佐賀の八賢人ー1 | 覚書き

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佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)は、江戸時代末期(幕末)から明治維新にかけて活躍し、その後も功績を残した、佐賀藩(今の佐賀県)出身の七人、鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信の総称である[1]。

これらの人物は明治時代頃から顕彰されていたものの、「七賢人」と総称されるようになったのは昭和56年(1981年)ごろからであるという[2]。佐賀県においては一定の知名度を持ち、2017年10月に佐賀新聞が行った調査では、10.2%の回答者が7人全員の名前を答えられたのに対し、25.4%の回答者は1人も答えられなかった[2]。

七賢人の略歴
並びは出生順。

    
鍋島直正(閑叟)
1814年(文化11年)に佐賀藩九代藩主鍋島斉直の子として、江戸に生まれる。1830年(天保元年)に佐賀藩の第十代藩主となる。武雄領主鍋島茂義の影響を受け開明政策を採用し、1834年(天保5年)に佐賀城下に医学館を建てる(この後、公立佐賀病院の名称を経て、好生館と名を変え、今の佐賀県立病院好生館の原型となっている)。1850年(嘉永3年)に今の佐賀市に反射炉を建てる。明治維新後は議定に就任し大納言の位を受ける。1869年(明治2年)に開拓長官となるが任地に赴くことなく1871年(明治4年)に死去。
    
佐野常民
1822年(文政5年)に今の佐賀市川副町に生まれる。1855年(安政2年)に日本初の蒸気機関車模型を完成させる。1867年(慶応3年)にパリ万博にて赤十字について知る。1877年(明治10年)に大給恒らと博愛社を創設。1880年(明治13年)に大蔵卿に就任。1887年(明治20年)に博愛社を日本赤十字社と改める。1902年(明治35年)に死去。
    
島義勇
1822年(文政5年)に今の佐賀市に生まれる。1856年(安政3年)〜1857年(安政4年)に北海道と樺太を探検・調査。1869年(明治2年)に北海道開拓使主席判官に就任し、札幌のまちづくりの指揮をとる。1871年(明治4年)に秋田県令(現在の秋田県知事)に就任。1874年(明治7年)に佐賀の乱で敗れ、刑死。
    
副島種臣
1828年(文政11年)に今の佐賀市に生まれる。1869年(明治2年)に参議、1871年(明治4年)に外務卿、1892年(明治25年)に内務大臣に就任。1905年(明治38年)に死去。現在の、佐賀新聞の題字は本人によるもの。
    
大木喬任
1832年(天保3年)に今の佐賀市水ケ江に生まれる。1868年(明治元年)に東京府知事、1871年(明治4年)に初代文部卿、1873年(明治6年)に参議、司法卿、1880年(明治13年)に元老院議長に就任。1899年(明治32年)に死去。
    
江藤新平
1834年(天保5年)に佐賀郡八戸村(今の佐賀市八戸町)に生まれる。1871年(明治4年)に廃藩置県を行う。1872年(明治5年)に司法卿、1873年(明治6年)には参議に就任。1874年(明治7年)佐賀の乱で敗れ、刑死。
    
大隈重信
1838年(天保9年)、今の佐賀市水ケ江に生まれる。1870年(明治3年)、参議、1873年(明治6年)、参議兼大蔵卿になる。1882年(明治15年)3月、立憲改進党結成。同年10月、東京専門学校(現在の早稲田大学)を開校。1888年(明治21年)、外務大臣、1898年(明治31年)、内閣総理大臣(第1次大隈内閣)。1914年(大正3年)、2度目の内閣総理大臣(第2次大隈内閣)。1922年(大正11年)に死去、国民葬。
「佐賀の八賢人」
「佐賀の七賢人」に、副島の実兄の枝吉神陽を加えて「八賢人」とされることもある[3][1]。

    
枝吉神陽
1822年(文政5年)に今の佐賀市に生まれる。副島種臣は実弟。1850年(嘉永3年)に「義祭同盟」を結成し、尊王運動を展開。「義祭同盟」は副島種臣のほか大隈重信・江藤新平・大木喬任・島義勇に影響を与えた。1863年(文久3年)に死去。
 

・鍋島 直正

(なべしま なおまさ、文化11年12月7日〈1815年1月16日〉- 明治4年1月18日〈1871年3月8日〉)は、江戸時代末期の大名。肥前佐賀藩10代藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘・幸。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の諱は斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。

経歴
文政10年(1817年)、将軍・徳川家斉から松平姓を与えられた[1]。天保元年(1830年)、父・鍋島斉直の隠居を受け17歳で第10代藩主に襲封。将軍・家斉の偏諱を与えられ斉正と名乗る。当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。斉正自身が江戸藩邸を佐賀に向けて出発するやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、斉正の行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験をしている。

