重陽の作とされる『重陽立教十五論』の中に述べられているが、その中で説かれている内容は、もはや道教本来の不老長生を求めるのみではなく、仏教とりわけ禅宗の影響が色濃く見受けられる。なお、後代南宋の朱子(1130年 - 1200年)が打ち立てた新しい儒教の朱子学からも影響を受けた。そのことは、王重陽が、盛んに儒仏道の「三教一致」を標榜したことに、容易に見て取れる。王重陽にとっての全真教とは、単に旧道教に対する新道教ではなく、その名のもとに、儒教・仏教をも含めた三教を摂取し融合しようとするものであった。また道士の修煉については、自分自身の修行である真功と人々の救済を行う真行の、功と行を二つながら全くする「功行両全」を主張し、自己救済の修行だけでなく他者の救済も実践しなくてはならないとした。

清規
また、「全真清規」という、禅宗の叢林で発達した教団規律である「清規」を取り入れた規則も設けている。そこで重視されるのは、出家の立場であり、打坐、内丹である。また、不立文字の考えも取り入れられている。

歴史
開祖王重陽は山東地方で弟子を取り、厳しい教導をして高弟を育てながら、一般に向けた活動を成功させ、大定十年(1170年)正月に没した。三年の喪があけたのち、弟子たちは自らの修行目標を言って四方に分かれて修行と弘教に努めた。最年長でもっとも修行を積んでいた馬丹陽が全真教の興廃を一身に背負って陝西省の各地で基盤を築くことに努力を重ねた。それが実って徐々に全真教が知られるようになった。

大定二十七年(1187年)には七真人の一人、王玉陽が金の世宗に召されて下問に答えたのを始めとして、翌年の大定二十八年(1188年)には丘長春が、世宗より法師号を授けられて、全真教が金朝によって公認された。その後、度牒の給付や観額の官売も認められ次第に教勢を張るようになる。

しかし、西方にチンギス・ハンのモンゴルが次第に勢力を伸ばして来ると、丘長春は、高齢を押して、遠くインダス河畔まで西征途上のチンギス・ハンを訪れるための旅をしている(1220年 - 1224年)。その旅行記は、「長春真人西遊記」として、今日に伝えられている。その結果、元代になっても、全真教は、前代にも増して発展することができ、道蔵の編纂や道教石窟の開鑿等の大事業も行われて、江南の龍虎山に本拠を置く正一教と勢力を二分するまでになった。 フビライ・ハンの時代に元の国教が仏教に定められ、道教は禁令によって地下に潜ることを余儀なくされたが、元朝は全真教に対しては好意的であり、その勢力を大きく延ばした[1]。

明代に入ると、王室の正一教優遇と全真教排斥の宗教政策に加えて、影響力のある道士が出なかったことも相俟って沈滞の時代となる。しかし、満州族が南下して明を滅ぼして清朝が成立する変革の時期に、王常月(1520年 - 1680年)という中興の祖が現われて公開的に伝戒を行うよう改革した。これにより南北に戒壇を設けて多くの道士に伝戒を行った。これによって清王室の認めるところとなり、全真教はふたたび隆盛を取り戻し、今日に至っている。

なお、北京で有名な道観である白雲観は、全真教の本山的な位置にある道観である。

全真教研究の変遷
従来の全真教研究のフレームワークの源流は、1941年の陳垣の『南宋初河北新道教考』にあり、これは唯物思想の抵抗史観を背景に持ち、旧来の道教に対して全真教を「新道教」とする意味付けは極めて歴史的経緯を背負った術語でもあった。1930年の常磐大定の『支那における仏教と儒教道教』と陳垣の論文を基本的に受け継ぐかたちで書かれた1967年の窪徳忠の『中国の宗教改革:全真教の成立』[2]は、教理にも踏み込んで分析がなされたが、それは先行研究と同様の道教の旧弊を廃した姿として描かれ、内丹についても全真教の革新性を強調するためか極めて低い位置付けとなっていた。常盤大定・窪徳忠によれば、全真教は後世に張伯端以下の内丹道、すなわち南宗との接触により堕落や変容したとされていたが、全真教で説かれる「性命双修」は元々北宋の張伯端によって提唱したとされ、いわゆる旧道教との断絶を強調し過ぎるとその思想的関係が説明しにくいきらいがあった[3][4]。

全真教は現代まで繋がる道教の二大教派の一つでありながら、その研究は上述の窪徳忠などの先行研究以降は部分的なものはあっても、教理・実践面の特に内丹学については研究が遅れていた。しかしその面においても近年は研究が進みつつある[5]。

