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映画を言霊の視点で楽しむ〜 『ハリー・ポッター』のあの台詞に注目 !〜

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Parole

はじめまして、
neten株式会社で受注事務を勤めております、井上諒祐です。

私は社内でも、映画好きと知られております。

そこで今回は初投稿の試みとして、私が過去に鑑賞した作品を題材に、
言霊の視点から、少し語らせていただきたいと思います。

初回で取り上げたいのは、『ハリー・ポッター』です。

原作シリーズは世界的大ベストセラーとなり、その後ハリウッド映画化。
その題名はお馴染みの作品ですよね。

主人公の少年ハリーが、魔法学校の仲間と共に冒険し、
かつて両親を殺した宿敵ヴォルデモートを討つまでを、
独自の世界観と壮大なスケールで描くファンタジーです。

原作者のJ・K・ローリングは、
生活保護を受けるシングルマザーの状況でシリーズを書き始め、
その驚異的な成功で英国を代表する資産家になったという
まさに魔法の如くの、華麗な転身劇を遂げた方!

私自身にとっても、小学校〜大学生の思い出に残るシリーズで、
学校で鉛筆を杖代わりに、呪文を出す真似をした記憶があります。

主演俳優の皆さんも同世代なので、一緒に大きくなったような気持ちがあるんですね。

ーーーーーーーー
さて今回は、シリーズ最終作『死の秘宝 PART2』に登場する台詞に注目してみたいと思います。

〜原文〜
"Words are, in my not-so-humble opinion, our most inexhaustible source of magic.Capable of both inflicting injury, and remedying it."
Professor Albus Dumbledore
〜和訳〜
「わしの率直な考えじゃが、言葉とは無尽蔵な魔法の源じゃぞ。
傷を負わせ、癒やしもする力がある。」
アルバス・ダンブルドア校長

◎関連資料
Harry Potter and the Deathly Hallows: Part 2 (4/5) Movie CLIP - King's Cross Station (2011) HD

(字幕無しですが、こちらの動画の2:02より該当の台詞を視聴可能です)


アルバス・ダンブルドア校長とはハリーが通う魔法学校の校長のことで
作中では「最強の魔法使い」と讃えられる人物の台詞です。

宿敵ヴォルデモートとの戦いで一時絶命したハリーが、
冥界で校長と再会する場面で告げられる、この言葉。

劇中では白一色のキングス・クロス駅の場面として、非常に印象的でした。

ちなみにこの台詞、あまりにサラリと語られてしまい、
初見では全く印象に残りませんでした。

ですが数年後、言霊に興味を持ってから
このシーンを見返したときには衝撃が走りました。

なぜなら、魔法に深く精通した人物が、他でもない「言葉の力」を述べているのですから。

劇中では様々な魔法が、凝った視覚効果で表現されており、観客はそのすごさを見せつけられます。

シリーズを通して「魔法はすごい!」と印象づけられ続けた後、最終話のクライマックスにて突如、最強の魔法使いから言葉の力を伝えられるのです。

地味な台詞ながらも、それまで作品が示してきた世界観や、
話者である人物の立場等を考慮すると、その意外性が見て取れるのです。

魔法とは日常生活に便利なもの、人助けに役立つものから
災いをもたらし、人に害をなすものまで多種多様です。
使う側の在り方次第で、どんな魔法を使うか分かれる。
これは言葉も同じではないでしょうか。

ダンブルドア校長の言葉も、
単なるフィクション一節と片付けてしまうのは、本当に勿体ないです。

幸い、すぐ身近にも魔法の、

いや「究極のことだま」があるのですから。

とほかみえみため、とほかみえみため、とほかみえみため……

やはり言霊の探求者の皆様は、お後がよろしいようで。

==========

【井上諒祐 プロフィール】

先祖は九州の神社の神官だったと、父に言われ育つ。
ワープ講座を受講したご縁で neten株式会社に入社、現在は受注事務を担当。前職が運送業かつ長身のため中身もガテン系かと思われがちだが、実際は繊細。己が何者か見極めんと、甲府の地にて精進中。

 

