Vadim Zeland 3-8 | 覚書き

覚書き

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原因というものは常に同じです。

世界は、世界へのあなたの接し方を映し出す鏡である、ということです。

鏡と世界との違いは何かというと、

普通の鏡は変化をすぐに映し出してくれるのに対し、

世界からの反応は時間差を伴い、

それは数日であることもあれば、

数か月のときもあるのです。

 

 

悪いことは良いことからは生れてきません。

本当は、良いことからはもっと良いことが生まれるのです。

 

 

人間の理性の本質とは、常に理性が自分のシナリオを

頑固に主張することにあります。

シナリオに盛り込まれていないことはすべて失敗とみなされます。

反対に、想定されてあったことだけが成功として受け入れられるのです。

理性のそうした強情ぶりは、自分自身の思いあがりや社会に広く根を下ろしている

固定観念が発生源となっています。

 

 

実際に自分にとって何が良くて何が悪いのか、

あなたの理性にはどうやってわかるのでしょうか。

理性はものごとの展開を本当に予測することができるのでしょうか。

大きな成功は前もってドアをノックしてくれたりすることは決してなく、

いつも突如として降って湧くものです。

そのときのあなたは、なぜそうなるのか、考え込んだりしないでしょう。

なぜならば、そんな場合、理性はぽかんとして見とれているので、

成功が現実化するのを邪魔することがないのです。

そのときのあなたは、なぜそうなるのか、考え込んだりしないでしょう。

なぜならば、そんな場合、理性はぽかんとして見とれているので、

成功が現実化するのを邪魔することがないのです。

 

 

シナリオをコントロールしようとしてぎゅっとつかんんでいるものを

理性が手放した瞬間に限り、

成功はアリのはい出る隙もない防御線を突破してくることができます。

成功は予定しておくことではないでしょうか。

さもなければ、今こうして述べているのは何のためなのでしょうか。

計画を建て、考えていたとおりのものを手にする。

そんなふうに事が運ぶ例は滅多にないのです。

 

 

個々の具体的なケースで成功の処方箋を知っているぞと

請け合うような輩は、誰も信じてはいけません。

それは誰も知ることができなういようになっているのです。

それでは、どこで答えを見つけ出せばよいのでしょうか。

あなたの鏡となっているあなたの世界が知っているのです!

トランサーフィンには、想像してみるしかない非常に驚くべき発見があります。

それは、あなたに求められることは選択を行うだけであり、

後は世界がそれを現実化してくれるのを邪魔しないでいるというものです。

ここにこそすべての逆説があるのです。

どのようにして成功を勝ち取るべきかということを

人は必ずしも知る必要がない、というものです。

より精確に言うと、まったく知らないほうがよいのです。

あなたは、トランサーフィンが成功のための当面の指針をもたらしてくれると

思っていたでしょうか。

理性はそのような指針を見つけ出すことができません。

たいへん素晴らしいことに、成功の指針はひとりでに見つかるのです。

 

 

理性がやるべきこととは、自分でコントロールしようとしてバリアントの流れ、

すなわちものごとの展開を邪魔してはならないということなのです。

バリアントの流れは常にあなたが選択した方向へと向いています。

まさしくそのために、もし選択が実行されたならば、ためらうことなく

意図の調整の法則―私の意図は現実化される、

すべてそこへ向かっている、そして、万事うまくいく―

を頼りにしてよいのです。

 

 

黒い帯に話を戻しましょう。

黒い帯がやってくるたびに、あなたは何らかのチャンスを逃しているようにお見受けします。

それは白い帯をもっと白く浮き立たせるためのチャンスでした。

しかし、理性は訪れた出来事を受け入れず、否、

正確には、訪れた出来事をネガティブなものとして評価し、

その結果、ネガフィルムのような状況が容赦なく現れ出てきたわけです。

けれども、そのことでがっくりきてはいけません。

もし自分の目標を定め、調整の法則を堅持するのであれば、

ある素晴らしい発見があなたを待ち受けていることでしょう。

これまでにしでかしたすべての間違いは、

まさにその目的のためにあったことを、あなたは納得するのです。

もし過去に間違いを犯さなかったら、あなたは自分の目的を

たっせい達成できなかったかもしれません。

また、その一方で、もしあなたが過去に間違いを犯さなかったなら、

それでも、自分の目的にたどりついたのかもしれません。

 

