五倫書―地之巻 | 覚書き

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   1 自 序
 【原 文】
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兵法の道、二天一流と号し、(1)
数年鍛練の事、始て書物に顕さんと思、(2)
時、寛永二十年十月上旬の比、
九州肥後の地岩戸山に上り、
天を拜し、觀音を礼し、佛前に向。(3)
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、
年つもりて六十。(4)
われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、
十三歳にして始て勝負をす。(5) 
其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者(6)
にうち勝、十六歳にして、
但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、(7)
二十一歳にして、都へのぼり、
天下の兵法者に逢、数度の勝負をけつすと
いへども、勝利を得ざると云事なし。(8)
其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、
六十餘度迄勝負をすといへども、
一度も其利をうしなはず。
其程、年十三より二十八九迄の事也。(9)
われ三十を越て、跡をおもひミるに、
兵法至極してかつにハあらず。
をのづから道の器用ありて、天理をはなれざる故か、
又ハ、他流の兵法不足なる所にや。(10)
其後、猶も深き道理を得んと、
朝鍛夕錬して見れバ、をのづから
兵法の道に逢事、我五十歳の比也。
それより以來は、
尋入べき道なくして光陰を送る。(11)
兵法の利に任て、諸藝諸能の道となせバ、
万事におゐて、われに師匠なし。(12)
今此書を作るといへども、
佛法儒道の古語をもからず、
軍記軍法のふるき事をも用ひず。
此一流のミたて、實の心を顕す事、
天道と觀世音を鏡として、(13)
十月十日の夜、寅の一天に
筆をとつて、書始るもの也。(14)

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 【現代語訳】



 兵法の道を二天一流と名づけて、長年修行してきたことを、初めて書物に記述しようと思い、時に寛永二十年(1643)十月上旬の頃、九州肥後の地にある岩戸山〔いわとのやま〕に登って、天を拜し、観音を礼拝し、仏前に向った。
 生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年齢は積み重なってもう六十(になってしまった)。私は若年の昔より兵法の道を心がけ、十三歳にして初めて決闘勝負をするようになった。その相手、新当流有馬喜兵衛という兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国の秋山という強力な兵法者に打勝った。二十一歳にして都へ上り、天下(有数)の兵法者に出会い、何度も決闘勝負を行なったが、勝利を得ざるという事がなかった。
 その後、諸国各地へ行って、さまざまな流派の兵法者と遭遇し、六十数回まで勝負を行なったけれども、一度もその利〔勝利〕を失うことがなかった〔負けたことがなかった〕。それは十三歳より二十八九歳までのことであった。
 私は三十を越して我が過去を振り返ってみると、これは兵法が極まっていたので勝った、ということではなかった。自然と兵法の道の働き*があって、天の原理を離れなかったせいであろうか。あるいは、相手の他流の兵法に欠陥があったからだろうか。
 その後、なおも深き道理を得ようとして、朝に夕に鍛練してきたが、結局、兵法の道にやっと適うようになったのは、私が五十歳の頃であった。それより以来は、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきた。
 兵法の利〔勝利〕にまかせて諸々の芸能〔武芸〕の道としてきたので、万事において私には師匠というものがなかった。
 これから、この書物を書いていくのだが、仏法や儒道の古き言葉を借りたり、軍記軍法の古き事例を用いたりはしない。この流派の見立て(考え)や真実の心を明らかにすること、天道*と観世音を鏡として、十月十日の夜、寅の刻の一天*(午前四時前)に筆を執って書き始めたのである。

 

 2 地之巻 序
【原 文】
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夫、兵法と云事、武家の法也。
将たるものハ、とりわき此法をおこなひ、
卒たる者も、此道を知べき事なり。
今世の間に、兵法の道、たしかに
わきまへたると云武士なし。(1)
先、道を顕して有ハ、佛法として
人をたすくる道、又、儒道として文の道を糺し、
醫者と云て諸病を治する道、
或は歌道者とて和歌の道をおしへ、
或ハ数寄者、弓法者、其外、諸藝諸能までも、
思ひ/\に稽古し、心々にすくもの也。
兵法の道にハ、すく人まれなり。
先、武士ハ、文武二道と云て、
二の道を嗜む事、是道也。*
たとひ此道不器用なりとも、
武士たるものハ、おのれ/\が分才ほどは、
兵の法をバ勤むべき事也。(2)
大かた武士の思ふ心をはかるに、
武士ハたゞ、死(る*)と云道を嗜む事と
覚ゆるほどの儀也。
死(る*)道におゐてハ、武士ばかりに限らず、
出家にても女にても、百姓以下に至迄、
義理をしり、恥をおもひ、死する所を
思ひきる事は、其差別なきもの也。(3)
武士の兵法をおこなふ道ハ、
何事におゐても、人にすぐるゝ所を本とし、
或ハ一身の切合に勝、或ハ数人の戦に勝、
主君のため我身のため、
名をあげ身をもたてんとおもふ、
これ兵法の徳を以てなり。(4)
又、世の間に、兵法の道を習ても、
實のとき、役にハ立まじきとおもふ
心あるべし。其儀におゐては、
何時にても役に立様に稽古し、
万事に至り、役に立様におしゆる事、
是兵法の実の道也。(5)
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【現代語訳】


 まさに兵法ということは武家の法〔なすべきこと〕である。武将たる者は、とりわけこの法を行い、士卒たる者も、この道を知るべきである。(しかるに)今の世の中には、兵法の道をたしかにわきまえたという武士はいない。
 まず、道を明らかにして存在するのは、仏法として人を助ける道、また儒道として文の道をただし、医者といって諸病を治す道、あるいは歌道者といって和歌の道を教え、あるいは数寄者、弓術者、その他、諸々の芸能までも、思い思いに稽古し、それぞれ深く心を寄せるものである。(それに対し)兵法の道に深く心を寄せる人は稀である。
(まず武士は、文武二道といって、二つの道を嗜むこと、これが道である)。
たとえ、この(兵法の)道に不器用であっても、武士たる者は、それぞれおのれの分才〔資質器量〕に応じて、兵法に励むべきである。
 おおよそ武士の思う心を推察してみるに、武士はただ「死ぬ」という道を嗜む事と考えているという程度のことである。しかし、死ぬ道においては、武士だけに限らない。出家者でも、女でも、百姓に至るまで、義理を知り恥辱を思い、(自分が)死するところを思い切ることには、(職業・性別の)違いなどないものである。
 武士が兵法を行う道は、何事においても、他人にまさることが根本であり、ある場合は一身の斬り合いに勝ち、ある場合は多人数の戦いに勝つ。そうして主君のため我身のために、名を揚げ身をも立てようと思うのも、これは兵法の徳〔すぐれた効能〕によるのである。
 また世間には、兵法の道を習っても、実際の(戦いの)時、役に立つはずがないと思う気持があるだろう。そのことにおいては、いつ何時でも役に立つように稽古をして、どんな状況になっても役に立つように教えること、これが兵法の真実〔まこと〕の道なのである。