精神面の修行は以前から多少とも内丹の修行の一部として含まれており、特に悟達に重きを置いた内丹説は既に張伯端によって主張されていた。開祖の王重陽は禅僧ではなく内丹の道士であり、当時の思潮の中にあって全真教とは精神的な悟達を全面的に推し進めたことなどに道教での位置付けがある。従来のフレームワークに囚われずこのような視点を中心にして内丹と全真教を論じた研究が発表されるようになって来ている[6][7][3][4]。

脚注
^ a b P.R.ハーツ『道教』<世界の宗教> 鈴木博訳 青土社 1994年、ISBN 4791753003 pp.71-75.
^ 窪徳忠『中国の宗教改革:全真教の成立 アジアの宗教文化2』法蔵館、1967年。
^ a b 東京外国語大学 アジア・アフリカ言語研究所「遼・金・西夏に関する総合的研究」第1回研究会 2008年
^ a b 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科 全真教における性命説の成立と展開 2009年
^ 三浦国雄「はじめに」、『講座道教 第三巻 道教の生命観と身体論』雄山閣出版、2000年。ISBN 4-639-01669-7。
^ 坂出祥伸「解説・金仙證論とその丹法」、『煉丹修養法 附・道語字解』たにぐち書店、1987年。
^ 横手裕「全真教と南宗北宗」、『講座道教 第三巻 道教の生命観と身体論』雄山閣出版、2000年。ISBN 4-639-01669-7。
関連項目
太一教
真大道教
正一教
関連書籍
幸田露伴「活死人王害風」大正十五年(1926年)4月「改造」初出。詳しい論考(今日の学問的水準との比較はともかく)。著者はかなりこの人物(王重陽)をかっている。

 

・正一教
(しょういつきょう)は、道教の宗派の一つ。現在の道教の教派は全真教(全眞敎)と正一教の二つに大別されて考えられている。日本語読みの問題ではあるが、道教は儒教と共に中国で起こった宗教であるため、漢音読みをする習慣がある。例えば、「道教経典」も「どうきょうけいてん」と読む場合がある。同様に、正一教の読みに対しても、「せいいちきょう」または「せいいつきょう」と読む場合がある。

概要
正一教は、後漢末の五斗米道(天師道)という宗教にさかのぼるといわれる。五斗米道は、前漢の功臣張良の子孫である張陵(張道陵)という人が蜀郡で太上老君のお告げを受けて、天師の位と正一盟威(しょういつめいい)の道を授けられ、はじまったとされる。孫の張魯はこれを受け継ぎ、漢中に勢力を張り、宗教王国のような体制を築き上げた。張魯が曹操の軍門に降るとこの漢中政権は消滅したが、教団幹部たちは魏の列侯に封ぜられ、重用された。この教団がその後どうなったのかはよく分かっていない。異民族の侵攻とともに五胡十六国時代に入ると、多くの信徒は南方に拡散し、江南に五斗米道を広めたともいわれ[1]、各地に五斗米道系の教団が分立した状態であったともみられる。後代に作られた正一教の歴代教主の伝記である『漢天師世家』によれば、張陵の子孫は代々張天師(中国語版)の位を世襲したとされるが、史実かどうかは定かではない。いずれにせよ、遅くとも唐末五代には、張天師を教主とし、龍虎山を本拠とする天師道の教団が成立していた[2]。

南北朝時代の北魏では、嵩山の道士の寇謙之が太上老君のお告げにより、張陵ののち空位になっていた天師の位に就いたとして、新天師道を興した。寇謙之は五斗米道の教法を改革し、仏教の要素を取り入れて道教の教義や戒律を整備した。寇謙之の活躍により道教は北魏の国教となった。道教研究者の窪徳忠は、五斗米道が一般に天師道と呼ばれるようになったきっかけが新天師道だったのではないかと述べている[2]。寇謙之の死後、新天師道がどうなったかのはよく分かっていない。その後、南朝宋では廬山の五斗米道系の道士の陸修静が道教経典を集めて体系化し、また仏教を取り入れて道教儀礼を整備した。寇謙之の教法を「北天師道」ともいい、陸修静の教法を「南天師道」ともいう[3]。また、江南には上清派と呼ばれる一派があり、陸修静の流れをくむ茅山の道士、陶弘景がその教法を確立した。

北宋には、龍虎山を本山とする天師道の第24代天師の張正随が真宗に召されて朝廷の庇護の下に入った。元代になると、第36代天師の張宗演が世祖クビライに召され、任じられて江南道教を統轄するようになった。また、教団が正一教と呼ばれるようになったのも、この頃からである。元代の華北では、金代に興った新しい道教である全真教が教勢を拡大し、いつしか正一教と全真教は道教を南北に二分する二大宗派となった。

