豊後三賢人 | 覚書き

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帆足 萬里

(ほあし ばんり、安永7年1月15日(1778年2月11日) - 嘉永5年6月14日(1852年7月30日))は、豊後国日出藩出身の江戸時代後期の儒学者・経世家・日出藩家老。字は鵬卿。号は愚亭など。三浦梅園、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人と言われる。

略伝
父は日出藩家老の帆足通文。1791年(寛政3年)、14歳の時、脇蘭室(脇愚山)に学び、21歳の時に父の通文につき従って大阪へ行き中井竹山に学ぶ。24歳の時に筑前に行き亀井南冥に会い、翌年、25歳の時に京の京都の皆川淇園に学ぶ[1]。その後30歳前後には一人前の学者となって、日出藩の藩校の教授に任じられる。藩主木下俊敦は万里の家宅内に「稽古堂」を設けさせ、藩士の子弟教育にあたらせる。のち15代俊程は城内に学舎を設立し「致道館」と名付け「稽古堂」で購読を終えた後、藩校致道館に入学するようにした。さて、帆足万里は1832年(天保3年)日出藩家老となり財政改革に行った。当初は藩主の木下俊敦からの懇望を受けたが辞して承諾せず、「一度任せたからには、後から口出しをしない」という約束の下に、これまでの家老をやめさせ自分が有能・公正を見こんだ人々を役職につけ、倹約を旨とし、自ら算盤をとり藩の帳簿を調べ、これまでの役人の不正を明るみに出した。改革の3年後には、大いに成績をあげ、藩が大坂商人に借りていた金を返していく方針が立った。

しかし1835年(天保6年)2月に、病を理由に家老を辞職することになる。実際の家老辞職の原因は、子孫の帆足図南次が「根本は彼(萬里)の峻厳果断に過ぎた改革を片っ端から壊わしていった藩状にあきたらなかったからであり、辞退の動機の一半は忠誠剛直な彼と藩の機会主義者たちとの間に籍した感情の対立である」[2]と述べている様に、厳しい改革を行った帆足萬里と、それに対立する藩内の抵抗勢力との間に軋轢が生じたためである。

家老職を辞した萬里は、中ノ町の旧宅に移り住みそこで家塾を開く。その後、天保13年(1842年)に65歳の帆足萬里は、豊後南端村目刈(現在の日出町南端目刈)に私塾西崦精舎(せいえんせいしゃ)[3]を開いて子弟の教育を始める。しかし弘化4年(1847年)4月10日に萬里はにわかに門人を引き連れて京都に発ち、翌年まで東福寺の採薪亭に滞在する。これは京都に大学を興して教育によって朝廷の威光を増そうと朝廷に進言するためであった。[4]

元藩主・木下俊敦と弟子の説得により[5]萬里は、日出に戻ることになり、再び西崦精舎で数年間教えていたが、嘉永4年(1851年)に病気になり、西崦精舎を岡松甕谷らの弟子に任せて日出二の丸に移り住む。翌年の嘉永5年(1852年)に75歳で没する。体は弱い方だったが、人一倍衛生を重んじ、食物に気をつけて養生したので長命を得たという。

明治45年(1912年)、従四位を追贈された[6]。

学問
萬里は経学・史学・経世の学に専心したといわれるが、一方で、自然哲学者・三浦梅園の影響により窮理学に関心を持ち、40歳頃から藤林普山の『訳鍵』を手に入れてオランダ語を修得し、ヨーロッパの自然科学を学んだ。その蘭学の範囲は、天文・物理・博物学・医学・地理などにわたる。皇室を尊びながら偏狭ではなく、門下に西洋について学ぶものが多く出た。

『窮理通』
全八巻から成る萬里の著書『窮理通』(きゅうりつう)は、日本における自然科学史に画期的な文献である。明治年間にオランダのグイド・フルベッキが『窮理通』の説を聞き、江戸時代の科学の進んでいたことに驚いたという。