 

しかし、それは別の目的であるかもしれないのです。

あなたの目的はただひとつだけではないのですから。

このように、私たちの世界は不可解かつ偉大で、

惜しみなく与えてくれるようにできているのです。

そんなわけですから、悲観してはなりません。

もし自分の目的に向かって進むのならば、

過去は未来で待っています。

ひょっとすると、今まであなたを魅了してきたのは、

他人の目的ばかりだったのでしょうか。

 

 

問題は、誰が正しくて誰が悪いというところにあるのではないのです。

些細なことによる諍いには、平凡とはいえない最も大事な側面があります。

それは、意識性、というよりもむしろ、意識性の欠如というものです。

 

 

腹を立てるというのは、無意識的な反応です。

無意識に夢を見るばあい場合、夢は人間に偶然おきる起きるものです。

なぜなら本人はそのゲームにすっかり夢中で、

それが夢にすぎないことをはっきりとは理解していないからです。

 

 

動揺に、人間は、カキ貝のように外部からの刺激に対して

ネガティブに反応しつつ、覚醒した状態で眠っていることがあります。

各人にはそれぞれの個性や特徴を持つ権利があるということは、

誰もが理解しているようです。

そして、もしその人があなたのようではないからといって、

あなたのようになる義務は何もないのです。

ところが、皆がそのことを意識するのは、

そのことについて質問されたときだけなのです。

それ以外のときには、腹を立てるための引き金は無意識の状態で

作動します。

 

 

覚醒していながら無意識的な夢見状態にある人は、

自分には自分でいることを許しませんし、

他者には他者でいることを許さないのです。

すると依存関係が生じ、依存関係は分極化を引き起こし、

分極化は平衡力の風邪を生み出します。

平衡力hあ、異質性を消去しようとして、

正確が正反対の人どうしを衝突させようとします。

 

 

おまけに、振り子が分極化を察知し、

パートナーたちを誘導して、

より強い憤慨を引き起こさせる行動に出るようにするのです。

時折、あなたのお相手がまるでわざとあなたを苛立たせようとしているかのように

ふるまった記憶があなたにはありませんか。

 

 

そんなわけで、ほとんどんの場合、本人は振り子の影響を受け、

無意識にそのようなふるまいを行っています。

振り子はあなたの憤慨によるエネルグーを摂取し、

あなたをもっと苛立たせるような故魚津をあなtなおお相手が

取るように仕向けているのです。

 

 

あなたが「どんな条件」でも同意しようとすると、

まるで「勝手にしやがれ1」と言わんばかりに、

握っているものを放すことになります。

すると、この瞬間、分極化はよわまり弱まり、平衡力の風は鎮まり、

振り子はあなたをそっとしておきますから、その結果として、

関係が改善されるのです。

一般的には、違う者どうしよりもむしろ似た者どうしのほうが

相容れないといえます。

「私たちはお互いに相手を受け容れられない」とか

「性格が合わない」という表現は、

「お互いに相手がありのままの自分でいることを容認しない」

という意味に置き換えられます。

 

 

本当は、正反対の性格を持った人々でも、

仲よく暮らすことができますし、そうでなくてはなりません。

平衡力が正反対の性格の持ち主たちを衝突させるのには、

それによって現状維持を目指すという理由があってのことなのです。

 

 

 

大人のまねをするごっこ(ゲーム)に興じていた子供の頃のあなたを

思い出してみましょう。

大人たちと違って、子供たちはすべてが「遊び半分」

であることをはっきりとわかっています。

子供たちは、それがゲームであり、プレイすることもできる観客のように、

意識して行動すべきことを常にわきまえています。

子供たちはそれが現実ではないことを認識しているので、

自分が参加しているゲームのシナリオを変更することもできるのです。

意識して見る夢においてもまったく同じことで、

夢を見ている本人は展開中の出来事をコントロールすることが可能なのです。

 

 

人々は大人になるにつれて、少し距離を置いた状態でプレイするという

能力をなくしていき、深い眠りに陥るように、自分のゲームに耽り込んでしまい、

その結果として意識性を失います。

人々は目を覚ましたまま眠っているため、

振り子の言うがままに動く意志のない操り人形になり、

彼らの人生は、夢を見るのと同じく、「偶然に起こるもの」となります。

 