斉正は、襲封するとともに藩政改革に乗り出したが、当初は江戸にいた前藩主・斉直とその取り巻きら保守勢力の顔を窺わねばならないことが多く、実行できた改革は倹約令の発令がせいぜいであった。しかし天保6年(1835年)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼するという危機にあたり、荒廃していた佐賀城本丸に御殿を移転・新築させる佐賀城再建を、斉直の干渉を押し切って実行した。

これを皮切りに、役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また、藩校の弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。

さらに長崎警備の強化を掲げるも、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置して反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。高島秋帆の西洋砲術に多大な関心を寄せるが、守旧派重臣の反対や幕府に睨まれるといった懸念があったため、義兄で武雄領主の鍋島茂義に先導させてその導入に励んだ。

その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関・蒸気船(凌風丸)までも完成させることにつながっている(それらの技術は母方の従兄にあたる島津斉彬にも提供されている)[2]。

また、当時不治の病であった天然痘を根絶するために、当時佐賀藩医であった伊東玄朴が藩に痘苗の入手を進言した。藩は長崎出島のオランダ商館長に牛痘苗の入手を依頼した。出島の医師オットー・ゴットリープ・モーニッケがバタヴィアから牛痘苗を入手し、1848年6月に長崎にて種痘が施され、その一部が善感した。

この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播する。長崎の唐通事・頴川四郎八から京都に送られた痘苗によって、同年10月、笠原良策とその師である日野鼎哉が京都に、京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月大坂に、「除痘館」という種痘所をそれぞれ開設した。 一方、佐賀藩では、7月に長崎で佐賀藩医の楢林宗建の息子に接種、善感した。8月には楢林によって佐賀藩領にもたらされ、斉正の長男の淳一郎にも施された。同時期に種痘事業を担当する引痘方が設けられ、医師の出張・宿泊費を藩が支給し無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に医業免札を発行する制度が導入された。10月に佐賀藩江戸藩邸に送られた痘苗から、牛痘法は関東以北の各地に広がることになる。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが来航し、江戸幕府老中の阿部正弘が各大名に意見を募った時、斉正はアメリカの武力外交に対して強く攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供し、正弘より信頼を得た。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を知っており、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。

文久元年(1861年)、48歳で隠居。家督を長男・直大に譲って閑叟と号した。

文久2年(1862年)12月25日、上京した閑叟は関白・近衛忠煕に面会し、京都守護職への任命を要請している。この時に閑叟は「長崎警備は他大名でも担当できるが、大阪・京都の警備には実力が必要であり、私であれば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の警備を打ち破れる」旨の発言をしている。この件は他に薩摩藩などからの守護職要請もあり立ち消えとなった[3]。


鍋島直正
質素倹約と経営手腕を商人たちに「そろばん大名」と呼ばれた。『葉隠』に表される保守的な風土にありながら、当時は医者の学問と侮蔑されていた蘭学を「蘭癖大名」と呼ばれるまでに熱心に学んだ。他藩が近代化と財政難の板挟みで苦しむ中、財政再建と軍備の近代化に成功したが、盟友であった阿部正弘が没した後の、激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒された。参預会議や小御所会議などでの発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、政治力・軍事力ともに発揮できなかったことから、藩内における犠牲者を出さずに済んだ。

鳥羽・伏見の戦いの際には、上京中で藩主も家老も京都に不在だったため、薩摩藩からは佐賀征伐を主張する声が挙がったが、薩長(薩摩藩・長州藩)側が勝利に終わって以降は上京した佐賀藩も新政府軍に参加した。戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。明治政府が近代化を推し進める上で、斉正が育てた人材の活躍は大きく(佐賀の七賢人と田中久重の項も参照の事)、直正自身も議定に就任する。これらにより、討幕運動には不熱心であった佐賀藩であったが、薩長土肥の一角を担うこととなった。明治元年(1868年)に直正と改名した。

廃藩置県に知藩事(大政奉還後の藩主)として最初に賛同したほか、明治2年(1869年)6月6日、蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、7月13日には初代開拓長官に就任したが、蝦夷地へ赴任することなく、8月16日に岩倉具視と同じ大納言に転任した。財政基盤が弱かった新政府に代わり、旧幕府軍との戦いの褒賞を割って開拓費用に当て、諸藩に先んじて佐賀藩の民を移住させたほか、満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言するなど、以後50年先に待ち受ける、外交、食料、資源などの問題を見通していた。