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この宇宙はプラズマでできている vol.009

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Parole

執筆:ラボラトリオ研究員 杉山 彰

2.1.「言霊開眼」に記述されている 〈宇宙剖判〉

小笠原孝次先生の「言霊開眼」を紐解いてみると、冒頭に“天地未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めおと)分かれざるとき、混沌(まろがれ)たること鶏子(とりのこ)の如く、溟涬(くも)りて牙(きざ)しを含めり、正に天地の始めは鶏の卵の如くである。

その混沌の始原宇宙(至大天球、全大宇宙)の中に森羅万象が生まれてくる牙し(芽、萌、徴、兆)が含まれて居る(日本書紀/巻第一/神代上、天地開闢)”と記述されています。

さらに興味深いのは“立春の朝餉の膳の中央に卵を立てお神酒を供えた。立春は日本の神代歴の1月1日である。元旦の「一」は物の初めの「一」である・・・。鶏卵を斎(いつ)くことは宇宙の「一」を祭る行事である。鶏卵は初めの「一」であって、宇宙そのものの始原の姿である。この習慣は中国から来たものではなく、神代の日本の祭典であると判(わか)った”と記述されていました。

いきなりですが、剖(わけ)ると、判(わか)るのです。「世界が変わる現代物理学」を著した竹内薫氏が“神話と量子論が似ているのはあたりまえである。

私たちの人類の祖先が宇宙の構造を粗く写し取った結果が神話として残り、その後、何千年かを経て、社会や文化の複雑なネットワークでつながれた人類の脳が、相対性理論や量子論や量子重力論というカタチで宇宙の構造を、より精密に写し取れるようになっただけの話である”と述べています。

さらに“人間の脳は、目の前の世界を写し取って(学習して)、それに反応するようにできている。脳は、本来、世界を写し取る。言い換えると「世界の構造を真似る」のが役割である。

訳もわからずに真似ているうちに、だんだん元の世界と脳が写し取ったコピーとの区別が難しくなってくる。それを我々は「物理学の進展」と呼ぶ。下手な写生が精密な写真へと進化したようなものである。

脳のネットワークとしての人類の文化は、急激に情報を蓄積し、ネットワーク全体としての急激な進化を遂げて、写真の解像度がアップしてきたのです。

神話と量子論が似ているのはあたりまえである。なぜなら、人間の脳が目前に拡がる世界の構造を写し取る精度が変わってきただけの話であり、それ以上でも、それ以下でもない“とも述べています。

現在、私たちは、この「宇宙の晴れ上がり」の状態を、ウィルキンソン・マイクロ波異方性探査機から送られてくるマイクロ波宇宙背景放射で「原始大気のムラ」として観測することができます。

PastedGraphic-1のコピー

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つまり、「無」の“ゆらぎ※1”からトンネル現象を経て、インフレーション宇宙へと相転移していった。このインフレーション宇宙が、ビッグバン宇宙へと相転移して、さらにプラズマ宇宙へ相転移していくのですが・・・。

ビッグバン宇宙に相転移して、1027Kという超高温・超高密度のプラズマ状態になった宇宙が晴れ上がるまでの38万年間に“宇宙の子宮”の中では、いったい、どのようなことが起きていたのでしょうか。

前述の「言霊開眼」も含め、宇宙の起源・創生から「宇宙の晴れ上がり」までの38万年の経過を、古事記の解義書として小笠原孝次先生が著された「言霊百神」、及び「言霊精義」では、どのように記述されているのか、類比的ではありますが、順を追ってお話ししていきたいと思います。

 

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言葉の二面性、文学と政治

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Parole

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺

“文化が去勢されることにより、将来、民族の精神、倫理面での能力がどれほど深刻に失われることになるか。
現在の権力の利益のために、民族の精神の未来を犠牲にした人々の歴史的な罪は、その分、重いものとなる。”

(公開書簡『グスターフ・フサーク大統領への手紙』ヴァーツラフ・ハヴェル)