 

あなたの伴侶がなあなたの氣に障ることを始めたら、

あなたが依然やっていたように、苛立ってみましょう。

しかし、今度からは自分の役割を表現力豊かに、

グロテスクにあるいはユーモアたっぷりに演じてみるのです。

 

 

そうすると、覚醒状態で無意識に夢を見ていたときのあなたが、

あおり立てていた諍いのメカニズムをすぐに理解できるようになります。

ほとんどの言い争いは、テレビ・ドラマによくあるような根も葉もない理由からであったことを

きちんと認識されると思います。

この認識ができれば、ようやくあなたはありのままの姿でいることを

自分にも相手にも認めてあげられるようになるのです。

 

 

神の信奉者ではなく、宗教という振り子の信奉者が、

教会にお金を寄付すると、「自分の魂の救済になる」とか、

またはアルマが絡む問題から脱け出すことが出来るなどと、

あなたの耳に吹き込んだのでしょうか。

神に仕える人物が本物であれば、

どれほどお金を積んでも免罪符は変えないのだというはずです。

 

 

率直に申し上げましょう。宗教の振り子は神ではありません。

教会を必要とするのは、至高至善の神にとってではなく、振り子にとってです。

神はあなたの寄付金を必要とはしていません。

もしあなたが自分の寄付行為を自分の問題の解決策とみなしているのであれば、

それはすなわち、神と契約を結ぼうとしてすることなのです。

 

 

もしあなたに使い道のない巨額のお金があるのなら、

慈善行為は蓄積された資金の過剰ポテンシャルを取り除いてくれるかもしれません。

しかし、あなたは為替取引に携わっているということですから、

寝かせておくような資金はないでしょう。

慈善行為というのは、もしそれが心からのものである場合に限り、

真の意味で尊いのです。

たとえば、孤児院を支援するお金持ちがおりますが、

本人は現場に一度も出向いたことがないこともあります。

このような場合、それは尊い好意ではなく、契約なのです。

そのお金持ちからの援助資金は冷淡に振り向けられ、

「私は孤児たちを助けている!」という敬虔なフレーズによって

縁取りされた美しい理念となります。

しかし、そのお金持ちの動機は心底からのものではありません。

彼は自分が支援している孤児たちとの交流を求めてはいません。

つまり彼は孤児たちを愛しているわけではないのです。

お金持ちは、孤児たちを援助している自分というものを

評価しているわけです。

それにしても、心から愛することなしに、

支援を与えているこの人の行為は、悪いことなのでしょうか。

いいえ、悪いことではありません。

それどころか、たいへん結構なことです。

但し、その行為がお金持ちに何らかの形で

「恩恵となって戻ってくる」と期待してはいけないのです。

 

 

そのお金持ちは自分の社会的評判を引き上げることはできるでしょうが、

彼の魂はいかなる埋め合わせも受け取ることはありません。

不誠実に他者を愛するよりも、誠実に自分を愛するほうがましです。

自分を愛することは絶対に必要だと言っても過言ではありません。

 

 

もしあなたが心からそうするための動機を感じていないのなら、

身近な人々を助けるという行為を自分に強制する必要はありません。

反対に、自分が富むことにこそ励んだらよいのです。

それが心からの行為であるなら、何も恥じることはありません。

反対に、自分が富むことにこそ励んだらよいのです。

それが心からの行為を自分に強制する必要はありません。

反対に、自分が富むことにこそ励んだらよいのです。

それが心からの行為であるなら、何も恥じることはありません。

振り子の信奉者たちからの叫び声に注意を払うことはありません。

彼らは自分たちの「精神的」財貨をあなたに押し付けようとしているだけなのです。

覚えておいてください、本物の聖職者ならば、

あなたに何かを押しつけようとすることなどあり得ないということを。

 

 

あなたにとって最高の精神的財貨というのは、

あなたの魂のことです。

振り子から顔を背け、あなたの魂と向き合い、

自分が心底からおK無いたいこと、

たとえばそれが離職厚意であるのなら、それに従事しましょう。

但し、利殖に臨むあなたの姿勢とは、努力してそうする筋合いのものではありません。

魂が欲するのはお金ではなく、お金で買うことのできるものです。

あなたは何が欲しいか、正確に知っていますか。

きっと知らないと思います。そこで、

人生で本当は何が欲しいか、自問してむてください。

何があなたの人生をお祭りに変えてくれるのでしょうか。

自分の目的を探してみましょう。

 