明治4年(1871年)1月18日、藩邸にて病没。享年58。23日に正二位が贈位された[4]。葬儀を取り仕切った家臣の古川与一(松根)が殉死した[5]。

直正が明治維新が始まってから間もなくに世を去ったことも、肥前勢力が中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなった一因でもある。直正の残した人材は、明治六年政変(征韓論政変)による江藤新平・副島種臣の下野や、続いて発生した佐賀の乱により、明治政府において直正の構想を十分に実現するまでには至らなかったとはいえ、日本が近代化していく中で極めて大きな役割を果たしていくことになった。島津斉彬に並びうる数少ない幕末期の名君とする評もある[6]。

年表
※日付=旧暦

1827年(文政10年)12月22日、将軍・徳川家斉の名一字を賜り、斉正と諱を定め、従四位下信濃守に叙任。
1828年(文政11年)12月26日、侍従に任ぜられ、信濃守を兼任する。
1830年(天保元年)
2月7日、家督を相続し、肥前佐賀藩主となる。
12月23日、信濃守から肥前守に任替となる。
1835年(天保6年)12月16日、左近衛権少将に転任し、肥前守を兼任する。
1859年(安政6年)12月16日、左近衛権中将に転任し、肥前守を兼任する。
1861年(文久元年)11月20日、隠居し、閑叟を号する。
1864年(元治元年)4月17日、参議に補任されるも固辞する。
1868年(慶応4年)
3月1日、明治維新政府の議定に就任。
3月2日、軍防事務局輔を兼任。
3月9日、軍防事務局輔の兼任から制度事務局輔に兼任替えとなる。
3月14日、諱を直正と改める。
閏4月22日、従二位に昇叙し、権中納言に転任する。
1869年(明治2年)
4月13日、行政官機務取扱を兼任。
5月3日、待詔院上局議長を兼任。
5月7日、待詔院上局議長の兼任を止め、制度寮総裁を兼任。
5月18日、制度寮廃止に伴い、同寮総裁の兼任を解く。
6月4日、蝦夷開拓督務を兼任。
7月3日、議定を辞任。
7月13日、蝦夷開拓督務から組織替えにより開拓長官に就任。
8月6日、開拓長官から大納言に転任。
1870年(明治3年)8月1日、病気に罹り、大納言を辞す。
1871年(明治4年)
1月18日、薨去。
1月23日、正二位を贈位。
1873年(明治6年)、鍋島家代々の先祖霊を祀る松原神社に南殿を新たに造営し、直正の霊を奉斎する。
1900年(明治33年)3月6日、追贈従一位。
1933年(昭和8年)、佐嘉神社造営に伴い、主祭神として直正の霊を遷座する。
(参考文献)鍋島直正公伝、幕末明治重職補任附諸藩一覧、内閣文庫蔵諸侯年表

人物・逸話
岩倉具視は鍋島閑叟と会い、のちに「松平春嶽・山内容堂と較べて意外にも傑物だった。大名としては珍しく寛容で、誰にも親しみを感じさせ、議論にも気力があった。惜しむらくは病身だったことだ」と、久米邦武に感想を漏らしている(『久米博士九十年回顧録』)[7]。
イギリス外交官であるアーネスト・サトウは「一般に二股膏薬さんと呼ばれていた老人」と皮肉っている(『一外交官の見た明治維新』)[7]。サトウは「松平閑叟は四十七歳だが、年よりも老けていた。顔つきがきつくて、たえず両眼をしばたたかせながら、時々思い出したように、ぶっきら棒な調子でしゃべった」とも述べている[8]。
大隈重信は「閑叟は成すべからざるときは大いにその力を使い、成すべきときはその力を用いざるものなり」と批判している(円城寺清の『大隈伯昔日譚』)[7]。
大隈は閑叟と対立して処罰されており、それ故かなり誇大に批判している可能性もある。確かに閑叟は親幕的な行動を取りつつも幕府と一定の距離を保ち、明治維新まで佐賀藩が主導権を握れなかった一因になった。だが、そのために佐賀藩では他藩のような騒動はほとんど起こらず平和が保たれている。また、藩政改革における閑叟の人材育成と登用、西洋化軍隊の育成などは高く評価されている。なお、反射炉を日本で最初に築いたのは閑叟である。戊辰戦争では佐賀藩兵40名ほどが他藩の1000名に匹敵するとまで評されており、佐賀藩の西洋化軍隊の強さを窺わせるものである(『鍋島直正公伝』)[7]。
徳川慶喜は後年、聞き書きの回顧録『昔夢会筆記』で、直正を「俗に言ったらこすい人、善く言えば利口才子という人だ。」[9]と評している。
系譜
父:鍋島斉直(1780–1839)
母:幸、姚、浄諦院 - 池田治道の次女
正室:盛姫(1811–1846)、孝盛院 - 徳川家斉の十八女
継室:筆姫(1830–1886) - 徳川斉匡の十九女
側室:勇 - 山本頼展の娘
女子:貢 - 松平直侯正室
側室:濱(瀧村) - 鍋島茂郷の娘
長男:鍋島直大(1846–1921)
女子:幸子 - 池田輝知正室
側室:浅岡 - 村松矩欽の娘
五女:宏子 - 細川護久正室
七男:鍋島直虎(1856–1925) - 鍋島直亮の養子
八男:鍋島直柔(1858–1910) - 鍋島直紀の養子
養子
女子:結子 - 鍋島直亮室、鍋島直永の娘
女子:藹子 - 鍋島直彬室、鍋島直与の娘
女子:易子 - 鍋島直紀室、鍋島直永の娘
女子:今子 - 鍋島茂生室、鍋島直孝の娘
女子:綱子 - 宗重正室、鍋島直与の娘
顕彰