 

 3 兵法の道
【原 文】

一 兵法の道と云事。
漢土和朝迄も、此道をおこなふものを、
兵法達者と云傳たり。
武士として、此法を学ばずと云事有べからず。
近代、兵法者と云て世をわたるもの、
これハ劔術一通りの儀也。
常陸國鹿嶋かんとりの社人共、
明神の傳として流々を立て、
國々を廻り人に傳事、近き比の事也。
いにしへより十能七藝とあるうちに、
利方と云て、藝にわたるといへ共、
利方と云出すより、
劔術一通りにかぎるべからず。
劔術一へんの利までにてハ、劔術もしりがたし。
勿論、兵の法にハ叶べからず。(1)
世の中を見るに、諸藝をうり物に仕立、
わが身をうり物の様に思ひ、
諸道具に付ても、うり物にこしらゆる心、
花實の二つにして、
花よりも実のすくなき所也。
とりわき此兵法の道に、
色をかざり花をさかせて、術をてらし、
或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ、
此道を習て利を得んと思事、
誰か謂、なまへいほう大きずのもと、
誠なるべし。(2)

凡、人の世をわたる事、士農工商とて四の道也。
一にハ農の道。
農人ハ、色々の農具をまうけ、四季轉変の
こゝろへ暇なくして、春秋を送る事、是農の道也。
二にハ商の道。
酒を作るものハ、それ/\の道具を求め、
其善悪の利を得て、とせいを送る。
何もあきなひの道、其身/\のかせぎ、
其利を以て世をわたる、是商の道也。
三にハ士の道。
武士におゐてハ、さま/\の兵具をこしらへ、
兵具品々の徳をわきまへたらんこそ、
武士の道なるべけれ。兵具をもたしなまず、
其具/\の利をも覚へざる事、
武家ハ、少々たしなミの淺きものか。
四には工の道。
大工の道におゐてハ、種々様々の道具を
たくみこしらへ、其具/\を能つかひ覚へ、
すみかねをもつて、其指圖をたゞし、
暇もなく其わざをして、世をわたる。
是士農工商、四の道也。(3)

兵法を、大工の道にたとへて云顕す也。
大工にたとゆる事、家と云事に付ての儀也。
公家、武家、四家、
其家の破れ、家のつゞくと云事、
其流、其風、其家などゝいへバ、
家と云より、大工の道にたとへたり。
大工は、大にたくむと書くなれバ、
兵法の道、大なるたくミによつて、
大工に云なぞらへて書顕す也。
兵の法を学ばんと思はゞ、此書を思案して、
師は針、弟子は糸となつて、
たへず稽古有べき事也。(4)
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【現代語訳】

一 兵法の道という事
 中国から我が国まで、この道を(自在に)行う者を、兵法達者〔兵法に熟達した者〕と言い伝えてきた。武士である以上、この法〔兵法〕を学ばないということはあってはならない。
 近年、兵法者と称して世渡りをする者(がいるが)、これは(兵法というより)剣術だけのことである。常陸国の鹿島・香取の社人どもは、明神からの伝授として諸流派を立て、国々を廻って人に伝授しているが、これは近年のことである。
 昔から「十能七芸」とあるなかで、(近代の兵法者は)「利方」〔りかた、役立つ〕と宣伝して、(剣術の)芸で世渡りをしているのだが、「利方」〔実用性〕を主張するのなら、剣術だけに限定してはならない。剣術だけに偏った「利」に留まるなら、その剣術でさえ知ることは難しい。勿論、兵法(全般)に叶うことはありえない。
 世の中を見るに、諸々の芸を売物に仕立て、我身を売物のように思い、諸道具についても売物に拵える。そういう心は、花と実の二つに分ければ、花よりも実が少ないというところである。とりわけこの兵法の道に、色を飾り花を咲かせ、術を衒し〔見せびらかし〕、あるいは第一道場、第二道場などといってこの道を教え、またこの道を習って、利益を得ようと思うこと、たれかいう、「なま兵法、大けがのもと」とは、まさにこのことだ。

 およそ、人が世を渡るには、「士農工商」といって四つの道がある。
 一つには「農」の道。農民は色々の農具を設け、四季の気候の変化にたえず注意して日々を送ること、これが農の道である。
 二つには「商」の道。酒を造る者はそれぞれの道具を求め、その(商品の)善し悪しで利を得て、渡世とする。どんな商売でも、それぞれ自身の稼ぎ、その利をもって世を渡ること、これが商いの道である。
 三つには「士」の道。武士においては、さまざまの武器をこしらえ、兵具それぞれの徳〔特性〕を弁えていることこそ、武士の道というものであろう。兵具の嗜みもなく、その道具それぞれの利点をも知らないようでは、武家は少々嗜みが浅いということか。
 四つには「工」の道。大工の道においては、種々様々の道具を工夫して拵え、それぞれの道具をうまく使うことを覚え、墨矩〔すみかね〕をもってその指図〔設計〕を検討し、たえずその仕事をして世を渡るのである。
 これらが「士農工商」四つの道である。

 兵法を大工の道にたとえて言いあらわすのである。大工にたとえるのは、「家」ということに(関連)付けてのことである。
 公家、武家、四家*〔しけ〕。其家の破滅、家の存続という事、あるいは、その流、その風、その家などという。そこで、家ということから、大工の道にたとえるのである。
 大工は「大いにたくむ」と書く。それゆえ、兵法の道も、大いなるたくみ〔企み〕によって、大工に云いなぞらえて書きあらわすのである。
 兵法を学ばんと思うのなら、この書を読んでよく考えて、師は針になり弟子は糸となって、たえず稽古するようにしなければならない。

 

