蘭渓道隆、無学祖元、快川紹喜 | 覚書き

覚書き

ブログの説明を入力します。

 

蘭溪道隆

 


1213年 - 1278年
Lanxi Daolong.jpg
頂相「蘭渓道隆像」
諡号    大覚禅師
生地    西蜀(四川省)
没地    鎌倉建長寺
宗派    臨済宗大覚派
寺院    円覚寺、泉涌寺来迎院、寿福寺、建長寺、修禅寺、禅興寺、東光寺
師    無準師範、北礀居簡、無明慧性
弟子    南浦紹明
蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、建保元年(1213年) - 弘安元年7月24日(1278年8月13日))は、鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖。無明慧性の法嗣、建長寺の開山。
諱は道隆、道号は蘭渓。南宋の西蜀(現:中国四川省)の人。諡号は大覚禅師。

目次 
1    人物・略歴
2    頂相
3    墨跡
4    脚注
4.1    注釈
4.2    出典
5    参考文献
6    関連項目
人物・略歴

建長寺境内(国の史跡)
13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。

1246年(寛元4年)33歳のとき、渡宋した泉涌寺の僧月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日した。筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、退耕行勇の開いた常楽寺(神奈川県鎌倉市)の住持となった[1]。

1253年(建長5年)、北条時頼によって鎌倉に建長寺が創建されると招かれて開山となる。建長寺は、純粋禅の道場としては栄西の開いた筑前国の聖福寺(福岡市博多区)に次いで古い。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間であった[1]。当時の建長寺の住持はほとんどが中国人であり、無学祖元はじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例となっていた[2]。『沙石集』を著した無住は、『雑談集』のなかで、建長寺はまるで異国のようであるとの感想を記している[注釈 1]。

蒙古襲来(元寇)の際、元からの密偵の疑いをかけられ、甲州や奥州の松島、伊豆国に移された。その時修禅寺の改宗を行う。

のち京都建仁寺・寿福寺・鎌倉禅興寺などの住持となった。一時、讒言により甲斐国(現:山梨県)に配流され、東光寺などを再興したが、再び建長寺にもどり、1278年(弘安元年)同寺で没した。

墨跡

蘭渓道隆筆「法語」(建長寺蔵、国宝)
蘭渓は墨跡の書法の基礎をなした張即之の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した人物として日本書道史上、注目される。したがって蘭渓の書は常に張即之の書と比較される。

著に『大覚禅師語録』がある[7][8][9]。

墨跡として、法語・規則(ほうご・きそく)が建長寺に所蔵されている。国宝。指定名称は大覚禅師墨蹟(法語規則)。


『法語・規則』は、「見鞭影而後行」の文にはじまる『法語』と、「長老首座」にはじまる『規則』の対幅になっている[7][9]。

『法語』は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したもので、『規則』は行規の厳格を要求し、違反者には罰を科すもの。いずれも『大覚拾遺録』に収められている。

書式文章ともに謹厳で、確固たる字形、太細の自在な変化、隅々まで行き渡る筆勢がある[7][9]。書風は張即之の書の影響が顕著であるが、それに拘泥しない禅人の質実な態度が感じられる。[7][9][10]。

 

快川紹喜

恵林寺三門。右の柱に「安禅不必須山水」、左の柱に「滅却心頭火自涼」の偈が記されている。

 


曖昧さ回避    「心頭滅却すれば火もまた涼し」はこの項目へ転送されています。森高千里の同名の楽曲については「PEACHBERRY」をご覧ください。

恵林寺三門。右の柱に「安禅不必須山水」、左の柱に「滅却心頭火自涼」の偈が記されている。
快川 紹喜(かいせん じょうき、文亀2年(1502年)[1] - 天正10年4月3日(1582年4月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧。諱は紹喜(じょうき)。字は快川。

目次 
1    略歴
2    心頭滅却すれば火も亦た涼し
3    登場作品
4    脚注
5    参考文献
6    関連項目
略歴
俗姓は土岐氏で、美濃国の出身といわれるが、別説もある。永正10年(1513年)、12歳で出家。

天文14年(1545年)5月16日、快川の母が亡くなる[2]。

妙心寺の仁岫宗寿の法を継いだ。美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職となる。美濃国主の斎藤義龍との間で「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教上の混乱が起こり、一旦美濃を離れるが、義龍の死去に伴い帰国。

永禄7年(1564年)には甲斐国の武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めている。甲斐では信玄に機山の号を授けている。

『甲陽軍鑑』によれば、永禄8年(1565年)10月初旬に信玄の嫡男・武田義信が謀反を企てるが事前に察知され、義信は甲府・東光寺(甲府市東光寺)に幽閉された[3]。このとき快川は長禅寺住職・春国光新、東光寺住職・藍田恵青とともに信玄・義信間の調停を試みるが、永禄10年(1567年)10月19日に義信は東光寺において自害した[4]。

元亀4年(1573年)4月12日、信玄は「西上作戦」の途中、信濃国伊那郡駒場において死去する。信玄の死は秘匿され、家督は四男の武田勝頼が継承した。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に恵林寺において勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた(『天正玄公仏事法語』)。