佐賀城公園鯱の門北側の銅像
明治末期、閑叟の功績を顕彰しようとする動きがあり、大隈重信を委員長として銅像の建設委員会が設立された。主に佐賀県出身者から5,000件を超える寄付を集め、誕生から100年を記念して1913年(大正2年)11月10日、佐賀市松原の松原神社と佐賀中央郵便局の間の広場に建立された[10][11]。なお、同時に隣には閑叟に使えた国学者・佐賀藩士の古川松根の銅像も建立された。銅像の周りの広場は公園が整備され、「銅像園」と呼ばれるようになった。銅像西側に博物館「徴古館」、北側に「佐賀図書館」が建設されたほか、1933年(昭和8年)には閑叟を祭神とする佐嘉神社が銅像と松原神社の間に建立されるなど、佐賀県の中心的な文教地区となった[11]。しかし、太平洋戦争中に金属類回収令が出されると、1943年(昭和18年)2月1日に銅像に付属する金物が、1944年(昭和19年)5月21日には銅像本体が供出され、失われてしまった[10][11]。なお、台座は小城市牛津公民館(旧牛津町役場)の東側に移され、英霊碑の台座として保存されている[12]。

終戦後、再建の動きはあったものの、長く実現しなかった。誕生200年を迎えた2014年(平成26年)、再建委員会が設立されると、約1700件・総額約1億4000万円と、目標1億円を上回る募金が集まる。初代銅像の供出から約73年を経た2017年(平成29年)、佐賀城鯱の門北側の広場に2代目の銅像が建立され、3月4日に除幕式が行われた。銅像本体の高さは約4mで初代と同じ衣冠束帯姿、台座を含めた全高は約8.5m。台座は直正の命で建設された築地反射炉をモチーフとしてデザインされ、台座正面の「鍋島直正公」の揮毫は先祖が佐賀藩とゆかりの深い張富士夫が執った[13][14]。


・佐野 常民
(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年(明治35年)12月7日)は、明治期の日本の政治家[1]。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。栄典は正二位勲一等伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。

経歴
1823年(文政6年)、 佐賀藩士下村三郎左衛門(充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村 現・佐賀市)に生まれる。幼名は鱗三郎。1831年(天保2年)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主・鍋島斉直から栄寿の名を授かった。佐賀藩校・弘道館に学び、1837年(天保8年)には養父のいる江戸へ遊学、古賀侗庵に学ぶ。

1839年(天保10年)、佐賀に帰り、弘道館で考証学を、松尾塾で外科術を学ぶ。1842年(天保13年)、佐野家の養女・駒子と結婚する。1846年(弘化3年)、京都で広瀬元恭の時習堂に入門し、1848年(嘉永元年)には大坂の緒方洪庵の適塾で学び、さらに紀伊国で華岡青洲が開いた春林軒塾に入門する。適塾では大村益次郎ら明治維新で活躍する多くの人材と知遇を得る。

幕末動乱
1849年(嘉永2年)、江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる。江戸では戸塚静海にも学んでいる。この頃に勤皇運動に傾倒。藩の知るところとなり、急遽佐賀に戻るよう命じられている。1851年(嘉永4年)、長崎に移り、家塾を開く。1853年(嘉永6年)、佐賀に帰り、佐賀藩の精煉方頭人となり、藩主・鍋島直正から「栄寿左衛門」の名を授かる。佐賀藩の精煉方に田中久重親子や石黒寛次らを推薦する[2]。1855年(安政2年)6月に長崎の海軍予備伝習に参加する。同年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設し、佐賀藩から常民ら四十八名が第一期生として参加する。この頃に藩主・鍋島直正へ海軍創設の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となる。1857年(安政4年)、佐賀藩がオランダから購入した飛雲丸の船将となり、翌1858年(安政5年)、三重津海軍所の監督となる。1863年(文久3年)、三重津海軍所で幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する。1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に参加し、その万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し、オランダに行き、日進の建造を発注する。西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察して翌1868年(明治元年)に帰国。