 3 兵法の道
【原 文】

一 兵法の道と云事。
漢土和朝迄も、此道をおこなふものを、
兵法達者と云傳たり。
武士として、此法を学ばずと云事有べからず。
近代、兵法者と云て世をわたるもの、
これハ劔術一通りの儀也。
常陸國鹿嶋かんとりの社人共、
明神の傳として流々を立て、
國々を廻り人に傳事、近き比の事也。
いにしへより十能七藝とあるうちに、
利方と云て、藝にわたるといへ共、
利方と云出すより、
劔術一通りにかぎるべからず。
劔術一へんの利までにてハ、劔術もしりがたし。
勿論、兵の法にハ叶べからず。(1)
世の中を見るに、諸藝をうり物に仕立、
わが身をうり物の様に思ひ、
諸道具に付ても、うり物にこしらゆる心、
花實の二つにして、
花よりも実のすくなき所也。
とりわき此兵法の道に、
色をかざり花をさかせて、術をてらし、
或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ、
此道を習て利を得んと思事、
誰か謂、なまへいほう大きずのもと、
誠なるべし。(2)

凡、人の世をわたる事、士農工商とて四の道也。
一にハ農の道。
農人ハ、色々の農具をまうけ、四季轉変の
こゝろへ暇なくして、春秋を送る事、是農の道也。
二にハ商の道。
酒を作るものハ、それ/\の道具を求め、
其善悪の利を得て、とせいを送る。
何もあきなひの道、其身/\のかせぎ、
其利を以て世をわたる、是商の道也。
三にハ士の道。
武士におゐてハ、さま/\の兵具をこしらへ、
兵具品々の徳をわきまへたらんこそ、
武士の道なるべけれ。兵具をもたしなまず、
其具/\の利をも覚へざる事、
武家ハ、少々たしなミの淺きものか。
四には工の道。
大工の道におゐてハ、種々様々の道具を
たくみこしらへ、其具/\を能つかひ覚へ、
すみかねをもつて、其指圖をたゞし、
暇もなく其わざをして、世をわたる。
是士農工商、四の道也。(3)

兵法を、大工の道にたとへて云顕す也。
大工にたとゆる事、家と云事に付ての儀也。
公家、武家、四家、
其家の破れ、家のつゞくと云事、
其流、其風、其家などゝいへバ、
家と云より、大工の道にたとへたり。
大工は、大にたくむと書くなれバ、
兵法の道、大なるたくミによつて、
大工に云なぞらへて書顕す也。
兵の法を学ばんと思はゞ、此書を思案して、
師は針、弟子は糸となつて、
たへず稽古有べき事也。(4)
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【現代語訳】

一 兵法の道という事
 中国から我が国まで、この道を(自在に)行う者を、兵法達者〔兵法に熟達した者〕と言い伝えてきた。武士である以上、この法〔兵法〕を学ばないということはあってはならない。
 近年、兵法者と称して世渡りをする者(がいるが)、これは(兵法というより)剣術だけのことである。常陸国の鹿島・香取の社人どもは、明神からの伝授として諸流派を立て、国々を廻って人に伝授しているが、これは近年のことである。
 昔から「十能七芸」とあるなかで、(近代の兵法者は)「利方」〔りかた、役立つ〕と宣伝して、(剣術の)芸で世渡りをしているのだが、「利方」〔実用性〕を主張するのなら、剣術だけに限定してはならない。剣術だけに偏った「利」に留まるなら、その剣術でさえ知ることは難しい。勿論、兵法(全般)に叶うことはありえない。
 世の中を見るに、諸々の芸を売物に仕立て、我身を売物のように思い、諸道具についても売物に拵える。そういう心は、花と実の二つに分ければ、花よりも実が少ないというところである。とりわけこの兵法の道に、色を飾り花を咲かせ、術を衒し〔見せびらかし〕、あるいは第一道場、第二道場などといってこの道を教え、またこの道を習って、利益を得ようと思うこと、たれかいう、「なま兵法、大けがのもと」とは、まさにこのことだ。

 およそ、人が世を渡るには、「士農工商」といって四つの道がある。
 一つには「農」の道。農民は色々の農具を設け、四季の気候の変化にたえず注意して日々を送ること、これが農の道である。
 二つには「商」の道。酒を造る者はそれぞれの道具を求め、その(商品の)善し悪しで利を得て、渡世とする。どんな商売でも、それぞれ自身の稼ぎ、その利をもって世を渡ること、これが商いの道である。
 三つには「士」の道。武士においては、さまざまの武器をこしらえ、兵具それぞれの徳〔特性〕を弁えていることこそ、武士の道というものであろう。兵具の嗜みもなく、その道具それぞれの利点をも知らないようでは、武家は少々嗜みが浅いということか。
 四つには「工」の道。大工の道においては、種々様々の道具を工夫して拵え、それぞれの道具をうまく使うことを覚え、墨矩〔すみかね〕をもってその指図〔設計〕を検討し、たえずその仕事をして世を渡るのである。
 これらが「士農工商」四つの道である。

 兵法を大工の道にたとえて言いあらわすのである。大工にたとえるのは、「家」ということに(関連)付けてのことである。
 公家、武家、四家*〔しけ〕。其家の破滅、家の存続という事、あるいは、その流、その風、その家などという。そこで、家ということから、大工の道にたとえるのである。
 大工は「大いにたくむ」と書く。それゆえ、兵法の道も、大いなるたくみ〔企み〕によって、大工に云いなぞらえて書きあらわすのである。
 兵法を学ばんと思うのなら、この書を読んでよく考えて、師は針になり弟子は糸となって、たえず稽古するようにしなければならない。

 

 4 兵法の道を大工に喩える
【原 文】

一 兵法の道、大工にたとへたる事。
大将ハ、大工の棟梁として、
天下のかねをわきまへ、其国のかねを糺し、
其家のかねをしる事、棟梁の道也。
大工の棟梁ハ、堂塔伽藍のすみかねを覚へ、
くうでんろうかくの指圖をしり、
人々をつかひ、家々を取立事、
大工の棟梁、武家の棟梁も同じ事也。(1)
家を立るに、木くばりする事、
直にして節もなく、見付のよきを表の柱とし、
少ふしありとも直に強きを裏の柱とし、
たとひ少弱くとも、節なき木のミさまよきをバ、
敷居、鴨居、戸障子と、それ/\につかひ、
節有とも、ゆがみたりとも、強き木をバ、
其家のつよみ/\を見分て、能吟味して
つかふにおゐてハ、其家ひさしくくづれがたし。
又、材木のうちにしても、
節おほく、ゆがミてよハきをバ、あしゝろともなし、
後には薪ともなすべき事也。
棟梁におゐて、大工をつかふ事、
其上中下を知り、或ハ床まはり、
或ハ戸障子、或ハ敷居、鴨居、
天井已下、それ/\につかひて、
あしきにハ、ねだをはらせ、
猶悪きにハ、くさびを削せ、
人を見分てつかヘバ、
其渉行て、手ぎハ能もの也。(2)
はかのゆき、手ぎハよきと云所、
物ごとをゆるさゞる事、たいゆうを知る事、
氣の上中下を知事、いさみをつくると云事、
むたいを知と云事、
か様の事ども、棟梁の心持に有事也。
兵法の利、かくのごとし。(3)
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【現代語訳】