戯曲家でありチェコスロバキア(当時)大統領であったヴァーツラフ・ハヴェル氏の言葉である。

1989年、チェコスロバキアの首都プラハではビロード革命と呼ばれる体制転換が起こった。ソ連のペレストロイカ政策の波を受け、非共産党政権が発足し、社会主義体制が終わりを告げた瞬間であった。この時、ヴァーツラフ・ハヴェルという戯曲家が大統領に選出された。

私は政治や経済の専門家ではないため、共産主義、資本主義のどちらが正しいかに対する明確な解を得ることはできない。そして、文学・芸術といった文化についても同様である。

もし文化に社会的制限があり、海外とも鎖国状態であった場合は、一体どのような文化になるだろうか。しかし、ハヴェル氏を引用して論じるということは、その主張は、反社会主義体制派であり、文化は一切の制限を受けないことを賛成する立場にあることと同義であろう。

予め申し上げると、私はどちらにも偏らない中道をいく立場である。ただし、ソ連のペレストロイカに始まり、プラハの春、ビロード革命の一連の流れを学習する限り、「その時代」においては、ハヴェル氏の立場が正しいのではないかと思うのである。それは、全体主義の力により、人の純粋な意志が阻害され、文学・芸術が著しく貶められたという歴史的事実があったからである。

この全体主義という言葉は深く考察すべきであり、ドイツやイタリアにおけるファシズム体制つまり古典的全体主義とは異なることには留意する必要がある。その全体主義の力は、知らぬ間に人々の「拠り所」になってしまうのである。

“人間という存在の奥深くまで介入してくる。形而上的、実存的な確実性が危機に瀕している時代にあって寄る辺なさや疎外を感じ、世界の意味が喪失されている時代にあって、このイデオロギーは、人々に催眠をかけるような特殊な魅力を必然的にもっている。”
(『力なき者たちの力』ヴァーツラフ・ハヴェル著、阿部賢一訳)

われわれの住む日本はどうだろうか。

例えば、「社会の目」という目に見えない力がある。自己の意志ではないが、皆がおこなっているから私も同様にしたほうが良いはずだ、と盲目的に行動することはないだろうか。また、出る杭は打たれるため、目立った行動は取らないほうが良いと考えたことはないだろうか。

チェコスロバキアの場合は、計画経済により特に深刻であり、皆と異なることを行うと仕事さえ失う可能性があったのである。今の「幸福」を維持するためには、自己の純粋な意志を偽らなければならなかったのである。

政治は時に人の心を操作するために、言葉を巧みに利用することがある。その言葉は、社会に浸透し、いつの間にか人の奥深くまで介入し、盲目にしてしまう恐れがある。

その果てには、自己の偽りが「異常」ではなく「普通」になってしまう恐ろしさがある。つまり、反旗を翻す意志すらも生まれないのである。

“あらゆるものの初めに言葉があります。それは奇蹟で、われわれが人間であるのはそのおかげです。しかしそれは、同時に、わな、試練、まやかし、そして試金石でもあります。”
(『言葉についての言葉』ヴァーツラフ・ハヴェル著、飯島周訳)

ハヴェル氏がいうように、言葉はヒトを人たらしめる力を有している一方で、使い方によっては、人を真実から遠ざけるまやかしにもなってしまうのである。ラボラトリオ代表・七沢賢治氏の講話における、「生かす言葉もあれば、殺す言葉もある」と述べたことを思い出す。

表現の自由がおよそ保証されている昨今、文学や芸術、政治のあり方を再度問われていると感じる。われわれの使う言葉は文化をつくり、国をつくる。政治の真贋を見極め、真の言葉をつかうことが、この国の明るい未来をつくるもとになるのではないだろうか。

 

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普賢菩薩勧請と洞泉寺の歩み  その1

執筆:伊那市 洞泉寺住職  横山凌雲

普賢菩薩勧請の経緯

【Palore編集部より】

ここに出てくる普賢菩薩像とは、
七沢賢治先生の依頼により、今から約30年前に
釈迦族がカトマンズで製作したものです。

線香の煙が充満する部屋の中で
御本尊を入れるという開眼供養を行ったそうです。

その時代の最高クラスの仏師と彫金師が
日本のために作ってくれたもの、
それがこの普賢菩薩像です。


この度、普賢菩薩像を洞泉寺に勧請させていただきましたこと、大変有難く存じます。

勧請の経緯について、後代に記録を引き継ぐためにも整理しておきたいと思います。

私が普賢菩薩像の存在を知ったのは令和元年9月3日、七沢賢治先生の毎朝のお話 『はふりめく』を通じてでした。 その中で「普賢菩薩像がありまして、それをどうしようかと相談しておりまし て・・・」というお話がありました。