萬里は算数学や自然科学を師について学んではいないが、日出藩郡奉行で、領内各地を調査し地誌「図跡考」12巻を記した二宮兼善に質問して多くの事を学んでいる。これによって22~23歳ぐらいの時に『窮理通』の前身ともいえる書を著し、師の脇蘭室に序文[7]を依頼している。しかし誤りも多いことに気付き、40歳ぐらいの時に、再び蘭学を学び、門生で蘭語に長じていたものを長崎に遣わし物理書と辞書を入手し、蘭書を訳して『窮理通』を著した。『窮理通』は結局生前には公刊されず、没後の安政3年(1856年)に弟子の岡松甕谷によって内の三巻だけが木版公刊された。

『窮理通』に書かれているのは、原暦(暦法)、大界(恒星、銀河)、小界(太陽系)、地球、引力(光学、力学)、大気(気体)、発気(気象)、諸生(動植物、生物)からなっており、自然科学、特に物理の書物としては日本で最初部類に属するものである。

『四書標註』
論語、大学、中庸、孟子の四書に対して、萬里が註釈を付した書物である。学派に捉われずに、さなざまな学派の良い部分を採用しつつまとめられている。

『五経標註』
五経のうちの、書経標柱、周易標柱は訂正を行い完成するが、他の春秋、詩経、礼記は未完である。

『東潜夫論』
幕末の時代に、萬里が社会経済、国防の改革を論じた書が三巻からなる『東潜夫論』である。その内容は、王室、覇府、諸侯の三項で構成されている。

王室第一では、朝廷が文教と礼楽を主導して、文教では儒学をはじめ蘭学、仏教学、国学の振興に努めることを主張している。

覇府第二は、幕府が政刑を担当し、強力な中央集権制を確立するために譜代大名の配置、貢租制、貨幣制度、都市計画、学制、寺院対策、外国貿易、蝦夷と樺太の開拓など、諸改革および新政策採用と、積極的な外国の侵略防備策を主張している。侵略防備策として、西力東漸に備え洋式大艦建造、大砲・鉄砲の充実と訓練、大名城郭の石造、南北国境に大名を封じ防御体制を充実すべきことを説いている。

諸侯第三では、不正と賄賂の横行により乱れた藩政の刷新を行う必要があること、さらには武士土着と江戸留守居・大坂蔵屋敷もの留守居の廃止などを勧告している。

萬里の学問的手法
「萬里の本領は文章にある」とする見方は生前からあった。彼は「古文」を唱道して後進に教え、その古文は荻生徂徠と異なり、文字ではなく文体を古体に則る。つまり、秦漢以前の文を模範とし、唐宋以下の文を骨力がなく軟弱であるとして軽んじた。たとえばその著書『井樓纂聞 梅岳公遺事』などは、「剄簡にして動かすべからざるの力あり」と評される。

安政3年(1856年)に刊行された『窮理通』の序文で岡松甕谷は「先生この書を選み、己に和言を以て二、三條を譯し、辰輩に授けて更に為すに漢文を以てせしむ」と述懐している。自然科学・物理という学問領域においても帆足萬里は、その思考・思想的な根本には、文体を古体に則ることに重きを置いていた。

萬里の門弟
帆足萬里には、帆足門下の十哲と呼ばれる弟子たちがおり、それには、勝田季鳳(日出)・関焦川(日出)・吉良子禮(日出)・米良東喬(日出)・中村栗園(中津)・野本白厳(宇佐郡)・ 元田竹渓(杵築)・後藤伯園(亀川)・岡松甕谷(府内)・毛利空桑(肥後藩領・鶴崎)らが含まれている。[8]

また、近隣の豊前国中津藩にも聘されて、野本白巌・福澤百助(福澤諭吉の父)・村上玄水など数多くの門人を抱えた。

政治
家老職
本来は学問の道に進んだ萬里であったが、父の帆足通文と同じく、帆足萬里は日出藩家老として財政再建に着手した。これは日出藩13代藩主の木下俊敦の要請によるものである。