 一 兵法の道を大工にたとえる事
 (武家の)大将は、大工の棟梁として(譬えて云えば)、天下の規矩〔かね〕をわきまえ、その国の規矩をただし、その家の規矩を知る。それが棟梁の道である。
 大工の棟梁は、堂塔伽藍の墨矩〔すみかね〕を覚え、宮殿楼閣の設計を理解し、人々を使い家を立てること、(その意味では)大工の棟梁(の仕事)は、武家の棟梁も同じことである。
 家を建てるために、木配りをする場合、まっ直ぐで節もない見かけのよいのを表の柱とし、少し節〔ふし〕があっても、まっ直ぐで強いのを、裏の柱とする。たとえ少し弱くても、節がなく見た目のよいのは、敷居・鴨居・戸障子とそれぞれに使う。節があっても歪んでいても、強い木を、その家の強度の要所を見分け、よく吟味して使えば、その家は長く崩壊しにくいものになる。また材木のうちでも、節が多く歪んでいて弱いのは、足代〔あしじろ・足場〕に使えるし、後には薪木にもすることができるのである。
 棟梁が大工を使う場合、その(腕前の)上・中・下を知り、ある者は床廻り、ある者は戸障子、ある者は敷居・鴨居・天井など、それぞれに使って、腕の悪い大工には根太〔ねだ〕を張らせ、もっと悪いのには楔〔くさび〕を削らせる。人を見分けて使えば、(工事が)捗どって手際のよいものである。
 その捗が行って、手際がよいというところ、(それは)どんなことでも気をゆるめないこと、体と用〔実体と機能〕を知ること、気〔気質器量〕の上・中・下を知ること、勇みをつける〔鼓舞する〕ということ、無体〔無理なこと〕を知るということ、このようなことが、棟梁の心持にあることである。
 兵法の利*はこの如くである。

 

 5 士卒たる者
【原 文】

一 兵法の道、士卒たるものハ、(1)
大工にして、手づから其道具をとぎ、
色々のせめ道具をこしらへ、
大工の箱に入てもち、
棟梁の云付る所をうけ、
柱、かうりやうをも、てうなにてけづり、
床棚をもかんなにて削り、
すかし物、彫物をもして、
能かねを糺し、すミ/\めんだうまでも、
手ぎハよく仕立所、大工の法也。
大工のわざ、手にかけてよく仕覚へ、
すミかねをよくしれば、後は棟梁となるもの也。
大工の嗜、能きるゝ道具をもち、
すき/\にとぐ事肝要也。
其道具をとつて、御厨子、書棚、机つくゑ、
又は行燈、まな板、なべのふた迄も、
達者にする所、大工の専也。(2)
士卒たる者、此ごとくなり。能々吟味有べし。
大工の嗜、ひづまざる事、とめを合する事、
かんなにて能削事、すり(ミ*)かゝざる事、
後にひすかざる事、肝要也。
此道を学ばんと思はゞ、
書顕す所の一こと/\に心を入て、
よく吟味有べき者也。(3)

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【現代語訳】

一 兵法の道、士卒たる者は、大工にして(譬えて云えば)、自分の手でその道具をとぎ、いろいろ工夫した工具をこしらえ、それを大工の道具箱に入れて持ち、棟梁の指示するところに従って、柱・虹梁〔こうりょう〕を手斧〔ちょうな〕で削ったり、床棚を鉋〔かんな〕で削ったり、透し物・彫り物もして、よく規矩を調整し、隅ずみや複雑な部分までも、手ぎわよく仕上げるところ、それが大工の法〔なすべきこと〕である。
 大工が仕事を自らの手でよく覚え、墨かねをよく知れば、後は棟梁となるものである。
 大工の嗜み(とは)、よく切れる道具をもち、それを暇さえあれば研ぐこと、それが肝要である。その道具を手にとって、御厨子〔仏壇〕、書棚、机卓、または行灯、まな板、鍋の蓋までも、上手に作る。それが大工の専*〔せん、第一とするところ〕である。
 士卒たる者は、これと同様である。よくよく吟味あるべし。
 大工が心がけるのは、木がひずまないこと、部材の接合部を(ぴたりと)合わせること、かんなでうまく削ること、(部材表面を)擦って傷つけないこと、後で乾燥しても隙間が生じないようにすること、これらが肝要である。
 この(兵法の)道を学ばんと思うなら、ここで書き表わすところのひとこと、ひとことを、心に入れて、よく吟味すべきなのである。

 