 

あなたの理性はこの課題に真正面から取り組もうとします。

お金があれば、ほとんどすべてのものを買うことができるのだから、

お金がありそうなところへ一目散に向かうべきだ、と考えるわけです。

魂は、お金へ一目散に向かおうとする気持ちを理性とともに

分かち合おうとはしてくれません。

そもそも魂は抽象的に「思考する」ことができないため、

理性がお金を手に入れるという点において、

魂は理性の味方をしてくれません。

しかし、魂なしの理性は、理性なしの魂と同様に、無力です。

 

 

自分の目的を定め、その目的を達成するための手段については考えずに、

目的に向かって進むのです。

手段は自ずと見つかるでしょう。

これこそが一番重要なポイントです。

言い換えると、もし魂と理性が手に手を取って

目的に向かって進むとしたら、

以前は近寄りがたいと思われた扉が、

あなたの目の前で開かれるのです。

 

 

億万長者になることができる人というのは、

お金に向かってではなく、自分の目的に向かって進む人なのです。

人が自分の扉を通って自分の目的に向かって進むとき、

その人の魂はウキウキし、理性は満足そうにもみ手をします。

 

 

それに携わることがあなたの理性に満足感を与えてくれますか。

これらの問いにはあなた自身で答えなければなりません。

 

 

トランサーフィンは考え出されたものではありません。

ですから、その法則も作り直すことはできません。

こうしたことを「考え出す」というのは、ほとんど不可能です。

ほかの人々から襲わゑうことも無理です。

秘められた知というのは、

考え出したり学び取ったりするものでもありません。

それは誰もが手に届く場所にあります。

私はその場所をバリアントの空間と呼んでいます。

ほかの人々は別の名前で呼んでいるかもしれませんが、

本質は何も変わりません。

 

 

心理学や密教に関する山のような文献を読み終えた後は、

ある程度の時間立ち止まり、

誰が何をどう書いていたかなどすべて忘れてしまってもよいと思います。

もしあなたがに何らかの分野の最低限必要な部分が残っていたら、

その後はバリアントの空間からの情報を直接受け取ることができるでしょう。

 

 

生じた疑問への答えをほかの本の中から探すのをやめて、

自分と向き合うというずうずうしさが必要です。

世界の賢人たちに理性の関心が向かう間は、

あなたの混乱は続い、永遠の学とという状態から

抜け出せません。

目指す方向性を変えましょう。

あなたの理性にはあなたの魂と向き合ってもらい、

あなたのすべての疑問に対する答えを出してもらいましょう。

発明や発見をする人、文化・芸術の傑作を創る人、

本を著す人と、そうしうた発明や発見衣驚く人、

傑作に歓喜する人、本を読む人とを隔てているのは

何なのでしょうか。

創作者と鑑定人、教師と生徒を分けるものは

何なのでしょうか。

前者は、自分の理性の注意を他人の創作物から引き離して、

自分の魂に向けるずうずうしさを持っているのです。

鑑定人と生徒が決して才能に恵まれていないわけではありません!

ただ彼らの意図が別の方向、すなわち他者を評価し、他者に学ぶ、

ということに向けられているだけなのです。

 

 

あなたの魂はそのままでもすべてわかっているというのは、

あまり正確な言い方ではないかもしれません。

過去と未来のデータが保管してあり、

そればかりか、あらゆる傑作や発明・発見も存在しているという

情報フィールドへのアクセス権を、理性と違って、

魂は持っているのですが、そのことを知らないのです。

 

 

理性は魂の感覚を直観的な知やhらめきとして受け取り、

その後、一般に通用する概念や記号という形態に解釈します。

理性はあたらしい新しいことを何も思いつくことができません。

理性ができることは、古い積み木から旧バージョンの焼き直しのような家を建てることだけです。

根本的にあたらしいことはすべて魂と理性が一致した時に創られます。

しかし、この一致というものを達成するためには、

単純で具体的なやり方を行う必要があります。

あなたはいかなる知にもアクセス可能だという事実を受け入れてください。

質問は自分に向けるのです。自分の道を進みましょう。

自分の個性を発揮する権利を行使してください。

自分に与えられている知へのアクセス権を活用するのです。

 