約3年の家老職を辞して後、門弟の関焦川[9]、その後も同じく門弟の米良東喬[10]が日出藩の家老を務めおり、政治においても日出藩における帆足萬里の残したものは大きかったと言える。

また日出藩13代藩主:木下俊敦が萬里を家老に据えており、特に萬里に対する信頼が厚く重用した人物である。また15代藩主:木下俊程も萬里の著した『西崦遺稿』[11]の序文を書き、木下俊程自身の文集『豊衡山存稿』も同序文が含まれていることから、学問と政治の両面における深い繋がりがあった。[12]

軍事
萬里は『東潜夫論』で西力東漸に備え洋式大艦建造、大砲・鉄砲の充実と訓練を唱えている。帆足万里は反射炉と大砲鋳造を宇佐郡佐田村の賀来惟熊に薦めており成功している。[13]またこの大砲を製造のための顧問に関讃蔵を推薦したのも帆足萬里である。関讃蔵は嘉永2年に藩命により、長崎で高島秋帆と山本重知について西洋砲術を3年間学んだ人物であり萬里の弟子でもあった。またこの関讃蔵の父は、日出藩家老でかつ萬里の門弟十哲のひとり関焦川である。

日出の郷土歴史家の大竹義則の著した『陽城人物像』、あるいは『大分県偉人伝』[14]によると、「この兵法改革は、藩主・木下俊程が企てたもので、米良東嶠、秋山太郎、そして関讃蔵に立案を命じ、その兵法改革案の稿は振武流と命名された」[15]とある。米良東嶠や関讃蔵といった帆足万里の弟子たちがこの兵法改革に関わっており、また晩年の帆足万里自身も、この計画のために弟子の関讃蔵を推薦し、賀来惟熊に反射炉を作らせ、大砲鋳造を命じていることから、この兵法改革は、かなり萬里の意見が、藩主・木下俊程に聞き入れられ実行されたものであることが分かる。

著作
『窮理通』窮理通 : 初篇2巻. 初編 上
『東潜夫論』国立国会図書館 帆足万里全集,上巻
『仮名考』国立国会図書館 帆足万里全集,上巻
『四書標註』
論語標柱 国立国会図書館 帆足万里全集,下巻
孟子標柱 国立国会図書館 帆足万里全集,下巻
大学標柱 国立国会図書館 帆足万里全集,下巻
中庸標柱 国立国会図書館 帆足万里全集,下巻
『五経標註』
書経標柱 国立国会図書館 帆足万里全集,下巻
周易標柱 国立国会図書館 帆足万里全集,下巻
春秋標柱 国立国会図書館 帆足万里全集,下巻
『荀子標注』 国立国会図書館 帆足万里全集,下巻
『修辞通』国立国会図書館 修辞通
『肄業餘稿』国立国会図書館 帆足万里全集,上巻
『入学新論』奈良女子学術情報センター蔵
『西崦遺稿』国立国会図書館 帆足万里全集,上巻
『国語標註』国立国会図書館 帆足万里全集,上巻
『列子標註』
『宗名臣言行録標註』国立国会図書館 帆足万里全集,上巻
『井樓纂聞』戸次道雪の事績が書かれた「井樓纂聞 梅岳公遺事」を漢翻訳。新潟大学附属図書館(佐野文庫)
『巌屋完節』高橋紹運の事績を漢翻訳。帆足万里全集. 上巻
『日出孝子論』帆足万里全集. 上巻
『四代家詩選評』
『傷寒論新註』
『医学啓蒙』帆足万里全集. 上巻
『橘山遺事』戸次道雪と高橋紹運の事績が書かれて漢翻訳。高知図書館(山内文庫)
脚注
[脚注の使い方]
^ 帆足万里全集. 上巻 P6. 帆足記念図書館. (大正15)
^ 帆足万里. 吉川弘文館. (1966)
^ 西崦精舎跡 ひじナビ(日出町観光協会)
^ 大分県教育会 編 (明40.8). 大分県偉人伝 P184. 三省堂
^ 大分県偉人伝 P184. 三省堂. (明40.8)
^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.30
^ 帆足万里全集. 上巻 P82. 帆足記念図書館. (大正15)
^ 大分県教育会 編 (明40.8). 大分県偉人伝 P183. 三省堂
^ 大分県偉人伝 P201. 三省堂. (明40.8)
^ 大分県偉人伝 P197. 三省堂. (明40.8)
^ 帆足万里全集. 上巻 P644. 帆足記念図書館. (大正15)
^ “帆足万里”. 美味求真. 2019年9月26日閲覧。
^ 大隈米陽「賀来三綱等の鳥取藩に於ける大砲鋳造について」『大分縣地方史』第114巻、大分県地方史研究会、1984年6月、59-74頁。