天正9年(1581年)、正親町天皇より大通智勝国師という国師号を賜る[5]。

天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡する。これにより武田領内が混乱すると、快川は信長に敵対した佐々木次郎(六角義定)、三井寺の上福院、足利義昭の家臣の大和淡路守らを恵林寺に匿い、織田信忠の引渡し要求を拒否した。これは中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったためとされる。その後に恵林寺は織田氏による焼討ちにあい、快川は一山の僧とともに焼死した。

「滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に」という言葉でも知られる。

弟子には伊達政宗の教育の師として有名な虎哉宗乙がいる。[要出典]

心頭滅却すれば火も亦た涼し
天正10年(1582年)に恵林寺において焼死したとき、「安禅不必須山水 心頭滅却火自涼」(安禅必ずしも山水を須(もち)ひず 心頭滅却せば火も自づと涼し)の辞世を残したといわれている。この言葉は、碧巌録による禅の公案である[6]が、そもそもは杜荀鶴(846年 - 904年(907年?))の詩である「夏日題悟空上人院」の転結句である(原典は「…火も自ずから涼し」)[7]。

「心頭、火を滅却すれば、また涼し」の誤読といわれる[8][9]。

なお、この辞世は『甲乱記』では快川と問答した僧・高山の言葉とされており、同時代文献には見られず近世の編纂物に登場していることから、本来は快川の逸話でなかった可能性が指摘されている。

 

 


蘭溪道隆
Lanxi Daolong.jpg

1213年 - 1278年
Lanxi Daolong.jpg
頂相「蘭渓道隆像」
諡号    大覚禅師
生地    西蜀(四川省)
没地    鎌倉建長寺
宗派    臨済宗大覚派
寺院    円覚寺、泉涌寺来迎院、寿福寺、建長寺、修禅寺、禅興寺、東光寺
師    無準師範、北礀居簡、無明慧性
弟子    南浦紹明
蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、建保元年(1213年) - 弘安元年7月24日(1278年8月13日))は、鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖。無明慧性の法嗣、建長寺の開山。

諱は道隆、道号は蘭渓。南宋の西蜀(現:中国四川省)の人。諡号は大覚禅師。

目次 
1    人物・略歴
2    頂相
3    墨跡
4    脚注
4.1    注釈
4.2    出典
5    参考文献
6    関連項目
人物・略歴

建長寺境内(国の史跡)
13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。

1246年(寛元4年)33歳のとき、渡宋した泉涌寺の僧月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日した。筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、退耕行勇の開いた常楽寺(神奈川県鎌倉市)の住持となった[1]。

1253年(建長5年)、北条時頼によって鎌倉に建長寺が創建されると招かれて開山となる。建長寺は、純粋禅の道場としては栄西の開いた筑前国の聖福寺(福岡市博多区)に次いで古い。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間であった[1]。当時の建長寺の住持はほとんどが中国人であり、無学祖元はじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例となっていた[2]。『沙石集』を著した無住は、『雑談集』のなかで、建長寺はまるで異国のようであるとの感想を記している[注釈 1]。

蒙古襲来(元寇)の際、元からの密偵の疑いをかけられ、甲州や奥州の松島、伊豆国に移された。その時修禅寺の改宗を行う。

のち京都建仁寺・寿福寺・鎌倉禅興寺などの住持となった。一時、讒言により甲斐国(現:山梨県)に配流され、東光寺などを再興したが、再び建長寺にもどり、1278年(弘安元年)同寺で没した。

蘭渓道隆の後継として、無学祖元が来日した。

頂相
蘭渓道隆の頂相は、当時の史料から多数制作されたことが確認できる。代表的な肖像画は当項目冒頭の「蘭渓道隆像」(絹本著色、建長寺蔵、国宝)で、上段に記された蘭渓道隆の自賛により、文永8年(1271年)朗然居士(北条時宗の居士名か?)のために描かれたと分かる[注釈 2]。像の黒目の周りを金泥で縁取っており、これは他の頂相・肖像画には見られない手法である。建長寺には他に、「蘭渓道隆経行図」(重文[注釈 3])や、蘭渓道隆の孫弟子にあたる太虚元寿(約翁徳倹の弟子)が1329年に霊石如芝より賛を書いてもらった「蘭渓道隆像」(重文、絹本著色[3])がある。

肖像彫刻としては建長寺西来庵開山堂所在の「蘭渓道隆坐像」(木像漆塗玉眼、13世紀、重文[4])が代表作で、示寂の前後に制作されたと推定される。瞳は玉眼ではなく、瞳だけを水晶として上から貼り付け、瞳の中心の黒の周囲に放射線上に金泥線を引いており、これも他に例がない。自賛像とも共通するこうした目への拘りは、雲水たちを厳しく見つける蘭渓道隆の眼光表現だと考えられる。建仁寺西来院にある「蘭渓道隆坐像」は延宝4年(1676年)仏師・康乗作だが、像の中には古い頭部像が入っており、こちらは写実的な面貌表現から蘭渓示寂前後の作だと見なせる[5]。