 

自分の意図をほかのことから自分自身へと方向転換できるようになるや否や、

知に手が届くようになります。

あなたは個性豊かな人格を持ち、唯一無二の存在であり、

すべてを知っているのだと、ただ自分に語りかけてください。

自分に質問を発し、答えを待ちましょう。

答えはひとりでにやってきます。

すぐにやってくることもあれば、複雑さの度合いによっては、

数日後、あるいは数か月後にやってくることもあります。

しかし、答えは必ずやってきます!

 

 

人によって理性と球いいとの接触の仕方は異なります。

大事なのは、理性の意図を魂に向けるようにすることです。

実のところ、それを行ってみようと思い立つ人は少ないのです。

しかし、試してみた人は新たな発明や発見をしたり、

傑作を創ったりし始めるわけです。

 

 

魂と理性の一致を邪魔する唯一のものは、

ないてき内的重要性とがいてき外的重要性です。

重要性というものは創造の芽を一般的な固定観念の箱の中に閉じ込めてしまいます。

 

 

人々の問題を聞き流すお陰でというよりは、

人々の問題を聞き流すにもかかわらず、

あなたは人々の問題の解決に関与していることになります。

これと反対に、他人の問題に没頭してしまうと、

あなたは問題を客観的に解決することができなくなるのです。

 

人々が自分のゲームにどっぷり入り込んでしまった結果として、

問題が生じるのです。

そのような人々の人生は「偶然に起こる」ものであり、

彼らは無意識に見る夢の中にいるように、

状況に支配されています。

しかし、観客席に降りていき、ゲームを脇から眺めるだけで、

たちどころにすべてが明らかになるのです。

あなたがほかの人々の問題に没頭している間は、

あなたは彼らと同じ状態にあり続けます。

彼らのもんだい問題を理解し解決するためには、

少し距離を置いて行動することが必要です。

薄情にでも無関心にでもなく、少し距離を置いて行動するのです!

重要性のない状態と冷淡な状態との違いは、

ここにあるのです。

 

 

問題は、自分のものであれ、他人のものであれ、

もしプレイする観客という役割を自分で引き受ける場合に限り、

解決することができるでしょう。

あなたが自分や他人の問題を「生きがい」にしているうちは、

無力なままなのです。

 

重要性のない状態が、少し距離を置くことであって、

無関心ではありません。

自分の役割を、子供たちのように、

「遊び半分」に演じてみてください。

そうすると、あなたは人形遣い、つまり状況の支配者になれるでしょう。

けれども、ゲームにのぼせ上がった状態から抜け出せないならば、

あなたはいつまで経っても操り人形のままなのです。

 

 

確かに、何でも思い詰めてはいけません。

もしそのことを理解すれば、あらゆることが思ったほど

重要ではなくなります。

あなたからの助けを必要としている人を、

助けなくてはなりません。

しかし、感情に振り回されたり、

氣苦労で自ら悩んだりせず、少し距離を置いた状態で

ほかの人を助けてあげるのです。

あなたの感情はゆうがい有害なだけのこともあります。

そして、助けてあげるのは、それは求めている人だけにするべきです。

 

 

「感受性の強い人や毎日施し物をする人に、

どうしろというのでしょう?」

あなたからの質問に対しては、大変具体的ではあっても、

あなたには思いがけないような答えがあります。

それは罪悪感と縁を切るというものです。

もしあなたが定期的に寄付を行っているのでしたら、

それはあなたが義務と感じているからです。

義務感というのは罪悪感から生じます。

あなたは、彼らに哀れみを感じているというよりは、

むしろ困っている人々を助けなkてはという義務感を感じているのだと思います。

それは哀れみではなくて、重要性の表れなのです。

 

 