明の太祖朱元璋の作とされる「御製玄教斎醮儀文序(ぎょせいげんきょうさいしょうぎぶんじょ)」の中では、死者のための儀礼を主として行う教団と見なされている。

清に入ると、朝廷の祈祷や祭祀の行事は、チベット仏教のラマ僧に牛耳られるようになり、道教嫌いであった乾隆帝によって、遂に道教の管掌権を奪われるに至った。辛亥革命時には、龍虎山はさびれていたが、それに追い討ちをかけるように、1912年(民国元年)、江西都督の手で天師の封号までも奪われてしまった。第62代の張元旭が袁世凱らの軍閥に働きかけ、ようやく「正一真人」の封号および龍虎山の封地を奪回するのに成功した。

全真教の道士は修身養性の出家主義的だが、正一教の道士は祭儀中心の在家主義的といわれる。活動は呪符を重んじるなど、呪術性が強く、内丹学などの自己修養はあまり重視されないといわれる。

第65代継承問題
詳細は「zh:嗣汉张天师世系图」および「en:List of Celestial Masters」を参照
国民党との結びつきが強かった第63代の張恩溥(中国語版)は台湾に亡命し、1969年に台北市で没した。張恩溥の長男である張允賢は1954年に既に死去しており、中国本土に残留した次男の張允康も消息不明となっていたため、第35代張可大より続く男系男子の嫡流の系統は一旦ここで断絶してしまった。次代の張天師は「男系男子の世襲[注釈 1][4]」と定められていたため、1971年までは故人である張恩溥がそのまま在位という形になっており、同年に張恩溥の堂姪である張源先(中国語版)(張恩溥の父の第62代張元旭の弟の張元曙の孫)が第64代天師に就任した。張源先は元々は中華民国陸軍の軍人であったが、1960年代より表面化した張恩溥の後継問題を受けて、張恩溥より直接の指導を受けて正一教の教義を修養、張恩溥の死後も数年間修行を重ねた末に軍を退役して第64代へ就任した経緯があり、系譜上は第61代の張仁晸から連なる傍流の男系男子として、男系相続の伝統が辛うじて維持されていた。

第64代の張源先は2008年10月17日に男系男子を残さないまま死去したが、彼が張天師に就任した段階で「男系男子の世襲」という規定が停止され、襲名条件が「男系子孫である事」と緩和されていた為、皮肉にも第65代張天師選出にあたり大きな問題が生じた。「張天師の男系子孫」を称する複数の人物が張源先の死の前後に相次いで当代継承を主張し、当代の張天師が複数乱立する事態を招いたのである。先代の張恩溥が中国本土から台湾へ落ち延びた関係で、張恩溥自身の複数の子女を始めとする親戚縁者が中国本土側に散在していた事も、この継承問題を単なる一教派内の争いを越えた、両岸問題を内包する複雑怪奇なものとした[4]。

2017年現在、公式の第65代は2009年6月10日に中國嗣漢張天師府道教會の設立と同時に張天師に就任した第62代張元旭の男系曾孫[注釈 2]の張意将[5][6]であるが、張源先が生前の2008年8月2日には第63代張恩溥の庶子であると主張する張美良(中国語版)が、張源先の第64代就任自体が無効であるとして中国本土の龍虎山にて「第64代」張天師就任式を強行[7]しており、2009年5月11日には台湾南投市にて中國嗣漢道教總會の支援を受けた張道禎(中国語版)が「第64代」張天師就任式を行った。張道禎は1966年生まれで第32代張守真の男系子孫[注釈 3][8]であると主張しており、張恩溥の実子は張允賢一人で現在消息不明とされる次男の張允康とは血縁関係がない事[注釈 4]。張恩溥の死去の時点では継承序列上は第35代以降の系統の傍流で第61代の曾孫である張源先よりも、第32代直系の男系子孫である自分の方が上であったことから、張源先は飽くまでも自身が名乗り出るまでの「第64代張天師"代理"」に過ぎなかったとまで主張している[9][10]。ほかにも男系女子としての長子世襲を主張し、中國正一道教總會が主催する2011年10月の張源先3回忌記念式典にて第65代就任を発表[11]した張源先の長女の張懿鳳[12]、第58代張起隆の男系子孫と称する張捷翔[13]が第65代継承を称しており、台湾在住者だけでも少なくとも上記5名の張天師が併立している。