現存する蘭渓道隆の肖像画としては、西来院「大覚禅師像」、福岡県・勝福寺「大覚禅師像」(重文)、滋賀県・永源寺の「蘭渓道隆像」(南北朝時代か、蘭渓・約翁・寂室の3幅対)、宮城県・瑞巌寺(蘭渓・性西法身・明極聰愚の3幅対、宮城県指定文化財[6])、静岡県・修禅寺などがある。彫刻は、鎌倉・常楽寺の「蘭渓道隆像」、長野県・西岸寺の「大覚禅師椅像」(鎌倉後期から南北朝時代か)などがある。

墨跡

蘭渓道隆筆「法語」(建長寺蔵、国宝)
蘭渓は墨跡の書法の基礎をなした張即之の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した人物として日本書道史上、注目される。したがって蘭渓の書は常に張即之の書と比較される。

著に『大覚禅師語録』がある[7][8][9]。

墨跡として、法語・規則(ほうご・きそく)が建長寺に所蔵されている。国宝。指定名称は大覚禅師墨蹟(法語規則)。


『法語・規則』は、「見鞭影而後行」の文にはじまる『法語』と、「長老首座」にはじまる『規則』の対幅になっている[7][9]。

『法語』は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したもので、『規則』は行規の厳格を要求し、違反者には罰を科すもの。いずれも『大覚拾遺録』に収められている。

書式文章ともに謹厳で、確固たる字形、太細の自在な変化、隅々まで行き渡る筆勢がある[7][9]。書風は張即之の書の影響が顕著であるが、それに拘泥しない禅人の質実な態度が感じられる。[7][9][10]。


無学祖元
1226年 - 1286年
諡号    仏光国師・円満常照国師
生地    明州慶元府(浙江省寧波市)
没地    鎌倉建長寺
宗派    臨済宗無学派(仏光派)
寺院    浄慈寺、白雲庵、能仁寺、建長寺、円覚寺、真如寺
師    北礀居簡、無準師範
弟子    高峰顕日、規庵祖円
著作    『仏光国師語録』
無学祖元(むがく そげん、嘉禄2年(1226年) - 弘安9年9月3日(1286年9月22日))は、中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。字は子元。

建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。

目次 
1    生涯
1.1    臨刃偈
1.2    来日
1.3    蒙古襲来
2    語録
3    辞世
4    弟子
5    主な作品
5.1    墨跡
5.2    着賛
5.3    頂相
6    脚注
7    参考資料
8    関連項目
生涯
1226年、南宋(中国)の明州慶元府の許家に生誕。

1237年、兄の仲挙懐徳の命で杭州の浄慈寺の北礀居簡のもとで出家。1240年代に径山の無準師範に参じ、その法を嗣ぐ。この頃、石渓心月や虚堂智愚、物初大観、環渓惟一らを歴参する。

1262年、東湖の白雲庵に移転。

臨刃偈
1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺に避難していた無学祖元は元軍に包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる[1]。

 乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
 珍重す、大元三尺の剣
 電光、影裏に春風を斬らん
なお、のちに臨済宗の雪村友梅も、元で諜者の嫌疑をかけられるが、この臨刃偈を唱えたことで許されたとも伝わる[1]。

来日
1279年、日本の鎌倉幕府執権・北条時宗の招きに応じて来日。鎌倉で南宋出身の僧・蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。

蒙古襲来
日本と元との戦いである元寇が起こり、1281年(弘安4年)、2度めの戦いである弘安の役に際して、その一月前に祖元は元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与えた[1]。

また、「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた[1]。この祖元の言葉はのちに「驀直前進」(ばくちょくぜんしん)という故事成語になった。無学祖元によれば、日本が元軍を撃退した事に対して時宗は神風によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれる[1]。

1282年、時宗は巨額を費やし、元寇での戦没者追悼のために円覚寺を創建し、祖元は開山となる。

1286年(弘安9年)、建長寺にて示寂。享年61。墓所も建長寺にある。

語録
『仏光国師語録』

辞世
辞世は、「百億毛頭に獅子現じ、百億毛頭に獅子吼ゆ」であった[1]。

弟子
高峰顕日、規庵祖円。高峰門下に五山派の主流となる夢窓疎石が出る。

主な作品
墨跡
「与長楽寺一翁偈語」(国宝) 京都・相国寺(承天閣美術館保管) 紙本墨書 4幅 弘安2年(1279年)
「無学祖元墨跡 偈断簡」(重要文化財) 東京・根津美術館 紙本墨書 弘安3年(1280年)
「無学祖元墨跡 尺牘」(重要文化財)神奈川・円覚寺 紙本墨書 弘安6年(1283年)
着賛
「六祖慧能図」(重要文化財) 大阪・正木美術館 紙本墨画淡彩
「白楽天図」(重要文化財) 個人蔵 絹本著色
頂相
「無学祖元坐像」 (重要文化財) 神奈川・円覚寺 木像 彩色 玉眼
円覚寺舎利殿の背後に接して建つ開山堂に安置。弘安9年(1286年)の示寂直後に作られたとみられる。眼差しは鋭いながら口元は優しく、顔は生気に満ち、前かがみの姿勢は今にもこちらに語りかけそうな迫真性をもつ。多くの優れた鎌倉時代肖像彫刻の中でも、傑作中の傑作と評される。
「無学祖元像」 (重要文化財) 神奈川・円覚寺 絹本著色 弘安7年(1284年)
「無学祖元像」 京都・慈照寺 春屋妙葩賛 南北朝時代