 6 地水火風空五巻の概略
【原 文】

一 此兵法の書、五卷に仕立事。
五ツの道をわかち、一巻/\にして、
其利をしらしめんために、
地水火風空として、五巻に書顕すなり。(1)
地之巻におゐてハ、
兵法の道の大躰、我一流の見立、
劔術一通りにしてハ、まことの道を得がたし。
大なる所より、ちいさきところをしり、
淺より深きに至る。
直なる道の地形を引ならすに依て、
初を地之巻と名付る也。(2)
第二、水之巻。
水を本として、心を水になす也。
水ハ、方圓の器にしたがひ、
一てきとなり、さうかいとなる。
水にへきたんの色あり。清き所をもちゐて、
一流の事を此巻に書顕也。
劔術一通の理、さだかに見分、
一人の敵に自由に勝ときハ、
世界の人に皆勝所也。
人に勝といふ心ハ、千万の敵にも同意なり。
将たるものゝ兵法、ちいさきを大になす事、
尺のかね*を以て大佛をたつるに同じ。
か様の儀、こまやかには書分がたし。
一を以万を知る事、兵法の利也。
一流の事、此水の巻に書記すなり。(3)
第三、火之巻。
此巻に戦の事を書記す也。
火ハ大小となり、けやけき心なるによつて、
合戦の事を書也。
合戦の道、一人と一人との戦も、
萬と萬との戦も同じ道也。
心を大なる事になし、心をちいさくなして、
よく吟味して見るべし。
大なる所は見へやすし、
ちいさき所は見へがたし。其子細、
大人数の事ハ、そくざにもとをりがたし。
一人の事ハ、心ひとつにてかはる事はやき
に依て、ちいさき所しる事得がたし。
能吟味有べし。
此火の巻の事、はやき間の事なるに依て、
日々に手なれ、常の事と*おもひ、
心の替らぬ所、兵法の肝要也。然に依て、
戦勝負の所を、火之巻に書顕す也。(4)
第四、風之巻。
此巻を風之巻と記す事、我一流の事に非ず。
世の中の兵法、其流々の事を書のする所也。
風と云におゐてハ、昔の風、今の風、
其家々の風などゝあれバ、世間の兵法、
其流々のしわざを、さだかに書顕す、是風也。
他の事をよくしらずしてハ、
ミずからのわきまへなりがたし。
道々事々をおこなふに、外道と云心有。
日々に其道を勤と云とも、心の背けば、
其身ハ能道とおもふとも、直なる所よりみれば、
実の道にハあらず。
実の道を極めざれバ、少心のゆがみにつゐて、
後にハ大にゆがむもの也。
ものごとに、あまりたるハ、たらざるに同じ。
よく吟味すべし。
他の兵法、劔術ばかり、と世におもふ事、尤也。
わが兵法の利わざにおゐてハ、各別の儀也。
世間の兵法をしらしめんために、
風之巻として、他流の事を書顕す也。(5)
第五、空之巻。
此巻、空と書顕す事。
空と云出すよりしてハ、
何をか奥と云、何をかくちといはん。
道理を得てハ道理を離れ、
兵法の道におのれと自由有て、
おのれと奇特を得、
時にあひてハ拍子をしり、
おのづから打、おのづからあたる、
是皆空の道也。
おのれと實の道に入事を、
空の巻にして書とゞむるもの也。(6)

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【現代語訳】

一 この兵法の書を、五巻に仕立てる事
 五つの道を分け、一巻ずつにして、その(道の)利を教えるために、地・水・火・風・空の五巻に書きあらわすのである。
 地〔ち〕之巻においては、兵法の道の概略、我が流派の見立てるところ、剣術だけをやっていては真実の道は得がたい。大きな所から小さい所を知り、浅いことから深いことへ至る、そのまっ直ぐな道の地形*〔ぢぎょう・ぢかた〕を造成して均すことから、はじめ(の巻)を「地」の巻と名づけるのである。
 第二、水〔すい〕之巻。水を手本として、心を水のようにする。水は、容器の形にしたがって四角になったり円形になったりする。水はわずか一滴のこともあれば、広大な滄海となることもある。水には碧潭〔深い淵の青緑〕の色がある。その水の清浄なところを用いて、我が流派の事をこの巻に書きあらわすのである。
 剣術一通りの理を定かに見分け、一人の敵に自由に勝つときは、世の中の人の誰にでも勝つのである。人に勝つというのは、千人万人の敵についても同じ意味である。武将たる者の兵法は、小さいものを大きく行うことであり、それは尺のかね〔曲尺〕を使って大仏を建てるのと同じである。
 こうしたことは、詳細には説明しがたいが、一をもって万を知ること、それが兵法の利〔効用〕である。(そこで)我が流派のことを、この「水」の巻に書き記すのである。
 第三、火〔か〕之巻。この巻には戦さの事を書き記す。火は、大きくなったり小さくなったり(自在に変化し)、きわだって派手なところがあることから、合戦の事を書くのである。
 合戦の道において、一人と一人の戦いも、万人と万人の戦いも、同じ道である。心を大きなことにしたり、小さくしたりして、よく吟味して見るべし。
 大きな所は見えやすいが、小さな所は見えにくい。そのわけは、大人数の事は即坐に変えることは難しいが、一人の事は、心一つでさっと変るので、小さな所は(逆に)知ることがむずかしいからだ。(この点を)よく吟味しておくべきである。
 この火の巻で説くのは、早い間の(変化の)事であるから、日々に手馴れて、日常のことと思い、心の変らぬところ、それが兵法の肝要である。それゆえ、戦さ勝負のところを「火」の巻に書きあらわすのである。
 第四、風〔ふう〕之巻。この巻を「風」の巻と記すこと。これは我が流派のことではない。世の中の兵法、その諸流派のことを、書き載せるのである。
 風というばあい、昔の風、今の風、その家々の風などとあるから、世間の兵法、その諸流派のやり方を、定かに書きあらわしておく。これが「風」ということである。
 他の(流派の)事をよく知らずしては、自身の理解も成りがたい。いろいろな道においてさまざまな事を行うに、外道〔げどう〕という心がある。日々にその道に励むとしても、心が(道に)背いていては、自身は善いと思っていても、まっとうな所から見れば、真実の道ではない。真実の道をきわめなければ、(最初は)ほんの些細な心の歪みでも、後には大きな歪みになってしまうものである。どんなことでも、過剰は不足に等しい。(これを)よく吟味すべし。
 他(流)の兵法のことを、世間の人が、剣術だけでしかないと思うのは当然である。我が兵法の利わざ〔理事*〕においては、(他流とは)まったく違っている。世間の兵法(がどんなものか、それ)を知らしめるために、「風」の巻として、他流の事を書きあらわすのである。
 第五、空〔くう〕之巻。この巻を、「空」と書きあらわすわけは、(以下のようなことだ)
 「空」と言い出す以上、何を奥と云い、何を入口と云うのか。(そんな区別など、ありはしない)
 道理を得てしまえば、道理を離れ、兵法の道におのずと自由があって、おのずから奇特〔きどく、不思議なほど優れた効験〕を得る。時に相応しては拍子を知り、おのずから打ち、おのずから当る。これみな空の道である。
 (そのように)おのずから真実の道に入ることを、「空」の巻にして書留めるのである。

 