ネットで拝聴していた私は、家内に「洞泉寺に来たりして・・・」と冗談半分で言いました。その翌日、石原さんより「普賢菩薩像を洞泉寺に置いていただくことは可能でしょ うか?」というご連絡をいただきました。

「もちろん可能です。と言いますか、お断りする理由がありません」とお返事致し ました。 「まさか」と「やはり」という思いが交錯するなか、興奮する気持ちを抑えられませんでした。

その後、9月9日、私はスタッフ向け祝殿講習に参加する予定がありましたので、 その日に直接受け取らせていただくことに致しました。

ところが、いざ当日甲府に参りますと、石原さんやスタッフの方から「車に載るかどうか・・・」「載っても降ろせないと思うんですよね・・・」「まあ、とりあえず見てみてください」というお話が・・・

そういえば、大きさをお聞きしていなかったと・・・ なんとなく木像だと思い込んでいた私・・・せいぜい一尺くらいのものだと・・・

しかし対面した普賢菩薩様は金属製・・・
しかも象に乗った総丈五尺・・・

確かにこれは一人では無理・・・

必然的に移動は後日ということになり、スタッフの方に日程調整をしていただきまし て9月11日15時頃、洞泉寺着という予定での搬送になりました。
 

普賢菩薩像の運び込み

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搬送の当日の天気予報は、曇り時々雨でした。雨だと運び込むのが大変です。予報通り、到着1時間前に雨が降り出しました。それでもなんとかなるだろうという思いはありました。そして一時は強く降った雨も到着の時には上がり、雲が割れてきました。

お二人のスタッフの方と、私がお願いした 近隣の若手僧侶二人で、まず台座から運び込みました。 本堂の正面から階段を登りました。 堂内に入る時には光が差し込み、「ああ、仏様がいらっしゃったのだ」と感じました。

甲府にて普賢菩薩様と初対面した後、私は洞泉寺のどこにお座りいただこうかと思案致しました。想定していなかった大きさでしたので当初考えていた場所では無理でした。検討した結果、本堂内のふさわしい場所を思いつきました。

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像は台座、象、蓮華座、菩薩像の四つに分かれた構造になっています。分解された状態で搬送し、あらためて組み立てたのですが、なかなかカッチリと組み合わさりません。このような作業は誰も経験していないのですから無理もありません。

netenスタッフと若手僧侶・・・ みんなで喧々諤々、試行錯誤しながら、最終的にはなんとか上手く収めることができました。

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皆様のお陰で、普賢菩薩様に無事お座りいただくことができました。

スタッフのお二人には、大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。ちなみに私の隣に座る息子はお気に入りの「シッダールタ」Tシャツ着用です。(笑)

日をあらためて、普賢菩薩様に正式に御挨拶申し上げました。

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(つづく)

 

ご先祖様とつながる、究極のことだま

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Parole

皆さん、こんにちは。
Parole編集部です。

本日は、現在定期的にお届けしているNET天通信の過去記事より、一部を抜粋してお送りさせていただきたいと思います。

先日、いよいよスタートした「とほかみネットワーク、”エクレル”」の本格始動を受け、編集部がピックアップした関連記事を、ご紹介させていただきます。

情報解禁と同時に、ものすごいダウンロード数で大好評をいただいている、待望の大野靖志の新刊もいち早くお読みいただけますので、ぜひ合わせてご覧になってみてください。

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今からちょうど二年ほど前のこと。

アメリカの一部の人たちの間で「ルーツを探る旅」というのが、

密かにブームになっている、と聞いたことがありました。

 

ルーツとは、自分たちの「祖先」のこと。

 その気になる内容とは、同じ祖先をもつ人たち(グループ)が集まって、

一緒にゆかりの地をたずねる、というものでした。

 