明治
1870年(明治3年)3月~10月までの8か月間、兵部少丞に就任し、日本海軍の基礎創りに尽力する。しかし、増田明道ら他の海軍担当官との関係は良好とは言い難く、佐野の奮闘は空回りでしかなかった。罷免についても同僚の船越衛は同情している。1871年(明治4年)、民部省灯明台掛を受け継いだ工部省において燈台頭に就任し、洋式燈台の建設指揮にあたる(同時に工部大丞にも就任)。1872年(明治5年)、博覧会御用掛に就任し、日本の産業の近代化をめざすべく、同年3月に初の官設博覧会を湯島聖堂で開催する(湯島聖堂博覧会)。1873年(明治6年)、ウィーン万国博覧会事務副総裁に就任して、ウィーン万博に派遣される。博覧会を通じて日本の近代化に貢献し、「博覧会男」の異名を得る。通訳はアレクサンダー・フォン・シーボルトが努めた。


有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民
1875年(明治8年)、元老院議官となる。1877年(明治10年)2月に西南戦争が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の知識を元に、「博愛社設立請願書」を政府に提出するが不許可となり、5月に熊本で有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得る。博愛社総長に東伏見宮嘉彰親王が就任。

「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」を参照
1878年(明治11年)、大給恒らと博愛社の総副長となる。1879年(明治12年)、日本美術の海外流出を防ぐために、龍池会(後の日本美術協会)と呼ばれる美術団体を発足し、会頭に就任する。亡くなるまで会長を務め、芸術家の保護と育成に力を尽くす。同年10月には中央衛生会会長に就任する。1880年(明治13年)、大蔵卿に就任するが、翌年の政変で辞任する。

1888年(明治21年)、枢密顧問官に就任する。7月、磐梯山噴火の救援活動を行う。 1882年(明治15年)、元老院議長に就任する。1883年(明治16年)、大日本私立衛生会(後の日本衛生会→日本公衆衛生協会)が発足し、会頭に就任する。1886年(明治19年)、東京飯田町に博愛社病院を開設する。


正会員認定証(1902年)
1887年(明治20年)、博愛社を日本赤十字社と改称し、初代社長に就任する。子爵。9月、日本赤十字社が国際赤十字に加盟する。12月、日本美術協会会頭に就任する。1892年(明治25年)、第1次松方内閣で農商務大臣に就任する。1894年(明治27年)の日清戦争や、1900年(明治33年)の義和団の乱で日本赤十字社は、戦時救護活動を行う。1895年(明治28年)、伯爵に陞爵。


伯爵佐野常民之墓
1902年(明治35年)、東京の自宅で死去、79歳。死に際して勲一等旭日桐花大綬章が贈られる。墓所は青山墓地。

栄典
位階
1871年(明治4年)
5月9日 - 正七位[3]
12月18日 - 従五位[3]
1872年(明治5年)10月8日 - 正五位[3]
1875年(明治8年)12月28日 - 従四位[3]
1880年(明治13年)5月24日 - 正四位[3]
1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[3][4]
1888年(明治21年)10月20日 - 正三位[3]
1895年(明治28年)12月20日 - 従二位[3][5]
1902年(明治35年)12月7日 - 正二位[3][6]
勲章等
1878年(明治11年)6月28日 - 勲二等旭日重光章[3]
1882年(明治15年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章[3][7]
1887年(明治20年)5月24日 - 子爵[3][8]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[3][9]
1891年(明治24年)3月30日 - 御紋付御盃[3]
1895年(明治28年)
10月31日 - 伯爵[3][10]
11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[11]
1901年(明治34年)2月4日 - 御紋付御盃[3]
1902年(明治35年)12月7日 - 旭日桐花大綬章[3][6]
日本赤十字社名誉社員章
外国勲章佩用允許
1877年(明治10年)12月24日
オーストリア=ハンガリー帝国フランツヨーゼフヨルデン大十字型勲章[3]
ザクセン王国第一等コムツールクロイツアルブレクトヨルデン勲章[3]
記念館
佐賀市川副町には「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」があり佐野常民に関する常設展示がある(2021年9月25日に「佐野常民記念館」からリニューアルオープン)[12]。

エピソード
常民は、明治時代に都を関東の内陸部に位置する本庄宿(中山道で最大の宿場町)へ遷都する案を提出するも周囲の賛同を得られず、断念している[要出典]。
親族
父:下村充贇 - 佐賀藩士
養父:佐野常徴 - 藩医
妻:佐野駒子 - 養父の娘
長男:常実 - 母は駒子。幼名源一郎。常民の随行者としてウィーン万国博覧会へ行ったことがあり、長じてドイツへ留学したが、1880年に留学先で没した[13]。
娘:粂千代 - 母は駒子。嫡子だった常実が早世したため、丹羽浅見家の浅見忠雄を粂千代の婿に迎え養嫡子・佐野常樹とする。
三男:佐野常羽
娘:田村貞子(1882年生) - 田村丕顕の妻。その孫にジャーナリストの岡村昭彦、演出家の岡村春彦。
妾:若井しま - 若井兼三郎の妹[14]。
妾:東海林春 - 仙台藩士東海林庄五郎の長女[15]。