もしあなたに、病身で貧しい一人暮らしの老婆に対する同情心が

突如起こったならば、それは哀れみです。

しかし、もしあなたが、心に苦痛を感じることなく物乞いのそばを

平然と通り過ぎることができないのなら、

それは決して哀れみなどではなく、義務感なのです。

では、どうすればよいのでしょうか。

ただ自分の自由を現実化させるのです。

あなたは誰にも何に対しても義務を負ってはいません。

知への権利を手にすればよいのです。

あなたは自分自身で答えを考え出すことができるのです。

もし重要性から自由になれないのであれば、

あなたは疑念の気持ちに苦しめられることになります。

もし重要性から自由であれば、それであなたは正しいのです。

あなたが重要性から自由であれば、同情することもともに悩むことも

自分に容認できるのです。

 

 

内的意図の力によって、つまり彼を「取り戻す」

ことに向けられた何らかの行動に出たとしても、

取り戻すことはできないと思います。

そうした行動に相当するのは、

直接お相手に影響を与えようとする

あらゆる試みのことです。

たとえもし何かがうまくいったとしても、

彼はもう昔のままではないでしょう。

彼を取り戻すには、外的意図による場合に限り、

可能かもしれません。

内的意図によると、あなたは自分の目的を達成しようとして、

直接世界に影響を与えようとします。

外的意図は、世界のほうからあなたを迎えるように働きます。

がいてき外的意図がはたらく働くメカニズムを手短に説明すると

次のようになります。

パートナーたちの関係は、内的意図に立脚しています。

これは、すなわち、お互いに何かを求めあうということです。

もしどちらか一方が、求めているものを受け取ってないとすると、

その人は関係を断ち切ります。

 

 

人と人との関係の中でも誰もが自分なりの満足感を得ようとします。

それは、愛、セックス、尊敬、長所の認識、相互理解、交流、孤独からの逃避、

楽しみなどを求めてということが考えられます。

こうした様々な個人的溶融をひとくくりにした何か共通のものがあるでしょうか。

過去にも現在にも、それは個人的な存在意義を守り確かめたいという思いです。

人が行動するに当たって、何に私信を置くにせよ、

本人のあらゆる動機は自己の存在意義と関係しています。

人はそのようにできているのです。

 

 

人々の関係においてないてき内的意図はいつも何らかの形で

自己の存在意義の保護と確認に向けられます。

あなたの愛する人の内的意図は何に向けられているのでしょうか。

それは自己の存在意義を満足させてくれるようなパートナーを探すことに向けられているのです。

では、あなたの内的意図は何に向けられているのでしょうか。

それは愛する人を取り戻すことに向けられています。

それによって、まず第一に、自分の存在意義を回復し、

第二に、何らかの満足感を得ていた関係を再開しようというのです。

ここでちょっと考えてみてください。

もしあなたが自分の内的意図だけに従うとしたら、

パートナーの意向を満足させてあげられるでしょうか。

あなたの愛する人を取り戻すためには、

彼の内的意図が向けられているものを与えてあげる必要があります。

もし彼が何らかの形で自分の存在意義を満足させようとしても、

相手を責めるべきではありません。

あなただって相手から何かを得たいわけなのですから。

ご承知のように、フレイリングの最初の法則とは次のようなものでした

 

受け取る意図を断念し、与える意図に置き換えよう。

すると、あなたは断念したものを受け取るだろう。

自分の内的意図がどこに向けられていようとも、

それを断念してみましょう。

次に、あなたのパートナーの意図がどこに向けられているか、

突き止めてみましょう。

あなたの行動が、パートナーの要求を満足させる方向に転換されるや否や、

あなたの内的意図は外的意図へと変換されるのです。

そのけっか結果、あなたはパートナーを幸せにすることができるだけでなく、

彼自身からもあなたが欲しかったものをもらうことになるのです。

それも、たっぷりと。

もし受け取る意図を断念し、それを与える意図に置き換えることができたなら、

あなたは必ずや断念したものを受け取るでしょう。

この法則はたいへん効果的に作用しますので、

まるで魔法の力でも働いているかのような感じがしてきます。

しかし、こんなふうに、まさしく本物の魔法というものが存在するのです。

それも呪文や惚れ薬などはまったく要りません。

しかし、一般的には、失った人を取り戻すというのは、

二かいも同じ川に入るのと同じく、非常にたいへんなことです。

関係がおかしくなる前に、フレイリングの法則を行っておくほうが賢明です。

いずれにせよ、私があなたの立場であるなら、

何らかの対策を講じる前に、自分の気持ちが、

相手を本当に取り戻したいおtいうことなのか、

それとも、自分がなくした存在意義を回復したいという抑えがたい願望なのか、

十分に考えてみると思います。

もしあなたが軽蔑されたと感じるのなら、

それは関係修復が非常にむずかしいと思います。

お気持ちは察するに余りあります。

しかし、もし私がすべての事情に通じているとしても、

具体的な助言をすることはまったくできないでしょう。

 