 

・三浦 梅園

(みうら ばいえん、享保8年8月1日(1723年9月1日)[1] - 寛政元年3月14日(1789年4月9日)[1])は、日本の江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。豊後国(大分県国東市安岐町富清)の出身。名は晋(すすむ)[1]、字は安貞[1]。帆足万里・広瀬淡窓と並んで「豊後の三賢人」と称される[2]。

人物
遠祖は相模国三浦の人で鎌倉幕府に仕えたが[1]、わけあって豊後国国東に移り住んだとされる[1]。祖父の代から医術を家業とした[1]。16歳のころ、綾部絅斎と藤田敬所に師事する[1]。23歳で長崎・太宰府方面を遊学し[1]、28歳で伊勢神宮に参拝し、晩年長崎を再び旅する[1]。それ以外は郷里の国東で過ごし、再三にわたる諸侯の招聘も断り続けた[1]。

特定の学派に属さず、独自の学問大系である条理学を築き『玄語』『贅語』『敢語』を著した[1]。これらは、梅園自身によって「梅園三語」と命名された[1]。この三著作が梅園の思想の骨格をなすのである。このうち『贅語』と『敢語』は完成したが、『玄語』は37年の歳月を費やして、ついに完成できなかった。[要出典]

「梅園三語」以外の著書には、詩学概論『詩轍(してつ)』、経世論『価原』、医学書『身生餘譚』『造物餘譚』などがある。『価原』は社会経済史からも注目される文献である[1]。

また、読書日記『浦子手記』には、道家の系譜の哲学概論『淮南子』、西洋天文学説『天経或問』をはじめ、『荘子』『列子』、宋学、朱子学、仏教書などの数多くの書名も記されており、三浦梅園の思考はこれら漢籍の教養の上に成立していた。また、中国の陶弘景や韓康伯の人となりを慕っていたという。[要出典]

没後
明治30年代(1900年前後)頃、内藤湖南が富永仲基や山片蟠桃と合わせて再評価したのをきっかけに、全国的に有名になった[3]。

明治45年(1912年)、従四位を追贈された[4]。

21世紀現在では、地元安岐町に旧宅や墓(国史跡)があり[5]、近くには宿泊施設、キャンプ場、天文台、梅園などからなる複合施設「梅園の里」や、膨大な自筆稿本類すべてが保管されている「三浦梅園資料館」(2006年設置[6])がある。保管物にはメルカトル図法で描かれた世界地図(梅園自身の筆写)や南天図・北天図(南半球・北半球の星図。同前)などもある。