・島 義勇

(しま よしたけ、文政5年9月12日[1](1822年10月26日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての佐賀藩士、明治政府官吏。札幌市の建設に着手し、「北海道開拓の父」と呼ばれる。佐賀の七賢人の一人。江藤新平と共に佐賀の乱を起こし刑死した。(現在では佐賀の八賢人とも呼ばれる。)

系譜
文政5年(1822年)、肥前国佐賀城下の精小路(現・佐賀県佐賀市与賀町の字・精)に、佐賀藩士・島市郎右衛門の長男として生まれる。通称は団右衛門、字は国華、楽斉、桜陰の号。母つね(旧姓木原)の実の姉妹にあたる喜勢は、枝吉神陽と副島種臣の母に当たる(つまり島義勇は枝吉神陽および副島種臣と従兄弟の関係に当たる)。

生涯
幕末期
文政13年(1830年)より藩校・弘道館で学ぶ。天保15年(1844年)に家督を継ぐと諸国を遊学し、佐藤一斎、藤田東湖、林桜園らに学ぶ。弘化4年(1847年)帰国して藩主・鍋島直正の外小姓、弘道館目付となる。嘉永3年(1850年)義祭同盟発会式に出席。安政3年~4年(1856年~1857年)に藩主・直正の命で、箱館奉行堀利煕の近習となり、蝦夷地(現在の北海道)と樺太を探検調査し、『入北記』という記録を残した。安政5年(1858年)に帰藩し、御蔵方、同組頭から香焼島守備隊長となる。慶応3年(1867年)に藩命で軍艦奉行、朝令で戊辰戦争における陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付となる。慶応4年(1868年)3月、佐賀藩の海軍軍監、ついで東上し、下野鎮圧軍大総督軍監となり、新政府の東北地方征討に従う。

北海道開拓
明治2年(1869年)に蝦夷地が北海道と改称され、6月6日に新政府において藩主・直正が蝦夷開拓督務となった。島は蝦夷地に通じているということで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月22日、開拓判官に就任した。直正から開拓使の長を引き継いだ東久世通禧以下の本府は、北海道で貿易港として早くから開けれていた道南の箱館にあったが、明治政府は北海道の中央部の札幌に新たな本府となる都市の建設を決定。島は同年10月12日、銭函(現・北海道小樽市銭函)に開拓使仮役所を白濱園松宅に開設し、南下して札幌に至り建設に着手する。当時の札幌は、アイヌのコタン(集落)と和人入植者の家が点在するほかは原野であったが、島は「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き[2]、京都市や故郷の佐賀などを念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした市街を目指して工事を進めた。島は数百人の職人・人足を率い、現地に暮らすアイヌの協力も得た。だが工事開始が冬場に当たり、米の輸送船が沈む危難にも見舞われ、掘っ立て小屋で犬を抱いて寝て寒さをしのぎ、食糧不足に耐えながら札幌建設に従事した[2]。

その年、明治天皇の詔により東京で北海道鎮座神祭が行われ、北海道開拓の守護神として開拓三神が鎮祭され、太政官訓令の中に、石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命ぜられた。そのため、島は北海道に渡る際、神祗官から開拓の三神を授けられ島は同年9月25日に函館に着き、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい、10月12日に銭函に到着後、札幌市内に仮宮殿を設けた。また、銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め、現在の札幌市北5条東1丁目に仮宮殿を設け開拓三神を祀り一の宮とした。厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要した。また、石狩や小樽など西部13群の場所請負人を呼びつけて請負人制度の廃止を通告した。すると函館から、制度名を「漁場持」と変えて制度自体は「従前通リ」とするよう通達が回ってきた。そして岩村通俊が制度廃止を時期尚早とし、開拓費用を彼ら請負人に負担させるべきという意見書を書き送っている。結局、鍋島直正の後任である開拓長官・東久世通禧とは予算をめぐり衝突した。明治3年(1870年)1月19日、島は志半ばで解任された。そして松浦武四郎が函館に赴任した。松浦は偶然に函館の料亭で、役人が漁場持に、島同様に松浦も罷免に追い込むと口約束しているのを耳にした。松浦は陰謀を非難して1250字に及ぶ辞表を東久世に突きつけた。