 

 

開山遺誡五条

 

遺戒五条 

一つには、

 

松源の一派僧堂の規有り。専ら坐禅を要す。其の余は何をか言わ ん。千古之を廃す可から不廃すると則ば禅林何くにか在る。宜しく守り行べ し。

二つには、

福山の各庵、済洞を論ぜ不、和合を輔弼して、仏祖の本宗を昧すこ と莫れ。

三つには、

戒は是僧体、葷酒肉臠門前に鬻ぐことを許さ不。何に況んや山中に 入るるをや。

四つには、

参禅学道は、四六文章に非ず。宜しく活祖意に参ずべし。四話頭を 念ずること莫れ

五つには、

大法非器に授くること莫れ、吾が宗の栄衰唯此に於在るのみ矣。


山僧が遺訓它事無し、嘱嘱  住山蘭渓道隆  白す

 

 

 

無学祖元

 

乾坤孤筇を卓つるも地なし
喜び得たり、人空法もまた空
珍重せよ大元三尺の剣
電光影裏春風を斬る

 

「夏日題悟空上人院」   杜荀鶴

 

三伏門を閉して一衲を披す
兼ねて松竹の房廊を蔭う無し
安禅は必ずしも山水を須いず
心中を滅却すれば火も自ずと涼し

 

心頭を滅却すれば火もまた涼し
【読み】    しんとうをめっきゃくすればひもまたすずし
【意味】    心頭を滅却すれば火もまた涼しとは、心の持ち方ひとつで、いかなる苦痛も苦痛とは感じられなくなること。

 

 

 

真実と主観性 七章 「自己」の根源的な真実

 

・究極の真実はあらゆる名称を超えています。「I(わたし)」は、「悟り」の主体性を表しています。「I(わたし)」は、そのものの内に「真実」を完全に表しているのです

 

・Q:究極の真理は、「虚」と同じですか?
A:「虚」という言葉は誤解を生み、何世紀もの間、人々を誤った方向に導いてきました。それはあたかも、何もない状態、非存在を思わせるのですが、「真実」においてはそれはあり得ないことです。神と逆のものなど存在しません。そして「心理」だけが、実際に存在しています。「虚」とは、形や実体がないことや非二元性を表しているのですが、わたしたちはたびたびそれを非存在(存在そのものがないこと)と混同してしまいます。「究極の十全性」を無/虚と勘違いすることによって、そもそも存在しないものの存在を証明しようとする誤りに陥ってしまうのです。

 

Q:仏教の教えの中には、究極の真理を「虚」であると述べているものもありますが。
A:この点においても、キネシオロジーテストは真価を発揮します。形を持たない「非顕在」を無(nothingness)や非損じあと混同すべきではありません。「nothing(ない)」という単語は文字通り、「nothing(物ではない)」という意味で、形がないこと(非顕在、仏教で言う「アナッター」)を表しています。それは精神活動も含む、あらゆる形がない状態ですから、逆にすべてでもあるわけです。ここに一種のパラドックスが成り立ちます。同じように、もしあなたがどこにもいないのなら(空間のどこにも位置しないならば)、あなたはどこにでもいるのです。そしてあなたが時間の制限を受けないならば、あなたは永遠です。あらゆる形、時間、空間の制限がないものはすべて、どこにでもいて、存在するものすべてであることは明らかです(全知、全能、遍在)。そして「ブッダの本質」は「非顕在」です。

 
・Q:パワーはコンテクスト(文脈/状況)の表現であり、結果であるとはどういう意味ですか?
A:コンテクストは制限と同時に可能性も表します。「制限のない」コンテクストは、無限のパワーを持った「無限の非顕在」と調和しています。神は無限のコンテクストであり、そこから無限のパワーが発生します。これが神に関する究極的な定義です。わたしたちは神の表現を、光の速さで拡張する宇宙に見ることができます。しかし、一度形を超えた世界に入れば、このような概念も無為と化します。

 

 

・「自己」という言葉は、神が内的に究極の真理として発見されるものであることを強調しています。それは、”今ここ”にあるあなたという存在の根底にある神です(「天国はあなたの内にある」)。ブッダは、「神」という言葉にまつわるさまざまな誤解や歪曲を避けるために、その言葉を使わなかったと伝えられています。

 

 

・ブッダは、概念化がもたらすあらゆる誤解や制限を回避したかったのでしょう。「気づき」としての「自己」は、文献の中ではよく「光」という言葉で表現されています。『創世記』の中でも詳述されているように、「非顕在」が最初に「顕在」として現れる姿は「光」です。

 

 

・「光」は、宇宙として形に現れる神のエネルギーの放射なのです。また「自己:は、あなたが神とは分離した存在であるという二元的な観念を消し去ってくれます。昔からある、地上には罪人がいて、どこか上の天国には神さまがおられるという見方は、自我特有のものです。