 

あなたの世界の層はあなたの鏡であるということを忘れないでください。

もし苦しみほうを選ぶのならば、あなたにとっての鏡もそうなるわけです。

もし今、意図の調整の法則を活用し、ここに至った状況を

願ってもない好機だと評価するのであれば、つまり、

まさしくそうなるのです。

愛する人と別れたことによって、あなたの身に起こるはずだった問題に

遭わないで済んでいるのかもしれません。

ですが、あなたにとっては、すべてが悪いほうへ進んでいると思われるわけです。

万事うまくいきます。

なぜなら、喜ぶか苦しむかを決定するのは、あなた自身だからです。

私があたなの立場なら、喜んで、飛び上がり、拍手することでしょう。

鏡があなたに喜びをもたらしてくれるよう、

思い切ってやってみたらいかがですか。

 

 

あなたは自分の心の声に是非とも従うべきだということになります。

成功とは、出征、安定、高給であると世間の人々は言います。

しかし、これらのことを目的にしてはなりません。

人の進むべき道が出征の階段を駆け上がるということに

本当にあるのでしょうか。そうではありません。

出世、あんてい安定、高給とは、実際には、目的ではなくて、

付随する属性なのです。

あなtなおもくてき目的とは、人生をお祭りに変えてくれるものです。

目的と属性とを履き違えると、あなたは何もたっせい達成することができません。

属性とは、目的達成の結果として、自ずと付き従ってくるもののことです。

たとえば、あなたが独創的な第一級の専門家になれば、

あらゆる欲求は満たされるのです。

 

ですから、目的は目指すべきであって、

目的がもたらす利益に向かおうといてはなりません。

今述べた事実は明らかなように思われます。

誰もがそれを理解してくれるでしょう。

しかし、逆説的とも言うべきことに、

この事実は人々の意識上にほんの一瞬浮かび上がるだけで終わり、

その後は属性の輝きに圧倒されて目立たなくなってしまうのです。

 

人々は、蛾がランプの炎に集まるように、

属性に惹きつけられます。しかし、そうしても何も得ることはできません。

もし、目的ではなく、属性に目を奪われがちになることから、

高い生活水準は選ばれた人々だけのものという伝説が

生まれるのです。

世の中の意見はあなたに固定観念を押し付けます。

しかし、そうした意見は目に見える最終的な結果に基づくものなのです。

成功は、目的へと進むプロセスにおいて訪れるものです。

最終的な結果はいつも目に見えますが、

目的へと進むプロセスは陰に隠れています。

結局、出世してお金をつかみ徒労、

言い換えると、「ランプに向かって飛んでいこう」

という固定観念ができあがるわけです。

 

 

人々はすでに高くのぼった星々の輝きだけを見ています。

けれども、彼らが成功の頂点にたどりつくまでに歩んできた道に

注意を払う人は少ないのです。

どのスターたちも失敗という名の鬱蒼とした森を通ってきたのです。

幸運の女神は、自分の道を進んでいると確信している者だけに向かって、

そのうち微笑んでくれるのです。

自分の目的に向かって休まずすすみ進み、

何が起きようともバリアントのい流れは必要な方向へ

向かっているということを覚えておきさえすればよいのです。

もくてき目的がいつどのような方法によってたっせい達成されるかは、

誰にでも知ることができないのです。

 

 

もしあなたが一般的な固定観念に従うとしても、

一定の成功を収めることはできるでしょう。

しかし、その場合の成功とは中くらいのものであって、

しかもたいへんな苦労の末にもたらされることになります。

真に壮大な成功を手にするためには、自分の目的を定め、

誰の言うことも聞かず、目的に向かってやすむ休むことなく進む必要があります。

ほかの人々によるアドバイスは参考にすることもあるでしょうが、

さいしゅうけってい決定は自分自身の心に従うのです。

唯一そうすることが、ランプにぶつかる蛾のような真似を避けられるやり方なのです。

 