校訂本

「三浦梅園書簡集」小野精一編 第一書房 1943
『三浦梅園集』三枝博音編 岩波文庫 1953、復刊1991ほか
「多賀墨郷君にこたふる書」『日本哲学思想全書 第2巻 (思想 思索篇)』三枝博音・清水幾太郎編 平凡社 1955
「道徳」『日本哲学思想全書 第19巻 (歴史・社会 歴史論篇・社会篇)』平凡社 1956
「戯示学徒」『日本哲学思想全書 第7巻 (科学 学問篇)』平凡社 1956
「玄語」『日本哲学思想全書 第1巻 (思想 哲学篇)』平凡社 1957
「敢語」『日本哲学思想全書 第14巻 (道徳 儒教篇・道徳論一般篇)』平凡社 1957
「価原」『日本哲学思想全書 第18巻』平凡社 1957
『医学古典集 第3 造物余譚』日本医史学会編 医歯薬出版 1958
『梅園全集』梅園会編 名著刊行会 1970
「玄語本宗」『日本の思想 18 三浦梅園ほか』中村幸彦編 筑摩書房 1971
「梅園拾葉」『日本随筆大成 5』第2期、吉川弘文館 1974
『玄語図全影 三浦梅園手蹟依據』辛島詢士編 梅園研究所 1975
『三浦梅園 日本教育思想大系』日本図書センター 1979
『日本思想大系 41 三浦梅園』島田虔次・田口正治校注 岩波書店 1982。「玄語」ほか
『日本の名著 20 三浦梅園』山田慶児責任編集[7] 中央公論社 1982、新版・中公バックス 1984
玄語(抄) ほか現代語訳。訳者は他に吉田忠(東北大学教員)
『近世儒家資料集成 第1・2巻 三浦梅園資料集』高橋正和・五郎丸延編 ぺりかん社 1989
『三浦梅園遺墨撰集』三浦梅園研究会 1993
『三浦梅園自然哲学論集』尾形純男・島田虔次編注訳 岩波文庫 1998
『玄語 現代語訳』狹間久訳 大分合同新聞社 2009
^ 『大分県偉人伝』
^ 大分県偉人伝 P35. 三省堂. (明40.8)

 

・広瀬 淡窓

(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日)[1])は、江戸時代の儒学者、教育者、漢詩人。豊後国日田の人。淡窓は号である。通称は寅之助、のちに求馬(もとめ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。当初の号は別号は青渓。死後、弟子たちにより文玄先生と諡されたという。

弟に広瀬久兵衛、広瀬旭荘がいる。日田市長・衆議院議員を務めた広瀬正雄は久兵衛の4代目の子孫、大分県知事の広瀬勝貞は正雄の息子。

経歴
豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。少年の頃より聡明で、淡窓が10歳の時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰に師事し、詩や文学を学んだが、淡窓が13歳のときに筑陰が佐伯藩毛利氏に仕官したため師を失う[2]。16歳の頃に筑前国の亀井塾に遊学し、亀井南冥・昭陽父子に師事したが、大病を患い19歳の暮れに退塾し帰郷。病は長引き、一時は命も危ぶまれたが、肥後国の医師・倉重湊によって命を救われる。その後、病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて弟の久兵衛に店を任せ、一度は医師になることを志すが、倉重湊の言葉によって学者・教育者の道を選ぶ。妹の広瀬秋子は病気がちの淡窓の看病をしていたが、淡窓が回復したのちには出家している[3]。

文化2年(1805年)には豆田町にある長福寺の一角を借りて初めの塾を開き、これを後の桂林荘・咸宜園へと発展させた。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨ら以降10代の塾主によって明治30年(1897年)まで存続、運営された。塾生は日本各地から集まり、入門者は延べ4,000人を超える日本最大級の私塾となった。

淡窓は晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら白丸を1つつけ、食べすぎなどの悪いことをしたら1つ黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが1万になるようにするものだった。1度目は67歳(1848年)に達成し、2度目の万善を目指して継続していたが、73歳の8月頃で記録が途絶えている[2]。淡窓は安政3年(1856年)に死去。享年75。

思想
淡窓には眼の病があり、目を使いすぎると腫れてしまうことから、「あまり眼を使いすぎると中年以降には失明してしまう」と医者に言われ、このことから経書の本文のみを読書するようになる。注釈を無視する代わりに、自分なりの解釈を行ったため、淡窓独自の思想を生むこととなった。