更には中国本土でも張恩溥の次女の子[注釈 5]であり第12期全人代広西地区代表(中国語版)、中国道教協会現副会長でもある張金涛(中国語版)。第62代の男系曾孫[注釈 6]であり第11期全人代天津地区代表(中国語版)を務めていた中国道教協会元副会長の張継禹(中国語版)、第62代の男系曾孫[注釈 7]で北京在住の張貴華[14]らまでが第65代継承を主張しており、中国本土も含めると少なくとも8人の張天師[注釈 8]が存在する異常事態となっている。そして、正統第65代とされる張意將を中心に各対立張天師本人及びその支援者が、互いに家系図や清朝及び大日本帝國時代の戸籍簿などを持ち出してまで自らの正当性の主張を繰り広げる有様で、張天師を最高指導者とする正一教の教勢は文字通り四分五裂した状態のまま現在に至っている。

 

・太一教

(たいいつきょう)は、中国の金代に、蕭抱珍が開いた道教の一派である。元代の後半に至り、正一教と全真教の二大教派に吸収された。

歴史
教祖の蕭抱珍は、汲県(現在の河南省衛輝市)の人という。金の熙宗の天眷中(1138年 - 1141年)に、太一三元の法籙を授与され、それによって新興の道教の一派を起こしたとされる。但し、それ以前の経歴等は判っていない。

金朝では、その創立後数年で、その名が金朝にも知られるまでになり、皇統11年(1148年)には、宮中に召されて、金朝の承認を獲得した。以後、金の朝廷との結びつきによって、教線を拡大することが出来た。

元朝が興ると、太一教では、巧みに世祖に対して接近を図り、元代になっても、貴顕との結びつきを維持し得た。しかし、その度師(祖師)で第7代目以降には、次第に正一教や全真教に吸収されて行った。

太一教では、その教団の教義も詳細が不明であり、そこで言う「太一三元の法籙」についても、よく判っていない。但し、病者に対して、符水を飲ませて丹書を服せしめたりと、旧来の正一教系の道教の教義に近い性格を持っていたであろうことは推測されている。

それでも、中道を重んじ、葷酒や妻帯を禁止しており、人倫を尊んで世教を輔導することを訴えているので、やはり新道教の一派としての傾向を持っていたことが窺える。

伝承
太一教では、天師道の張氏による秘伝の原則を模倣し、歴代の度師(祖師)は必ず「蕭」に改姓した。

初代:蕭抱珍(一悟真人、位1141年? - 1166年)
二代:蕭道熙(重明真人、位1166年 - 1186年)
三代:蕭志沖(虚寂真人、位1186年 - 1216年)
四代:蕭輔道(中和真人、位1216年 - 1252年)
五代:蕭居寿(貞常真人、位1252年 - 1280年)
六代:蕭全祐(純一真人、位1280年 - 1318年?)
七代:蕭天祐(崇玄真人、位1318年 - ? )
文献資料
『元史』巻202「酈希誠伝」
『新元史』巻243「蕭輔道伝」
関連項目
全真教
真大道教
正一教

 

・真大道教

(しんだいどうきょう)は、中国の金朝時期に、劉徳仁(1122年 - 1180年)が創始した道教の一派である。元朝の末年に至り法系が途絶えた。

歴史
教祖の劉徳仁は、滄州楽陵県(山東省商河県)の人であったが、靖康の変に遭遇して塩山県(河北省塩山県)に移住した。金の皇統2年(1142年)、劉徳仁に、太上老君と自称する一老人が降下して、『老子道徳経』を授与され、感ずるところがあって、大いに修行に励み、その後38年間に及ぶ伝道を開始した。大定中(1161年 - 1189年)には、金朝の領内のほぼ全域に伝播させることが出来た。

元朝では、真大道教は、天宝宮と玉虚観の両派に分派した。玉虚観の第5代・李希安の代より、真大道教に改称した。更に、泰定3年(1326年)以後には、次第に全真教の中に吸収されて行った。

真大道教では、「守気養神」が主張され、自力で生活し、苦節して寡欲であることを提唱して、上天昇化、不老長生を談ぜず、尚お且つ儒家思想を自己の体系中に吸収していた。その外、真大道教には出家制度が存在した。この時代、南方では、林霊素らの祈祷を中心とした正一教が主流となっており、他の新興教派と同様に、その教風には、現状に対する革新的な意義が見られる。

伝承
第1代:劉徳仁(1122年 - 1180年)
第2代:陳師正(? - 1194年)
第3代:張信真(1164年 - 1218年)
第4代:毛希琮(1186年 - 1223年)
第5代:燕京天宝宮:酈希誠
     玉虚観:李希安
関連項目
全真教
太一教
正一教
参考文献
陳垣『南宋初河北新道教考』(北平、輔仁大学、1941年)
袁国藩「元代真大道教考」(上)(『大陸雑誌』43-4)