  7 二刀一流という名
【原 文】

一 此一流二刀と名付る事。
二刀と云出す所、武士ハ、
将卒ともに、直に二刀を腰に付る役也。
昔ハ、太刀、刀と云、今ハ、刀、脇指と云。
武士たる者の此両腰を持事、
こまかに書顕すに及ばず。
我朝におゐて、しるもしらぬも、
こしにおぶ事、武士の道也。
此二ツの利をしらしめんために、
二刀一流と云也。(1)
鑓長刀よりしてハ、外の物と云て、
武道具の内也。
一流の道、初心の者におゐて、
太刀、刀両手に持て、道を仕習ふ事、実の所也。
一命を捨るときハ、道具を殘さず役に立度もの也。
道具を役にたてず、腰に納て死する事、
本意にあるべからず。
然ども、両手に物を持事、
左右ともに自由にハ叶がたし。
太刀を片手にて取習ハせんため也。(2)
鑓長刀、大道具ハ是非に及ばず、
刀脇差におゐてハ、
何れも片手にて持道具也。
太刀を両手にて持て悪しき事、
馬上にて悪し、かけはしる時、あしゝ、
沼ふけ、石原、さかしき道、人こミに悪し。
左に弓鑓を持、其外何れの道具を持ても、
皆片手にて太刀をつかふ物なれば、
両手にて太刀を搆る事、実の道にあらず。
若、片手にて打ころしがたきときハ、
両手にても打とむべし。
手間の入事にても有べからず。(3)
先、片手にて太刀を振ならわせんために、
二刀として、太刀を片手にて振覚る道也。
人毎に始て取付*時ハ、
太刀重くて振廻しがたき物なれども、
萬、始てとり付ときハ、
弓もひきがたし、長刀も振がたし。
何れも其道具/\に馴てハ、弓も力強くなり、
太刀*も振つけぬれバ、
道の力を得て振よくなる也。
太刀の道と云事、はやく振にあらず。
第二、水の巻にて知べし。
太刀ハ廣き所にて振、
脇指ハせばき所にてふる事、
先、道の本意也。
此一流におゐて、長きにても勝、
短にても勝故によつて、太刀の寸を定めず。
何れにても勝事を得るこゝろ、一流の道也。
太刀ひとつ持たるよりも、二つ持て能所、
大勢を一人して戦時、
又とり籠りものなどのときに、能事あり。
か様の儀、今委しく書顕すにおよばず。
一を以て万をしるべし。
兵法の道、おこなひ得てハ、
ひとつも見へずと云事なし。
能々吟味有べき也。(4)
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【現代語訳】

一 この流派を二刀と名づける事
 二刀を主張するのは、(以下のようなわけだ――)
 武士は武将・士卒ともに、まさに二刀を腰につけるのが役目である。(この二刀を)昔は太刀・刀〔たち・かたな〕といい、今は刀・脇差〔かたな・わきざし〕という。武士たる者がこの両刀を持つことは、細かく書きあらわすまでもない。我国において(そのわけを)知る者も知らぬ者も、腰に(二刀を)帯びることが武士の道である。この(刀)二つの利点を知らしめるために、「二刀一流」と言うのである。
 鑓〔やり〕・長刀〔なぎなた〕からすれば、(太刀は)「外〔と〕の物」*といって武器の内である。我が流派のやり方は、初心の者であっても、太刀と刀を両手に持って、道を習練する。それが本当のやり方である。
 一命を捨てる時は、道具〔武器〕を残らず役に立てたいものである。道具を役に立てずに、腰に納めたまま死ぬというのは、決して本意ではないはずだ。けれども、両手に物を持って、左右ともに自由に扱うのはむずかしい。(そこで、二刀を持たせるのは)太刀を片手でも使いなれるようにするためである。
 鑓・長刀など大きな武器は、両手で持つのは当然である。(これに対し)刀や脇差のばあいは、いづれも片手で持つ道具である。
 太刀を両手で持って具合が悪いのは、馬に乗っている場合よくないし、走りまわるときに具合が悪い。沼、ふけ〔湿地〕、石原、嶮しい道、籠城者の場合も具合が悪い。左に弓や鑓を持ち、その他どんな道具を持っていても、すべて片手で太刀を使うものであるから、両手で太刀を搆えることは本当のやり方ではない。
 もし片手で打ち殺すのが難しい時は、両手(で持って)でも、打ち留めるとよい。手間のかかる事でもないはずだ。
 (だから我が流派では)まず、片手で太刀を振りなれるようにするために、二刀として、太刀を片手で振るのを覚えるというやり方である。
 人はだれでも、初めて手にする時には、太刀が重くて振り回すことができないけれども、(それは太刀に限らず)何でも最初始めた時は、弓も引けないし、長刀も振れないものだ。何であれ、その武器それぞれに慣れてくると、弓も力強くなるし、太刀も振り慣れると、道の力を得て、楽に振れるようになるのである。
 (しかし)太刀の道ということは、早く振ればいいというものではない。(これは)第二の水の巻で(書いているから)知ることができよう。
 太刀は広い所で振り、脇差は狭い所で振ること、これがまず道の本来のあり方である。
 この流派においては、長い刀でも勝ち短い刀でも勝つ。だから、太刀の長さは定めない。(長短)どちらでも勝つ事を得るのが、我が流派のやり方である。
 太刀を一つだけ持つよりも、二つ持つ場合の長所は、多勢と一人で戦う時、また取籠り者〔屋内籠城者〕などの時に、利点がある。
 このようなことは、ここで委しく書きあらわすに及ばない。一をもって万を知るべし。兵法の道に習熟すれば、分からないということは一つもない。よくよく吟味あるべきである。

 

  8 太刀の徳
【原 文】

一 兵法二の字の利を知事。(1)
此道におゐて、太刀を振得たるものを、
兵法者と世に云傳たり。武藝の道に至て、
弓を能射れば、射手と云、
鉄炮を得たる者ハ、鉄炮打と云、
鑓をつかひ得てハ、鑓つかひと云、
長刀を覚てハ、長刀つかひと云。
然におゐてハ、太刀の道を覚へたるものを、
太刀つかひ、脇指つかひといはん事也。
弓鉄炮、鑓長刀、皆是武家の道具なれば、
何も兵法の道也。然ども、
太刀よりして、兵法と云事、道理也。
太刀の徳よりして、
世を治、身をおさむる事なれば、
太刀ハ兵法のおこる所也。
太刀の徳を得てハ、一人して十人に必勝事也。
一人して十人に勝なれば、
百人して千人に勝、千人して万人に勝。
然によつて、我一流の兵法に、
一人も万人もおなじ事にして、
武士の法を残らず、兵法と云所也。

道におゐて、儒者、佛者、
数奇者、しつけ者、乱舞者、
これらの事ハ、武士の道にてハなし。
其道にあらざるといへども、
道を廣くしれば、物ごとに出合事也。
いづれも、人間におゐて、
我道々を能ミがく事、肝要也。(2)