淡窓の指針である「敬天」とは、人間は正しいこと、善いことをすれば天[注釈 1]から報われるとする。淡窓の説くこの応報論は「敬天思想」といわれ、近年まで主な研究対象になっていた。最近は、実力主義教育を採った組織としての咸宜園研究や、淡窓自身の漢詩研究が主流となっている。

年譜
[4][5][2]

※日付は旧暦。年齢は数え年。

天明2年(1782年)4月11日:豊後国日田郡豆田魚町の広瀬家に生まれる。父・三郎右衛門(桃秋)、母ユイの長男。寅之助と名付けられた。
天明3年(1783年・2歳)、同年より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われる。
天明7年(1787年・6歳)、魚町の実家に帰り、父母の下で読書、習字を学ぶ。
寛政元年(1789年・8歳)、軽症の痘瘡にかかる。長福寺の法幢に『詩経』の句読を学ぶ。
寛政2年(1790年・9歳)、『詩経』『書経』『春秋』『古文真宝』を学ぶ。『蒙求』『漢書』『文選』の講義を聴く。
寛政3年(1791年・10歳)、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受ける。
寛政4年(1792年・11歳)、水庖ソウにかかり6・70日病む。
寛政6年(1794年・13歳)、日田代官(西国筋郡代)羽倉権九郎に『孝経』を講義。
同年6月:元服。
寛政7年(1795年・14歳)、佐伯へ遊学。
寛政9年(1797年・16歳)、福岡の亀井昭陽入門が認められる。
寛政11年(1799年・18歳)、病にかかり、亀井塾を去る。
寛政12年(1800年・19歳)、療養生活となる(以後数年)。
享和元年(1801年・20歳)、門人数人に句読を教える。
享和2年(1802年・21歳)、『孟子』を講義。羽倉に四書を講義。
文化元年(1804年・23歳)、亀井塾の学友から教えを乞い、眼科医を目指すも、意欲が薄れる。
文化2年(1805年・24歳)豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始。自身も長福寺学寮に転居するが、その3ヵ月後に実家の土蔵に塾を移す。
同年8月、豆田町大坂屋林左衛門の持ち家を借家して転居し開塾。「成章舎」と名付ける。
文化3年(1806年・25歳)、成章舎で講義開始。
文化4年(1807年・26歳)、塾生の人数が増えたため、豆田裏町(現在は日田市城町の一画)に塾舎を新築し、桂林園と名付ける。淡窓自身は塾内には住まず、実家から通勤した。
文化7年(1810年・29歳)、塾生が30名を超える。合原ナナと結婚。
文化10年(1813年・32歳)、日記を書き始める。『史記』を輪講。
文化14年(1817年・36歳)、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し「咸宜園」と名付ける。咸宜園で塾生と一緒に生活するようになる。
文政元年(1818年・37歳)、頼山陽が日田に来遊。数度面会した。
文政2年(1819年・38歳)、咸宜園の塾生37名になる。
文政3年(1820年・39歳)、月旦評によれば塾生は103名になる。
文政7年(1824年・43歳)、風邪のため休講が100日を越す。『自新録』を脱稿。
文政8年(1825年・44歳)、正月に体調を崩す。『敬天説』脱稿。田能村竹田が淡窓を訪ねる。
文政11年(1828年・47歳)、『敬天説』を改稿して『約言』を脱稿[6]。
文政13年(1830年・49歳)、『伝家録』を脱稿。塾を末弟・広瀬旭荘に委ねる。
天保8年(1837年・56歳)、日柳燕石を訪問し、燕石は八百余家を救ったと書き残している。
天保13年(1842年・61歳)、幕府から永世名字帯刀を許さる。
嘉永元年(1848年・67歳)、「万善簿」一万善を達成。
嘉永6年(1853年・72歳)、『宜園百家詩』続編編集。『辺防策(論語百言解)』を草す。
安政2年(1855年・74歳)、塾を広瀬青邨に委ねる。
安政3年(1856年(安政3年・75歳)、『淡窓小品』完成。
同年10月、墓碑の碑文を撰文。書は旭荘が手掛けた。
同年11月1日、死去。遺体は自ら墓地に選定していた中城村の広瀬三右衛門別邸跡地(長生園)に埋葬。
大正4年(1915年)、正五位を贈られる[7]。
著作
作品
「桂林荘雑詠」(けいりんそうざつえい)
『遠思楼詩鈔』に掲載されている七言絶句である。淡窓26歳のときの作で、以下の4首からなる。2首目を「休道の詩」、3首目を「諸生に示す詩」とも通称する。これら4首のうちの特に2首目は詩吟として読まれることもある [8]。
(1)
幾人負笈自西東  幾人か笈を負ひて(いくにんかきゅうをおいて) 西東自りす(さいとうよりす)。
両筑双肥前後豊  両筑(りょうちく) 双肥(そうひ) 前後の豊(ぜんごのほう)。
花影満簾春昼永  花影(かえい) 簾に満ちて春昼永く(すだれにみちてしゅんちゅうながく)。
書声断続響房櫳  書声(しょせい) 断続して房櫳に響く(だんぞくしてぼうろう[注釈 2]にひびく)。
(2)(休道)
休道他郷多苦辛  道ふを休めよ(いうをやめよ) 他郷苦辛多しと(たきょうくしんおおしと)。
同袍有友自相親  同袍友あり(どうほうともあり) 自ら相親しむ(おのずからあいしたしむ)。
柴扉暁出霜如雪  柴扉暁に出づれば(さいひあかつきにいずれば) 霜雪の如し(しもゆきのごとし)。
君汲川流我拾薪  君は川流を汲め(きみはせんりゅうをくめ) 我は薪を拾はん(われはたきぎをひろわん)。
(3)(諸生に示す)
思白髪倚門情  遙かに思ふ(はるかにおもう) 白髪門に倚るの情(はくはつもんによるのじょう)。
宦学三年業未成  宦学三年(かんがくさんねん) 業未だ成らず(ぎょういまだならず)。
一夜秋風揺老樹  一夜(いちや) 秋風(しゅうふう) 老樹を揺がし(ろうじゅをゆるがし)。
孤窓欹枕客心驚  孤窓(こそう) 枕を欹てて(まくらをそばだてて) 客心驚く(かくしんおどろく)。
(4)
長鋏帰来故国春  長鋏帰りなん(ちょうきょうかえりなん) 故国の春(ここくのはる)。
時時務払簡編塵  時時務めて払へ(じじつとめてはらえ) 簡編の塵(かんぺんのちり)。
君看白首無名者  君看よ(きみみよ) 白首にして名無き者を(はくしゅにしてななきものを)。
曾是談経奪席人  曾て是れ(かつてこれ) 経を談じて席を奪ひし人(けいをだんじてうばいしひと)。