 

正しい決定は、魂と理性が一致する際に生まれます。

決定が正しくないときの単純明快な基準となるのは、

魂の不快です。

もしあなたが決定をください、その際、義務感のような感覚に似た

重苦しい気持ちが少しあったのであれば、

つまりそれは魂があなたに「いいえ」と言っていることになります。

もし、決定を下す際に、魂の不快というものを感じなかったのであれば、

それは魂が「はい」と言っているか、または「わからない」と言っているのです。

その場合の最終決定は、あなたの理性に委ねられます。

もし決定が確かなものであれば、魂はうきうきし、理性は満足そうに揉み手します。

 

 

ところで、もしあなたがどうしても自分の目的を決めることができないのであれば、

自分を質問攻めして苦しめるのはやめにしましょう。

目的なしに生きることも不可能なわけではないのですから。

もしあなたが、何を志向することもなく、ただ生きていたいだけならば、

そうして悪いわけはありません。

その場合に、ひとるだけアドバイスすることができます。

泳ぐにではなく、流れに沿って進むべきなのです。

言い換えると、調整の法則を守ることが必要ということです。

そうするおt生活が穏やかで快適な軌道に乗るのです。

あなたが躍起になって目的を探し出そうとすることをやめたら、

きっと目的のほうから自分の存在をあなたに教えてくれるでしょう。

 

 

意図は何でもやってのけます。

もんだい問題は、いったい何が意図の力なのかということです。

もしあなたがキリストの意図を持っているならば、奇跡によって

病気を治すこともできるでyそう。

しかし、意図の力は、願望の力ではありません。

もしあなたが何かを強く望むとしても、

本当にそれを受け取ることにはならないでしょう。

それは信念でもありません。

なぜなら、信念のあるところには、

常に疑念の入り込む余地が見つかるからです。

 

 

意図とは、自分の意志が現実化されたものを受け取るという、

平然としていて絶対的且つ無条件の決意であり、

まさにそうなるだろうという冷静な認識です。

願望、恐怖、疑念、その他重要性のポテンシャルから自由であるものは純粋です。

たとえば、郵便受けから郵便物を取ってこようとする意図とは純粋なものです。

 

 

もし自分の子供たちの病気を治療しようとする心構が

純粋なものであれば、

あなたはそれを成し遂げることでしょう。

但し、力を尽くすことによってそれが達成されると考えてはなりません。

麻痺したひと人は、いくら本人が努力したとしても、

微動だにしません。

その一方で、もし偶然に動かし方を「思い出したら」

その人は運動能力を取り戻すかもしれません。

 

 

あなたは子供たちを治療する試みを断念する必要があります。

精神疾患とはいったい何なのでしょうか。

それは人間の魂がバリアントの空間の現実化されていない領域と

同調したときに起こります。

正常な人間は私たちの住む現実化された世界と同調しているのですが、

精神疾患を患っている人は決して病人ではなく、ただ現実化されていない領域で

「遊んで」いるだけであり、そのため私たちの観点からは

「正常でない」とみなされているわけです。

 

 

あなたの子供たちをあるがままに受け入れてください。

彼らは病気ではなく、ほかの人々と違うだけなのです。

人がみんなと違うということはたいへん素晴らしいことであって、

それこそ正常なことです。

みんんが同じことを考え、同じ行動をする現在の状況のほうが

正常ではありません。

 

 

あなたの子供たちを正常にしようと努力しても、

あなたはそれを達成されないでしょう。

すでに述べたとおり、意図によって力を得ることはできません。

あなたは、努力し、苦労し、嘆くことで、

強力な過剰ポテンシャルを発生させ、

それが状況をますます悪化させるだけとなります。

しかし、子供たちをあるがままに受け入れ、彼らの正常さを認めてあげると、

そんな遠回りのやり方で、あなtなお意図を得ることでしょう。

そのばあい場合、あなたの内的意図は外的意図に変換されます。

子供たちを思い遣り、配慮し、できるかぎり自由にしてあげましょう。

「正常」になる必要性から子供たちを解放し、

子供たちを「正常」にしようとする必要性からあなた自身をも解放してあげましょう。

そうすれば、すぐにではなくても、ある時間が経過すれば、

あなたは成果を実感することでしょう。