 

 

・そのためほとんどの人には「神」は「他者」であるという観念があります。しかし、「創造の十全性」に分離はあり得ません。つまり、創造物が「創造主」から分離することなどあり得ないのです。覚醒とは、分離した自己という幻想が消滅したときに「自己」が立ち現われることにほかならないのです。

 

 

・あなたの存在は<わたし>であるという不断の気づきは、「自己」の生得的な神性による一瞬一瞬の表現です。それが宇宙の絶え間ない経験であり、それは純粋に主観的で、証明することもできず、またする必要もありません。「自己」の<わたし>は、「気づき」としての「神性」の表現であり、時間も形も超えています。このアイデンティティの真相は、知覚が作り上げる二元性が覆い隠しており、あらゆる立ち位置が崩壊するとともに消滅します。

 

 

・無限なるパワーの根源は、無限なるコンテクストです。神は無限なるコンテクストであり、わたしたちが「至高の存在」と呼ぶ非顕在の「神性」です。

 

 

・「至高の存在」である「非顕在」の無限なるコンテクストより、建材の宇宙の「創造主」として神が立ち現われたのであり、ここには始まりも終わりもありません。宇宙の出現と消失は知覚の幻想であり、この幻想はヴェーダの中で「インドラの夢」として描かれています。

 

 

・インドラが夢の中で息を吐いたときに宇宙が出現し、息を吸い込んだときに宇宙が消滅します。次の呼吸で新たな宇宙が出現し、とこのように永遠に続くのです。近代科学は宇宙の年齢を概算し、「ビッグバン理論」を展開しました。科学によれば、ビッグバンは何十億年か前に起こったといいます。永遠の時間の中では、何十億年といえども、ほんのマイクロ秒にすぎません。とすれば、宇宙や次元は果てしなく、無数に存在していることになります。

 

 

・説明すべき描写、議論や条件は、抽象的な精神活動にすぎません。このような精神活動を回避するためには、心は習慣的に立ち位置を選択するので、二元性を超越するほかありません。立ち位置は真実をぼやかし、知覚的な幻想を創造し続けるのです。

 

 

・「自己」は無条件です。いかなる特性も依存も解釈もありません。また時間も、始まりも終わりも、場所も形も制限もありません。存在を輝かせるのは「自己」であり、それがなければ気づきもありません。「自己」はプロセスを超えています。どんな描写も、「自己」の前では不適切で無駄なのです。

 

 

・第一に、最も重要なのは、無言、無形の伝達で、これは心を変えた領域で行われ、非言語的です。それは、師の意識レベルから発する固有のパワーによるものです。そのパワーは、あたかも師の言葉に伴う波動のようで、まさに「自己としての臨在」の特質です。

 

 

・神秘家の語る真理から湧き上がるインスピレーションと霊的なパワーは、神性に付随するもの、神性の産物であり、それはエネルギーフィールドとなって生徒の意識のフィールドに同調していきます。この恵みは、伝統的に「無心の伝達」と呼ばれています(「心」という言葉が使われるのは矛盾のようですが、これは無形や自我がないことを意味しています)。

 

 

・それは黄檗禅師の教えの中に伝えられており、またブッダが弟子のひとりに花を渡すという行為の中でも、非言語的な気づきの伝達が行われました。弟子の真理への情熱が、師から受け取る無形の教えを結実させるのです。師のエネルギーフィールドは、臨在の顕在です。

 

 

・そのエネルギーフィールドは奇跡や癒しなどのさまざまな神秘現象を起こし、時としてその師の臨在に包まれるだけで、突如として弟子は覚醒に至りますこのような沈黙の伝達は、同調現象にたとえられます。この現象は、フィールドの持つパワーによって引き起こされますが、そのパワーは非個人的なものです。師のエネルギーフィールドがどのように弟子のフィールドに影響を及ぼすのかは、シンプルなテストによって明らかにすることができます(講義の前と後で定期的に測定を行うなど)。

 

 

・霊的探究者の多くは膨大な数の書物を読んでいて、すでに知的に霊的な真理を知っていますが、それはメンタル体の記憶の中に情報を保存しているだけなので、彼らは、より高次の複数の霊体が活性している師の臨在に触れることで、自らの霊体を活性化することを待ち望んでいます。熱烈な覚醒に対する切望が、師とめぐり合うまで生徒を動かし続けます。

 

 

・しかし成功するためには、求道者は真偽を判別できなければなりません。けれども数多くのナイーブな探究者たちは、その名声や評判や見かけに惑わされて、真の師だと想いを寄せる人物に希望を託し、長い道のりを誤った方向に歩み続けています。そのような”師”の多くは、数百万人もの信奉者がいながらも200の上位か、あるいは200以下に測定される場合もあります。

 

 

・400台に測定される師はわずかです。もっと特殊な場合には、広く知られた霊的な指導者が、教えを広め始めた当初は500台であったにもかかわらず、その後は大きく下回るということもあります。本物の師は、名前や肩書にこだわりません。そこには”人”はいないからです。教えることは、ひとつの役割なのです。