帰京後
島は同年3月25日に帰京すると、4月2日に大学少監に昇任。さらに侍従を務めた。こうした帰京後の昇進を見ても、開拓使における島の解任理由は、かつて通説だった札幌建設の費用が巨額にのぼったためではなく、上述の場所請負人が持っていた利権との衝突によるとする説が現在は有力である。事実、場所請負人たちは明治3年1月、東京の刑部卿にも島に対する苦情を送っており、資金不足に関しては開拓使長官の東久世も認識していた。[2]。

明治5年1月(1872年3月)に秋田県の初代権令(知事)となり八郎潟干拓施策を打ち出すが、同年6月(1872年7月)に退官となった。

明治7年(1874年)に郷里・佐賀において憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こすが敗れ、鹿児島まで逃亡。島津久光を頼り、大久保利通に助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられず、同年3月7日捕らえられ、4月13日に斬罪梟首となった。享年53。墓は佐賀市金立町の来迎寺にある。


島義勇の墓(佐賀市の来迎寺)
明治22年(1889年)、勅令第12号(「憲法ヲ発布スルニ当リ大赦ヲ行ハシムルノ件」または「大赦令」とも)により大赦となり、大正5年(1916年)4月11日、生前の勲功に対し従四位を贈られた。

銅像
島は3ヵ所に銅像が建てられている。佐賀城公園の像は藩命で蝦夷地調査に出発する場面、北海道神宮の像は開拓三神の神鏡(みかがみ)を背負って札幌入りする場面、札幌市役所の像は丘の上から原野を見渡して札幌建設を志す姿をそれぞれ描いている[2]。円山公園には顕彰碑「島判官紀功碑」がある。円山公園には岩村通俊の銅像もある。命日の4月13日には北海道神宮で北海道開拓と神宮創祀のその功績を偲び、「島判官慰霊祭」が毎年催されている。北海道神宮宮司らによる「開拓判官島義勇顕彰会」も組織されている[2]。

備考
円山公園の桜は、島義勇の従者であった福玉仙吉が、島の死後その鎮魂のために、明治8年(1875年)に札幌神社(北海道神宮の旧名)の参道に植えた150株の桜が始まりとなっている。
島義勇のことを親しみをこめ「判官さま」とも呼ばれる。また、北海道神宮境内の休憩所では、これにちなんだ六花亭の焼き菓子「判官さま」が販売されている。
毎年6月に挙行される北海道神宮例大祭では、日本武尊や素戔嗚尊などの祭神を祀る山車とともに、島の人形をあしらった山車「開府の判官 島義勇」が第3山鼻祭典区によって供奉されている。
札幌開拓の礎を築いた島義勇の歴史漫画『島義勇伝』[3]がある。

 

島 義勇(しま よしたけ、文政5年9月12日[1](1822年10月26日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての佐賀藩士、明治政府官吏。札幌市の建設に着手し、「北海道開拓の父」と呼ばれる。佐賀の七賢人の一人。江藤新平と共に佐賀の乱を起こし刑死した。(現在では佐賀の八賢人とも呼ばれる。)

系譜
文政5年(1822年)、肥前国佐賀城下の精小路(現・佐賀県佐賀市与賀町の字・精)に、佐賀藩士・島市郎右衛門の長男として生まれる。通称は団右衛門、字は国華、楽斉、桜陰の号。母つね(旧姓木原)の実の姉妹にあたる喜勢は、枝吉神陽と副島種臣の母に当たる(つまり島義勇は枝吉神陽および副島種臣と従兄弟の関係に当たる)。

生涯
幕末期
文政13年(1830年)より藩校・弘道館で学ぶ。天保15年(1844年)に家督を継ぐと諸国を遊学し、佐藤一斎、藤田東湖、林桜園らに学ぶ。弘化4年(1847年)帰国して藩主・鍋島直正の外小姓、弘道館目付となる。嘉永3年(1850年)義祭同盟発会式に出席。安政3年~4年(1856年~1857年)に藩主・直正の命で、箱館奉行堀利煕の近習となり、蝦夷地(現在の北海道)と樺太を探検調査し、『入北記』という記録を残した。安政5年(1858年)に帰藩し、御蔵方、同組頭から香焼島守備隊長となる。慶応3年(1867年)に藩命で軍艦奉行、朝令で戊辰戦争における陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付となる。慶応4年(1868年)3月、佐賀藩の海軍軍監、ついで東上し、下野鎮圧軍大総督軍監となり、新政府の東北地方征討に従う。