書籍
著書は以下を主に約120作ある。

『遠思楼詩鈔』
『析玄』
『義府』
『迂言』 - 『日本思想大系38 近世政道論』(岩波書店)に収録。
『懐旧楼筆記』
『約言』
『淡窓詩話』など
『淡窓全集』(全3巻) - 日田郡教育会編。思文閣の刊行で1971年に復刻出版。
長壽吉・小野精一編『廣瀬淡窓旭荘書簡集』弘文堂書房 1943年5月
大分県先哲資料館 編『大分県先哲叢書 廣瀬淡窓 資料集 書簡集成』大分県教育委員会 2012年3月
詩集・日記の注解
『広瀬淡窓・広瀬旭荘』 工藤豊彦 〈叢書日本の思想家 35〉明徳出版社、1978年
『広瀬淡窓・広瀬旭荘』 岡村繁訳注 〈江戸詩人選集 第9巻〉岩波書店、1991年
『広瀬淡窓』 林田慎之助訳著 〈日本漢詩人選集 15〉研文出版、2005年
『現代語訳 淡窓詩話』 向野康江訳注、葦書房、2001年
『廣瀬淡窓の詩 遠思樓詩鈔評釈』(全4巻)、井上源吾編著、葦書房、1996年
『廣瀬淡窓日記』(全4巻)、井上源吾編訳注、弦書房、2005年
史跡