 

・Q:では、生徒の理解度は師の意識レベルに左右されるのでしょうか?
A:理解度は「自己」の影響力と、生徒と師双方の意慾や率直さ、意図、意識のレベルにかかっています。何かについて知ることはよくあることですが、突如それが”腑に落ちる”までには、何年もかかることがあります。その準備が整うのは、生徒がどれほど熟考し、瞑想し、祈ったか、カルマの如何にもよります。

 
・Q:そのときには理解不可能な教えでも、学ぶ価値はあるのでしょうか?
A:そのような教えは、知性にとっては奇妙に聞こえるだけでしょう。しかし、それは生徒の中に種を植え、生徒は自らの霊的なオーラの中に、師のオーラから発せられるエネルギーフィールドを取り込みます。

 

 

・ある種の情報はそれ自体が変容をもたらします。高次の真理にさらされると、精神はそれを切望するようになります。ブッダも次のように述べています。いったん人が覚醒の真理を耳にすれば、たとえそれを獲得するために気が遠くなるほどの転生を重ねなくてはならないとしても、それに劣るものでは決して満足できなくなる、と。

 

・ Q:理解や変容を促す特性があるとすれば、それは何でしょうか?
A:献身と奉仕、信仰、祈り、明け渡しとインスピレーションです。障壁が取り払われたら、一瞬のうちに真理が明かされます。

 
・Q:歴史的に神秘家はどのように扱われてきたのでしょうか?
A:神秘家たちは怖れ敬われていたと同時に異端者として迫害を受けていました。神秘家の威信は「臨在」、すなわち「自己」という「神性の<わたし>」から放たれていました。しかしそれは、超越的な神のみを信じる権威主義的な宗教者には冒涜と映りました。(マイスター・エックハルトなど)。

 

 

・したがって、神秘家は宗教的権威によって破門されたり、火刑に処せられたり、磔にされたりしました。ほとんどの神秘家は隠遁生活を送りました。ある者は多大な努力をして社会に戻りましたが、内側で何が起っているかについては沈黙を守りました。

 
・Q:突如として悟りに至るという画期的な出来事を体験した後に、なぜ神秘家は沈黙を選ぶのでしょうか?
A:選ぶというよりは、それは能力にかかわることです。実際、言うべきことは何も残っていません。その状態を言葉にするのは非常に困難ですし、先天的な傾向、あるいはカルマ的な後押しといった話すための好条件が整わないかぎりは、できることではありません。

 

 

・悟りの状態を言葉にして伝えるためには、再び形にエネルギーを与えなければならず、多大なエネルギーを要します。沈黙を守ることはずっと容易ですし、自然です。沈黙も依然とは異なり、平和的になります。また、このような事柄を話せるようになるまでには、長年の沈黙が必要です。

 
・Q:神秘家は人格を残しているのでしょうか?
A:これは説明するのはいささか困難です。神秘家に残された”人格”は、実際には非個人的なものです。その対外的な”ペルソナ”は、日常生活の営みに参加している分にはいたって正常に見えますが、実のところはただそのように観察されているだけで、そうふるまうがままにさせているだけです。

 

 

・また、これは義務ではありません。それは「自己」の便利な道具、ツールなのです。どの程度参加するかは任意であり、たいていはその時かぎりのものです。肉体と同様に、人格はそれほど重要ではありません。束の間で、気ままで、映画を観に行くような、ついでの行為なのです。映画ではいつ席を立っても自由です。

 

 

・参加することが求められれば、ペルソナは現れます肉体と同様に人格も”自己”と同一視されてはいません。それは使い勝手のよい”それ”にすぎません。活動が進行しているときは、ひとりでに人格が関わりますが、気をそらせばすぐになくなります。

 

 

・また、人格が適切にふるまうために、世間のものの見方やそれにどう順応すればよいかに関する記憶を呼び起こしたりもします。世の中は取るに足らないものに大騒ぎし、深遠なるものを無視する劇場のようい見えます。したがって、神秘家の発現はしばしば世間と矛盾し、彼らにとっては人生が”こっけいな劇場”のユーモアと化します。

 

 

・そのため、世間では大惨事と見なされる事柄に、神秘家はミステリアスな笑みを浮かべます。これはすべて「真実」と幻想とのギャップによるものです。神秘家は本質的な真実に気づいており、霊的な気づきを揺り起こす触媒となるような方法で反応します。

 

 

・「意識のスケール」を上るにつれえて備わるパワーの度合も増えますが、それ以上に重要なのは、レベルごとに代表する特質が変わるということです。たとえるならば、最後尾のレベルの情報が鉛で、最上付近の情報がプラチナであるようなものです。鉛は比較的不活性ですが、プラチナはごく微量でも、何トンもの鉱石の触媒となることができます。