それを耳にした時、「新しいかたちのツーリズムが誕生したのだ」

と新鮮に感じながらも、それ以上の情報を探ろうとはしませんでした。

 しかし、今ならわかります。

 

そう。

それは今話題の「遺伝子検査」と、ダイレクトに繋がってくるからです。

 

それを裏づけるかのように、先日知人がこんなことを教えてくれました。

 

「アメリカは諸外国に比べて歴史も浅くて移民も多い“人種のるつぼ”の国。でも、もともと移民でできた国だから、自分のルーツがわからない人が多い。だからそれを知るため、知りたくて遺伝子検査を受ける人が多い」

と。

 なるほど! そういうことだったのですね。

 遺伝子検査は日本では、ここ一年くらいという印象がありますが、

アメリカではそれ以前から自分のルーツを探って、

個々のピープルツリーをつくろうという動きがすでに始まっていた、と。

 

ただ、自分のルーツを知ることは必ずしもメリットばかりではないようで...

 

たとえば自分にとって不都合な人物であったり

敵対関係にある人と意外なところで繋がったり

ルーツが同じであることが突然判明して、何かと大変なこともあるのだそうです。

 避けられない運命を知って、複雑な感情にさいなまれることは、想像に難くはないのですが...

 

とはいえ、「自分のルーツを知りたい」というのは、

やはり人間の根源的な欲求なのでしょう。

 

しかしこれは世界的にみても、良い潮流だといえそうです。

 

なぜかというと、

自分のルーツを知ることは、先祖を知ることにもつながり、

さらに先祖の存在を認識することで、一気に大きな可能性が開けてくるからです!

 

最近このテーマに沿って※はふりめくを読み返していたところ、

七沢先生のこんなお言葉を見つけることができました。

 

先祖とつながると、とてつもなくすごいことが起こる

 

と。

 

白川では、自分のご先祖様のことを

遠津御祖神(とおつみおやのかみ)

といいますが、

自分の命をこの世に誕生させてくれた、遠津御祖神とつながることで

これまで想像もできなかったような奇跡や成功が人生にもたらされる、

というのです。

 

世の中には、

先祖とのつながりを否定する価値観やそもそも先祖の存在自体を無視して、

「自分の力だけで生きている」というような、奢った考え方もあります。

近年では、無神論者も随分増えているというようなことも耳にします。

 

しかし、そのような考え方を「もったいない」と感じてしまうのは、

私だけではないでしょう。

 

自分が今ここに存在しているのは、

先祖の遺伝子が受け継がれている証である

 

というのは、紛れもない事実であるからです。

 

たとえば、私たちには二人の両親のもとに誕生しましたが、

仮に30代さかのぼったとしたら、いったいどれくらいのご先祖様がいると

思いますか?

 

なんとその数は...

ゆうに、10億人を超えてしまうのです!

 

だからこそ、ここでリアルに想像してみてほしいのです。

 

自分を起点に逆三角形に大きく広がる

壮大なピープルツリーと、膨大な数のご先祖様の存在を。

画像1

 

そしてご先祖様の存在に想いを馳せ、真に味方につけることができた時、

とんでもないことが起こると、想像できるのではないでしょうか。

 

たとえ目に見えなくても、私たちの中に今なお確かに生きている遺伝子、

かけがえのない命があります。

 

だからこそご先祖様に、まずはしっかりと意識を向けてみること。

 

そして、

先祖に生前果たせなかった想い、恨みつらみが残っているとすれば、

そういった存念を祓い清め、お慰めすることが大事なのです。

 

有難いことに、日本語にはそれを叶えてくれる

特別な“ことだま”があることを、ご存知でしょうか?

 

そう。それが三種祓で唱える、

究極のことだま、「とほかみえみため」 

 

です。

 

さかのぼっていれば、

「すべての源はひとつ」

 

そんなことを思い浮かべながら

遠津御祖神が優しく微笑んでくださるよう、

今日も「とほかみえみため」を唱えています。

 

この“ことだま”を、多くの人が唱えるようになれば、

世界から争いや諍いもなくなり、真の道が開かれることでしょう。

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