長福寺

広瀬淡窓旧宅(南家)
長福寺(ちょうふくじ)
寛永8年(1631年)に創建された豆田上町にある真宗大谷派の寺院である。山号は照雲山。長福寺本堂は、国の重要文化財に指定されている。
この寺の僧である法幢に詩経を学び、後に倉重湊のすすめによって寺境内にあった学寮(長福寺学寮)を借りて咸宜園の前身となった塾を開いた。講義を行っていた学寮は1943年に解体撤去され、学寮跡地には旧日田愛育園(現在の月隈こども園)の園舎が建てられた。2012年10月に行なわれた旧園舎保存工事に伴う発掘調査において、学寮の礎石が確認されている[9]。
咸宜園(かんぎえん)
広瀬淡窓が設立した私塾。国の史跡に指定されている(詳細は咸宜園を参照のこと)。咸宜園跡の周囲を淡窓町(大字淡窓)という。1916年咸宜園跡の一部、秋風庵の北隣に淡窓図書館が建てられたが、1989年(平成元年)に700メートルほど東の上城内町に移転。
桂林荘公園(けいりんそうこうえん)
淡窓の私塾は始め「桂林荘」として設立されて、その跡地が公園になっている。ここに淡窓の坐像と彼の漢詩「桂林荘雑詠」4首の詩碑もある。
長生園(ちょうせいえん)
日田市中城町にある広瀬家の墓所である。元は、広瀬三右衛門(淡窓の弟)の別邸があった地で「長生園」はその別邸の名前である。後に淡窓が墓所に選び、淡窓自身の後に青邨や林外の墓が置かれた。1948年(昭和23年)1月14日に「廣瀬淡窓墓(ひろせたんそうのはか)」として国の史跡に指定された(後述の廣瀬淡窓旧宅の追加指定により「廣瀬淡窓旧宅及び墓」に名称変更)[10]。
廣瀬淡窓旧宅
廣瀬資料館として一部一般公開している北家と、魚町の通りをはさんで南に位置する南家からなる。旧宅内の建物の大半は、淡窓の弟である第6世当主廣瀬久兵衛時代の建物である。淡窓が23歳のころに、はじめて講義を行った建物(南家土蔵)は南家にあったが、現存しない[10]。すでに国史跡に指定されていた「廣瀬淡窓墓」(長生園)に追加指定する形で、2012年(平成24年)に「廣瀬淡窓旧宅及び墓」として国の史跡に指定された[10]。2015年4月24日には、「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成文化財として日本遺産に認定される。
参考文献
吉田忠 「帆足万里 - 漢蘭折衷を説く儒家」、『九州の蘭学 - 越境と交流』、128-132頁。
ヴォルフガング・ミヒェル、鳥井裕美子、川嶌眞人 共編、(京都:思文閣出版、2009年)。ISBN 978-4-7842-1410-5
帆足図南次 『帆足万里』 吉川弘文館〈人物叢書〉
森銑三 『おらんだ正月』 冨山房、岩波文庫ほか
矢野龍渓 『西遊漫記』 長島書房、明治24年
西村天囚 『学界の偉人』
大分県教育会 編『大分県偉人伝』明治40年
帆足記念図書館 編『帆足万里全集、上巻』
帆足記念図書館 編『帆足万里全集、下巻』
帯刀次六『帆足万里』 環翠書院,大正2年