 
・Q:霊的な情報の意味を理解するのは説きとして困難に思えるのですが。
A:霊的な真理は意味を超えています。それは何も”意味”してはいません。それはただ知られるのであり、しかも、そのものになることによってのみ知られているのです。意味とは、思考や定義の領域にあるものです。霊的な真理は主観的な気づきであり、本質的には知性を超えています。たとえば、美しい夕日は何を”意味”しているでしょうか?何も”意味”していません。それはただ、驚くほどにそれ自体で完全かつ完璧です。神は、直接的な気づきであり、経験であり、悟りであり、顕在であり、純然たる主観性の絶対的な完全性なのです。

P190
・Q:「自己」とはどのような感じなのでしょうか?
A:中心であり、確固としていてい、広大無辺かつ不動であり、非局所的、拡散的で、遍在していて、平和で平穏で、心地よく、安全で、非感情的な喜びで、無限の愛であり、保護的で、親密で、安らかで、完全に満たされていて、あまりにも身近な感じです。

 

 

・それは本質の極みであり、究極の”故郷”であり、「真実」と「気づき」の核となるものです。それは、始まりも終わりもない「存在するものすべて」の完全なる<わたし>であり、時間も場所も条件も超えています。心地よさ、温かさ、そして、完全で無条件かつ無限なる「愛」の安らかさそのものです。その無条件さは、いかなる痛みも弱さも寄せつけません。

 

 

・あらゆる知的作業、疑問、疑い、言葉、感情を超越しています。それは平和で、静寂で、不動で、深遠で、無限です。まさに神性の特性であり、きわめて自明的で、万物を包容しています。「神の愛とパワー」は同一です。

 

 ・臨床の現場では、うんざりするほど加害者、被害者の役割を演じるペアに出くわします。このパターンは、当事者が自分の人格的要素にもいくばくかの責任があることを認めない限りは、経験的にも心理的にも霊的にも解決することはありません。それを認めず抑え込むことによって、巧妙な工作員になりすましてしまうのです。被害者がどれほど頑なに責任を負うことを拒絶するかを観察するのは、大変参考になります。ほとんどの家庭内の争いにおいて、被害者あ加害者の我慢の限界を熟知していて、たった一言で加害者を暴力へと突き動かすことができます。そしてその一言は、攻撃者の弱点を実によく突いてくるものなのです。

 

・男らしさを標的にした言葉は代表的なもので、女性の中には、感情的に不安定な男性を攻撃するために、その使い方をよく心得ている人もいます。暴力を受ける寸前に被害者がどのような言葉を発したのかを正確に知ることがきわめて重要です。

 

 

・男性の場合は家庭内の争いにおいて、沈黙を使って伴侶を限界点にまで押しやりますー侮辱的な言葉でではありません。そして、こう言います。「わたしは何も言ってませんよ。彼女が勝手に飛びかかってきて、家具を壊し始めたんですよ」同じ現象が、国際紛争や暴動というゲームの中にも見られます。警察にレンガを投げ続け、ついに警察が発砲すると、”気の毒な被害者(子供だとなお有効)”を撮影し、それをさらなる暴力へと飛び火させるために使用します。

 

 

・毎年のように、”気の毒な被害者”が行進して、報復行為によって自国民を傷つけているのです。統合の臨界レベルが霊的な躍進の分かれ目だとしても、こうして自我の構造を見れば、それがどれほど越えがたいものであるかがわかると思います。それだけ自我の力は巨大で、霊的な力以外にそれを克服できるものはありません。

 

 

・より進歩した霊的な求道者は、”外側”で起こっている事柄にまで責任を取るようになります。なぜならば、彼らは日頃、内面を見つめることによって、”外側”のものとして受け取る知覚や原因はすべて”内側”にあることを知っているからです。

 

 

・社会的自我のプログラムの相互作用は映画さながらで、心にとって大変魅力的です。安全な場所から、自我がどのように世界の舞台上で巧みに駆け引きを展開していくのかを鑑賞できるからです。歴史を振り返れば、本来は神にのみ捧げるべき民衆の忠誠が、時の権力者の肥大化した自我に捧げられているという堕落が見て取れます。霊的な心理が政治目的のために歪曲されるというのは文明発祥時とともにあり、それは今日に至ってもなお横行しています。

 
・Q:わたしたちは、自我やカルマから逃れることはできないでしょうか?
A:そこから完全に抜けるためには、覚醒するほかありませんが、霊的な探究をすることでその呪縛を緩めることができます。

 
・Q:自我は、カルマの元凶なのでしょうか?
A:自我はカルマの中心であり、貯蔵所でもあります。自我とカルマは、実は同一のものであると知ることがきわめて重要です。簡単なキネシオロジーテストを使用するだけで、一分以内にあらゆる問題の元凶に関する、数えきれないほどの有益な情報を引き出すことができます、しかし、それだけで問題が解決されるわけではありません。

 

 

・今生を、他のあらゆる生から切り離して考えることは、人為的な知覚のなせる業です。「真実」においては、定期的な転生を包含した、たったひとつの生があるだけです。輪廻転生とは、特定の問題を解決するうえで都合のよい状態が、その時々につくられているということです。

 

 