北海道開拓
明治2年(1869年)に蝦夷地が北海道と改称され、6月6日に新政府において藩主・直正が蝦夷開拓督務となった。島は蝦夷地に通じているということで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月22日、開拓判官に就任した。直正から開拓使の長を引き継いだ東久世通禧以下の本府は、北海道で貿易港として早くから開けれていた道南の箱館にあったが、明治政府は北海道の中央部の札幌に新たな本府となる都市の建設を決定。島は同年10月12日、銭函(現・北海道小樽市銭函)に開拓使仮役所を白濱園松宅に開設し、南下して札幌に至り建設に着手する。当時の札幌は、アイヌのコタン(集落)と和人入植者の家が点在するほかは原野であったが、島は「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き[2]、京都市や故郷の佐賀などを念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした市街を目指して工事を進めた。島は数百人の職人・人足を率い、現地に暮らすアイヌの協力も得た。だが工事開始が冬場に当たり、米の輸送船が沈む危難にも見舞われ、掘っ立て小屋で犬を抱いて寝て寒さをしのぎ、食糧不足に耐えながら札幌建設に従事した[2]。

その年、明治天皇の詔により東京で北海道鎮座神祭が行われ、北海道開拓の守護神として開拓三神が鎮祭され、太政官訓令の中に、石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命ぜられた。そのため、島は北海道に渡る際、神祗官から開拓の三神を授けられ島は同年9月25日に函館に着き、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい、10月12日に銭函に到着後、札幌市内に仮宮殿を設けた。また、銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め、現在の札幌市北5条東1丁目に仮宮殿を設け開拓三神を祀り一の宮とした。厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要した。また、石狩や小樽など西部13群の場所請負人を呼びつけて請負人制度の廃止を通告した。すると函館から、制度名を「漁場持」と変えて制度自体は「従前通リ」とするよう通達が回ってきた。そして岩村通俊が制度廃止を時期尚早とし、開拓費用を彼ら請負人に負担させるべきという意見書を書き送っている。結局、鍋島直正の後任である開拓長官・東久世通禧とは予算をめぐり衝突した。明治3年(1870年)1月19日、島は志半ばで解任された。そして松浦武四郎が函館に赴任した。松浦は偶然に函館の料亭で、役人が漁場持に、島同様に松浦も罷免に追い込むと口約束しているのを耳にした。松浦は陰謀を非難して1250字に及ぶ辞表を東久世に突きつけた。

帰京後
島は同年3月25日に帰京すると、4月2日に大学少監に昇任。さらに侍従を務めた。こうした帰京後の昇進を見ても、開拓使における島の解任理由は、かつて通説だった札幌建設の費用が巨額にのぼったためではなく、上述の場所請負人が持っていた利権との衝突によるとする説が現在は有力である。事実、場所請負人たちは明治3年1月、東京の刑部卿にも島に対する苦情を送っており、資金不足に関しては開拓使長官の東久世も認識していた。[2]。

明治5年1月(1872年3月)に秋田県の初代権令(知事)となり八郎潟干拓施策を打ち出すが、同年6月(1872年7月)に退官となった。

明治7年(1874年)に郷里・佐賀において憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こすが敗れ、鹿児島まで逃亡。島津久光を頼り、大久保利通に助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられず、同年3月7日捕らえられ、4月13日に斬罪梟首となった。享年53。墓は佐賀市金立町の来迎寺にある。


島義勇の墓(佐賀市の来迎寺)
明治22年(1889年)、勅令第12号(「憲法ヲ発布スルニ当リ大赦ヲ行ハシムルノ件」または「大赦令」とも)により大赦となり、大正5年(1916年)4月11日、生前の勲功に対し従四位を贈られた。

銅像
島は3ヵ所に銅像が建てられている。佐賀城公園の像は藩命で蝦夷地調査に出発する場面、北海道神宮の像は開拓三神の神鏡(みかがみ)を背負って札幌入りする場面、札幌市役所の像は丘の上から原野を見渡して札幌建設を志す姿をそれぞれ描いている[2]。円山公園には顕彰碑「島判官紀功碑」がある。円山公園には岩村通俊の銅像もある。命日の4月13日には北海道神宮で北海道開拓と神宮創祀のその功績を偲び、「島判官慰霊祭」が毎年催されている。北海道神宮宮司らによる「開拓判官島義勇顕彰会」も組織されている[2]。

備考
円山公園の桜は、島義勇の従者であった福玉仙吉が、島の死後その鎮魂のために、明治8年(1875年)に札幌神社(北海道神宮の旧名)の参道に植えた150株の桜が始まりとなっている。
島義勇のことを親しみをこめ「判官さま」とも呼ばれる。また、北海道神宮境内の休憩所では、これにちなんだ六花亭の焼き菓子「判官さま」が販売されている。
毎年6月に挙行される北海道神宮例大祭では、日本武尊や素戔嗚尊などの祭神を祀る山車とともに、島の人形をあしらった山車「開府の判官 島義勇」が第3山鼻祭典区によって供奉されている。
札幌開拓の礎を築いた島義勇の歴史漫画『島義勇伝』[3]がある。