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【現代語訳】

一 兵法という二字のわけを知る事
 この兵法の道において、太刀を(上手に)振れる者を、「兵法者」と世に言い伝えてきた。
 武芸の道に上達して、弓をよく射れば射手と云い、鉄炮を修得した者は鉄炮打ちと云い、鑓をつかえれば鑓つかいと云い、長刀を覚えたばあいは長刀つかいと云う。
 そうであるのに、太刀の道を覚えた者を、太刀つかい、脇差つかいとは云わないのである。(――それはなぜか?)
 弓・鉄炮、鑓・長刀は、すべてこれ武家の道具であるから、何れも兵法の道である。けれども、太刀によって、「兵法」というのは道理である。(なぜならば)太刀の徳〔効能〕によって、世を治め身を治めるのであるから、太刀は兵法の起こるところなのである。
 太刀の徳を得れば、一人で十人に必ず勝つのである。一人で十人に勝てば、百人で千人に勝ち、千人で万人に勝つ。
 しかるによって、我が流派の兵法においては、一人も万人も同じ事であり、それが、武士の法を残らず「兵法」という所以である。

 (それぞれ)道において、儒者・仏者・数寄者(茶匠)・礼法者・乱舞者(舞踏家)の道があるが、これらの事は武士の道ではない。(しかしこれが)その道(武士の道)ではないとはいえ、道を広く知れば、どんなことにでも対応できるのである。
 どの道であれ、人間〔じんかん、世の中〕において、自分のそれぞれの道をよくみがくこと、これが肝要である。

 

 9 武器を使い分ける
【原 文】

一 兵法に武具の利を知と云事。
武具の利をわきまゆるに、何れの道具にても、
おりにふれ、時にしたがひ、出合もの也。(1)
脇指は、座のせばき所、
敵のミぎハへよりて、其利多し。
太刀ハ、何れの所にても、大かた出合利有。
長刀ハ、戦場にてハ鑓におとる心あり。
鑓ハ先手也、長刀ハ後手也。
おなじ位のまなびにしてハ、鑓は少強し。
鑓長刀も、事により、
つまりたる所にてハ、其利すくなし。
とり籠りものなどに然るべからず。
只戦場の道具なるべし。
合戦の場にしてハ、肝要の道具也。
されども、座敷にての利を覚へ、
こまやかに思ひ、実の道を忘るゝにおゐてハ、
出合がたかるべし。(2)
弓ハ、合戦の場にて、かけひきにも出合、
鑓わき、其外ものきハ/\にて、
早く取合する物なれば、
野相の合戦などに、とりわき能物也。
城責など、又敵相二十間を越てハ、
不足なるもの也。
當世におゐてハ、弓は申に及ばず、
諸藝花多して、実すくなし。
左様の藝能は、肝要の時、役に立難し。(3)
城郭の内にしてハ、鉄炮にしく事なし。
野相などにても、
合戦のはじまらぬうちにハ、其利多し。
戦はじまりてハ、不足なるべし。
弓の一徳は、はなつ矢、
人の目に見へてよし。
鉄炮の玉ハ、目にみヘざる所不足なり。
此儀、能々吟味あるべき事(也*)。(4)
馬の事、強くこたへて、くせなき事、肝要也。
惣而、武道具につけ、馬も大かたにありき、
刀脇差も大かたにきれ、鑓長刀も大方にとをり、
弓鉄炮もつよくそこねざる様に有べし。
道具以下にも、かたわけてすく事あるべからず。
あまりたる事ハ、たらぬとおなじ事也。
人まねをせずとも、我身にしたがひ、
武道具は、手にあふやうに有べし。
将卒ともに、物にすき、物を嫌ふ事、悪し。
工夫肝要也。(5)
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【現代語訳】

一 兵法において武具の利を知るという事
 武具の利点をわきまえると、どんな道具でも、折にふれ、時にしたがい、役立つものである。
 脇差は、狭い場所にいるとき、敵のすぐ側に近寄ったとき利点が多い。太刀はどんな場所でも、だいたい役に立つという利点がある。
 長刀〔なぎなた〕は、戦場では鑓〔やり〕に劣る感じがある。鑓は先手であり、長刀は後手である。同じ程度の腕前では、鑓の方が少し強い。
 鑓・長刀も(長いので)場合により、窮屈な所では利点が少ない。取籠り者〔屋内籠城者〕などの場合にも使えない。ただ戦場だけの武器である。合戦の場では重要な武器である。
 けれども、座敷〔屋内〕での使用法を覚え、細々したことにとらわれて、本当の方法を忘れたりすると、(実戦では)役に立たないことになる。
 弓は、合戦の場でかけ引きにも使えるし、鑓脇〔やりわき〕、そのほか、さまざまな物〔道具武器〕のそばで、手早く手に取って支援するものだから、野相〔のあい・野原での対戦〕の合戦などに特によろしい。(ただし)城攻めなど、または敵との距離が二十間〔三六m〕を越えては、あまり役に立たないものである。
 最近では、弓は申すに及ばず、諸武芸は、花多くして実が少ない。そのような芸能〔武芸〕は、肝要の時には役に立たない。
 城郭の内にあるときは、鉄砲以上のものはない。野相〔野原での対戦〕などでも、合戦の始まらぬ内はその利点が多い。しかし、戦闘が既に始まった後では、あまり役に立たないであろう。
 弓の一つの長所は、放つ矢が人の目に見えて、(それが)よいのである。鉄砲の玉は目に見えないところがよくない。このことは、よくよく吟味してみるべきこと(である)。
 騎馬のことでは、馬は、強く反応して癖のないことが肝要である。総じて戦闘の道具について言えば、馬も程ほどに歩いてくれ、刀や脇差も程ほどに切れ、鑓長刀も程ほどに射通せればよく、弓や鉄砲も強い破壊力などなくてよい。
 道具全般のことだが、(特定の道具を)偏って愛好することがあってはならない。過剰は不足と同じ事である。人真似などせずに、武器は自分の身に応じた使い勝手がよいものであるべきだ。
 武将・士卒ともに、物に好き嫌いがあるのはよくない。(この点は)工夫が肝要である。

 