・たとえば、戦場での戦いは、自らの肉体の死に直面しても、より高次の原理のために、魂が200という臨界点(「怖れ」から「勇気」のレベル)を飛び越える機会を与えます。昔から若者たちは、怖れを克服するために、命を危険にさらすような職業やスポーツにのめりこんできました。闘牛やスカイダイビング、オートバイのレースなど、すべて肉体的な死や臆病さを克服する機会を与えます。しかし、心理的な達成感を得られはしても、そこには肝心の霊的な真価が抜けています。

 

 

・忠義や神への献身、愛国心、真理や道義といったより高次の原理の名の下に勇気が怖れを打ち破るのでなければ、200の臨界点を超えることはできません。これは、古い時代の騎士が、象徴としての重要な女性の手袋やバラを持って遠征や聖戦に臨んだことにも表れています。

 

・Q:どのようにして他の存在が私たちに奉仕するのですか?
A:その機会が訪れるのは、ほんの一瞬です。ですから、この貴重な瞬間を見逃さないために、心を一点に集中しなければなりません。キネシオロジーテストによると、この決定的瞬間は一万分の一秒だそうです。奇跡は、このわずかな時間の隙間に訪れます。この一瞬に「精霊」が現れるのです。

 

 

・それは神の恩寵により、直接わたしたちのもとに送られた「聖霊」です。自我が目をつぶるほんの一瞬に、「聖霊」がこの機会をもたらしてくれます。そして、その”空間”こそ、わたしたちの自由意志が作用する場なのです。ふと訪れるこの一瞬に、戦士は残虐性か慈悲か、生か死かを選び取ることができます。

 

・わたしたちは、祈り、霊的なコミットメントをすることで、「臨在」が「聖霊」として現れ、”空間を創る”ことに同意できるのです。その空間は一瞬のひらめきであるために、流れゆく日常の束の間のひとときに訪れるかのようです。

 

 

・宇宙の法則に従って、その貴重な瞬間は、わたしたたいが招待しないかぎりは訪れません。神は、神を選択するように強要することはありません。わたしたちが招待してはじめて、すべての霊的な前進がなされるのですが、これは自由意志に委ねられているのです。そして、それらはすべて祈りと霊的な意志の成果であり、まさにその隙間は、神より授かった目に見えない贈り物なのです。
 

・Q:なぜイエス・キリストは、カルマについて何も説いていないのでしょうか?
A:ン自我とカルマは同じものであることがわかれば、こおテーマについて何も述べる必要はありません。おそらくイエスは、ふたつを切り離して説く必要性を感じなかったのでしょう。仮に説いたとしても当時の文化とはあまりにもかけ離れた概念でした。

 

 

・しかし、インドや極東などのより霊的に進化した文化では、その概念はすでに浸透していました。キリストの生きた時代では、明芻はカルマのことを耳にしても違和感があったでしょうし、受け入れがたいものだったでしょう。

 

 

・イエス・キリストは、人類の救済は、どれほど人々が自主的にネガティブな自我(罪)を手放し、無条件の愛や霊的な美徳を求めるのかにかかっていることを知っていました。自我が霊的な探究の焦点となったとき、自我はバラバラに崩れ去り、同時にそこに組み込まれているカルマも消滅してしまいます。

 

 

・イエスは明確にこう述べています。魂の運命(カルマ)は、罪によって悪しき影響を受け、それによって行先(カルマ)が天国なのか、地獄なのかが決まるのです、と。またブッダもイエスもともに、教師や救い主、あるいは「聖霊」によるとりなしなどの霊的な援助や力なくしては、自我を超越することはできないことを知っていました。

 

 

・教師の必要性は、東洋の宗教では伝統として受け入れられています。賢者の存在は、霊的な力の源泉として、あるいは真理の教えを請う対象として、きわめて重要な役割を担っていました。道を探究するうえで霊的な教師を必要とするかどうかは、キネシオロジーで確認することができます。


・イエスは、洗礼者ヨハネを「来るべきエリア」(「新約聖書」マタイによる福音書十一:七―十四:十ー十三)であるとはっきり述べることで輪廻転生を認めています。キネシオロジーを採用した霊的な調査によって、イエスは過去に人として生きていたことはなく、「天国」から降りてきたことがわかりました。彼がこの世にやって来たのは、「神と天国の真実」を伝えるためであり、人類を救済することが彼の使命でした。

 

 

・また、同様の調査で、レベル600を下回る人々はすべて救済者が必要であることがわかりました。イエスとは対照的に、ブッダは過去に何度も生まれ変わっており、覚醒に至る道を伝えるためにこの世にやってきました。それは、レベル600、あるいはそれ以上に至るための道です。ブッダは前世を思い出すことができ、カルマを学習することを強調しました。

 

 

・そして、ネガティブなカルマ(罪)をつくらないようにすることがいかに重要であるかを説きました。というのも、ネガティブなカルマは、肉体を離れたときに魂が「天国」に入ることを妨げるからです。より霊的に進化した求道者は、神への愛ゆえに美徳や「天国」を選択します。

 

 

・単位、罪に対する怖れや罪悪感のためではありません。罪が主に無知や動物的本能から生じているならば、それを”憎む”のは逆効果と言えます。それによって、余計に自我の立ち位置の罠にはまってしまうからです。