 10 拍子ということ
【原 文】

一 兵法の拍子の事。
物ごとにつき、拍子ハ有ものなれども、
取わき兵法の拍子、
鍛練なくしてハ、及がたき所也。
世の中の拍子、顕て有事、
乱舞の道、伶人管弦の拍子など、
是皆よくあふ所のろくなる拍子也。
武藝の道にわたつて、弓を射、鉄炮を放し、
馬に乗事迄も、拍子調子ハ有、
諸藝諸能に至ても、拍子を背事ハ有べからず。
又、空なる事におゐても、拍子ハあり、
武士の身の上にして、
奉公に身をしあぐる拍子、しさぐる拍子、
はずの相拍子、はずのちがふ拍子有。
或ハ、商の道、
分限になる拍子、分限にても其絶拍子、
道々につけて、拍子の相違有事也。
物毎、さかゆる拍子、おとろふる拍子、
能々分別すべし。(1)
兵法の拍子におゐて、さま/\有事也。
先、あふ拍子をしつて、ちがふ拍子をわきまへ、
大小遅速の拍子のうちにも、
あたる拍子をしり、間の拍子をしり、
背く拍子をしる事、兵法の専也。
此背く拍子、わきまへ得ずしてハ、
兵法たしかならざる事也。
兵法の戦に、其敵々の拍子をしり、
敵の思ひよらざる拍子を以て、空の拍子をしり、
知恵の拍子より発して勝所也。
いづれの巻にも、拍子の事を専書記す也。
其書付を吟味して、能々鍛錬有べきもの也。(2)

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【現代語訳】

一 兵法の拍子の事
 どんな物事にも拍子はあるものだが、とりわけ兵法の拍子は、鍛練なくしては及びがたいところである。
 世の中の拍子で(よく)顕われているのは、乱舞〔能舞》の道や伶人管弦〔雅楽》の拍子など、これらはすべて、よく調和したろく*な拍子である。
 武芸の道では全般に、弓を射たり鉄炮を発したり、馬に乗ることまでも、拍子・調子があり、さまざまな芸能〔武芸〕に至っても、拍子に背くことはあるべきではない。
 また、空なる事〔人の境遇》においても拍子はあり、武士の身の上では、奉公に身を仕上げる拍子、反対に仕下げる拍子、はず〔筈〕の合う拍子、はずの合わない拍子がある。あるいは商売の道では、分限〔金持〕になる拍子、分限であってもその家が絶える拍子、(人生の)道それぞれについて、拍子の相違がある。
 (そのように)どんなことでも、栄える拍子、衰える拍子がある。それをよくよく分別すべきである。
 兵法の拍子には、さまざまな拍子がある。まず、合う拍子を知って、合わない拍子をわきまえ、大きい小さい、遲い速いの拍子の中にも、当る拍子を知り、間の拍子を知り、背く拍子を知ること、それが兵法の専〔せん〕である。
 この背く拍子をわきまえることができないようでは、兵法は確実なものにならない。兵法の戦いに(あっては)、その敵それぞれの拍子を知り、敵の予期しない拍子をもって、空の拍子を知り、智恵の拍子から発して勝つのである。
 (本書の)どの巻にも、拍子のことを、専ら書き記してある。その書かれていることを吟味をして、よくよく鍛練あるべきである。

 

 11 地之巻 後書
【原 文】

右、一流の兵法の道、
(朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、
おのづから廣き心になつて*)
多分一分の兵法として、世に傳る所、
始て書顕す事、地水火風空、是五巻也。(1)
我兵法を学んと思ふ人ハ、道をおこなふ法あり。
第一に、よこしまになき事をおもふ所。
第二に、道の鍛錬する所。
第三に、諸藝にさハる所。
第四に、諸職の道を知事。
第五に、物毎の損徳をわきまゆる事。
第六に、諸事目利をしおぼゆる事。
第七に、目にみヘぬ所をさとつて知事。
第八に、わずかなる事にも気を付る事。
第九に、役に立ぬ事をせざる事。
大かた、かくのごとくの利を心にかけて、
兵法の道鍛練すべき也。(2)
此道にかぎつて、直なる所を、廣く見立ざれば、
兵法の達者とはなりがたし。
(朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、
おのづから廣き心になつて*)
此法を学び得てハ、一身にして、
二十三十の敵にもまくべき道にあらず。
先、氣に兵法をたへさず、直なる道を勤てハ、
手にてうち勝、目にみる事も人に勝、
又、鍛練を以て、惣躰自由なれば、
身にても人に勝、又、
此道になれたる心なれば、
心を以ても人に勝。此所に至てハ、
いかにとして、人に負道あらんや。(3)
又、大なる兵法にしてハ、
善人をもつ事に勝、人数をつかふ事に勝、
身をたゞしくおこなふ道に勝、
国をおさむる事に勝、民をやしなふ事に勝、
世のれいほうをおこなふ(事)に*勝。
いづれの道におゐても、人にまけざる所をしりて、
身をたすけ、名をたすくる所、
是兵法の道也。(4)
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【現代語訳】

 以上、我が流派の兵法の道を、(朝に夕に修行することによって、おのづから広い心になって*)多分一分〔たぶんいちぶん〕の兵法として世に伝えるところを、初めて書きあらわす。それが地水火風空のこの五巻である。
 我が兵法を学ばんと思う人には、道を行う法〔規則〕がある。
 第一に、思いをまっすぐにするところ。第二に、(兵法の)道を鍛練するところ。第三に、(一芸だけではなく)さまざまな武芸を経験するところ。第四に、さまざまな職業の道を知ること。第五に、どんな事であれ得失をわきまえること。第六に、諸事に目が利くように訓練すること。第七に、目に見えぬところを悟って知ること。第八に、些細な事にも気をつけること。第九に、役に立たぬことをしないこと。
 だいたい、このようなことを心にかけて、兵法の道を鍛練すべきである。
 とくにこの道〔兵法の道〕においては、真っ直ぐなところを広く見立てることがなければ、兵法の達者とはなりがたい。(朝に夕に修行することによって、おのづから広い心になって*)この方法を会得できれば、たった一人でも、二十人、三十人の敵にも負けるものではない。
 まず、気持に兵法を絶やさず、真っ直ぐな道を修行すれば、手で打ち勝ち、目に見る事も人に勝つ。また鍛練によって全身が自由になれば、身体においても人に勝つ。またこの道に習熟した心であれば、心をもってしても人に勝つ。ここに至っては、どうして人に負けることがあろうか。
 また、大きな兵法〔合戦〕のばあいは、よき人〔有能な人材〕を持つ事において勝ち、人数〔軍勢〕を使う事において勝ち、身を正しく行う事〔修身〕において勝つ。国を治める事〔政治〕において勝ち、民を養う事〔経済〕において勝ち、世の例法を行う事〔法律施行〕において勝つ。
 何れの道においても、人に負けないところを知って、身を助け名を助ける*ところ、これが兵法の道である。